慟哭する魔法


 見滝原市には平穏が訪れた。それは、ほむらの主観だけではないだろう。ワルプルギスの夜はもはや訪れない――それを言えば、平和になったのは世界すべてであるのかもしれない。取り留めのないことを考えながら、ほむらは鏡の前に立った。肌身離さずという言葉の文字通り、いつだって自分の頭頂で揺れている赤い色。眠るときだって外すことはない。しかし目覚めるとどうしてもたゆんでしまっていた。端をくいっと引っ張り、夜の闇のような漆黒の色をした髪からそれを引き抜く。一瞬だけ、彼女が離れたように感じられたけれど、それが気のせいであることをほむらは知っている。彼女はずっと、そこにいる。もしくは、在るという方が正しいかもしれない。ともかく、ほむらの友人は今日も傍にいるのだ。リボンを一度だけぎゅっと握りしめた。そうしてまた、結びつけた。彼女の色を。
 さやかが消失したのは、それを彼女が望んだからだ。己の存在を賭けても彼女には尽くしたい人が、叶えたい想いがあった。溶けて消えていく瞬間をその目に焼き付けて、ほむらは傍にいる魔法少女たちの様子をうかがった。杏子が気落ちしているのは、考えていた通りだった。彼女は両手で自分の身体を抱きしめて、どうしてと呟いた。どうしてさやかは、消えることを望んだのだろうか。その理由を知って尚、納得しがたいなにかがある。彼女はさやかと親しかった。彼女の心境は言うなれば、友人が自死を選んだときに等しいのかもしれない。救ってやれなかったという言葉は傲慢だけれど、想いに直結した言葉であることも事実だった。彼女らが共に過ごしたことには、それでもやはり意味があったのだと思う。今ならば。出会い、共に生き、言葉を交わす。たったそれだけをくりかえすのが人で、それだけで救われるのはすべてなのだ。ほむらと彼女が巡り会ったことも同じだろう。それは、世界にとって必要だったのかそれとも、と考えることが無意味なのだ。
「円環の理に」
 消えた少女の在った場所を見つめながら、マミは自身の言葉をくりかえした。黄色い言葉が二度、紡がれる。消えてしまった少女への弔いにも似ていた。
 魔女化しなくなった魔法少女は、最終的には消える定めとなった。ほむらは自分の記憶を正しいと信じているけれど、魔女などいないこの世界にそれを立証する術はない。そう、魔女などいないのだ。マミはそのような世界の仕組みの変革を知らない。キュウべえですら知らないのだ、一介の魔法少女たる彼女が知る由もないだろう。気づくとマミは、どこか遠くを見ていた。彼女の紡いだ言葉には、一片の真実が潜んでいるようにほむらには思われた。なぜだろうか。円環を巡るのは、消えていく魔法少女たちの祈りなのではないだろうか。
 赤いリボンが頭上で揺れる。ほむらの愛すべき親友は、背中を押してくれた友人たちのことを心配していた。
『私がマミさんと一緒に戦うって言ったら、マミさんはとってもうれしそうだった』
 そうね、そのことは知っているわ。
 ほむらは胸の内の声に語りかけるように頷いた。くりかえした無限の時間において、幾度もマミと彼女は共にいた。初めて彼女と会ったときも、そう。導いてくれた友人と、先輩の姿をほむらは忘れたわけではない。
『杏子ちゃんは、ずっと、さやかちゃんを救ってあげることで自分を赦してあげようと思ってたんだね』
 独りは淋しいから。それは誰に向けた言葉だったのだろう。
 彼女がそう望んだから、ということだけではないが、ほむらは二人の魔法少女と共にいた。共にと言っても、常に三人で魔獣退治をしているわけではない。いつも連絡を取り合っているというわけでもない。けれど、ほむらは彼女らと共にいるということを感じていた。きっと、二人も同じだろう。
