いずれ生徒会長になりたい、と今の生徒会長に向けて安形は所信表明を行った。厳格な現生徒会長の新條は、同時に生徒会への入会を志したミチルに、二人が友人関係であるということを聞いて、お前はそれで良いと思っているのかと尋ねた。ミチルはそう言われることをまるで予期していなかったように、ヘーゼルの丸い瞳を瞬かせて、いいんじゃないでしょうか、と首を傾げた。問われたことの意味を解していない様子で。一を聞いて十を知る安形には、新條が言いたかったことというのはつまり、来期お前も生徒会長になりたいのであれば安形と張ることになるだろうがお前は安形が生徒会長で良いと思うのか、ということであるとすぐに分かった。そう言われて初めて、ミチルだって生徒会長になる権利があるのだと気付いた安形とは大違いだ。いずれにせよ、新二年生となる生徒会役員は、安形とミチルが入れば二人だけに決定し、去りゆく先輩たちを継いで生徒会長になるのは安形かミチルのいずれかに他ならないだろう。最初から決める必要はないだろうが、安形があえて言ったからこそ、新條はそう返したのである。ぽかんとしているミチルに、新條が言葉を噛み砕いて説明を施したところ、ミチルはいつもの通りふんわりとした笑顔で「もちろん、安形が会長に相応しいと思っています」とはっきり言い切った。そうして、オレはそれをサポートしますから、と言葉を続ける。ミチルというのは常に、安形にとってそういう存在だった。
そしてそのまま字が綺麗だからとミチルが書記に任じられ、安形は庶務の椅子に収まる。目の前で先ほどまでせっせと議事録を作っていたミチルは、今や爪切りに熱中していた。
「なにやってんだ、オメェは」
「指の手入れだけど? オレ、爪が伸びてるの嫌いなんだよねー。割れやすくなるし」
まだ終わらないの、と逆に問い掛けて、ミチルは小首を傾げた。
庶務の仕事としてのデスクワークは、特別にはない。引き継ぎもほとんどまともに行われなかった。ミチルは丁寧に教わっていたようではあるが、安形の方は野放しだ。と、思っていたところを、新條に呼び止められた。次期生徒会長となりたいのであれば、今から少しずつでも仕事を覚えておけ、と。厳格で真面目な生徒会長らしい発言だ。ここで先輩を突っ撥ねれば、次期会長は榛葉道流に回るかも知れない。割と真剣にそんなことを思ってしまった安形は、渋々、会長から渡された書類に目を通した。開始数分で寝息が立ったところをミチルが慌てて起こし、一向に終わらないその書類の確認作業に、他の先輩たちは、ミチルに安形が終わるまで見ているようにと言付けて、もう帰ってしまっている。そのミチルは、言われた仕事を既に終えて、自分の時間に割いているという状態だ。
「はー、めんどくせぇの。やっぱ生徒会長なんざ、やめときゃよかったか」
「そのセリフ、もう五回聞いたよ」
言うのも言うので面倒臭い。ミチルが蛍光灯に白くて細くて綺麗な指先を翳しているのをじっと見ていると、手を動かしなよ、と苦い顔を向けられた。仕方なしに書類に目を落とす。もうそろそろ、終わりは見えてきているのだが、そこからが面倒臭い。
(部活動の認可とか、んなもん適当でいいだろ……好きにやるだろうし)
部員は三名以上、顧問教師が必要。形式的に言えばそれだけで十分なものを、わざわざ活動内容等を確認するのは手間だ。それに、内容確認などされてしまえば、自由に部を設立することは儘ならない。かと言って、言い付けられた仕事を熟さなければ、あの眼鏡の会長の眉間に皺が寄るばかりだろう。
「オレとしては、安形がちゃんとやる気出してくれたことがうれしいんだけど」
でもやっぱり意外だったなあ、なんてミチルは楽しげに笑った。
