パペチュアル・ピース


 疲れたと言うなり、ミチルはこてんとテーブルに顔を預けた。
「おめーが一緒に勉強しようっつったんだぞ、ミチル」
 シャープペンシルの芯で手の甲を突くと、ミチルは煩わしそうに顔を上げて安形を見た。ヘーゼルの目が瞬きを繰り返す。
「安形勉強してないし」
「いらねぇからな」
 教えてんだろ、と指摘すると、ミチルは顔を腕で隠した。感謝してるぅ、と呻くような声が響く。
「解いた。答え合わせ」
「おう、ノート貸せ」
 ミチルは顔を隠したままノートを右手で腕と顔の下のノートを引っ張りだして安形の方に寄越した。行儀が悪いとは思ったが、先程まで居眠りも多かった安形が言うことでもないだろう。女子のように綺麗な文字を見ながら、頭の中で答えを弾き出す。
「問三、計算ミスしてんぞ」
「うっそ、どこ?」
「しかもくりあがりミスってるだけじゃねぇか。注意力足りてねぇんだよ」
「オレ計算機じゃないもん」
 あーヤダヤダ、とミチルは再度呻くように言った。
「ま、他はできてんだから及第点だな」
 ふんわりとした薄茶の髪を軽くノートで叩くと、ミチルはようやく顔を上げた。目が合うと、少しだけ安堵したように瞳を細める。
「開盟も、んなに倍率高くねぇだろ? 今のままなら余裕だって」
「そうかなー。安形の視点から見ると、絶対落とし穴にハマる気がするんだよ」
「オレが見てやってんだから問題ねぇよ」
 疑ってんのか、とノートで頬を叩くと、ミチルは柳のような細い眉を顰める。
「こっちは試験想定して作った模擬テスト。これやってからそういう心配は口に出せ」
「わー、ありがとー、安形。恩に着る」
 語尾に音符マークでも付けていそうな軽い口調でミチルは笑うと、ノートをカーペットの上に下ろして、安形の指さした紙を覗き込む。制限時間三十分、と告げて、安形は腕時計の針を確認する。今が十七時二十五分だから、終了は五十五分だ。安形がきちんと起きていられれば、の話ではあるが。
(ミチルならズルはねぇだろうけど)
 ふあ、と欠伸をすると、ミチルは顔を上げて不満気に頬を軽く膨らませた。曰く、オレがガンバってるのに安形は寝る気? とでも言うところだろう。一緒に受験勉強、なんて最初から簡単に行くことではないとわかっていても、共有しようという姿勢は、人間としてある意味では正しいのかも知れないと思った。安形と勉強したいなどと言い出す相手は、過去にただの独りもいなかったという事実は厳粛に受け止めるべきことである。安形には直らないことだとしても。
「開盟って、なんかいいとこあったか?」
「なに、突然」
「お前はもっと華やかな私立が似合ってたんじゃねぇの?」
 華やか、と鸚鵡返しして、ミチルは首をちょこんと傾げた。白いシャープペンシルが軽く揺れる。有り体に言えば、もう少しお金持ちの学校。おぼっちゃんお嬢さん向けの学校だって、探せばいくらでも出てくるだろう。ミチルの家は資産家というほどではないが、物腰や身形から感じられる通り、彼はそれなりに裕福に育てられているし、校則の厳しい進学校よりも、安形には不似合いだろう淑やかな学校が似合うのではないか。安形は学校を家から最も近い場所、という基準のみで選んだが、これはできるだけ長く寝ていたいとかそういうことが理由に挙げられる。基本、早寝早起きで健康的な生活とインナービューティーだのなんだのを重視する規則正しい生活のミチルは、そのような点を考慮しないだろう。確かに、家からは最も近いということは安形と同じであるとしても。
「高校生活なんてどこも大差ないよ。別の方がよかったと安形は思うんだ?」
「いンや、別に。知ってるヤツがいる方がいいに決まってんだろ」
 それも誰彼問わずというものではない。はっきりと言って、安形はミチルが同じ高校に進学してくれることを好ましいと思っていた。中学で出会ったこの友人を、安形は非常に買っている。見目は良いし、喋っていて頭の回転が早くて良質だということも知っている。ほとんどのことはソツなくこなし、人間関係も円滑。喋るのが得意で、面倒だと言ってしまう安形との橋渡しもしてくれる。料理は美味しいし、気付くと隣でにこにこしてくれる。そして、安形の考えを誰よりも良く知ってくれている――そんなこと、本人を前にして言うものでもないので、ぼかしても言わずに核心を避けたが、まるで全部見通しているようにミチルは安形を見ると、にこやかに笑みを浮かべるのだ。
「同じだって。それに、こうやって勉強も見て貰えるしね」
 ミチルはぱちりと片目を瞑った。
「物好きだな、おめーも」
 安形と勉強しようなんて言う知り合いは彼を除いて他にいない。勉強を教えて欲しいとも言われない。
(安形の説明じゃわかんねぇよ、だもんな)