(さやかも、そうだったわね)
 消えていった青い幻影の残滓を探ってみた。時を戻したら彼女を引き留められるだろうかと一瞬だけ考えたけれど、無駄だと思って思考を振り切る。私に止められるのならば杏子に止められないはずがない。くりかえすさやかの想いをも見てきたほむらには、痛ましいほどにそれが理解できる。少女は何度恋しても破れても、人魚となっても想うことを止めない。それこそが、彼女の唯一の幸せだったのだ。ほむらも同じだろう。救えるのならば、彼女のために仮令身を焼いても構わない。

 狙いを定めて、弓を一閃。強大な光の渦に獣たちが飲み込まれていくのをほむらはじっと見つめる。その光景を網膜に焼き付けたいようだ、と己の行動を分析した。遠くで長槍が閃いた。無数のマスケットが空を浮く。琥珀の髪をした少女の声に合わせるように、一層巨大な獣が崩れ落ちた。
「マジでフィナーレ(最後)かよ」
 杏子の発言には、皮肉が込められていた。それは大業と言えども名前などをつけることに対しての皮肉なのか、それとも美味しいところを持っていかれたがゆえなのかは分からない。三人の魔法少女は同じ場にいて、各々の戦い方で魔獣を殲滅していた。正直なところ、今集まっている魔法少女三人の火力は並ではないだろう。自画自賛となるが、ほむらは彼女と共にいた証でもあるこの弓の強大さを理解しているし、槍を振り回すことに慣れている杏子の戦闘力も、自ら大業と言うくらいの必殺技を持つベテランのマミは贔屓目なくしても強かった。
 必殺。その言語には、必ず仕留めるという意味が込められている。
「見事だね、君たちは本当に。数世紀の魔法少女が束になってもこれだけの力は期待できないんじゃないかな」
「あら、お世辞を言ってもなにも出ないわよ?」
「お世辞なもんか」
 キュウべえと彼女らの会話を遠く聞きながら、消えてしまった光の束を目で追ってみた。そこにはいたはずの悪意在る獣の姿は、もはやない。
 タイムリープはもう行っていない。もともとそれ以外の戦闘術を持っていなかったほむらも今では武器を手に入れたし、必要性を欠いていた。無論、時を止めるということはどんな時にでも使える汎用性の高い能力ではあるが、彼女と分かたれて以降、使っていない。今でも使えるのかどうかすら分からない。
(怖いのね)
 冷静に自己分析すると、おそらくそうなのだろう。ほむらは自分が時を戻すことで、どこまで遡れるのか分からない。或いは彼女の恐ろしく強い祈りをリセットできるのではないかと少しだけ思っている。そういう自分を嫌悪している。
「痛い、痛いよ……ちょっとマミも笑っていないで――どうしたんだい暁美ほむら?」
 気づくとキュウべえは杏子に身体を伸ばされていた。痛いなんて事実としては思っていないくせに、と思ったが黙っておく。
「なんでもないわ。疲れたと思っただけ」
 素っ気なく返すと、マミがにこやかに笑った。
「無理もないわね。今日はいつもより多かったように感じたもの。増えているのかしら?」
「そうかい? いつもと変わらないよ。もし変わったと言うならそれは――」
「口の減らねぇヤツだな!」
 杏子は皆まで言わせずにまた、冷たい声を出すキュウべえを引き延ばした。増えたのではなく、減ったのだ。足し算ではなく引き算。そんな簡単な言葉が、聞きたくなかったのだろう。
 夜の闇が満遍なく町を染め上げている。薄暗いライトが示し出すのはいつも厄介なことばかりで、この空間を厭わしく思う気持ちもあった。白昼堂々と出てこられるよりは、気分もいくらかマシなのだが。
 風に赤いリボンがはためいた。
