SWAK


 夕暮れ時の生徒会室は、夕焼けの橙色に染まる。この時間、背に夕の光を浴び、前に座る生徒会役員を見守りながら眠りにつくのが、安形は好きだった。今、そこにいるのは、現生徒会長の椿だ。彼は、居眠りばかりする安形を見て、怒ってばかりいた、なんてことは、ほんの数カ月前の出来事だというのに、まるで遠ざかってしまった過去のように思えた。
「東都大合格、おめでとうございます、会長」
 椿はぱっと明るい表情を浮かべた。彼にしては珍しく、柔らかく笑んでいる。普段からそういう顔をしていれば良いのだろうが、気を張って真面目な顔を作っているのだからもったいない。とりあえず、もう会長じゃねぇだろ、と一言だけツッコミを入れれば、たちまち椿は慌てたように両手をばたばたさせた。
「え、えぇと、その、色々と大変だったそう、ですね……? あ、安形、さん!」
「あー、まぁな」
 安形が頬を掻くと、椿は生真面目な表情で「安形紗綾のことで」とはっきり言った。さすが、空気が読めない空気ヨメ男は、いつだって空気を読まない。出来れば触れて欲しくないと安形が思っていることなどそもそも分かっていないのだろう。椿は難しそうな顔で、話は聞いています、とうんうん頷く。
「会長……じゃなくて、安形さんが妹を心配しているということは、きっと伝わっていると思います」
 まるで自分には関係ないような口振りだが、安形の勘違いの発端はこの椿にあるのだ。非はないが。誰に話を聞いたのかと安形が問えば、たまに生徒会室を訪れるというミチルから聞いたのだ、と椿は笑顔すら見せる。
「……どこまで話聞いてんだ」
「? どこ、ですか?」
(この様子だと、自分が混ざってたっつーことは知らねぇな)
 きょとんとする椿の顔からは、騒動に巻き込まれたなどと微塵も思っていないことが窺えた。そしてあのミチルのことだ、体裁を適当に整えて(何だかんだで元会長としての威厳を損ねさせるようなことはしないのである)、かつ、シンプルに纏めて説明していることだろう。
(大方、オレがサーヤの恋愛関係について誤解して、まぁ、自分も誤解を受けたくらいは言ってそうだな。藤崎のことは――)
 双子の兄の話を聞くと、良くも悪くも過剰反応する椿の今の態度を考えると、紗綾の好きな相手というのが藤崎だということまでは知らないのだろう。言っても益はないし、女子のこととなると対応が違うミチルが、進んで紗綾の好きな相手などを伝えたりはすまい。
「あーその、なんだ。オレが認められるようなヤツじゃねぇと、弟になんざ認めねぇっつぅことだ」
 自分で要約するのも難だが、大体はそういうことである。紗綾を泣かせない、自分が弟だと認められるような存在でなければ妹に相応しくない。兄の勝手な言い分だということは、一応分かっている。その点、椿ならばやはり申し分ないように思われた。元々、双子の弟として生まれている所為か、一人っ子だとは聞いていたが弟のような気質だと思っていたのだ。
「意外ですね」
「なにがだ?」
「安形さんが、妹のことで右往左往するとは思わなかったですし。それに、榛葉さんのことも」
「はぁ? ミチル?」
 見た目よりも妹に甘いとは良く言われていた。紗綾に対して過保護だというのは、ミチルからも指摘されるし、冷静さを欠くから注意しろとも忠告されたことがある。そういえばわざわざ家にまで来て、料理だの調味料のさしすせそだのに合わせて誤解を解こうとしてくれたようだが、喩えはあまり良くなかったと思う。結果として更なる誤解に繋がったことに、親切心から来てくれた友人を責める気持ちはないが、いっそ最初から嘘偽りなく話してくれれば良かったのではないかと思うのだ。ミチルはやや、変に気を回し過ぎなのである。
「かい……安形さんは、榛葉さんを弟としては認められないんですか?」
 椿の言葉に仰天した。
(ミチルが弟?)
「なに言ってんだ、お前」
「いえ、ボクだったら、榛葉さんが……まぁ、弟はさすがに、後輩として複雑ですが。優しい人で、料理も出来て、正直に言えば、ボクは、榛葉さんのような人が兄だったらと思わないでもないくらいなのに、どうしてだろうかと」
「……藤崎のことか」
 椿は肩を跳ね上がらせた。
「か、関係ありません! ただボクは、話を聞いて単純に疑問に思っただけで」
 中々ここの双子はまどろっこしい。口ではどうこう言っても、椿は心の奥では藤崎のことを兄だと認めているのだろう、と安形は思っていた。知らないでも意識してばかりいた頃からずっと、縁を感じていたはずだ。先輩らしく、その辺りもアドバイスしてやるのも良いのだろうが、つつけば顔を紅くして狼狽する椿の反応が面白いので、このままにしておいても良いかなと思ってしまう。それにこういうことは、他人が指摘するようなことでもないはずだ。それに、首を突っ込んで面倒事が起こるのも避けたい。現状維持が一番だ。
「ミチルが弟なんざ、ありえねぇな」
 そう言ってから、ふっと、椿は同じようなことを感じたのかも知れないと朧気に思った。藤崎佑助が自分の兄だなんて有り得ない、と。
 そんなことをつらと考えていると、そういえばと椿は前置きして、榛葉さんて恋人作らないんですね、などと突然言い出した。思わず「はぁ?」と間抜けな感嘆詞が出てきてしまった安形だが、こちらが驚いていることを不思議に思ったように、椿は小首を傾げるだけだ。
「お前の口から、んな言葉が出てくるとはな……不純異性交遊は禁止だとか言い出すかと思ったわ」
 思わず笑うと、椿はむっとしたように琥珀色の瞳を細めた。
「そこまで時代錯誤なことは言いません。まぁ、そういうことにかまけて学業を疎かにするのは嘆かわしいことですが」
 相変わらずの頭の堅さに安形がくつくつと笑うと、椿は眼光鋭くこちらを見る。
「高校時代というものは、学業や部活動の他、様々な人間的な交流をすることにより、人間性を高めていくものです。恋愛もその一つではないかと」
「堅ぇっつうんだよ、お前は」
 恋や愛なんて、そこまで複雑に考えて『行う』ことではない。それこそミチルを見てみれば良いだろうと思うのだ。あれだけあっけらかんとして、女子からの黄色い声援を浴び慣れているのだから。全く、こんなにお堅い椿と紗綾がどうこう起こすなどと考えた自分は本当に下らないと改めて思わされてしまう。
「最近、良く聞かれるんですよ。榛葉さんに恋人がいるのか、いないのか」
 椿はうんざりしたように眉間に皺を寄せる。庶務であるというのに、旧生徒会の役員として、最も騒がれていたのは榛葉道流だ。自慢の料理の腕も相当振るっている。
「それで、本人に聞いたんですよ。恋人はいないんですか、と。まぁ、今のかいちょ……安形さんと同じような反応をされましたけど」
 ミチルが椿の言葉に驚いただろうことは、想像に難くなかった。安形がまたくつくつと笑ったので、椿はまた小さくこちらを睨む。
「俺の知る限りじゃあ、ミチルに恋人なんざ、いたこたぁねぇな」
「ボクもそうだと思っていました。ですが、あれだけ常に囲まれているのに、恋人は作らないのかと思って、まぁ、興味本位で聞いてみたんですが」
 椿の話では、作らないよ、といつものように軽やかな笑顔を浮かべて返されたのだそうだ。
「もしかして、何かプライベートに関わる理由があったのではないかと思って」
 難しい顔で真剣に言うので、安形は聞いたことがないと一蹴してやった。ミチルと安形は中学から今まで友人を続けているが、彼に恋人が出来たという話はとんと聞いたことがない。また、何かしら恋愛沙汰での問題を起こしたということもなかった。単純に、僻まれたりすることは少なくなかったが。
 ミチルは飄々と、いわば風のように生きているイメージが安形にはある。波風は立てず、過ごしやすいように過ごす。ちゃっかりしているのだ。そういうスマートなところは、安形も気に入っている。後輩として、弟のように可愛がるのに椿は向いているが、友人としてであれば、隣にいて肩肘張り過ぎだ、と思うだろう。その点ミチルは、何事に対してもさらっとしているし、料理は上手だし(安形も作って貰うことが少なからずあった)、ノリは良いし、気配りも出来る。そして、安形を天才だとか言って、不必要に持て囃さない。そういう人間は、これまで貴重だったのだ。
「そうですか。それなら良いんですけど……、榛葉さんもきっと忙しいんでしょうね」
 ふう、と椿は息を吐いた。
「アイツ、なんかあったか?」
 大学受験は既に終わっているし、ミチルはそもそも推薦で大学を早々に決定していたはずだ。自分を含め、三年生は、後は卒業式を待つばかりで、自由登校な上に勉強も何もない。