 頭が良い、天才だとは言われているが、反面、教えることには向いていないらしいのだ。安形が呼吸をするかのように問題を解いて見せたとしても、誰も頭を捻ってしまう。だからどうしてそうなのかがわからない、と言う言葉こそ、安形にはわからない。わからないことがわからないのだから、説明のしようもないのだ。天才は総じて教えるのが苦手だ、と誰かが羨ましそうに言っていた記憶があるが、そう言われて気分が良いはずもない。元より頭脳など、安形の鍛錬の結集でもなんでもないのだ。天才だという言葉を人は褒めるように行使するが、あまりうれしいと感じたことはない。恐らくは、人に教えて、わかったと言って貰える方がよほどうれしいという感情に至るのではないだろうかと思う。
「そんなことないって。オレはわかるよ、安形の説明。無駄がなくてシンプルだし」
 そう言うのが彼だけなのだ。だから物好きだと結論付けられるのだけど、ミチルは否定的だった。ちゃんとわかる、とは彼の絶対的な言い分である。そうなんだわかったよ、と言われる方がうれしいだろうというのは、別に机上の話ではない。むしろ実体験だ。
「それに、教えようって気のときは、安形はちゃんと砕いてる」
「当たりめーだろーが」
 これだけ良く喋って手が留守にならないのかと思うが、ミチルは器用に問題文を見て式を書き、解答欄も埋めていた。女脳だ。
「高校生なんてなると、なんか変わるのかなあ」
「変わんねぇだろ、おめーみたいなのは特に」
「あ、オレがモテるってこと? 仕方ないよ、こんなに魅力的じゃあね」
 さらりと薄茶の髪を掻き上げる仕草も決まっていて、安形はツッコミを諦める。
「そういうのが百年経っても変わんねぇっつーんだよ……」
「安形だって変わらないよ。いっつも頭よくって、おいしいところ持っていって、そのくせなんでも、めんどくさいめんどくさいって言ってるんだ」
「なんとかしろミチル、ってか」
「そーそー。すぐオレに振るんだから」
 くすくすとミチルは笑った。あぁきっと彼は本当にいつまでもこのままなのだろう、と唐突に思った。いつ見ても年齢を感じさせないように綺麗で、女の子にバカみたいに囲まれて、いつも花を咲かすように笑って、仕方ないなぁと言いながら面倒がる安形の代わりに細やかに動いてくれる。
「ほれ、あと二十分」
「うわ、喋りすぎた。ちょっと待って」
「時間は待ってくれねぇぞ、ミチル」
 にやりと笑うと意地が悪いと言い返された。
 過ぎ行く時間は止められない。どれだけ天才と持て囃されても、安形はただの人間でしかないのだ。単純なことを思うときほどにそれを実感する。数十年と流れていく途中で、自分はもういないのかも知れない。寿命という単純なものにすら抗えない、ただの『人』だ。
「うわ、この問題やらしい」
「そういうのがわかりゃ、たいしたもんだろ」
「上から目線だなー……」
「やらしいかどうかはともかく、解けるレベルで作ってんだぜ?」
「しってる」
 知ってるよそんなこと、とミチルは唇を尖らせた。
 たぶん自分は、人が思うよりとてつもなくちっぽけで単純な人間なのだ、と安形は自分では思っているのだ。できればこの美しく優しく自分にとっての理解が誰よりも深い友人が、自分と同じ高校に進学してくれたらいいと思っている。面倒だと言いながら問題なんか作ってあげているのがいい例だ。
(ミチルも、そう思ってんのか?)
 安形が高校は開盟にすると言ったら、あっオレも開盟、とさらりと言ったのは、最初からそうと決めていたからなのか。成績から見れば順当だし、もっと他の私立がとは言ったものの、開盟学園はこの地域では名の知れた進学校だし、校風も真面目で近所からの評判はすこぶるいい。
「あっ待って、これ計算の仕方間違った」
「待ってどうすんだよ」
 時間が足りなければ、問題を切ってしまえば良いのだ。そういう時間配分を行うのも一般的な試験の手法だろう。足りるも足りないもない安形には必要ない発想だが、知恵としては知っている。
「でも全部解きたいし」
 誰も傷付けたくないんだ、みたいに悲愴な声を出すものだから、仕方ねぇなと安形は人差し指一本だけ立てた。
「一分だけ猶予な。喋ってた分」
 その一分に意味があるのかは安形にはわからないけれど、ミチルはふわっと風がそよぐように笑うと、また指先を動かす。焦っているような声色だった割に、指先はいっそ優雅な動きにも見えた。
(まぁ、確認するのもめんどくせぇな)
 一人で頷いて腕時計を確認する。リミットまではまだ時間がある。両腕を上に伸ばすと、ミチルは顔を上げてじっとこちらを見た。寝ねぇよと苦笑すれば、ミチルはこくりと頷く。
「高校、楽しく過ごせるといいよな」
「んなもん、自分次第だろ」
「そうだね。安形といれば退屈しないかなー」
 ミチルは左手で頬杖をついて、とろんと榛色の瞳を細めた。

この頃の安榛=ずっと一緒にいるような気がしてる=恒久平和