 いち早く変身を解いたマミは、くるくると綺麗に巻いてある琥珀色の髪に触ってその先っぽを伸ばした。それを見て杏子も変身を解く。いつもの水色のパーカー姿に戻った。杏子がキュウべえから手を離すと、それはアスファルトに落下し、身体をしたたかに打ち付けたようだった。まるでぬいぐるみのように身体が跳ねて「痛いよ」とまた同じ文句を言う。
「ねぇ、佐倉さん、暁美さん」
 マミは不意に口を開いた。夜の空気は滞留している。濁っていくのはソウルジェムよりもむしろ、この場所であるように思われた。空気はとても冷たい。
「うちに来ない? 来る前にケーキを買ったのよ。お茶でもしましょう」
 声は伸びやかで明るい。発言にある甘いお菓子のような淡いほほえみを浮かべて、マミは手を差し伸べる。
 さやかがいなくなっても、世界は変わらずに回っていた。『彼女』がいなくなったことと同じように、乱雑に曖昧に世界は綴られていくだけだ。
 ふふ、とマミは笑った。
「真夜中のティータイムかい? いいねぇ」
「あら、キュウべえはだめよ」
「どうしてさ、マミ」
「だって、女の子だけのお茶会の方が、楽しいもの」
 杏子もマミも、キュウべえが本当はどういう存在なのか知らない。それには血も涙もないのだということを。たしかに、昔に比べれば魔女となることを強要するほどのことはないけれど。けれどインキュベーターは、情を知り得ない生き物だ。
「私は構わないぜ。ケーキ食えるってんなら」
「食い意地が張ってるのね」
 ほむらもようやく変身を解いた。瞬間に風がふわりと浮き上がり、また、赤いリボンが揺れた。
「だったら、お前は来ないってのかよ」
 マミが気遣わしげにこちらを見つめる。たぶん、無理にとは言わないつもりなのだろう。ほむらは共に過ごすようになってもまだ、一線を引いた部分を残しているから。ほむらはローファーの爪先を見つめた。
 マミさんの部屋で食べるケーキは、美味しいんだよ。
「行くわ」
「なんだよ、お前もケーキ目当てなんだろ」
 杏子は腕をするりと組んでほむらに顔を近づけた。物騒なほどに大きい、身の丈もあろうかという槍を扱っているにも関わらず、彼女の腕も普通の少女らしく細い。まとわりついたそういう感覚を払いのけようと思ったが、ほむらは頷いた。
「そうね。甘い物が食べたい気分なの」
 素直に言うと杏子は毒気を抜かれたように笑った。
「よかった。じゃあ、行きましょう。キュウべえはだめよ」
 マミは転がっていたキュウべえを拾い上げると、額に人差し指を突きつけて笑った。どうせ食べたりしないくせに、僕も食べたかったなどとキュウべえが言うのでほむらは小さく溜息をこぼす。
 杏子とは違い、そっとキュウべえを地面に下ろしたマミは、そのまま踵を返した。カツンカツン、と革靴がアスファルトを叩く。腕に絡んでいた杏子もそれを見て、するりと腕を解いて小走りで追いかける。
「おい、さっさと行くこたねぇだろ。なんだよ、コイツといい――」
「勝手に一緒にしないで頂戴」
 ほんの少しだけ早歩きしたほむらがすぐに追い抜くと、杏子が横を見てギョッとした。
「あら、時間は有限よ。キビキビ歩かないと!」
 振り返らずにマミが笑う。
「有限、ね……」
 杏子がくりかえした。なにを思ったのだろうか、とほむらは少し思う。彼女の言うようにキビキビと歩いていたら、すぐにマミに追いついてしまった。並んだほむらにマミはキャラメルのような色をした円やかな瞳をこちらに向ける。
「先に行っても、鍵が開いていないわよ?」
 追い抜いていくつもりだと思われたらしい、困ったようにキャラメル色が細められた。もちろん、何度も何度もマミの家には赴いたことがあるため、迷うようなことはないだろう。見滝原市内は、ほむらにとって庭などというレベルではない。ここ以外に世界などないのだから、隅から隅まで知っている。通り過ぎていく住宅街も、昼間は活気に溢れる商店街も、そこに息づく人々の呼吸もすべて、知っている。正しく、理解している。