「卒業が近いので、呼び出される回数が増えているとか何とか本人から聞いています。ボクもそういった関係で、随分と質問されたんですよ」
 言われて即座に、彼が、学園の貴公子などとけったいな名で呼ばれているのだということを思い出した。女子生徒の憧れの的で、校内でもトップの人気を誇っている。普段、安形がミチルと接しているときは、確かに顔は綺麗だと思うが、そういうことは忘れてしまう。向こうも恐らく、安形のIQのことなんて忘れるだろうから、お互い様だ。
(卒業か)
 生徒会室に来ることも、開盟学園に通うこともなくなる。いつもそうであったということがなくなる。会えなくなるということは、平凡に罅を入れることと同義だ。喋らなくてもたまに擦れ違うだけでも良いと、どれだけの女子生徒が思っているのかは安形も知らないが、そういう相手が、せめて伝えたいと願うのだろう。
「あっ、引き止めてしまってすみませんでした。もう遅い時間なのに……」
「いんや、構わねぇよ、別にすることもねぇしな。たまにゃあ、後輩の悩みを聞いてやんのも先輩の務めってこった。そういや、前に言ってた厄介な後輩ってのはどうした」
「キリのことですか?」
 椿は小首を傾げてにこりと笑った。
「あぁ、安形さんにはまだ言っていませんでしたね。キリとは無事に和解できたんです」
「そうだったのか? 俺の知らねぇうちに、様変わりしてやがんのな」
 どれほど自分が盲目的に妹の恋路のことばかり考えていたのか、知れたような気がする。そう言えばミチルが、新しい庶務が問題を起こしたとか起こしていないとか話していたような気がするが、うろ覚えだ。
「キリもボクの言うことを聞いてくれるようには……なりました」
「『は』ってなんだ。含みを感じるぜ?」
「と、ともかく。言うことを聞かないということはなくなりました! その節は、安形さんにはご心配をおかけしてしまって」
 もう大丈夫ですから、と椿は力強く言った。椿は真っ直ぐな眼差しを持っている。時に行き過ぎてしまいそうな芯の強い正義感や、学園の為にという厳格な決意を、安形は買っていた。
「ま、なんかありゃ、なんでも言え。オレもミチルも力貸してやるから」
「そんなこと言って、安形さんはすぐ、面倒だって言うんじゃないですか?」
 椿はくすりと笑った。
「言うようになったな」
 まだお堅い部分が完全になくなったわけではないが、角が取れてきたようには思う。新しい役員との交流によるものかも知れない。
「んじゃな、椿」
「また時間があったら、いらしてください。今度は宇佐見やキリも紹介しますので」
「暇があればな」
 背を向けてかっかっかと笑うと、相変わらずですね、と椿は苦笑した。

 帰ろうとミチルを探していたところで、後輩らしき女子生徒に呼び出しを受けたらしい彼の姿を見付けることが出来た。椿の言う通りらしい。別段、覗き見しようとか悪意は特になかったのだが、向こうが気付いていなかったので、そのまま黙って俯く女子生徒と、穏やかな表情でそんな女子生徒を見詰めるミチルを見守ってしまうことになった。卒業が近いので、とか何とか、勇気を振り絞ったらしい告白を、ミチルはあっさりと笑顔で優しく切り捨てる。悪いことではないだろうが、実に潔いな、とだけ思った。椿に言われずとも、ミチルが誰かと付き合う気がないらしいことは知っている。クック・シェル事件のときの様子を見ても、彼を取り巻く状況に変化はないなと思っていた。
 女子生徒が見えなくなったところで、安形は手を上げる。ミチルは苦笑すると「安形、そういうのはさすがに悪趣味じゃないか」と軽く言った。
「邪魔しねぇように黙ってたろーが」
「まぁ、安形は見慣れてるか、オレが告白されてるところなんか」
 確かに全く有難味はないだろう。とっとと帰るぞ、と言うと、ミチルは肩を上げた。
「椿ちゃん、なんだって?」
「東都大合格おめでとうございます、だと」
 同じ生徒会の後輩である浅雛や美森は、椿に会う前に祝福の言葉をくれたのだが、椿は会議に出ていて顔を出せなかった。その為、終わったら生徒会室で改めて言いたいという連絡を受けて、生徒会室に顔を出したのである。
「はは。椿ちゃんらしいじゃない。律儀だね」
「律儀っつうか、お前もマメだな。わざわざ合格祝いなんざいらねぇって言ったろうが」
「オレじゃないよ。サーヤちゃんが、俺にケーキを焼いて欲しいって言ったんだ。女の子に頼まれたんだから、やらない訳にはいかない」
 ミチルは片目を瞑って爽やかに微笑む。最近では気の強い態度を取る紗綾ではあるが、兄の試験のことを案じてくれていたり、藤崎の言葉ではないが、きちんと大切にされているのだなと実感した。藤崎も椿同様、信頼出来る人間であるとは思うが、まだ一人で立つには危なっかしく見えるし、子供っぽい部分は心配だ。椿にも、もし紗綾のことで何かあれば言うように、とは言っておいたが、恋愛にはとことん疎いあの後輩が、安形の期待したような情報を持ってきてくれるとは思えなかった。
「それに、トップ合格なんだろ? やっぱり、めでたいじゃないか」
 さすが安形、なんてミチルの口から珍しく聞いた。
「オレもひやひやしたからな。本当、合格してくれてうれしいよ……」
 その上で実感の篭りまくった言葉を掛けられて、安形は言葉に詰まった。
「本当にあのまま、東都大入試の答案用紙が白紙で提出でもされてしまうんじゃないかと、オレは心配で心配で」
「う、うるせぇ。いつまでも言わなくてもいいだろーが」
「ホーント安形って、サーヤちゃんのことになると周りが見えなくなるよねー」
 マフラーを巻いたミチルは、顔をそこに埋めるようにした。安形の中で、無事に沙綾を巡る誤解が解けて、試験を終わらせてこの方、ミチルは頻繁にそのことに言及するのだ。彼曰く、オレのことまで敵視するんだから、である。その時のミチルは珍しく、眉を釣り上げていたのだが、相変わらずの綺麗な顔立ちには、残念なことに迫力はあまり備わっていなかった。そんな彼ではあるが、試験が終わった時に飛んできてくれたという一面もある。心配で心配で、という言葉は嘘ではないのだろう。安形が言うべきではないだろうと思うが、ミチルは世話焼きなところがあるのだ。
「ま、いいお兄ちゃんなんだろうけど」
 ぽんと言われた言葉に、椿から尋ねられたことを思い出した。改めて顔を見て、やはりミチルでは自分は納得しないだろうなと思う。理屈ではなく直観的に椿が藤崎を兄と認められているのと同じように、安形はきっと、理屈ではなくただ、納得しない。
「悪かったな」
「いいって、別に。次からはちゃんとオレに相談してくれよ? 一人で暴走されると、お前は手に負えないからな」
「おーおー」
 何気なく頷いて、次も何も、ミチルとは大学が異なっているということを思い出す。実家から出るわけではないし、ミチルの進学先も自宅から通える大学だったとは思うが、今のように、教室に顔を出せばすぐに捕まるという距離ではなくなる。それを分かっているのかいないのか、ミチルは、ならいいけど、と軽く笑っていた。
「そういや、お前はもう大学決まってたな」
「随分と前にだけど。推薦だったからね」
「お前も、東都大にすればよかったんじゃねぇか?」
 何の気なしに言えば、ミチルは足を止めた。
「あのねぇ、安形と一緒にしないでくれるかな」
 安形も止まって振り返ると、ミチルはトントンと軽く、右手で米神を叩いた。
「お前みたいに、勉強しないでも合格出来る方がおかしいんだって。なんでも自分の基準で考えるなよ」
「ミチルだって頭悪いってことはねぇだろ」
「そりゃどーも。だとしたって、受かる確率の低い東都大を受けてみようって気には、さすがにならないから」
 そんなものかと安形が目を細めて友人の姿を見ていると、ミチルは歩き出す。高校受験の時には、安形が開盟学園を受けると言ったら、ミチルも、じゃあオレもそうしようかな、と言っていた記憶がある。それと同じだとは思っていないが、何となく、思い出した。ブレザーを着ていても分かる、線の細い背中が前をすたすたと歩いていく。身長は大差ないはずだが、華奢だ。そういう容姿も女子には受けているらしい。何を食べて生きているのだろうかと時折思うが、手料理がシェフ顔負けとあれば、安形よりも良い物を食べているだろうことだけは分かる。安形自身、たまに美味しいものが食べたくなると、ミチルの家に押し掛けていた。彼の家には足を運んだ記憶があるが、その分、ミチルが家に来たのは、紗綾とのことで心配して家まで押し掛けてきたときくらいだ。
