彼の誕生日は金木犀の香と共にある。山吹色の小さな小さな花が木に咲き誇るのを見るに先立ち、玄関を出た途端にふわりと漂ってくる甘い香りに安形はその花の開花を知り、その甘さに、最も親しい友人のことを思い出していた。彼岸も過ぎて夏らしさを失った初秋の頃合いがミチルの誕生日だ。
誕生日を生徒会で祝う習慣が出来上がったのは先の代である。生徒会役員のプロフィールは最初に確認があるため、安形の誕生日もミチルの誕生日も、先輩方三人の誕生日もすぐに頭の中に入れられた。加入した時点で誕生日の過ぎていたミチルとは対照的に、安形の誕生日はちょうど目前に迫っており、何の気もなしに新條が「安形はもうすぐ誕生日なのか」と言ってしまえば、誰もがその日を意識せざるを得なくなる。元より安形の誕生日を知り、祝ってくれていたミチルにとってはどちらでも構わないことであったのだろうが、それなりに律儀な生徒会役員の面々は、安形の誕生日には無難におめでとうの言葉をくれた。そうして、皆知っているならと、ミチルが誕生日ケーキを用意しておいてくれたのである。
一人にやってしまえば後は前へ倣え的に、生徒会室での祝い事は続く。安形の誕生日ケーキに味を占めた先輩方三人は、自分の誕生日にもミチルにケーキを焼いて欲しい、とささやかなプレゼントを後輩に強請った。ミチルはむしろうれしそうにその言葉には頷き、生徒会のカレンダーには忘れないようにと皆の誕生日が赤印で刻まれる。それをほとんど見ない安形が忘れても、ミチルが甘い香りを纏っているのを感じ取れば、もしかして今日ってなんかあったっけ、程度の記憶の喚起により、事を丁寧な友人に尋ねれば事態は把握出来るというもの。即ち安形惣司郎にとっては、ふんわり頭の友人の隣を離れると厄介ばかりであるということの一つの証明でもある。済し崩し的に行われる一種の誕生日会のメーンは、ミチルの焼いたケーキ。
(だからか)
安形は脳内での考えを纏め、放課後になってもちっとも手の空かない友人の方へと視線を送る。本日の開盟学園の主賓は榛葉道流である、と言われても頷けてしまうくらい、ミチルの周囲は騒がしかった。生徒会のカレンダーに、赤い丸印が描かれているのだかどうだか安形は知らないが、彼の誕生日は忘れていない。おめでとうとは日付の変わったときに言ったけれど、思えば生徒会室にケーキなんて用意されていないんじゃないかと思い至ったのが今朝のこと。メーンが出てくるはずがないのに、皆と同じように祝われることの有り得ない誕生日に、安形は新條と連絡を取った。今日はミチルの誕生日なんです、と。それを聞いた新條が、迂闊だった、と電話の向こうで苦渋の声を出した。今日は議題があったのに、とも。
朝は仕方ない、昼休みだってまだ仕方ないだろう。話すことも儘ならないミチルの姿を見ながら、安形は脳内で計った。いつならば良くて、いつならばダメなのか、明確な判断基準はない。ミチルは向けられる言葉のすべてに甘い笑みを浮かべて言葉を返し、渡される幾重にも連なるプレゼントにも一つずつ礼を言って受け取る。普段のモテるという光景が今日だけ特別に重なっているのだとしても、クラスメイトも溜息を零していた。恐らくは、畏敬の念といったものである。いつもは騒がない、興味のある素振りを見せない女子までもがちらちらとミチルを見ているのだから、その人気は底が知れない。どれだけの美人でも、心の奥底ではミチルを向いている可能性があるのではないか、と思わず勘繰ってしまう。安形が見る限り、普段は熱い眼差しを送っていない女子でも、五、六人はミチルのことばかり見ていた。彼女らも気があるのだ、と即断してしまっても問題はない。
「ミチル」
業を煮やして安形が声を掛けると、女子生徒の向こう側にいる安形の方をぱっと見て、ミチルは瞬きをした。
「あー、安形。あのさ」
言い難そうに軽く視線を落とす。端正な顔に茶色の睫毛が緩く影を投げた。この先の言葉を安形は容易に想定出来る。女の子の環の中に腕を突っ込んで、彼の細い腕を掴んだ。ぎょっとしたようにヘーゼルの目が揺れる。
「コイツは、今からオレが祝うんだよ」