 並んで歩いていると、マミは小さく笑った。
「暁美さんと並んで歩くのは、初めてね」
 マミはくすくすと笑う。もしも『彼女』のほほえみを太陽に例えるとしたなら、マミのそれは路地に咲くタンポポのようなものだった。切なげで、可憐で、そうして孤独に立っている。
(離れて歩いていたつもりはないのだけど)
 そう言っても、信じてはもらえないかもしれない。『彼女』を救うため、マミと道を違えることも多かった。マミがお菓子の魔女に喰われる姿を幾度も見た。マミが狂ったようにこちらに銃を構えたこともある。逆に、マミがいなければ『彼女』が魔法少女にならないのだと安易に考えて、自分たちから遠ざけようとしたこともあった。すべてがすべて、平行した世界の記憶。記憶の糸を手繰っても、マミと肩を並べた回数は少ない。
「お前ら、私だけ除け者にするってのかよ!」
 杏子が後ろから駆けてきた。その先に起こる出来事を的確に予想したほむらと、同じくだろうマミは声がもっとも近づいた瞬間に、左右に離れた。杏子の身体がスカッと二人が避けた空間に収まる。前のめりになった彼女を見つめる四つの瞳。
「お〜ま〜え〜ら〜」
 杏子がまた突進してきてはかなわない。ほむらとマミは、言葉を交わさなかったが、同じタイミングで走り出した。
 ほむらの後ろを走るマミは笑っていた。夜の帳に紛れて消えてしまいそうな、そんな儚い笑みで。ほむらはほんのりと違和感を覚えた。

 彼女は特別な存在だったのだろうか、と考える。ほむらにとっての彼女は、特別な存在で、大切な友人だった。そのような主観ではなく、世界にとって、人間として。彼女は他とは異なる、特別な慈悲深い存在だったのか。くりかえして世界を見てきたほむらには、彼女が人間として特異な存在であるとは思えなかった。平凡な少女。ありふれた幸せをその手に持っているだけの、ただそれだけの中学生。結果的に彼女が世界を救ったのは、ほむらの因果律に巻き込まれたがゆえなのだ。彼女は強大すぎる力を得た。けれどそれが、身の丈に合わないものではなかった。たったそれだけだ。あの長い長い槍が杏子の手に馴染むように、物騒すぎるマスケットの引き金をマミが軽々と引けるように。
 ほむらも幾度となく願っていた。魔女が消えればいい。魔女なんていなければ、魔法少女は必要なくなる。彼女の願いはそれと同じだ。過去から未来、すべての魔女を滅したいと願ったのは、少女のほんの少し優しい願いで、でもそれを可能にするだけの力が彼女には備わってしまっていて。
「暁美さん? もう、入っていいわよ?」
 マミの声で意識が戻る。部屋に連れてきたものの、今夜は急に魔獣が見つかったと呼び出されたとのことで、部屋を散らかしたままだったことに部屋の目の前で気づいたマミに、少し待っていて欲しいと言われて外に待たされたのだ。肩で息をしている杏子は、そんなことより一刻も早く休みたそうにしていたのだが、マミは穏和な顔立ちに似合わず強情なきらいがある。柔和な笑顔で冷たくドアを閉めていった。横を見るとすでに杏子の姿はない。マミの部屋にもう入ったのだろう。マミは、なかなか部屋に入ってこないほむらのことを案じてドアを開けたというところか。
「ごめんなさい、少し考えごとを」
「疲れているのかしら? 無理に呼んでごめんなさい」
 ほむらは首を横に振った。申し出が疎ましいと思ったわけではない。
(この人の前で、昔の私はどう振る舞っていたかしら)