「安形、なにしてるんだい?」
「懐かしいなと思っただけで」
「なにが?」
 脳裏に中学時代の彼と自分が過ぎった。それは感傷の一種だ、と、歩き出して気が付く。卒業して新しい生活が始まれば、ミチルはもう傍にいない。そういう単純なことを今更、ひとつずつ、思い出している。

 同じ受験生という立場であるのに、自分ばかり祝って貰うわけにもいかないだろうと、週末にミチルの家にケーキ屋で買ったケーキを持って、アポも取らずに押し掛けた。何の連絡もなしにチャイムを鳴らしたが、出てきたミチルは皺一つない白シャツに黒のベストという、隙のない服装だった。ミチルは、家では適当なティーシャツやジャージを着ている、ということもない。いつ見ても、整った格好をしている。
「なんだ、安形じゃないか。来るんだったら先に連絡してくれればいいのに」
「ケーキ持ってきたから食うぞ」
「ケーキ? この前も食べただろ」
 白い箱を見せると、ミチルは首を傾げた。合格祝いにと彼が作ってくれたケーキを食べたのは、数日前のことだ。ミチルの作ったケーキは、安形が相手だということを考えてか、派手さはなかったが、シンプルで非常に美味しかった。彼なりに相手の好みに合わせて作ってくれているのかも知れないが、これほど美味しいと思うケーキは味わえないだろう、と安形も思ったほどだ。
「考えてみりゃ、お前は合格祝いなんてなかっただろうと思ってな」
「え? それで来たの? 珍しい」
 ミチルはふっと笑うと、立ち話も難だからと玄関に上げてくれた。両親は出掛けていて不在だから、気兼ねせずにどうぞ、と、リビングに通される。手土産があると分かっているので、部屋よりも食べやすい方を選んだのだろう。
「面倒くさがりの安形がケーキなんて買ってきてくれるとはねー。雪でも降るかな」
 受け取った白い箱を手に、上機嫌な笑みを浮かべて、ミチルはキッチンに向かう。そっちに座ってて、と言われたので、安形は大人しくリビングの椅子に腰掛けた。何度来てもこの家は、綺麗に片付けられている。テーブルには余計なものは置かれておらず、白いテーブルクロスと、中央には花が置かれているのみだ。シンクまで磨き上げられたキッチンに、食器類も汚れが一切残っていない。
「もうそんな時期じゃねぇだろ」
 窓の方に視線を向けた。陽気はすっかり春めいている。朝晩はまだまだ冷えるけれど、日中は少しずつ日が高くなり、温度も上昇していた。
「はは、確かに。今年は珍しく雪積もった日があったね。そういえば、安形聞いてる? あの日、椿ちゃんと藤崎が揉めてたらしいんだけど」
「変わんねぇのな、アイツらも」
 積雪があった日のことは、あまり覚えていない。言われてみれば、降り積もっていたような気がする。雪を見て燥ぐ歳でもないし、寒いだけで面倒だとばかり思ってしまうのだ。
「加藤も活躍したらしくて」
 名前を聞いて、安形は首を傾げた。
「……安形、加藤と話したことある?」
「加藤――新しい庶務だったか」
 以前に椿が、新しく生徒会に入ったメンバーのことで相談しに来たことがあり、加藤希里と宇佐見羽仁という名前は覚えている。
「やっぱり話したことなかったか。どうやら加藤っていうのは忍者らしいんだけど」
「忍者ぁ? なんだそりゃ」
 驚いて振り返ると、ミチルはケーキを皿に乗せていた。買ってきたのは白いショートケーキとチョコレートケーキの二つだけだ。
「オレも良くは知らないよ」
 紅茶と珈琲どっちがいい? とミチルは顔を上げた。ここの家では美味しい珈琲が出てくることを知っているので、珈琲でと言うと、安形はいつもそうだよね、とミチルは軽やかに笑う。
「つーかお前、なんで知ってんだ? オレは会ったことねぇぞ」
「生徒会室で会うよ」
「なんでお前、一人で行くんだ。オレも呼べばいいだろ」
「えぇー、安形、どうせ面倒だって言うだろ?」
「だから、『安形も行かないか?』『面倒だからパス』『じゃあ一人で行くよ』くらいやってもいいだろ!」
「うわ、始まったよ。安形ホントめんどくさっ」
 ミチルはわざとらしく両手を上げて、顔を左右に振った。
「オレもいろいろと面倒だから誘わなかったんだよ」
「なんだそりゃ?」
 答えずに、ミチルはケーキの乗った皿をテーブルに運んだ。チョコレートケーキを安形の前に置く。
「これも、どっちがいいか聞いておいた方がいいのか?」
 そう言って、悪戯っぽく笑う。
「お前の合格祝いなんだから、お前が選んでいいに決まってるだろーが」
 はいはい、とミチルは面倒げに頷くと、自分の席にショートケーキの皿を下ろした。皿の上の銀フォークを取ろうとすると、先に食うなよ、と軽く睨まれる。
「まあ、悪いヤツじゃあないと思うよ。椿ちゃんには懐いてるし」
 そう言って、ミチルは楽しげにくすりと笑った。女性に紳士的な態度を取り、基本的に優しい彼ではあるが、どうも椿をからかうのは楽しいらしいのだ。彼なりのコミュニケーションなのかも知れない。
「……お前一人で生徒会室に行くの禁止な」
「嫌だよ。どうして」
 知らないところでミチルばかりが後輩と仲良くしているというのは、どうにも気に入らない。
「会長命令だ」
「もう会長じゃないだろ、安形は! 大体、椿ちゃんじゃあるまい、安形が命令だって言ってもオレは聞かないからね」
(しかし加藤……忍者……何者だ?)
 椿自身の口から、言うことを聞いてくれるようになったとも聞いているし、懐いているというミチルの発言も嘘ではないだろう。役職は庶務だが、今の生徒会では男が二人であることや、アクの強い浅雛と美森を相手にすることを考えると、加藤とやらが椿の味方になってやらないと、やり辛いのかも知れない。藤崎にはまるで自分こそが椿の兄であるみたいに、どこか心配になる椿を頼むとは言ったものの、やはり顔を合わせれば言い争う関係は変わっていないようだし、その忍者にも椿のことを言っておく必要がありそうだな、と思った。
「ミルクはいらないよな?」
 気付けば、リビングには珈琲の香りが漂っている。手を振っていらないと合図すると、ミチルは出来上がった珈琲をテーブルに持ってきて、安形の前の席に座った。
「いただきます」
 安形はブラックを好むが、ミチルは甘めのカフェ・オ・レを好んでいる。手元を見ていると、ケーキにフォークを入れる前に、ミルクと砂糖を掻き混ぜた。風味が損なわれると一度言ったこともあるが、苦いのは飲み難いとミチルは言うのだ。彼は良く混ざったカフェ・オ・レを一口飲んで、ショートケーキに手を付ける。
「ちょっとクリームが甘いかな」
「そういや、サーヤがどうせなら酢の物じゃなしに、なにか作ってくれたら良かったのにっつってたぞ」
「へえ、サーヤちゃんが? わかった。サーヤちゃんの為なら、暇を見付けて行くよ」
「つーかこれ、一応流行ってるっぽい店で買ったんだが……、お前のケーキの方が断然美味ぇな」
 一口食べての感想は『やはりミチルのケーキの方が美味い』だった。
「どうも。でも、かなり甘めだから、女の子にはウケるんじゃないかな。美味しいよ。わざわざ持ってきてくれてありがとう」
 別に気にしなくても良かったんだけど、とミチルは笑った。
「ほら、ちゃんと安形も一言『おめでとう』って言ってくれてただろ? 忘れてるかも知れないけど」
「そんくれぇ覚えてるよ」
「はは、安形、記憶力いいもんねー」
 そういう話ではないだろうと思ったが、ミチルは済ました表情でコーヒーカップに口をつけていた。
「そうだ。借りっぱなしになってた本があるから、ついでに持って帰ってってよ」
「なんか貸したか?」
「数学の参考書。使わないって言うから結構前に借りたんだけど、そのままになってたから」
 ケーキ皿とコーヒーカップを空にしたミチルは、静かに立ち上がると、取ってくるよ、とリビングを出ていった。まだ残っている黒い液体を眺めながら、果たしていつ貸したものだったろうか、と安形は過去に頭を巡らせる。学校でも貸し借りは日常茶飯事のようにしていたし(専ら借りるのは安形の側である)、もしかしたら安形の部屋にもミチルに借りたものが残っているかも知れない。すぐに返さねばならないということもないのだろうが。むしろ逆に、清算してしまうような行動は、積極的に取りたいとも思わなかった。チョコレートケーキの最後のひとかけらを口に運び、ミチルが言うように、確かに甘いなと思う。
