いつものように定例会議が終わり、椿が真面目に書類と睨めっこする傍らで、安形は伸びをした。今日も眠い。恐らく明日も眠いだろうと思われるが、いつものことだと欠伸をしながら天井を仰ぐ。浅雛が縫いぐるみの手足を動かしている。美森は会計帳簿と書類を見比べている。手鏡を見ていたミチルはふと安形の方に視線を寄越すと、うわっと小さく声を上げた。
「雨、強くなってきてるよ」
言われて安形は振り返る。生徒会室に入ってきた頃にはポツポツと静かに降っていた雨粒が、今では地面を叩き付けるまでに至っていた。雨脚は強まるばかりで、窓越しに音が響いている。曇天は重く暗く、アンニュイな気分とは縁の遠い安形ですら、気分が少しばかし下降した。止むかと思ったんだけど、とミチルが言うのは、昨今ではゲリラ豪雨も流行っており、強い雨も一時的で通り過ぎることが多いことを踏まえてだろう。白色蛍光灯は明々と生徒会室を照らし染め上げているが、窓からの白や橙の光がないだけで、薄暗く感じた。
「嫌ですわね」
美森は悠然と窓を見詰め、しかし眉を淑やかに潜める。感情の起伏が激しい方ではないが、常が穏やかな表情であるためか、その差はむしろ顕著に感じられた。
「ミモリン、傘は」
「ありますけど」
「服が濡れるのは嫌だな」
きっぱりと断罪するときのように言い切る浅雛も、やはり女の子だ。眉間にはくっきりと皺が寄っているし、ちらと足元を確認して、濡れやすい下肢やスカートのことを慮っているらしい。
「強くなるばっかりだって。安形、今日はもう終わりにしたらどう?」
手元のスマートフォンでさっくりと検索でもしたのか、画面を見ていたミチルは顔を上げるとこちらに軽く視線を投げる。一応、生徒会長様のご意見を、ということらしい。
「オレに言うことじゃねぇだろ」
なあ椿、と声を掛ければ、真剣に仕事をしつつもこちらの会話に耳を傾けていた椿は、びくりと肩を揺らした。置物会長は、副会長に全権委任している。それは今日の天候がゲリラ豪雨でも嵐でも変わらないだろう。話を振られた全権委任の副会長は、書き物の手を止めると、安形の方を軽く睨んだ。
「そんなことを、ボクに言う必要ないと思います」
「都合のいいときだけ会長面しねぇっつったろ」
「都合もなにも!」
「まあまあ椿ちゃん、安形が決めていいって言ってるんだから、椿ちゃんが意見を出してくれればいいだけだって」
にこりと誰相手でも甘い笑みを浮かべるミチルが笑顔で執成せば、椿は言葉に一瞬詰まりつつも、わかりましたと頷く。椿は今更になって暗い窓の外に目を向けた。いつも照らしてくれている夕陽の朱はなくて、代わりに灰色の雨雲が空を覆い隠しているばかりだ。見なくとも、雨音で外の状況は理解出来る。椿はすぐに視線を背けると、目の前の美森をちらりと見た。それから浅雛。
「どの道、皆、仕事が終わっているわけですから、解散でいいとボクは思います」
「んじゃ解散。おつかれさん」
「早ッ!」
安形がすぐに立ち上がると、椿はこちらを見て目を丸くした。面倒は御免の安形からも、雨が強くなるのを徒に待ちたいという気持ちはないのである。美森も浅雛もすぐに席を立った。
「椿ちゃんも、今日のところは帰った方がいいよ」
お先に失礼します、と生徒会女子二人のユニゾン。ぺこりと頭を下げて揃って去っていく彼女たちを安形が二つの背だけを見守れば、ミチルは椿の傍に寄ってきて、書類に目を通す。
「こっから先は、明日でも十分。これは、あとは判を押すだけ。ほら、椿ちゃんもお仕事終了」
「理屈上はそうですが」
「手が足りなくて不安なら、明日、手伝ってあげるからさ」
「そんな、榛葉さんの手を煩わせることは……」
ボクが今終わらせれば良いだけの話で、とあくまで我を通そうとする生真面目過ぎの後輩に安形は溜息を零した。
「椿、おめーはそれでいいかもしんねぇけどな、お前が帰らないと、ミチルも帰らねぇんだよ」
ええと、とミチルは頬を掻いた。