 ふとそんなことを思う。昔という語は目の前のマミにとっては、無意味だ。マミにとってほむらの言う昔は、存在しない過去でしかない。臆病だったころの暁美ほむらも、もはや存在しない。どこかに消えてしまった。嘘かもしれない。
 嘘じゃないよ。ほむらちゃんはずっと、同じ。少しだけ臆病で、でもとっても強くて、優しい。
 いずれにしても、今更同じように振る舞えることもないだろう。ほむらはいくつもを振り切って時間を跳んできた。彼女との約束を守るために。
「紅茶を淹れてあるわ。冷める前に飲みましょう?」
 こくりとほむらは頷いた。部屋のドアが開くと、リビングから杏子の声が聞こえる。
「マミ、ケーキまだかー」
「……呆れた。あなた、本当に食い意地が張っているのね」
「出しておくと全部食べられてしまいそうだから」
 マミはほむらの耳元で小さく囁いた。ゆっくりとした柔らかな声は、すぐに霧散してしまう。冷蔵庫までは勝手に開けないだろうと思って。マミの声はもう一度鼓膜を叩き、すっと彼女は横を通り抜けた。マミの言う通り、杏子は傍若無人な部分もあるが、あれで真面目なところも多い。その証拠に、馬鹿正直に紅茶の前に座って喚いているだけだった。
 一人暮らしの少女には不似合いなくらいに物が揃っているその部屋には、『彼女』がいた。過去の幻影だ。くらりとする。マミとさやかと笑って、ケーキを頬張っていた。美味しい。マミさんちの子になりたいくらい。バカね〜、毎日ケーキが食べられるわけじゃないのよ。あら、近くに美味しい店があるからよく食べるのよ。えっ、そうなんですか、いいなぁ。
 ほむらは首を振って幻想を打ち砕いた。あったかもしれない彼女たちの姿など、無意味だ。ほむらは自分の分らしいティーカップを手にすると、立ったままそれを口に運んだ。杏子が行儀悪いな、と言ったが気にしない。
 彼女が普通と違うとしたら、魔女を消すための代償をあっさりと受け入れた点にあるだろう。結局彼女は誰よりも平凡で、けれども特別だった。神様のように、誰かに祈ってもらうこともなく、自分だけが祈り続けている。
(独り、ではないわね)
 マミがケーキを運んできた。彼女が好きだったのは、生クリームがふんだんに使われている甘い甘いショートケーキ。杏子が手を伸ばした。真っ白いケーキを手掴みにすると、そのまま口に運ぶ。
「行儀悪いわね」
 同じ言葉を返してあげると、マミが笑った。
「暁美さんは、チーズケーキとフルーツタルト、どっちがいいかしら?」
 一瞬考えたが、ほむらはチーズケーキと答えた。やはりタルトは甘すぎる気がした。マミは頷くと、彼女の髪の色にも似た焼き加減のケーキの皿をほむらのティーカップの隣に置いた。白いカップも白いケーキ皿も、統一されたように並ぶ。銀紙だけが残された白い皿はお盆に乗せたまま、マミはフルーツタルトを向かいに置いて、腰を下ろした。
 この場所で、『彼女』はマミや杏子と会話している。彼女たちにとってはそれが最後だったことになる。送り出した二人は、その一瞬になにを思ったのだろうか。直接は見ていない。けれど、温かく見守り、背中を押してくれたようなイメージだけほむらは感じていた。優しくて柔らかくて、悲しい。魔法少女たちは、自らの願いを譲らない。誰かに引き留めることはできない。それを知り、後戻りのできない二人には彼女を止める言葉などなかっただろう。
 ほむらも座った。銀色のフォークが鈍く光っている。ナイフのような煌めきを一瞬だけ胸に留めて、ほむらはチーズケーキにフォークを差し込んだ。サクッと軽い音がする。すでに食べ終えた杏子に、マミはウエットティッシュを差し出した。このままベタベタとクリームをつけられるのも御免だったのだろう。