ぽかん、と。周りの女の子たちが目を見開いた。ミチルも同じくらい瞳を丸くしている。
「生徒会で誕生日、祝ってんだよ」
ガシガシと頭を掻いて言えば、ああ、と周囲は胸を撫で下ろしたように笑った。ミチルだけまだ、目をぱちぱちと不思議そうにまばたきさせている。
「つーわけだから、ミチルは連れてく」
「生徒会じゃ仕方ないよねー」
「シンバさんおめでとう」
「プレゼント、机に置いておきますね」
「あっ私もー」
波が引いたようにさっと離れる彼女たちも、言って聞かない相手ではないのだ。そういう意味で、ミチルのファンというものは非常に慎ましやかである。安形、と複雑な声音でこちらを見るミチルとてそれはわかっていることだろうが、祝ってくれる厚意を無駄にしたくない、という気持ちが先に立つから断れないだけなのだろう。腕を離して「生徒会室行くぞ」と言えば、ミチルはこくりと頷いた。後ろから声援を浴びながらも、ぺたりと教室から出る。
「生徒会、サボる気か」
付いてきていることはちゃんとわかっているので振り向かずに言うと、駆け足のミチルはちょこんと隣に立って、軽く頬を膨らませた。
「嘘ついてまで行かせるか? 女の子たちに悪いことした」
「嘘なんてついてねぇよ」
「生徒会でお祝いなんて予定にないくせに」
残念だという意味合いではなくて、まるで子供が悪さしたのを咎めるような言い方をして、ミチルは笑う。
「あんだよ」
「え?」
「ケーキも会長が用意してっし」
「うそ!」
「カレンダにだって書いてあんだから、祝わない道理があるかってんだ」
横を見ると、ミチルは頬をほんのりと赤く染めて、蕩けるように甘い瞳を細めていた。学園のアイドルの滅多にない素の様子に気を良くした安形がくしゃりと頭を撫でると、うれしい、とますますミチルは相好を崩す。
(嘘はついてねぇ)
新條は手筈を整えたと言っていたし、榊は「安形にしては良くやったわね!」と褒めてるのか遠まわしに貶しているのか知れないメールを寄越している。相楽のことまでは知らないが、三人で同じように考えていることは知っているので問題ないだろう。生徒会室では愛する後輩を祝うべく、彼らが待ち構えているのだ。安形の言葉があったにしろ、祝う気持ちに偽りはない。
榛葉道流の誕生日を学園で知らない者がいたらモグリだ。数多のファンを抱えており、普段は表沙汰にしない隠れたファンも、普段は滅多なことでは派手に動いたりしないシンバルズも、この日ばかりはと彼に詰め寄ってくる。まだ親衛隊なんぞがいなかった中学の頃から高校に進学しても連綿と続くもはや一つの『イベント』なのだ。少なくとも安形はそう認識している。そのようなことがあってもなくても、安形は友人の誕生日を別に忘れるといったこともなかった。知った経緯は、中学時代のクラスの女子の騒ぎだったとは思うが。そして、かれこれずっと榛葉道流の誕生日というイベントを傍で見てきている。その日、安形が近付くのが非常に困難になるということも踏まえていた。
『あ、安形? ちょうど良かった、生徒会で使う資料のこと聞いておこうと思って――』
「十二時んなったな。誕生日おめでとさん。んじゃ明日、生徒会室で」
『早ッ! どんだけめんどくさいの!?』
切るなよ、と、じゃあ掛けるなよ、を同時にミチルは言って、吹き出した。
『はは、相変わらずだな、安形』
電話の向こうからは、コロコロと笑う声が響いている。耳慣れた響きだ。上述の通り、榛葉道流の明日は非常に多忙なのである。呼び出されればすべてに応じようというその姿勢に無理があるのだ、と安形がいくら言ったところで柳に風ではあるので言わないが、とかく朝だろうが休み時間だろうが昼休みだろうが容赦なく捕まらない。安形とて、貴重な友人の誕生日を無碍にしようとは思わないので、一言は声を掛けておこうと思うのだが、中学の頃なんかはまともに話もしていられない有様だった。探すのも捕まえるのも手間で面倒臭い。
(つってもコイツはマメだし)