 十分ほどその場で、うつらうつらと待っていたが、ミチルは中々戻って来なかった。このまま椅子に座っていれば、本格的に眠りに落ちてしまうような気がして、安形は頭を掻いた。ここで寝たからと言って、付き合いも長く、安形のことを良く知っているミチルにこっぴどく怒られるような心配もないだろうが、人の家に押し掛けていって寝こけてしまうというのは、さすがにどうかと思う。仕方ねぇなと安形も席を立ち、リビングから出た。ミチルの部屋がどこにあるかは分かっている。二階に上り、開きっぱなしになっている部屋に勝手に上がり込んだ。
「まだ探してんのか?」
「悪い。ちょっと前まで、他の参考書と一緒にしておいたんだけど……昨日片付けたからなぁ」
 ミチルの部屋はいつも綺麗に整頓されている。細かいという訳でもないのだろうが、基本的に、綺麗好きだし、自らの身嗜み同様、部屋も整えておきたいのだろう。物の位置などが殆ど変わらない辺り、何らかの拘りを感じる。入り口の片隅に参考書らしき書籍が積まれていたので、ここじゃないのかと指さして尋ねたが、それは捨てる本だから、とミチルは棚の本をあちこち見ながら返事をした。
「高校の参考書はもういらないだろ? 捨てようと思って、そこに出しておいたんだ。その時、安形に借りてたのを見付けて……」
 なんにせよまだ時間が掛かるらしい。勝手にベッドに座ると、「座ってもいいけど、寝るなよ」と釘を差された。いくら安形でも、人のベッドで寝るような真似はしない。いかに、ミチルのベッドがふかふかだとしても。
「安形、だから人のベッドで寝ようとするなって」
「してねーって」
 少し意識が落ちそうになっただけだ。くるりと振り返ったミチルは、じっとコーヒー色の眼差しをこちらに向ける。このまま座っていても眠ってしまいそうな気はしたので、安形は仕方なしにベッドに手を掛けて立ち上がった。と、指先がプラスチックケースに当たる。見ると、ジャケットやライナーノーツも入っていない。円盤には黒マジックで『カイメイ・ロック・フェスティバル』とだけ書かれている。
「なんだこりゃ」
 取り上げてまじと見ていると、ミチルは笑みを浮かべてこちらに近付いてきた。
「懐かしいだろ、それ。俺たちがバンド組んだときのだよ」
「あーそういや、放送部のヤツらがCD焼いたんだったな……」
「片付けてたらそれも見付けてね」
 ザ・生徒会バンドというバンド名は、椿の考えた名称である。とにかく凝った仰々しい名前を付けようとするミチルと、アルファベットのみになってしまう浅雛、センスが常人と違う美森、センスも何もない直球勝負の椿、そして、名前を考えるのも面倒な安形が揃えば、会議が踊る以外のことはない。一時間以上議論したが意見は纏まらず、最終的に、生徒会として参加するということが取り敢えず分かるようにということで、椿命名のものが選ばれたのである。あの時は、ボーカルにミチルという花形を持ってきたこともあってか、評判も良く、人気投票でも二位を獲得した。尤も、八割以上が女性票ではあったが。
「久々に聞く? コンポあるしさ」
「歌ってるのお前だろ」
「良かっただろー?」
 常から、その自信はどこから来るのだろうか、と思うナルシストぶりである。実際に歌唱力があるので、ツッコめない。モテモテで困るとか自分の魅力がどうだとかミチルは良く言うが、大体、否定する要素もないので皆が黙ってしまうのだ。
 安形の手からCDケースを取ると、ミチルは白いオーディオコンポに円盤を挿入すると、躊躇いなく演奏をスタートさせた。椿のギターと浅雛のベース音が、部屋の四方に響く。ピアノを習っていたという美森のキーボードについては不安がなかったが、芸術センスをイマイチ欠いている椿については些か不安視していた。しかしそれも杞憂に終わった。音感とリズム感については、兄同様の才能があったらしい。面倒だからと、いの一番にドラムを選んだのは安形だ。
「ロックフェスも楽しかったなぁ」
 彼の声は、特別高いということもなく、低いということもない。滅多にカラオケになどは行かないが、ミチルの歌声は知っていたし、お前がボーカルな、と言い付けたのも安形である。自分の歌声を部屋中に流されても、ミチルは平然としており、むしろ楽しげに笑みを浮かべて安形の傍らに腰掛けた。さすがナルシスト。
 ザ・生徒会バンドの歌った曲はオリジナルのものだ。歌詞はボーカルに任せることになったが、椿が「生徒会らしい歌を」とあまりに言うので、彼を納得させる為に、『生徒を守る盾』としての歌だ、と言って含めた。その為に、タイトルも何だか良く分からないことになっているが、実態はミチルらしいラブ・ソングである。
(イージスか)
 イージス艦って椿ちゃんも聞いたことあるだろ、とか何とかミチルは上手いこと言い聞かせていた。
(ギリシア神話のアイギスだったか)
「おめー、神話なんて詳しかったのか」
 意外だと思って問えば、ミチルはさらりと首を横に振った。
「いや別に。安形知ってたの?」
「どっかで読んだ気がするくれぇだな」
「案外、椿ちゃんの方が詳しかったかもしれないね」
 最後まで聞き終えると、ミチルはコンポを止めて、また円盤をケースに仕舞った。今度は机の上に置き、そうだ参考書、と思い出したようにまた棚を漁る。ふと何かに気付いたように机の上を見て、うわ、と顔を顰めた。
「もう昼飯時かー。悪いな、安形」
「構わねぇょ、昼メシでも作ってくれりゃ」
「はは、了解。なににするかな」
 女の子ならパスタだろうけど、とミチルはぶつぶつ言っている。
「なぁミチル」
「うん? なんかリクエストでもある?」
「そのCD、焼き増しできねぇか?」
「えっ、なに安形、なくしたの?」
 生徒会役員全員、記念として一枚ずつ貰ったということは覚えている。
「どっかにゃあると思うけど、探すのがめんどくせぇんだよ」
「構わないけど……放送部に直接言った方がいいんじゃないかな。マスターテープとかあると思うし」
「めんどくせぇ」
「あーハイハイ、わかったよ。その内ね」
 ミチルは面倒そうに肩を上げた。イージスなんて、そんな細い肩で、神話に出てくる盾のように誰を守れるというのだろうかと不意に思った。

「お兄ちゃん、椿くんに変なこと言ったでしょ!」
 安形が家に戻るなり、おかえりの一言もなく、妹が声を張り上げた。
「なんだよ、サーヤ。あ、ミチルに今度、なんか作りに来いっつっといたぜ」
「えぇっ、あんまりミチルさんに迷惑かけるのやめてよね……。この前だって……じゃなくて! さっき駅前で椿くんに会ったんだけど、『なにか変わったことはないか? 安形さんがもしなにかあったら言うようにとボクに言っていたから、遠慮せずになんでも言ってくれ』とか言われたのよ! もう、なに言ったの!?」
 相変わらず空気が読めない男、椿佐介である。期待を裏切らない。
(や、この場合は期待を裏切ってるっつーか)
 考えなくとも、影でこっそりと紗綾の情報を得るようなことが、椿に出来るはずがないのだ。
「お前と藤崎のとは言ってねぇよ。ただ、学校でなにかあったら――」
「そういうのが余計だって言ってるの! お兄ちゃんには関係ないでしょ!」
「ない訳あるか!」
「お兄ちゃんも、いつまでも私のことばっかり言ってないで、彼女とか作ればいいじゃない! それに、前、恋がどうとかアドバイスしてくれたけど、ぜんっぜん、自分はそういう気配ないし!」
「俺はいいんだよ」
「良くない! だったら私のこともいいじゃない! ほっといてよ!」
 紗綾はぷんぷんと怒った様子のまま、部屋に戻っていってしまった。
「ったく、サーヤのヤツ……」
 以前はともかくとして、今の安形は、紗綾と藤崎の件について、妨害しようと思っている訳ではない。ただ、可愛い妹が、よりにもよって藤崎に泣かされたりしたら堪らないと、そう思っているだけなのだ。椿に言ったことにしたってそう。紗綾が困っているようだったら、報告して欲しいという意味合いに過ぎない。それを椿が的確に捉えられるはずはない、と分からないではないのだが、言わずにもいられないのである。部屋に籠ってしまった紗綾にどうしようかと考えながら、ソファに身体を預けた。それこそミチルに何か作りにでも来て貰って天の岩戸開きでもすべきかと考えたが、家を出た傍から呼び出したのでは、如何なミチルでも顔を曇らせるだろう。
 テーブルに乗っていた紗綾が持ってきたであろう女性向けの雑誌を何気なく手に取ってみた。雑誌の特集には『必勝恋愛術』などと書かれてある。そういうのはミチルの得意分野だろうな、と思った。尤も、あの友人にかかれば、花でも背負ってるような笑顔を見せれば、粗方の女子は簡単に恋に落ちてしまうのかも知れない。そうなると、恋愛術なんてものは持っていないのだろうか。何だか知らないが、紗綾にどう言われようと、彼女をどうしても作りたいとかそういう気持ちはなかった。面倒だ、とまでは思っていないが。