「で、なんかあったのかよ」
 マミはタルトの上に乗っているマスカットをフォークで刺して口に運んだ。
「ケーキが食べたかったから、ではいけない?」
「いけないと言うことはないわ。でも」
 先の言葉をほむらが引き取った。杏子は手を拭いたウエットティッシュを空の皿に乗せると、両手を組んで頭の後ろにやった。
「様子が変だったから」
 マミは驚いたように目を丸くして、ほむらを見つめた。
「見てくれているのね」
 くすっと笑う。
「たぶん、私、もうすぐ消えると思うの」
 まるで「今日は快晴だね」と言うのと同じような軽い調子で、そんなことを言った。消える、という言葉のリアリティがない。ぼんやりと白い蛍光灯の光が揺れて見えた。マミはフルーツのなくなったタルトを切り取って口に運ぶ。
「美樹さんと同じように」
 部屋を沈黙が制した。ひゅうっと聞こえたのは風が通り抜ける音で、木々がざわめいている。静寂を破る声をほむらが紡げずにいると、向こうから声。
「なんで、だよ……!」
 杏子は拳を震わせていた。声も上擦っている。どこかそれらはほむらにとって遠い物であるように見えた。昔の白と黒のフィルム映画のような、現実感の希薄さ。
「分からないわ」
 マミは杏子もほむらも見ずに、どこか中空をぼんやりと眺めている。彼女の視線の先、光の中に、埃が舞っているのが見えた。
「分からないわ、どうして私たちは消えてしまうのかしらね」
 それは、と喉元まで声が出かけた。それは、汚れをため込んでしまうから。魔女になってしまうことの代わりに、祈りの代償に。
「いつ消えるか、なんて、分かるはずがないわ」
 焼け付く喉で発した言葉は、マミに簡単に打ち消された。
「分かるわ。それに、覚悟もしている」
 『彼女』が祈っても、魔法少女の消滅を食い止めることまではできない。魔法少女たちは祈ってしまったから、願いを叶えるための代償を必要とする。新しい定めは、前よりもずっと上等で、けれど悲しい。魔法少女は、長く生きることなどできない。大半は恋すら知らずに、死んでいく。
「前に、話したわよね? 私がどうして魔法少女になったのか……あの時、私は死ぬはずだったの」
 交通事故で、助かるはずのなかった巴マミという少女。奇跡を起こしたのは、少女の祈りだった。キュウべえは、少女に少しだけ長く生きるチャンスを与えた。ほんの少しでも、少女が生きたいと望んだから力を与えたのだ。
「キュウべえは、世界のために戦ってくれるのなら、『今ここで』死ななくて済む、と言ったわ――短命だなんて、分かっていたことよ。少女である時間なんて、どうせ短いわ」
 『理』という言葉を思い出した。理とは曲げることのできない定め。運命。力を使い果たした魔法少女は消滅してしまう。そう決まっているから。あの時にもマミは、己の運命を感じ取っていたのかもしれない。鮮やかなフィナーレを。
 魔女にならないという魔法少女の結末は、ハッピーエンドだと思っていた。ほむらにとっては、もはや彼女が泣くことのない素晴らしい世界。けれど魔女を知らない魔法少女からすれば、消滅してしまうだけ。消えてしまうだけの無慈悲なシステムなのだ。
 今の魔法少女たちは消滅すると、世界から見えなくなる。存在していたことがまるで嘘のように、そこにいたことが誰からも認識できなくなってしまうのだ。唯一、自分と同じ魔法少女たちにだけその痕跡を残して。さやかという少女のことも、彼女の愛した上條という少年にはもはや認識できない。朧気な記憶だけが残り、少女の死を悼むことすらないのだ。そう、だから、自分たちだけはさやかの恋を覚えていてあげなくてはならない。さやかの愛した人が、さやかの友人と幸せになる姿を、目に焼き付けることだけが弔いだった。