「規則とか苦手ってイメージはあったけど、だったら最初から開盟選ばなければいいのに」
「家から近ぇ」
「あはは、安形らしい」
確かに、面倒事になりそうなことは事前回避がモットーな安形が、規則に引っ掛かるとか持ち物検査で引っ掛かるとか、そういうことはないかも知れない。単純に担任教師の物言いに腹が立ったというのもある。ミチルは、色素の薄い瞳と同じ飴色ちっくな緩くパーマの掛かる髪を揺らして笑っていた。彼の髪の色と質は地毛だ。中学の頃から問答無用で風紀検査で引っ掛かっては、染髪によるものではないことを証明することの連続で、規則に厳しい開盟学園に入るときも、「いっそ染めちゃおうかなあ」とぼやいていた。似合ってるのにもったいないと安形が言うと、オレもそう思うんだけど、と相変わらずのナルシストな発言が返されるのだが、黒髪のミチルは想像出来ないし、あまりしたくもない。たぶん、そういった発言も安形の中での理由には含まれているだろう。
「つうか、オメー、マニキュアなんか塗ってんのか?」
「違うよー、これは指先に塗るオイル。まあ、ベースコートは塗るけど」
「なんだそりゃ」
安形が肩を上げると、ミチルは顔を上げて安形の目をしっかりと捉えて、にっこり笑う。
「指は綺麗にしておかないと。女の子の肌や髪を傷付けたら困るだろ?」
言うほど接触も多くないくせに、と思ったが、へーへーと頷くに留める。安形もと言われたが、普段から女子が寄ってくるミチルならばまだしも、安形が女子に触るなんてことは滅多にないし、一々気にするつもりもない。
ミチルが指先の手入れを続けてくれているのは、いつまでも待っていてくれるということの証左に他ならない。先輩に言われたからとて、面倒だからと安形ならば放って帰るだろう。けれどミチルは、そんなことはしない。告げ口なんて、拗ねたときくらいにしか安形がしないということを知っていてもミチルはいなくならない。もう帰ってもいい、と安形が一言いってもきっと。
(だからって、別に言わねーけど)
彼がそれを真に受けて「じゃあ先に帰るね」なんて言い出したら、難だし。
「安形、ちゃんと爪切ってる?」
オイルだがコーティングだかはもう終わったのか、ミチルは爪に軽く息を吹き掛けて、こちらに微笑んだ。
「いンや」
「ああ、やっぱり。右手貸して」
請われるままに向かい側のデスクの上に右手を出すと、ミチルは形の良い眉を歪ませた。
「割れてる。綺麗に切ってないな」
「面倒なんだよ」
「女の子もそうだけどさ、自分でも肌が傷付くだろ」
ヤスリ掛けてあげるから、とミチルは机上に置かれた銀色のヤスリを取った。これでは仕事が捗らないのではないかと安形は思ったが、目は書類、とミチルは細かく指示する。けれど、ミチルの細っこくて少し温かい指先が、自分の指先に触っていて、真剣そうな榛色の瞳が真っ直ぐに注がれているのを見て、手元の書類に集中出来るほど、安形の感性は死んでいない。この状況で集中出来ないのは、責任の転嫁を行わずとも完全にミチルの所為。もういいや、と思って、磨かれていく自分の指に集中した。
「……良かったのか」
「なにが?」
「会長になんなくて」
「オレ、最初から会長になるつもりなんてなかったよ?」
じゃなきゃ安形にくっついていかない、とミチルはさらりと言う。
「安形がさー、生徒会に入るなんて言い出すから、どうなるかなって思ってたんだけど、なにかしらやろうと思って、それで高校生活を楽しめるならいいことだよ」
「んじゃ、言い方変えっか。付いてきてよかったのかって話だよ」
「変わってるの、それ?」
ミチルは手を止めると、また、円かな瞳を丸くする。
「答えは同じだよ」