 自由登校でも毎日登校しているということは、学校への未練かも知れない。悔いのないように過ごしてきたと自負してはいるものの、まだ名残惜しく感じている。多くの生徒もそうだろう、と思っていた。否、後悔しない人生などないし、卒業することを大半は寂しく思うものだ。
「で、足型? 安形って発想突飛だよね」
「付き合わせて悪かったな、ミチル」
「別に。安形に付き合うのは慣れてるから」
 ミチルは爽やかに笑う。大勢が一度に集まると目立つだろうからという彼のアドバイスもあり、体育館には1組から順に集めて、卒業記念に足型を付けていくことになっていた。
「でも意外だなー」
「面倒くさがりのオレがってのか?」
「それもあるけど。安形って感傷的な方じゃないから。卒業って言っても、時間が来たからいなくなるだけって考えるタイプだろ?」
「誰かと違ってな」
 生徒会を引退する時にも涙を滲ませていた、感傷的なこの友人とは違うのだ。ミチルは、あれはさすがに恥ずかしかったのだろう、安形の前では珍しくかぁっと頬を紅くした。
「ま、なんだかんだで高校生活は楽しませてもらったからな」
「……オレもそこは同意するよ」
「生徒会の連中でツルンでばっかだった気はするが」
「あれ、安形。それが楽しかったんじゃなかったの?」
 調子を取り戻したように、くすっとミチルは笑う。脳裏に椿を始めとして、浅雛、美森の顔が蘇った。それから、横で笑っている彼が。
 体育館の壁には、一つずつ足型が増えていく。自分たちがここにいた証だ。
「そう言えば、三年生を送る会で椿ちゃんたち、演劇するらしいねー」
「なにィ? だからお前はなんで一人で知ってんだよ」
「ま、いろいろとあるんだよ」
 ミチルは片目を瞑った。周囲の女の子からの情報か、それとも、一人で行くなと言ったのに、生徒会室にでも通っているのだろうか。
「今日は行くのか?」
「今行っても練習の邪魔になるだろー」
 じろと睨むと、ミチルは前髪を弄りながらも正論を言うので、安形は黙った。
「あ、そういや、昨日言ってたCD、焼いておいたよ。取りに来る? 急ぎじゃなければ、明日にでも持ってくるけど」
「お前が忙しいんじゃねぇのか?」
「オレ? あぁ、女の子たちの呼び出しが多くて、大忙しだ」
 ミチルは軽く肩を竦めたが、面倒だとは全く思っていないのだろうことは表情を見なくても付き合いで分かる。一つ一つ断るだけの、面倒な手間じゃないだろうかと安形なんかは思ってしまうが、ミチルはそれを苦だと思っていない。そういうところがモテる要素なのだろう。安形には土台無理である。
「そういや椿が、榛葉さんは恋人を作らないんですね、だとか言ってたぜ」
「あぁ、ソレ聞かれたね。やー、まさか椿ちゃんがそういうこと言うとは思わなかったから、ビックリしちゃって」
 なるほど椿が言った安形と同じような反応だったのだろう。あははと笑うミチルの声を聞いていると、お兄ちゃんも彼女とか作ればいいじゃない、と叫んだ昨晩の紗綾の声がふと蘇った。ミチルのように、日頃から多数人に想いを向けられている人間ならばともかく、通常、作ろうと思って作れるようなものではないだろう。
「作んねぇんだな」
 ミチルはぱちりと数回、瞬きした。
「オレが女の子一人を選んだら、他の女の子たち皆が泣くことになるだろ?」
 そういうのは戴けないな、とミチルはいつもの爽やかな笑顔を浮かべる。そんなもんか、と安形が首を傾げると、あはは、と声を出して彼は笑った。
(んなこと言ってたら、いつまで経っても彼女出来ねぇんじゃねぇか?)
 そう言ってやったところで、ミチルが「じゃあ彼女作ろうかなー」などと言うとは思えなかったので、安形はその疑問を口に出さずに内に留めた。
「お前がいいんなら、帰りに寄るわ」
「構わないよ。帰りはえーと……三人に呼ばれてるから、それが終わったらで」
 さらりと綺麗な笑みで言われて、安形は再度黙る。相変わらずのモテっぷりだ。
「ラブレターが下駄箱から溢れ返るなんて物語の中だけだと思ったけど、そうでもないもんだなぁって最近思うよ。ま、時期的な問題だろうけど。あぁ、普段からラブレターは結構貰うんだけど、さすがに毎日、溢れるほどはないからね」
 本当にこの友人は変わらない。どこが良いのだかとは思わないが、どこをどうしたらそれだけモテるのか。しかしながら、この自慢も聞き慣れているから流せるのではなく、ミチルが言うと、もうなんだかさして嫌味に聞こえないという理由もあった。
「でもオレとしては、去ってしまう前にせめて気持ちを伝えたい、なんて考えるの、もったいないと思うね」
「もったいない――、ね」
 ミチルのファンクラブだか親衛隊だか安形も実態は良く知らないシンバルズ、そして以前にミチルの為に厄介な事件を引き起こしてしまい、最終的に彼に告白した由比のことを考えてみると、ミチルが女子に対して非常に公正公平な態度を取るということは広く広く知れているらしいし、告白を受けては貰えないけれど最後にどうしても、という未練があってもおかしくはないように思う。彼の言葉ではないが、全体として見て『ミチルが魅力的であることが理由である』というのはやはり間違いではないのだ。たとえ友人であっても、そう考えるのは些か複雑だが。
 ただ、安形にはどうしても、ミチルの女子に対する公平さを保つためにクック・シェル事件のような極端な行動を起こすということについては、些かも納得出来ない。真相は確かに、恋する乙女のいじましい想いだったのかも知れないが、少なからずミチルは傷付いていた。それでも、女の子のしたことならそれも構わないと彼は笑う。
「取り敢えず、教室で待っててよ。寝ててもいいからさ」
「殴って起こすなよ……?」
「穏便な手段で起きてくれるならな」
 腕力はないが、寝ているところを殴られればさしもの安形だって痛いと思う。普段は安形が寝ていても構わないというスタンスだから滅多にはされないが、寝ていられると困るという時にはミチルは案外、容赦がないのだ。

「あ、安形! 今帰るところ?」
 靴を履き替えようとしていたところを呼び止められて、安形は鷹揚に声の方へと振り返る。ミチルは相変わらず爽やかな笑みを浮かべて、こちらに手を振った。
「五分……いや十分かな。待っててくれるなら、一緒に帰りたいんだけど」
「構わねぇけど、また呼び出しか?」
 ミチルは、見れば女の子たちが黄色い声援を上げるだろう笑顔で頷いた。そのまま昇降口を素通りして、廊下の向こうに歩いていく。
「十分な」
 腕時計を見ながら、女の子にはとにかく優しいミチルのことだ、もしかしたらそれより時間が掛かるかも知れないと思った。あまり遅ければ、気にせず帰っても良さそうだ。下駄箱に背を預けて生徒が横切っていく廊下を何となく眺めていた。
「――ミモリン?」
 見ていると、見知った女子生徒が横切った。おーいミモリン、と安形が手を振ると、こちらに気付いた美森は足を止めて、まあ、と右手で口を覆った。
「お久しぶりですわ、安形会長」
「おう、元気そうだな、ミモリン」
 美森は品のあるにこやかな笑顔で頷き、これから生徒会室に向かうところだと教えてくれた。
「そういえば、安形会長は生徒会室にあまりいらっしゃらないのですね」
「まぁ、いろいろあってな」
 妹のことで頭がいっぱいだったので、その他のことに手が回らなかったというのが真相だが、何も知らない美森にわざわざ言って聞かせるようなことでもない。
「椿くんもデージーちゃんも、安形会長が来てくださればきっと喜びますのに……」
「オレのこたぁいんだよ。お前らはお前らで仲良くやってんだろ? 新しく入ったのは加藤と宇佐見だったか?」
 その名前を聞くと、美森は嬉しそうに頷いた。
「去ってくヤツらが来ても、邪魔んなるだけなんだよ、ミモリン」
「……そんな。淋しいですわ」
「ありがとな」
 俯いた美森だったが、切り替えたように顔を上げて微笑んだ。
「劇やるんだって?」
「まあ、安形会長もご存知でしたの?」
「つーかミモリン、会長はもうオレじゃなくて椿だろ」
「ふふ、そうですわね」
 改める気もなさそうに美森は笑う。
「ミチルから聞いたんだよ。今日も練習か?」
「榛葉さんが……そういえば、生徒会室にも何度か来ていましたわ」
「ったく、アイツも水臭ぇんだよな。行くんならオレも呼んでくれりゃあいいってのに」
 あらあらまあまあと、美森は口元に右手を寄せたまま微笑む。
「お二人はあまり会っていなかったんですの?」
