髪伸ばしてるのか、と尋ねると、どっちでもいいんだけど、と目の前で書類と睨めっこしている友人は軽く答えた。その髪型にすら一喜一憂するかも知れないファンがいることなど意に介していないかのように、ミチルは万年筆を動かしていた手を止めると、気怠そうに右手で頬杖をつく。
「伸ばしてもいいかな、くらいには思ってるよ」
「いいんじゃねぇの、これからはよォ」
「うーん、そうなんだよねー」
ミチルは穏やかに笑みを浮かべると、万年筆を軽く揺らした。肩まで掛かる薄茶の髪に緩いパーマがふんわりと掛かっているボブヘアこそ、安形が出会った頃のミチルの髪型だ。開盟学園に入学するにあたり、ミチルは髪を短めに切り揃えた。髪の色は地毛だからと押し通したものの、その上にパーマの掛かった長髪ともなれば、生活指導の度毎でなくとも教師からうるさく言われるだろうからと配慮してのことだ。パーマも髪の色も地の物だが、それをいちいち証明するのは楽なことではない。だから、パーマが目立たないように髪を整えたのである。その薄茶色の髪も、美容院でこまめに揃えているようではあるが、一年でまた伸びてきていた。
三年の先輩たちは引退し、今や生徒会の、全校生徒の頂点に立つこととなった安形は、兼ねて考えていたことを実行するのは今だと考えた。ここ開盟学園の厳しい校則を改正し、自由な校風へと変貌させること。行うこととしては、校則という紙に書かれただけみたいな規制を変えるだけのことだが、規模は大きい。元より真面目な校風を売りにしていた学校なのだ、根本が変わることをどのように生徒や教師が受け止めるか、まだ未知数である。それでも一番の理解者たるミチルが、いいと思うよ、と笑顔で賛成してくれているので、なんとかなるのではないかと安形の方も軽く思っている部分があった。校則を変えることで、髪型の規制もなくなるというのであれば、ミチルもまた昔の髪型に戻すことができるし、むしろ学園のアイドルじみている彼がそうすることは、一種の広報戦略になるのではないかとも思う。
(昔の方がミチルらしかったしな)
今の髪型でも、というか、ミチルはたぶん、終局的になんでも似合うのだろうけれど。
「あー疲れた。これさ、二人だけでやるっていうのがやっぱり大変なんだと思うんだけど」
「だからって、今のオレらがアイツらを納得させられっかよ」
頭の堅い椿はまずエヌジィを出すだろう。彼にとっては校則こそが秩序であり、それを遵守することが正義なのだ。その準拠すべき根本を変えるという安形の意見に容易に同調してくれるとは思えない。
「浅雛もダメだな。自分に益がないことには積極的に加担しねぇ。んで丹生は中立。モメっだろ」
最終的に中立の彼女とて、先輩とは言え親交の少ない安形やミチルより、話ができる方に立つだろう。多数決で負けてしまえば、会長という権限で押し通すことになる。それでは結局、独裁になることに変わりはない。それならいっそ、最初から話を通さない方が後腐れがないだろう。無駄なことは行わないというのも、安形の信条である。
「安形なら動かせるだろ」
「んなことやって、一年一緒にやってけるかよ」
「ああ、ちゃんと考えてるんだ。全部オレに投げるのかと思ってた」
にこりと笑って、ミチルは容赦なく言った。もともと人付き合いを面倒がる傾向にある安形が円滑に過ごせている裏には、ミチルが上手いこと執り成してくれる所為も大きい。
「椿みてーなのは、一発デカいのかましてやりゃ、納得して付いてくんだよ。浅雛も同類。丹生はもともと誰かに付いてくタイプじゃねぇ」
「デージーちゃんとミモリン」
「はぁ?」
「あだ名付けてあげたんだ。安形もそう呼びなよ」
人の話をどう思って聞いているのか。マイペースな学園のアイドルは、にこにこと綺麗な笑顔を浮かべて安形を促す。
(浅雛菊乃だから雛菊でデージーか。丹生美森は名前を呼びやすくってだけか。ミチルにしちゃあ単純だな)
感触はいずれも悪くない。デージー、ミモリン、と頭の中で二人の顔を合わせて呼んでみる。
「デージーにミモリンだな。覚えた」
「椿みたいな真面目な子はさ、コツコツと信頼を勝ち取っていくのが仲良くするコツじゃない?」