「ほら、一人で遅くまで残して、雨に晒されて風邪引いちゃったー、なんて、先輩としては洒落にならないっていうか。それにさ、椿ちゃんはいつも頑張ってるんだから、こういうときはお休みした方がいいと思うし」
ね、とミチルは柔らかく笑う。空気を読め、と椿に目で訴えかけると、珍しく彼は意を汲んだらしく、気不味そうに視線を書類に落とした。
「すみません、自分のことばかり考えていて……」
「だから、そんなに難しく考えなくていいんだよ」
安形みたいでいいのに、とミチルは軽く笑った。
「オレ、椿ちゃんのやってる仕事、手伝ってたことあるから役立つよ? 便利な庶務でよかったねー」
「それはもしかして」
「去年、安形のを手伝ってたからさ」
ふわりとした花のような甘い笑みを浮かべたミチルは、安形のことを咎めるような眼差しではなく、ただ過去を一つ思い出しただけだ、といった調子で同意を求めた。
「わかりました。ですが、この山だけは片付けます。五分で終わりますから、ご心配には及びません」
譲歩には譲歩。ミチルは微笑むと、無理はダメだからね、と釘を差して椿の横を離れた。嘘は嫌うこの後輩のことだ、案じずとも終わらせて速やかに下校するだろう。ミチルが椿に手を振ったので、安形も倣って「じゃあな」と背を向けると、何もしていないのに「お疲れ様です」と労いの言葉を貰った。
「雨、すごいね」
廊下に出ても、ざわつくような雨音は変わらない。ミチルは珍しく深い溜息を零すと、瞳を細めて水滴が打ち付ける窓を見詰めた。整った綺麗な顔には、アンニュイな表情も似合いだ。教室までの廊下の道のりを、窓の外をバックグラウンドに歩いていく。弾けるような雨は、踊るようなという表現でも似合いそうだった。
「安形、傘持ってたよね」
「朝から降りそうだったからな」
正確に言えば、どんよりとした雲の多い天気などというものではなかったが、天気予報の音声情報と天気図とを照らしてみたところで容易に雨天が想像出来る天気だったというところだ。安形がそれに気付いたのは後付けの情報であって、実際には、母親が傘を持って行くようにと忠告してくれたために持参したに過ぎない。女子やミチルのように、濡れたら心底困るということはないが、身体が濡れて気持ちが良いということはないし、鞄が濡れたら中身のこともあるので面倒だ。登校時にもミチルとは顔を合わせており、珍しく傘を持っているんだね、と指摘されている。もちろんミチル自身、モノトーンのシンプルな傘を携えていた。安形のようなビニール傘のそれとは違う、ノーブルなものだ。
そっか、とミチルは茫洋とした瞳で呟く。先に到着したC組の教室にささっと入っていったので、安形が鞄を取ってくるのを廊下で腕組みして待っていると、出てきたミチルはぎょっとしたように目を丸くした。
「あ――」
どこか気不味そうにぽつんと呟くと、ミチルは苦笑いを浮かべる。待っててくれてどーも、と口早に言って安形より先に廊下を歩き始めた。何かおかしかっただろうかと首を傾げてみたものの、先を歩くミチルを追う方が先決。足の長いミチルのストライドは長いが、安形と大差はない。お二人は歩くのが早いですね、と小柄な後輩が淋しげに呟いたことを思い出す。
「あのさ」
「どうかしたか?」
A組の前で立ち止まると、ミチルは息を吐いた。
「いや、なんでもない」
雨止まないね、と窓辺に目を移してゆっくりと微笑む。普段なら校内に残った女子生徒に騒がれるのが常の友人だが、雨が容赦なく地面に叩き付けるような今日の天候では、残っている生徒はほとんど皆無。早々に皆、下校してしまっているのだろう。残っているのが自分の鞄だけであることを確認して、下校準備の整っている鞄を手に、安形は教室を出た。ミチルはくるくると人差し指を色素の薄い髪に幾度か巻き付けて、窓の外ばかり見ている。
「静かだ」
「こんな日じゃな」
「中学の時にさ」
ミチルは再び前を歩く。どちらかと言えば、安形が歩くのに付いてくるという形が多い彼にしては些か珍しい。空の色のように、少し声に憂鬱が含まれているのも珍しかった。