「クラスも違うからな」
「てっきり、安形会長と榛葉さんは一緒にいるものだとばかり思っていましたわ」
「生徒会関連ならそうだろうけどな。普段から一緒ってわけでもねぇって。ミモリンだってそうだろ?」
「あら、私、デージーちゃんとは普段から良く会っていますわよ?」
 それは何だか意外だなと安形は思った。おっとりしている美森と冷静で切れ者な浅雛とは、生徒会の女子二人として仲が良いとは思っていたが、基本的には接点がなさそうだ。見ていると性格が違っても、仲良くやっているものだとは思ったが、女子の結束というものは思うより深いものなのかも知れない。
(女の子ってのなら違うか)
 クラスが同じだった一年のころは、だいたいミチルが横にいたような気もするが、クラスも違えばどこまでも一緒というわけにはいかない。
「つっても、生徒会室に行きゃ、嫌でも顔合わせてたからな、オレとミチルは」
「そうですわね」
 生徒会室に行けば、椿も美森も浅雛もいつでもいるものだと思っていたし、毎日のように会っていた。だから、それ以外で探す必要もない。ミチルも基本的には同じ存在だ。生徒会室で同じ過ごし、仕事を切り上げて同時に帰るときは並んで歩いて帰る。生徒会を引退すれば、そういう有り触れた日常も緩やかに終息する。
「私そろそろ行きませんと……安形会長はどなたかお待ちなんですの?」
「ん? あぁ、ミチルだよ。さっき会って、今は呼び出されてるとこっつーか」
「まあ。榛葉さんも変わりませんのね」
 ふふっと美森は笑みを浮かべた。ミチルが校内一モテるということは、生徒会役員の中でも広く知れていることだ。
「そうですわ。これから榛葉さんにお会いするのでしたら、一つ、お願いがあって」
 美森は持っていたノートの中から、白い封筒を取り出した。
「なんだ……ラブレターでも書いたのか、ミモリン?」
 ガチンコ・ビバゲー・バトルでの美森を思わず思い出してしまった。ミチルは珍しくないとは言うものの、普通の男子高生ならば可愛い女の子からのラブレターは思わず胸をときめかせてしまう代物だ。確かに、美森なら中身は小切手になるのだろうが。千年の夢も覚めてしまいそうなお嬢様ぶりが、逆に美森らしい。
「私ではありませんわ。クラスの人に頼まれたんですの。榛葉さんに渡して欲しい、と」
 橋渡しのようなことを頼まれるのは珍しくない。安形も中学のころから、呼び出されればミチル目当ての女の子だったという経験は数知れず、ラブレターにプレゼントと頼まれてきたが、律儀な美森とは違い、頼まれるたびに面倒だと一蹴してきている。しかし、いつ会えるか分からないのでお願い出来ないだろうか、と可愛い後輩に言われれば、面倒臭がりの安形とて無碍には断れない。どうせすぐに会うことになるのだし。
「わかったぜ、ミモリン。ちゃんとミチルに渡しといてやるから」
「ありがとうございます、安形会長」
 お礼はおいくらほどにいたしましょうか、と邪気のない微笑みで言われたので、やはり美森は美森だなと頷いてしまった。礼なんていらねぇよと笑い飛ばすと、美森は「そうなんです?」と、ことりと首を傾げた。
 去っていく美森の背を見ながら、悪意は全くないがお金を使い過ぎるところがやはり彼女の性格的な問題だな、と思う。浅雛のように「MMK(持つべきものは金)」と割り切ってしまえば、それはそれで良いのかも知れないが。
(しっかし遅いな)
 その浅雛曰く「ZFA(残念なふわふわ頭)」ことミチルは、中々戻ってこない。腕時計を確認すると、そろそろ待たされて十五分は経過しようとしていた。と、そこで友人がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。安形が遅ぇじゃねぇかと言おうとすると、後ろから走ってきた女子生徒に呼び止められて、ミチルはまた振り返ってしまう。慌てて安形は窓際で談笑でも始めそうなミチルを呼び止めた。
「おいてめぇ、ミチル。いつまで待たせる気だ。先帰っぞ」
 あぁごめんね、と女子生徒に甘い笑顔で手を振って、悪びれない様子でこちらに向き変える。
「ごめんごめん、安形。戻ろうとしたらもう一人呼び止められちゃって」
「お前どんだけモテてんだよ」
「仕方ないよ、すべてはオレが魅力的過ぎるのが原因だからね」
 ふっと髪を掻き上げて笑う。彼に親しい男友達が殆どいない理由は、間違いなくコレの所為だ。大体合っているので、やっぱり反論出来ないのも問題なのである。
「あれ、安形どうしたのそれ。ラブレター?」
 珍しいね、と嫌味でも何でもなく、本心からミチルは言う。
「お前にだってよ。さっきミモリンと会ったら、クラスメイトから渡しといてくれって頼まれたってな」
「ミモリンが?」
 受け取ったミチルは、裏のハートマークのシールを躊躇なく剥がすと、中の便箋を取り出した。じっと、真剣な面持ちで便箋に目を通す。普段の甘やかな笑顔もさることながら、真面目そうにしているとまた絵になるというのは、正しくイケメンだからだろう。線の細さ、物腰の柔らかさが滲み出る優しげな瞳、華奢だが上背はあり、足も長い。ふわふわの茶髪は手入れが良いらしく、そんじょそこらの女子よりも艷めいている。改めて見ると、全く眉目秀麗なので、揶揄するような言葉は欠片も浮かんでこない。誰が見ても見蕩れてしまうような、綺麗な容姿。
「あれっ、この手紙……」
 ぱっとミチルが顔を上げたので、薄茶の瞳と目が合った。
「どうかしたの、安形? ラブレターが羨ましかった?」
「違ぇよ。なんだ、手紙がどうしたって」
「うん。この手紙だけど、差出人の名前がないんだよ」
 ミチルは封筒の両面を見て、便箋にも名前がない、と困ったように眉を下げた。
「別にいいんじゃねぇのか?」
「良くないだろ。わざわざ書いて送ってくれたんだから。ミモリンだって、頼まれた手前があるし」
 そうだ安形、とミチルは便箋を封筒に仕舞いながら、笑みを浮かべた。
「返事、ミモリンに伝えておいてよ」
「なんでオレが」
「ミモリンに頼まれたのは安形だろー?」
 それはそうなのだが、伝言ゲームではあるまい、再び安形を介する必要はないはずだ。
「手紙をくれてありがとう。君みたいな優しい子に好かれるのはとてもうれしいけれど、オレは、君の気持ちに応えることはできない。ごめんね。素敵な相手を見付けて幸せになれることを祈っています」
 朗々と言って、ミチルは笑った。
「安形なら覚えられるだろ? それじゃ、ミモリンには頼んだからね」
 さあ帰ろうかとミチルは壁から背を離した。細い背中がすっと前を横切る。
「――ミチル」
「ん、なに?」
 呼び止めてから、どうして呼び止めてしまったのだろうかと自分で疑問に思った。
「いや、なんでもねぇ。帰るぞ」
 変な安形、とミチルは笑う。

 時間があるからとミチルは安形の家に寄っていった。以前に紗綾が何か作ってくれと言ったのを、律儀に覚えていてくれたらしい。
「スイーツがいいと思って、材料も用意してきたから」
「お前も細けぇのな」
「いい材料を使わないと、本当に美味しいものは出来ないからね」
 きらきらとした笑みを浮かべてそれだけのことを言えるのも、料理の腕があってこそだろう。酢の物すら信じられないくらいに美味しいものが出てくるのだから、昔から彼の調理実習の時間などは修羅場だった。女の子は押し寄せてくるし、ミチルはミチルで全員分用意しようとするのだから、最早授業にならないのである。あまりの惨状に、以降、彼は調理実習の時は手を出さないようにと教師に言われてしまった。しかし元来料理好きのミチルは、高校では家庭科の授業もないため、自慢の腕を振るう機会が少なかったことを残念がっているようでもあった。
「サーヤちゃん、苦手なものなかったよね? 安形も食べられないものはなかったと思うけど」
「なんか知らんが、甘いものならだいたい食えるだろ」
「女の子だからね」
 マザーグースの歌詞にある「女の子は甘いもので出来ている」的なことを、本気でミチルは思っているようだ。安形は兄馬鹿ではあるが、紗綾が砂糖菓子のようだとはさすがに思わない。現実の女子というものは、ミチルの思うほど可愛くて綺麗なものでもないだろう。そんなことをぽわっと思っているミチルこそ、お砂糖菓子のような存在だ。
「なんだ、サーヤちゃんもやっぱり年頃だねー」
 リビングでブレザーを脱いでいたミチルは、テーブルに置かれた雑誌に目を留めると、くすりと笑った。ファッション誌のようだが、以前に見たものとは異なっている。付箋がぺたりと貼ってあったので、安形が何気なく開こうとすると、ちょっと安形、とミチルが止めに入った。