向こうもこちらの誕生日なんてスルーしてしまうのであれば構わないだろうが、学園の貴公子にして非常に紳士的なミチルは、友人の誕生日でも決して疎かにはしない。ケーキを焼いて、簡単なプレゼントを用意しておいてくれるといった気配りを出会った当初から見せていた。性分だから、の一言で済ませてしまう。安形は繊細さとは縁もゆかりもないが、通り越しても気にしないで笑っているのを見ているのは、些か胸に迫るものがあるのだ。要するに安形は、捕まえる手間と主に自分の後の心労という名の面倒の二つを避ける為に、日付が変わった直後に彼に電話で祝辞を送ることにしている。直後という時間帯は、あまり夜更かしをしないというミチルの性質が原因だ。朝は安形の機嫌も悪いし、そもそも起きるのがミチルより遅い為、不可能だと自分で算出している。
『そっか。明日は、定例会議なしになるんだっけ』
忘れていた、とミチルは綺麗な声色で笑った。
「ケーキはミモリンに頼んであるぜ?」
『それは豪華になりそうだな』
腕によりをかけて作って貰いますわ、と安形の頼みに優雅な笑みを浮かべた後輩のことを思い出す。他の生徒会役員の為のケーキならばミチルが頼まずとも用意してくれるのだが(安形が他のメンバの誕生日を忘れていようともミチルが覚えていてくれるので問題ない)、彼自身の誕生日とあってはさすがに本人に頼む訳にもいかない。
「あー……まぁ、プレゼントとかはねぇけど」
『いいよ、別に。いつも貰ってないだろ』
自分は用意していても、相手にはそれを求めない。ミチルの性格というのは、あまり相手からの何かを求めないという部分にあるのではないかと思う。ケーキにしても、祝言にしても。
(女の子が喜ぶならそれで、だとか)
「何でも、欲しいモンとか頼みごととかあったら言えよ。一つくらいなら聞いてやる」
『安形が面倒でない範囲でね』
「さっすがミチル、分かってんな」
何でも、と言って本気で何でも好きなことを言い出す相手ではないので、安形も安心して言えるのだ。
『じゃあ、明日の帰り道は付き合ってよ』
「そんなんでいいのか?」
『ああ、十分だ。荷物が多くなるから一人だと大変だと思っていたところなんでね』
「……そういうことか」
面倒だろうけどね、とミチルはからりと笑って告げた。面倒で手が欲しいのは事実だろうが、ミチルはあまり欲がない。現状で十分に満足しているからではないか、と安形は見ている。最初からある程度兼ね備えているが故に不必要に欲することもないのだろうか。
『わざわざ電話くれてありがと。じゃ、おやすみ、安形』
それとも買っているのは心遣いだからなのか。あぁ、と安形が頷くと、ミチルはあっさりと通話を切った。彼の滑らかな声を聞くと、何となく安眠出来そうな気がする。そうだとしても翌朝にはきっと、ベッドから転がり落ちてしまうのだろうけれど。
美森の用意した豪華すぎるケーキを五人で分けて食べて、その日はもう解散となった。ただ雑談をしていただけなのに、日が暮れてしまうのは早くて、宵闇は空のもう、すぐ上に迫っている。ミチルの誕生日だというのに、ケーキを御馳走様でした、なんて言う椿に浅雛が「言うべきことはそれじゃないだろ」と睨み付けた。改めておめでとうございます、と美森が華やかに笑うのを見て、椿も慌てたように頭を下げて「おめでとうございます」と力強く言った。何度言われてもミチルはふわりと笑って、ありがとう、とばかり言って、何度も言ってどうすんだ、と安形がツッコミを入れてようやく、後輩たちは笑顔で去って行った。
「誕生日会、次でもう終わりだね」
ぬくりとした空気がむず痒くて安形が窓を開けると、どこからともなく花の香が漂う。そうだっただろうかと言葉の方は聞き流していると、ミチルはカレンダをぺらりと捲った。真ん中辺りに、赤い丸印がついている。十一月のカレンダは、自分たちがここで過ごす最後の月を示していた。
「安形が提案したとき、オレ、結構驚いたんだけど」
ミチルの誕生日だけは、済し崩しで祝っていたのとは違った。彼がケーキを用意するからそれに合わせてお祝いするという状況的な誕生日祝いではなく、安形が新條にそれと伝えたから祝うことが出来たのだ。それを捉えて、榊は「安形が榛葉くんの誕生日だからお祝いしようって言ったのよ」とミチルに教えたのである。それをそのまま頷くのも気恥ずかしいし、生徒会で誕生日くらいは祝ってやればいいだろ、とかなんとか言ったがために、以降、それが習慣となった。椿や美森、浅雛だけになっても、きっと習慣はなくならないだろう。ミチルのケーキの代わりがどうなるのか、それだけが少し気に掛かる。