「学校の行事で、夜、学校に集まって肝試しとかしただろ? あれっぽい感じ」
「んなこともあったな」
「うん。安形は度胸があるよね」
暗い中を躊躇いもせずに進むから驚いた、とミチルは笑った。声に喜色が取り戻されたので、どことなく安堵して安形は頷く。蛍光灯の光は日中だと明るく見えるのに、夕方には心許ない光に移り変わる。なんだか無為だとも思えるのだ。早く追い出してしまいたいからわざと、暗くなると光までくすみを帯びるのか。下校時刻に響く校内放送のクラシックも、わざとらしく哀愁を湛えている。
中学の頃から、ミチルは精緻な顔作りをしていて、女子に騒がれていた。校内のアイドル。今、貴公子と呼ばれているのとほとんど同じ声音で、黄色い声援を浴びていた。お化けとか苦手、と安形の背後でおっかなびっくり進んでいたのも愛嬌だ。たまたま組んだのが安形とだったからで、相手が女子だったら対応も違ったのかも知れない。大丈夫だよ、と手を差し伸べて微笑む姿が目に浮かぶ。
「あのさ、安形。言い難いんだけど」
昇降口まであと数歩のところで、ミチルは濁すように口を開いた。
「なんだよ、さっきから」
言いたいことがあるのはお見通しだ。そう言うと、ミチルは黙ってぺたんと足を止めた。そのままくるりと振り返る。見返り美人図のような、モデルらしい美しい振る舞いに一瞬、まばたきを忘れてしまった。
「傘、持ってないんだよね」
出てきた言葉は存外間が抜けたもので、安形は思わず「はあっ?」と頓狂な声を上げてしまう。しかし思考はコンマで冷静に解を導き出す。
「――女か」
うん、とミチルは淡く微笑んだ。
朝、道で会ったときにミチルは傘を持っていた。放課後は生徒会の集まりがあるのに、帰ろうとして傘がなかった、という気付きは起こらない。つまりミチルは、自ら傘を手放したのだ。恐らくは、困っている女の子でも見付けて。
「オレは別に濡れても構わないんだけど、女の子は別だろ」
「お前も濡れて帰って構わないってこたぁねぇだろうがよ」
これ以上は言う必要なしと判断して下駄箱に向かう。ミチルは安形が常に持て囃されているような高級な頭脳は持っていないが、頭の回転は早いし、安形の意図ならば理解してくれる。
「家が近いならそれでもいいけど」
「大した距離でもねぇよ。送ってってやっから」
「うーん、なんか悪いなあ、めんどくさがりの安形に」
「面倒と必要はちげぇだろ」
わかっているのに不必要に悩むのだから。安形が肩を上げると、じゃあお邪魔するよ、と明るくミチルは笑った。
ミチルが微笑んで手を上げれば、女子の悲鳴が殺到する。彼の笑顔は百万ドルだ、などと言っているのを聞く訳ではないが、女子を照らす光明であると言うのは言い過ぎでもないだろう。笑うと華やぐ、という言葉を安形も否定しない。いつもふんわりと笑っているので気付かないが、影を落とせばやはり周囲はくすんで見えてくる。
「お礼になにか作るよ。リクエストある?」
「なんでも」
「うわっ、作り甲斐ないなー」
「ミチルの料理はなんでも美味い」
「安形いつもそればっかり言うだろ」
まあいいけど、と言うミチルは満更でもないようで、にこにこと笑顔を浮かべて靴を履き替えている。自分の作った料理で女の子が喜んでくれるのがうれしいんだ、あ、男もね。ミチルは本気とも冗談とも取れそうな調子でそう語るが、親しい人間からの賛辞にはやはり、反応が違う。オリエンテーションやガチンコビバゲーバトルでも、後輩からの言葉を受けてうれしそうにしていたし、いつもとは言うが、安形が褒めればミチルは喜ぶ。世辞ならば安形とて一度で終わるが、ほぼ無意識のように口をついて出る言葉だと彼も知っているからこそなのだろう。
「ていうか、安形、ガタイあるんだからビニール傘はやめといたら?」
「電車でなくすからこれでいいんだよ」
「あー、寝ててね……」