「んなチマチマやってられっかよ。オレの性分じゃねぇっての」
「だろうね。あ、安形の言うことは全部同意。ミモリンは仲間になっても部下にはならないね。さすがは丹生グループのお嬢様だ」
賞賛しているのだかなんだか知らない言い方で、ミチルは両手を広げた。
「だから、生徒会の集まりがないときに動きたい、っていう考えも一応はわかるんだけど」
言い淀んだミチルの言いたいことも安形にはわかる。ミチルは安形の言い分は理解する。賛同もする。しかしながら、この寒いのに、学校も冬休みに入ったというのに、その上、今日はクリスマスだというのに――! ということだ。
「オレ、今、庶務なんだけど」
「ミチルが元書記で助かったぜ。かっかっかっ」
人事だと思って、とミチルは頬を膨らませた。校則を改正するにあたっての校長への根回しはすでに済んでいる。こういう時のために、前からミチルと積極的に校長室へお邪魔して恩を売っておいたのだ。持つべきものは、料理が得意で社交的な友。後は申請に必要な書類の手配や諸々の手続きとスケジュールの確認で、前者の書類作成については書記として一年を生徒会で過ごしてきたミチルにその役目を押し付けて、スケジュール調整も結局、大方を任せてしまっている。つまり、安形がすべきことはもう終わっているのだが、じゃあ書類作っておけよ、なんて放って帰ってしまうほどに薄情ではないし、そもそもそんな身勝手を、ミチルが許すはずもないだろう。できた書類の確認を行いつつ、雑談相手として、座り心地も寝心地も良い生徒会長椅子を堪能するのが、本日の安形の仕事である。実のところ、昨日も同様のことをしている(と言うか、なにもしていないと言う方が正しい)が、ミチルはたまに愚痴っぽく言うわりに、機敏に動いてくれていた。
「おめーがブレザー着てんのが重いっつうから、制服着用についても入れてやっただろ」
「あーはいはい、どうもありがとう」
主立った改正点は、髪型の自由と、校内での制服着用の自由だ。校外ではできる限りブレザー着用、式典は服装を改めるといった最低限のルールを守れば、校内ではブレザーを着ていなくても、規定のシャツでなくとも良いという形にすることを考えていた。試運転の期間は来年の一月から三月で、問題なければ四月以降、正式に校則が変更。
風紀委員がない代わりに、開盟学園では慣例として、生徒会が服装のチェックについても行っていた。そこでの指導を大幅に緩めるようになったのは、安形が庶務として加入した先代の生徒会以降のことである。校則では学内ではブレザー、ネクタイの着用もしくは指定のセーターやベスト、夏はポロシャツなどの着用が定められている。指定の物以外は一切認められていなかった。髪型についても、染髪やパーマは認められなかったし、女子は一定以上の長さを越えたら結ばなければならないなど、厳しく制限されていた。それらの制限を撤廃し、自由な制服着用と髪型を『黙認』という形で認めるように当時の生徒会長である新條に働き掛けたのは安形であり、もちろん、ミチルも背後からいろいろと協力してくれていた。生徒指導の教員がたまにうるさく言うこともあったらしいが、大半は生徒の活動は生徒会の管轄だからと認められていたところを、会長となった今こそ、校則の改正でもって正式に認められるようにしようと考えたのである。生徒会に入ろうと決めた時点から安形が考えていた最大にして唯一のことだ。
「それじゃあこれからは、教室でもブレザー着ないで過ごそうかなー」
「寒がりのくせによォ」
「ベスト着てるだろ」
生徒会役員には規律が求められる。部室内ではブレザーを脱ぐことも多かったが、役員であることを気にしたらしく、ミチルは教室ではきちんとブレザーにネクタイを着けていた。
「あと、ネクタイ付けてると、イメージが堅くなるんだよね」
来年からは外しちゃおう、とミチルはにこにこ笑った。学園のアイドルは、校則改正の広報役だということをきちんとわかってくれている。
「そっち確認終わった? ミスない?」