はい完成、とミチルは手を離した。触れていた熱が消えて、指がひやっとする。生徒会に入ると言い出して、もう半年が過ぎた。その時、ミチルは、じゃあオレも入るよ、なんて笑ったりしてはいない。ただ、安形なにか部活入ったら、といった勧誘はその後なくなり、ミチル自身も、部活動を行う様子は見せなかった。たまに勉強を教えてと言い出すこともあったが、何事もなく、授業が終われば女の子に囲まれて、のんびり談笑して、安形と下校して、そういう繰り返しが続いていくうち、自然と、彼も生徒会に入るのだと安形は漠然と思った。そうすれば、放課後の誰かと談笑する時間がなくなってしまうとしても。今よりずっと忙しくなるとしても。生徒会役員募集のポスターを指さして、「安形、放課後、生徒会室に行こうか」と彼が笑うまで、確かめもしないのにそう思っていたし、結論的にそれは正解だった。
(綺麗に磨くモンだな)
返された右手を蛍光灯の乳白色に透かしていると、左手も、とミチルはにこにこ笑ったまま要求する。
「安形も手、カッコイイ形してるんだから、爪綺麗にしておきなって」
「はぁ? 手にんなモンあんのか?」
「あるある。オレはいっつも、手が綺麗だって言われるし」
それはわかると思ったが、ミチルの言う『いつも』は、女の子を指していることを知っているので黙った。
「せめて、爪は綺麗に切った方がいいって」
「めんどくせぇ。お前がやってくれるってんならいいけどよ」
「えー、毎度はオレだって嫌なんだけど」
丸くなった右手の爪を、左の腕に軽く立ててみたが、引っかからなかった。傷付けないという言葉は正しいらしい。
「でも、痛いのは安形だって嫌だろ?」
言われて考えてみる。ミチルはなにか言わずとも横か後ろにいてくれる。あまり腕を引っ張ったことすらないが、白く滑らかな肌は、安形よりよほど傷付き易いだろう。
「……ミチル、おめー、来年はどうするつもりだよ。また書記すんのか?」
「どうしたの、急に」
そうだなあ、とミチルは軽く目を閉じた。
「庶務にしようかな。庶務の仕事って、楽そうだし」
「副会長やれよ」
「えー、オレはそういうガラじゃないって。真面目な子が来てくれるといいんじゃない?」
普通に返答して、ってまだ先の話だろ、とミチルはおかしそうに笑った。
(傷付けるのは困るよな)
入学して半年、容姿端麗で紳士的な榛葉道流は、既に学園の女子にとってはアイドル的な存在として人気を博している。新條が気にしたのも、そうしたアイドル的なミチルがなぜ生徒会に加入したのかということと、目立つのが好きならば会長になりたいと思うのではないかということだったのではないだろうか。その内きっと、ミチルは学園中の女子を虜にしてしまう。そうした気質であることを、安形が一番良く知っているのだ。傍で見てきているから、どうして彼がモテるのか、手に取るように分かる。要約すれば、とてつもなく優しいから、かも知れないけれど。
(綺麗な顔に傷付けて怒られンのもな)
指先は気を付けよう。安形は肝に銘じる。
「安形、結局それ、終わりそうなの?」
左手を終えたミチルは席を立つと、安形の横で上から書類を覗き込んだ。
「あ、ココ、誤字だね。こっちは活動日が書いてない。書類不備って案外多いんだなー」
残り枚数も少ないながら、結局ミチルがあれこれと手伝いをしてくれて、ようやく終わらせる頃には、オレンジだった空の色が、紫紺に変わってしまっていた。空の端はまだ甘いグラデーションを残している。それを見ながら、遅くなっちゃったな、とミチルは微笑む。
「ワリィ」
「慣れてる」
でも次はもっと早くして欲しいかな、とミチルはふわふわ笑う。何十分何時間でも、いつまでだって、こうして傍にいてくれるみたいな顔で。
庶務形さんと書記チルかわいい