くすっと笑う。そう言うミチルは細い体躯のくせに立派な傘を持っていた。これ以上なにか言うようであれば傘から追い出してやろうかとも思うが、ミチルはそれ以上無駄口は叩かず、安形が傘を開いて見遣れば、ありがとう、と微笑んだ。榛色の瞳が優しくこちらを見ていれば、とっとと帰るぞ、以外に口から出る言葉もない。雨脚は強まりこそしていなかったが、変わらずに地面に雨粒が降り注いでいる。こんな中を傘も差さずに帰れば、体力も椿よりずっとないミチルこそ、風邪を引きかねないのではないか。そう心配して横を見ても、やっぱり狭いと苦笑しているばかりのミチルには伝わらない。
「安形、大きいよなあ」
「背はそんなに差ぁねぇだろ」
「目線はね。体格差って出るものだなって話。骨とか太そう」
彼の華奢な身体は生来的なものだ。出会ってこの方、榛葉道流という人はずっと華奢で、綺麗な顔立ちで、同じように育っている。本人は、女の子は綺麗な方が好きだから、と自分の容姿には百二十パーセント肯定的だ。甘いマスクに紳士的な物腰が持ち味ならばそれも頷ける。安形の方からも、ミチルが綺麗な方がどちらかと言わずと好ましいと感じていた。面食いなのかと問われると、素直に頷いてしまう。友人だって己の美醜の感覚的に麗しい方が良いに決まっているのだ。外見判断で決定付けている、という意味ではなしに。
(や、ミチルがどうってのとは関係ねぇな)
うーんと考えると、ミチルが傘を持つ右腕をクイと引っ張った。
「安形、左濡れてる」
「たいしたことねぇよ」
「オレなら平気だって」
「オレも平気だっつの」
細ぇこと気にすんな、と言うと、ミチルは目を細めた。
「安形は結構、紳士的だよね」
「お前が言うと嫌味になっぞ」
安形が眉を顰めると、ミチルは軽く頬を膨らませる。
「ひどっ。褒めてるだけなのに」
「だいたいな、女と相合傘なんてしてみろ。面倒が増える」
あまり目覚しい活動をしてはいない新聞部が活気付いてしまうかも知れない。
「ははっ、確かに」
「……傘借りたヤツも、一緒に帰りたかったんじゃねェのか」
ミチルは細い人差し指を顎に当てると、うぅーん、と唸った。
「私だけ借りて帰るのも、って?」
「ビンゴじゃねぇか」
女子の裏側に気付かないミチルではあるまい。かっかっかっと笑うと、ミチルは笑い事じゃないと諭すように告げる。
「傘の下に二人って、女の子は気にするからなあ」
傘マークの下に二人の名前を書く。まじないだかなんだか安形の高いIQをもってしても不明な習慣もあるくらいだ。相合傘という言葉に魅惑を覚える女子がいても不思議はない。一方、女の子はすべてに優しくをモットとするミチルからは、簡単にはいかない話だ。彼女たちの願いは聞いてあげたいが、誰かだけを依怙贔屓するような真似は出来ない。結果としてミチルは、自身が濡れ帰ることになるとしても、傘を貸し渡すに留めたのだ。そのシチュエイション的な好機を、ことミチルに関してはもったいないと括るべきではないのかも知れない。
「それに、生徒会の仕事もあったからさ。オレだけ帰るわけにいかないだろ」
「なんでも構わねぇけどな、自分は濡れてもいいってのは戴けねぇ」
「うーん、ごめんー」
反省の色なし、と安形は眉間に皺を寄せる。ミチルは湿気で髪が崩れる、と指をくるくる動かしながら不満気に言うばかりだ。
(ったくコイツは、本当に)
女の子のためならなんでもする。彼女たちの抱く虚像を壊さないため、力を惜しまない。見返りなんて最初からどこにもないのに。騒がれるだけ、理想を見るだけの彼女らにいつでも甘い笑顔で手を振るミチルが、なにを幸せだと感じるのだろうか、と不思議に思わずにいられない。演じるアイドルというまやかしが彼に、なにを与えているのだろうか。
ふと顔を上げると、金木犀のオレンジ色が目に飛び込んできた。雨に濡れて、明日には枯れ落ちてしまうのかも知れない。芳しい彼の誕生日の香りと共に、なくなってしまう。安形は空いた手で頭を掻いた。
「まー、傘くらいなら入れてやっても構わねぇよ」
「ありがとー、安形」
それならせめて自分くらい、腕も濡れないように傘に入れてあげようと思うのだ。
女の子の傘になってあげようってミチルを守ってくれるのが安形さんだといいな幻想