さすがに寝て待たれるのは嫌なのか、至極単純な書類の確認作業だけ任されていた安形は、言われて初めて渡されたA4の紙一枚を見る。見慣れた綺麗な文字が並んでいるのをざっと眺めて、どうせ最初からミチルがミスするはずもないだろうに無駄な作業だなと思った。
「なんもねぇよ」
「よかった。じゃあ、今日はここまでにしよう。まあそれだと、明日も来ることになるけど」
つまるところ、今日もう少し頑張れば終えられると思うが今日はここで終わりにしよう、という意なのだろう。皆までは言わず、いいだろ、とちらりとミチルはこちらを見た。その様子はどこか、ねだり上手で甘え上手な女の子を彷彿とさせる。そんな風にこちらを見つめるヘーゼルの瞳の色に安形が一段弱いということもないが、大概のことは頷いてしまうので、判断基準に影響を及ぼしている可能性はなきにしもあらず。しかし、こういうときのミチルは悪戯っぽい目の癖に、安形にとって不都合なことなど微塵も考えていないのだから(元よりミチルは安形に不利なことなんて考えたりしないのである)、素直に頷くのが吉だろう。こちらを見ていたミチルは、安形の反応にうれしそうに瞳を細めた。
「じゃ、遅くなる前に、ケーキ用意しておいたから食べようか」
どこから真っ白な箱を取り出したと思えば、ミチルはそれを嬉々とした様子で安形の前まで持ってきた。
「さすがミチル」
「クリスマスケーキ作るの好きなんだよね! デコレーションしがいがあるし」
中学の頃にも作って貰った記憶があるが、あの時分からすでに、ミチルのケーキはまるでケーキ屋で売っているような代物だった。料理を趣味とし、細々したイベントでケーキ作りを欠かさないミチルのこと、展開は安形にも想像できている。
「んなこったろうと思って、オレも用意してきてっぞ」
机の下から足の長いワイングラスを二つ。それからアルミでパッケージングされた瓶を取り出すと、ミチルは目を丸くした。それから眉根が寄って、顔全体が曇る。
「安形、オレがアルコールに弱いの知ってるだろ」
ケーキやめるよ、と珍しく本気で怒ったように言い始めるので、思わず口角が上がってしまった。ミチルが怒っているなんて珍しい。親しい友人が滅多にないくらい怒っているのに、それをどこか楽しんでいる節があったりすると自分で認めてしまっているのが、自身の性格はどうやら少々悪いらしい、と感じる所以だろう。
「怒んなって。シャンメリィだぞ」
だが、クリスマスの日だというのに怒って帰られてしまいたいわけではないし、どころか彼を喜ばせようと思って買ってきた品なのだ。そもそも誤解させるつもりなんて微塵もなかったのである。
「あっそれなら歓迎」
酔わないアルコール的なもの、はミチルのお好みだ。さっとパッケージを確認するとすぐに、顔が明るく変わる。怒らせるのも嫌いではないが、ミチルはふわふわと笑っている方がやっぱり『らしい』と思う。
「安形ありがと」
ふふっとうれしそうに笑った。周りの空気が暖かい。
アニメのパッケージがついたシャンメリィばかりをスーパーでは見掛けたため、普通のパッケージのものは意外と探しにくかった。ボンボン・ショコラから果ては酒の匂いでも酔っ払うミチルは、まったく酔わない安形から見ると、ある意味では幸せなようにも見えるのだが、当本人からすると大問題であるらしい。普段の品の良い態度を損なうということは、ミチルにとって非常に非常な失態であるようで、迷惑が掛かるのが安形だけだろうとそうでなかろうと絶対御免だ、と強い口調で言っていた。そもそもアルコールに体質的に弱い、というのは、少量で酔うばかりでなく、多く摂取しなくても身体には有害だということも含まれているだろう。そういう意味で安形も気を遣っている面もあった。反面、ミチルはアルコールが自由に飲めるのを羨ましいと思うらしく、ノン・アルコール飲料を見ると目を輝かせて飛びつくのだが、アルコールが僅かでも含まれていると断念してしまう。因果なものだ。その点シャンメリィならば炭酸飲料なので問題ないだろう。メリィというのはメリィ・クリスマスから取られているという経緯から見ても、クリスマスには定番のアイテムだ。
「ねーワイングラス、これ買ったの?」