「安形の誕生日も近いね」
「ケーキちゃんと焼いてこいよ」
「お安いご用! と言いたいところだけど、どこで食べればいいんだろうね」
やっぱり生徒会室にお邪魔しようかな、とミチルは柔らかく笑う。引退したばっかで揃って行くのも気不味くねぇか、と言えば、それもそうかも、とコロコロ笑った。
「持っていくのって意外と大変だから、どうせならうちに来てくれると助かるんだけど」
「どこでも構わねぇよ」
「じゃあ、放課後空けといて」
勉強とかする予定は? とミチルは首を傾げたが、すぐに首を振った。ミチルは苦い顔を浮かべる。
「東都大志望なのに、ホント余裕だよね、安形は」
「お前は、名教だったな」
「ああ、推薦でね」
ぱちりとミチルは片目を瞑った。開盟学園は私立高の中ではトップクラスというほどの、俗っぽく言えばレベルが高い学校ではないが、周辺高校に比べれば学力水準は高いし、指定校推薦も充実している。
安形も面倒だから推薦を受けようかと思ったこともあるが、担任教師はほんのちょっと打診しだだけでも「ダメだ」の一点張りだった。周囲の期待というものを安形も知らないではない。あまり公言はしないが、IQ160程度で、校内試験も学外の模試でも常に首位という輝かし過ぎる安形の功績を見れば、誰しも期待を寄せて然るべきだろう。ミチルのようにのほほんと「安形、相変わらずすごいな」と言っているだけの方が少ない。とは言え、果ては小学生くらいの頃から、安形の行く先は東都大学だろうと言われているのだ。こちらとて、その周囲の目を振り切ってまで為したいことがあるでもなし。本音を言えば、安形に人生の目標なんてものはないのだ。なりたいならどれにでもなれるだろう、と言われているだけ。強いて言えば、芸術的な方面は向いていないかなと思ったが、そちらに進みたいとも思っていない。
「専門じゃねぇのな」
「大学は出たかったから。それに、料理の道に進むかとか決まってないし、もう少し勉強しておきたいかなって。知識は邪魔にならないし」
ふーんと言うと、安形にはわからないかも、とミチルは軽く言って笑った。てっきり、街を歩いている内にスカウトでもされて読者モデルからアイドルへ、もしくはどこかの雑誌のオーディションに合格してテレビの世界に、なんて道でも歩むのかと思われたミチルだが、進路は至って平凡だ。できれば、そうはいない親しい友人がそういう手の届かないところに行ってしまわない方が有難いとか身勝手なことを思っていた安形としては、隣でふんわりと笑っているだけのミチルでいてくれて本当に良かったと思う。同じように、大学に進学しても傍にいてくれるのではないかと感じてしまっていた。
(そう、じゃない)
普段はさして気付かない、気に留めないことだ。時折、思い出したように思い出す。引退すれば生徒会室では会わない。卒業すれば、隣には誰もいない。
「安形、チョコレートの結構好きだったよな? チョコの生デコにしようかなぁ。いっそガトーショコラってのもありかな……オペラ、ザッハ・トルテも捨てがたい」
「気が早ぇよ、ミチル」
「あはは、そうだねー」
一人になるとか、傍からいなくなるとか、今の段階から考える必要はない。それは問題の先送りだと知っているけれど、意識せずにいつまで過ごせるのだろうかと思う。いっそ、他のことに感情を散らしてしまうのが良いのではないだろうか。例えば安形の後塵を拝す肩の力が入りすぎている後輩のこと。愛してやまぬ妹のこと。それから。
「……ミチル」
「なにー?」
ふわふわした笑顔でなにも望まない彼に。
(まだ声も手も、届くな)
勝手に頷いて紙袋を手にすると、大事に運んでね、とオーダが入った。
生徒会の子たちは誕生日祝いする習慣なのだろうかっていうのが気になって ハマった時期の関係で短くなってしまったごめんねミチル