「なんだよ、ミチル。どんなとこ見てんのか気になるだろーが」
「そういうのはプライベートなことだろ。いくら家族でも、見て欲しい領域とか女の子には」
「めんどくせぇ。置きっ放しにすんのがワリィんだよ」
 開いたページは白黒刷りで、ミチルは額に手を当てて溜息を吐いた。安形もデリカシーがないんだから、と頭を振っている。
「気になる相手の恋愛チャート……」
 脳裏に赤いツノのような帽子を被った男――藤崎佑助の顔が過ぎった。
「安形、顔引き攣ってるよ」
 どれどれ、とミチルも手元を覗き込んでくる。
「恋かなと思ったら? ふーん、当てはまる項目にチェックするんだね。さすがにチェックマークは入ってないみたいだけど。えーと、なになに、『相手のことばかり考えている』『つい相手を目で追ってしまっている』か。ふーん、結構ベタな診断だ」
「ベタとかあんのか?」
「お、こんなのもある。『気付くと相手の傍にいる』『相手の夢を見たことがある』それから、『相手の良いところを五つ以上すぐに言える』とか」
 良いところね、と何気なく考えた。顔を上げると、ミチルはこちらを見て微笑んでいる。
「ベタって言うかね、こういう診断は項目自体に意味はないんだ」
 雑誌を取り上げると、次からは勝手に覗いたりするなよ、と自分のことは棚に上げたように言う。
「どういう意味だ?」
「だから、そういうものに当て嵌めている時点で、大抵、心は決まってるんだよ」
 持参したトートバッグを手に、しばらく邪魔しないでね、とミチルはキッチンに入っていった。邪魔するつもりなど毛頭ないのだが、キッチンに近付いただけで、ミチルには睨み付けられた。そんなに、エレガント・クッキングでのことを恨んでいるだろうか。後で聞いたところによると、ミチルの嫌いな物に『アサリの酒蒸し』が入ったというのだから、怒っているらしいことは知っていたのだが。
 そうは言っても手持ち無沙汰だ。廊下から様子を見ていると、さすがに気になったのか、アルコール厳禁が守れるなら後ろにいても良い、との許可が得られた。
「なに作んだ?」
「カップケーキだよ。基本は簡単だし、デコレーションすれば可愛くも出来るからね」
 ミチルは軽くウインクしたが、誰かへのプレゼントでもないものにデコレーションとは、やけに手間が掛かっている。
「食うのサーヤだぞ……?」
 それが、とミチルは手際良く動きながら、済ました顔を見せる。少し前ならば、サーヤが好きだからか、などと食って掛かったかも知れないが、それがミチルの性分だということは、安形が一番良く知っていた。こと料理と女子が絡んだことには手を抜かない。
(だからモテんだろうな)
 何事も面倒だと言っていれば、寄り付く人間も少ない。生徒会長として人望があればそれで十分だと考える安形とは、根本から違っているのだ。昔から天才と囃された安形は、人の心なんて簡単にコントロール出来るし、心を読むのもさして難しくはなかった。器用だという意味ではミチルも似ている。見ていると男女問わず惹き込まれる端麗な容姿と甘い笑顔に加えてフェミニストな性格で常に女子からモテているとあれば、やっかみも多そうなものだが、器用に立ち回っている。昔から、ちやほやされてばかりいるのを見てきていた。
 彼とは性格的にどこが合っているのか、ということを突き詰めて考えたことはないが、ミチルは安形の知る限りは唯一、容易にコントロール出来ない存在でもある。
「手伝いたいの?」
 じっと見ているのを、何かしたいと思ったらしく、ミチルは苦笑交じりに首を傾げた。
「エプロン着用」
「お、おう」
 エプロンなど付けるのは、それこそミチルと浅雛と出た件のテレビ番組エレガント・クッキング以来だ。どこに仕舞ったかと安形が探す間も、ミチルは手を休めない。
「バタークリームを作るから、そっちのテーブルのバターと粉砂糖、混ぜてくれる?」
 力仕事だから安形に向いてるよ、とミチルはふわふわ笑った。掻き混ぜるくらいならエプロンはいらないのではないかと思ったが、ミチルがじっと見ていたので、椅子に掛けてあった黒いエプロンを適当に掴んだ。
「普段からこんなもん作ってんのか」
 どう考えても、普通に男子高生がおやつにするようなものではない。疑問に思って尋ねればやはり、人にあげるときに重宝するから、と返ってきた。混ぜながら、バタークリームなんて美味しいのだろうかとふと疑問に思い、混ざってきたのを見計らって人差し指で少し拝借すると、目敏く見ていたミチルに睨まれた。摘み食いなんて子供か、と。
(料理上手、容姿端麗、優しくて面倒見が良い)
 それから歌が上手くて。
「安形、混ぜ終わったらオレが少しずつ牛乳を加えるから、混ぜてって」
「ん、あぁ」
 ミチルは薄茶の髪をさらりと耳に掛けると、計量カップに入っている牛乳を安形の混ぜていたボウルに少し加えた。
「安形? ほら、早く混ぜてよ」
 近付くと仄かにコロンの良い香りがする。
「――五つか」
「おーい、安形?」
 首を振って安形は手早くクリームを混ぜる。混ざり切ったなと思うと、ミチルがまた牛乳を加えた。混ぜる。また牛乳が加えられる。それを何度か繰り返していると、オーブンが音を鳴らした。ミチルは残りの牛乳を全て加えると、型に入れられたカップケーキの生地をオーブンへと運ぶ。
「クリームも後は色付けくらいだし、焼けるまではちょっと休憩にしようか。手伝いどーも」
 少しは名誉挽回出来たかと思ってミチルを見れば、にこにこと笑っていた。

「安形、ほら安形、また寝て……」
 ソファに座ってうつらうつらとしていたところを、ミチルの声で起こされた。
「出来たのか?」
「ああ、完成。安形にも一個持ってきたから」
 しばらくリビングで雑談して時間を潰していたのだが、オーブンが鳴ったので、ミチルはデコレーションする、とキッチンに戻った。細かい作業だから安形はそっちで待ってて、と言われてソファに腰掛けていたところで、紅い夕焼けの眩しさに目を細めている内に、寝入ってしまったというところだ。
 渡されたのは薄茶のクリームが塗られたカップケーキだった。その色味はどことなく、ミチルの目の色に似ている。
「そっちはコーヒー風味にしてみたんだ」
 甘くて少しほろ苦い。カップケーキはふわふわで、クリームは滑らか。
「やっぱりうめーな」
「はは、そりゃどーも」
 素直に感想を言うと、ミチルはにこりと笑った。クッションをどかして、とすんとソファに腰を下ろす。
「……まだまだ寒いんだから、どこでも寝てると風邪引くぞ」
「かっかっか、んな心配してんの、おめーくらいだ」
「笑い事じゃないよ。もうオレは、面倒見てやれないんだから」
 何気なく言われた言葉は胸にすくっと刺さった。
「そうだ。カップケーキ、箱に詰めておいたから、サーヤちゃんに渡しておいてよ」
「もう帰んのか?」
「暗くなってきたからね」
 窓の外はいつの間にか、橙色が暮れてしまっていた。もう春だというのに、日が暮れるのは早い。
「送ってくか?」
 何気なく言うと、ミチルはカップケーキのクリームと同じ色の目を開いた。
「安形の口から珍しいなー。でも、途中で飽きた、面倒だって言われそうだから遠慮しとく」
 一人で平気、といつもの笑みを見せる。安形はすくっと立ち上がった彼を下から見上げて、さらさらと茶色の髪が揺れるのを黙って見ていた。

 パズルにしろテストの答案にしろ、答えを出すということは、さして難しいことではない。安形の頭の回転が人より早いからだということではなく、それは本質的に自分の中に眠っているものだからなのではないかと思う。
 送る会なんてされちゃうと出ていくことを意識させられるね、とミチルはほんの少し淋しげに言った。確かにそれは、いよいよ高校生活がもう終わってしまうのだということを安形にも突き付けている。
 いつでも遊びに来て欲しいという社交辞令も、いつでも会えるという単なる言葉も、どれも大きく意味を成すものではない。現実として、新たな生活が始まれば、それまでの関係は切れる。これからは、一人で始めねばならないのだ。そういうことを意識するのはまだ幼い証拠かも知れないが、逆に、自分にもそれだけの感傷ちっくな気持ちがあるのだと思えば悪いものではない。昔から、安形は達観しすぎている、と言われてきていた。自分でもそんなものだろうと定めていたけれど、子供らしい感情が残っていたのならば幸いだ。この所良く、ミチルに焼いて貰ったCDを部屋で聞いているといったような。