コツコツと細い人差し指の節がグラスを叩く。シャンメリィにしろグラスにしろ、近所のマーケットで買っただけの安い品だ。
「コップで飲めねぇだろ、雰囲気的に」
「いや、そういうことじゃなくて……」
なにを戸惑っているのだろうかと思ったが、まあいいやとでも言うように、ミチルは軽く息を吐いただけだった。それからグラスを傾けて「これ洗った?」と真っ当なことを尋ねるのみ。彼が料理については衛生に厳しいことを知っている。買ってから洗ったことを話せば、じゃあ乾杯しよ、と切り替えるように華やかに微笑み、アルミのパッケージをべりべりと開いた。栓はワインと違って素手で抜き取ることができるはずだが、ミチルはまじと瓶を見ると、安形に差し出した。ほら開けて、と笑顔ひとつで促す。
「安形は二十歳になったらお酒が自由に飲めるんだ」
ポンッと音を立てて栓が開く。この音がシャンメリィ特有だ。軽やかな音を聞きながら、ミチルはしみじみ呟いた。ここで、お前も飲めるようになんだろ、と言ってやるのは野暮だろう。ミチルは法律上飲めるようになったとしても、彼の矜持に掛けて飲まない。少量で酩酊してしまう彼の健康面を思えば、その方が良いだろうと安形も思う。
「オレも安形とお酒飲めたらよかったのに。残念だなあ、隣で見てるだけなんだ」
「飲めねぇヤツの隣で飲むかよ。おめー、匂いでも酔うくせに」
安形の開けた瓶を見ているばかりでちっともグラスに注ごうとしないので、諦めて安形は二つのグラスに半分ほど、白ワイン色の液体を注ぎ込んでいく。
「はは。酔ってたら近付けない」
自分に渡されたグラスに注ぎ込まれた液体をじっと見つめて、ミチルは瞳を細めた。甘いマスクは、繊細で美しい顔立ちは、些細な仕草も絵になるように描き出す。慣れた安形ですら時折、呼吸を忘れて魅入ってしまう。
「メリークリスマス――!」
ミチルは一人で言って納得したようにグラスを軽く上げた。そのまま乾杯するでもなく、こくりとシャンメリィを喉に流し込んでいく。
「安形、シャンパンってこんな味するの?」
「似たモンじゃねぇのか」
遅れて安形も喉に流し込んでみたが、フランス産シャンパーニュというものを飲んだことはないので、真偽は確かでない。炭酸と子供向けの甘みが喉に絡むだけだ。
「飲むことがあったら教えてよ」
「ま、ハタチ過ぎたらだな」
当然だろぉ、とグラスを口元に当てたまま、ミチルは唇を尖らせた。倫理的な、未成年は飲酒不可、という標語ではなくてむしろ、そんなに早くから飲むなんてずるいとでも言いたげな眼差しに、思わず笑いが込み上げてしまう。そんな温順な中で、年明けからはきっと忙しくなるのだろうとか、そんなことに思考を揺蕩わせてみたりもする。隣でもっと飲む、とシャンメリィを独り占めにしているミチルを尻目に、まだ丸いホウルを保ったままのケーキにフォークを伸ばした。
「行儀悪い」
「誰かさんがいつまでも切らねぇからだ」
「ケーキナイフあるから待ってよ」
悠長に待っていると時間がかかりそうな彼の行動など無視して、箱から出したままの真っ白なケーキにフォークを突き刺すと、ミチルは、あーあー、と嫌そうな声を出した。
「オレはね、安形のそういうところが嫌いなんだよ」
「ケーキうめぇな」
「あっホント? よかったー、いつもと生クリーム違うからどうかなって思ってて。これ植物性なんだけど」
えへへと安形の率直な褒め言葉にうれしそうにはにかんでいるミチルは、先程の言葉なんて忘れてしまったみたいに、生クリームの違いをこんこんと説いてくれた。違いのわからない男、安形は、それに適当に頷いて聞き流しておく。
「……誕生日は白いケーキが多いし、来年はブッシュ・ド・ノエルにしようかな」
「細けぇな」
またケーキを口に運びながら言っても、ミチルは気にもせず、ケーキナイフで切り分けて自分の皿に取り分けていた。彼の言葉は果たして来年の予告であるのか、また、こうしてケーキを食べているのだろうか。そんなことだけぼんやりと思っていると、気付いたときにはもう、シャンメリィは空になっていた。
気付くと二人でケーキばっかり食べてる…………