 運命という都合のよい言葉。
 マミの言語センスに惑わされてしまったけれど、彼女はそうして己にも課された定め――消滅するという避けがたい現実を受け止めようとしていたのかもしれない。定めだから。それが、私たちの定めだから。だから、さやかが消えてしまうことも仕方がないのだ。マミは情に厚い人だ。あの時なんでもないように気丈に振る舞っていたけれど、本当は絶望するほどに悲しかったのではないだろうか。言葉に込められた意味をほむらは今更思料する。
「んなこと、急に言われて――納得できるかよ!」
「私、ずっと独りだったわ」
 立ち上がった杏子の言葉を遮るように、マミが声を上げた。凛として強く、そして儚い一筋の言葉。宵闇は冷たく彼女の周りを包みこみ、いつだって独りで夢を見ている。
(私も、佐倉杏子も)
「独りで戦っていたの。それしかできなかった――私の身体がどうだとか、そういうことではないわ。誰かを巻き込むわけにはいかなかったし、短命だとも知っていたから、付き合っていくことが怖かった」
 ほむらは幾千の時を孤高に渡り歩いてきた。そのどの時間軸でもマミは幼い頃から魔法少女で、独り法師で。
「独りでも、私が戦わなければって――魔獣を倒さなければいけないと思って、走ってきた。きっと、あなた達も同じだと思うけれど。孤独がツライなんて、考えたことはなかったわ。そういうものだと思っていた。でもね」
 マミは言葉を区切ると、ほむらと杏子の顔を見た。そしてにっこりと笑う。
「あなたたちや、美樹さんに出会って、知ったの。仲間といることが、とても尊いということを……私は独りじゃなかったんだと思ったらね、幸せだった。ほんの少しだけだったけれど、私を覚えてくれる人がいるのなら、もう、なにも怖くない」
 彼女の顔は晴れやかだった。マミはそう言うと、またタルトを口に頬張る。甘いわね、と笑った。
「……バカ」
 杏子は苦く呟いて腰を下ろした。さやかのことを思い出したのかもしれないし、消滅するというのなら止められないことを思ったのかもしれない。ほむらは冷静に彼女を見つめる。マミがまたタルトを口に運ぶ。食べないの、と彼女は首を傾げて尋ねた。ほむらは目の前のチーズケーキをようやく思い出して、フォークをふたたびそれに向かう。カランと音がした。
「暁美さん?」
 指先が震えていた。喉がひりひりとして痛い。また焼けついて言葉が出てこなかった。
「……暁美、さん? どうしたの? 具合でも悪い?」
「、ん、でも……」
「どうしたんだよ?」
 なんでもない。
 ただその一言すら、上手く発せられなかった。
 ほむらにとって、さやかも杏子もマミも、同じ魔法少女である以上の存在ではなかった。何度も何度も彼女たちに触れ、それを知っても変わらない。美樹さやかが消滅したとき、それはきっと彼女の願いだからやむを得ないのだとすら思った。今、マミが消えることにどれだけの違いがあるだろうか。彼女は選択している。少しでも命を、孤独でも長らえさせたい。それが祈りだから、永遠を願うことなどできない。ほむらは知っている。魔女にならねば彼女にとって幸せで。
(嗚呼、消えないで欲しいなんて今更)
 胸の奥が慟哭している。消えないで、消えないで消えないで。私の仲間なのだから。あなたは大切な人。
「暁美さん、フォーク、新しい物持ってくるわね」
 これ以上、優しくしないで欲しいと思う。ほむらには彼女の消滅を嘆く資格などないように思われてならなかった。
(時が戻せたら、消滅させないように、なんて)
 本当に今更、馬鹿げている。

マミさんが消えてしまったら悲しいとほむむに思って欲しいなあっていう細やかなほむマミ