 別れを惜しんだことは少ない。今だって、学校から離れることを惜しんではいないのだと思う。そんな風に思いながら、卒業式も、答辞という大役も無事に終えた。ミチルには「どうなるかと思った」と最後まで心配されたが、恐らく、元々用意していた紙を見せた方が卒倒していただろう。アドリブは得意な方だし、あの場は勢いで喋ってそれで良かった。最後まで行き当たりばったりな高校生活だ。世話になったとミチルには言ったが、逆に、こっちこそ、と返されてしまった。
 新しい生徒会のメンバーとスケット団にまで一言ずつ貰い、これでハレの日を無事に終えられると思って振り返ってミチルを見れば、大号泣していた。先ほど、安形が初めて喋ったという忍者とは既に知った仲といった様子で会話しており、一体全体どういうことだとギョッとしたものだが、いつの間にこんなことになってしまったのだろうか。
「ミチルー、おいミチル。いつまで泣いてんだ」
 彼は校門のまだ蕾しか付けていない桜の木の下で、あうあうと泣きながら何かを訴えるように言うのだが、最早言語として成っていないので、なにを言っているのか安形にもさっぱり理解出来ない。この所為で、榛葉さんは胴上げするの無理ですね、と椿に苦笑いされてしまったほどだ。壇上で涙を見せた彼も、今はもう涙を見せていない。
「その……榛葉さん、ボクが何か言う前からこの調子なんです」
 椿はしゃがみ込んでいる彼に聞こえないように、安形にこそりと耳打ちした。
「安形会長と私たちが話しているのを見て、感極まってしまったみたいですわ」
 ふふ、と美森が微笑む。
「NFA(泣き虫ふわふわ頭)」
「あら、デージーちゃんだって」
 目元のまだ紅い浅雛は、美森の言葉にふいと顔を背けた。
 まだ泣き止んでくれそうにないミチルをこのまま放っておく訳にはいかないし、仮にも学園の貴公子だ。こんな姿を女子が見たらどうなるのか、あまり想像したくない。
「しゃあねぇ。落ち着くまでどっか避難してるか……椿、生徒会室借りっぞ」
「あっはい、分かりました」
「んじゃ、人入れんなよ」
「了解です」
 背筋を伸ばした椿は、まるでなにか任を受けたかのように真面目な表情で頷いた。
 ほら、と腕を貸すと、なんとかそれに掴まってくれたので、やっぱり言語らしいものを発せていないミチルを引っ張るように校舎の中に戻っていった。どうやら、止んだと思うとまたぞろ涙が溢れてくるらしい。酩酊状態ではないが、彼自身ではもう手の施しようもないのだろう。
「あう、あ……あがたぁ……うう」
 やっと名前だけ聞き取れたが、後はまた、あうあう言うばかりになってしまった。執行部室に入るのもこれが最後なのだろうかと考えながら(最後が泣き虫のお守りになるなんて全く想像していなかったのだが)、安形はドアを開く。懐かしい光景がフラッシュバックした。安形が一番奥の椅子に座っていて、椿と浅雛が並び、反対側に美森とミチル。それが瞬時に、今の光景に刷新された。奥に難しい顔で座っているのは椿。浅雛と美森の他に、加藤と宇佐見が並ぶ。目を凝らしてみれば、誰もいない空の生徒会室しかそこにはなかった。
 椅子に座らせようとしたが、首を横に振ったミチルは部屋の隅にぺたんと座り込んだ。卒業生も在校生も誰も、校舎には残っていない。騒がしい声は外側にだけあって、静まり返った部屋の中で、喋らなくなった彼がぐすぐすと鼻を鳴らす音だけが響く。どうしたものかと思って、昔泣き虫だった妹にしてあげたみたいに、屈んで軽く頭を撫でてみるとミチルは少し顔を上げて、泣き濡れた瞳でこちらを見た。それもすぐにへにゃりと崩れて、ぺたぺたと泣き戻ってしまう。
(こんだけ泣き虫の癖に、盾ってな)
 彼の作った歌は、なんだかんだで優しくて好きだった。彼の作った料理はどれも好きだった。なにもかもを思い出している。傍でいつもにこにことしていた。
「ミチル、面倒だから一回しか言わねぇぞ」
 多分、答えはずっと前から出ていた。気付かなくても良い、と奥深くに眠らせていただけ。
 彼女なんていらない。学校というものに未練はない。
「愛してる」
 色素の薄い目が、真っ直ぐにこちらを見た。右目の涙を拭ってやると、一瞬だけ涙は止まったように見えたが、またぼろぼろと大粒の涙が溢れる。涙を止める効果がある言葉だったのかと問われるとそうでもないのかも知れないが、更に泣くことはないだろう。それでも、拒絶されている訳でないらしいことは、掴まれた腕から察せられる。
(違うな)
 ちゃんと考えさえすれば難しくない。少し深呼吸して、今までのことを思い返してみれば、ミチルがなにも言わなくても、もう一瞬で理解出来た。彼が誰か女の子一人を選ばずにずっと安形の横で笑っていたのは、とどのつまり自分と同じだからだ。そしてそのことは、安形が観測した限り、本人も気付いていなかったのだろうと思われた。
 顔を近付けると、か細い声で「安形」と呟いた。綺麗な香りがする。唇を重ねると、涙の所為か少ししょっぱかった。まだ泣いているミチルの頭を抱きかかえて、ああもう思いっ切り泣いてろ、と苦笑いして告げる。多分今彼が泣いているのは、安形と離れるのが淋しいからというだけではない。好きだから離れたくないとか、そういう感情で泣き喚いているのではない。大きく感傷を持て余しているだけだ。安形がここ最近、ずっと振り返ってきたみたいなことを、今更、涙と共に流している。

 散々泣いて泣いて、泣き疲れてミチルは眠ってしまった。彼の方が寝ているのは珍しいな、と思いながら、肩に凭れ掛かる安らかな笑顔を見詰める。目元はすっかり紅いし、これでは目が覚めても当分は外に出せそうにない。
「お前も、なんだっけか? 『恋心を読み解く魔術師ー』とか自分で言うくらいなら、気付いてくれりゃいいものを」
 その言葉は、IQ160で人の心理を読み解くのが得意だと思っている自分自身にもそっくり当て嵌まることなのだが、眠っているのをいいことに責任転嫁を試みてみる。今考えると、自分で魔術師だとかマジックフラワーとか言ってるのも可愛く思えてくるので怖い。
「ミチルー、オレ、退屈なんだけど」
「ん……」
 わざとらしく耳元で声を出すと、ミチルは瞼をうっすらと開けた。
「……あがた」
「おう」
 良くあれだけ泣けるな、と言ってやろうかと思ったが、あんまりデリカシーないことを言うのも悪いかと、珍しく安形は気を使った。かと言って、この沈黙は気不味いというか気恥ずかしいというか、とにかく避けたい。話題を探して、前に話していたことを思い出す。
「――前にお前、もったいないっつったろ」
「いつの話……?」
「ほら、去ってく前にせめて、ってヤツだよ」
 ミチルはことんと首を傾げたが、すぐに合点がいったように、ああ、と頷いた。
「もったいねぇなって今更思ったわ。ほら、オレらせっかく生徒会室が使えた訳だしよ」
「使えた?」
「それに、保健室ってのもアリだったよなぁ」
 ぽかんとしたミチルが、その意図するところに気付いて顔を紅くした。
「安形ッ!」
「かっかっか」
「椿ちゃんが聞いたら卒倒しそうだな……」
 ミチルは額に手を当てた。
「そういや椿に、ここ人入れんなっつっといたな」
「えっ、どうしてそんなこと」
「おめーがわんわん泣いてたからだろーが」
「あ、ああ……そうか」
 呻くように呟いて、ミチルはポケットを探ると手鏡を取り出した。それを見て苦い顔に変わる。
「いいやもう。こんな顔で女の子たちの前には出られないし、暗くなるまでここにいるよ」
 安形はどうする、とミチルは鏡を仕舞ってこちらを見た。
「決まってんだろーが」
「あ、面倒だから先に帰る?」
「なぁに言ってんだ。泣き腫らして目が真っ赤ーなーんてカワイイミチルを置いて帰れっか」
「かッ、かわ……!?」
 やれ美形だイケメンだとは言われ慣れているだろうが、さすがに可愛いとまでは言われ慣れていないだろう。焦った反応もまた可愛らしくて良かったので、頭をくしゃりと撫でた。
「ま、もう少し早く気付いてりゃ、別の楽しみ方もあったろうけど、んなこたぁどーでもいいってことだ」
 いずれにせよ高校時代を楽しく過ごせたのだから、悔いはない。不満もない。未練もない。これからもミチルが傍にいてくれるなら、それだけで他に望むことはない。そうだろ、と隣に笑うと、ミチルは瞬きした。
「安形、すきだよ」
 言い忘れていたみたいにミチルはすっと言って、いつも安形が見ていた綺麗な笑顔を浮かべた。

初めて書いた安榛、そして基礎になってる安榛 最後まで無自覚だっただけの両想いなんじゃねって思って考えだしたのが私の始まりだった…… Aegisが好き