生徒会長となって半年弱、最上級学年となって数ヶ月も経過し、日常というものはすっかり自分の身に馴染んできた。いまだ、生徒会長として学園を代表するような人物に相応しくなれたとまでは自負できていないものの、生徒会執行部における仕事に関しては概ね順調。一時は生徒会内部でも不和や齟齬といったものを感じていたが、今ではそれも雲の彼方の出来事だ。副会長の丹生も書記の浅雛も、以前と変わらずに仕事に励んでくれているし、宇佐美とはまだ会話こそできないが、彼女も前述の女子二人には懐いているようだし、キリも従順に働いてくれる。校内のパトロールでも二人の手があれば捗っていた。四月以降は特に、椿を取り巻く周辺というのは安定していた。引退・卒業した二人の先輩にも十分に顔向けができる――そう思っていた矢先、卒業後、久しく顔を見ていない一人の先輩が開盟学園の校門前に立っていたのを見かけた、と、丹生が生徒会室に連れて戻ってきた。
「安形会長! どうなさったんですか!」
直後に会長、と若干嫌そうな顔をした後輩に背後から呼ばれた。ああそうだ、今はもう違うというのに、癖になってしまっている。椿は慌てて、安形さん、と言い直した。キリはそれを聞いて頷き、視線を丹生の連れてきた客人こと、安形惣司郎へと向ける。彼の眉間にはグッと皺が寄った。卒業式の際に初めて声を交わした二人だが、あのときも決して親しげに話していたのではない。キリ、と窘めるように言うと、彼はそっぽを向いて「ナニカヨウデスカ」と、外国人みたいなカタカナっぽい喋り方をした。
「サーヤに呼ばれてな」
サマになってんじゃねぇか、と会長椅子に座る椿をじっくり見て、安形は軽く笑った。
「せっかくですから、生徒会室にいらしてください、とお誘いしたんですわ」
「GJミモリン。お久しぶりです、安形さん」
安形には絶対の忠誠を誓っていた浅雛は、かつての上司の登場に気色ばんだ様子を見せた。感情の起伏が乏しい彼女ではあるが、うれしそうなのが見て取れる。微笑ましいものだな、などと思いながら見ていると、目線を左に移して睨まれた。おそらく、ボサッとしているな、とでも言いたいのだろう。たしかに、いつまでも扉の前に立たせっぱなしにしてしまっていたのはこちらの不手際だった。椿自身も、尊敬する先輩と久しぶりに邂逅できたことに、テンションが上がってしまっていたのだ。慌ててソファの方にでも、と手を差し向けると、安形はどっかりとソファに腰を下ろした。
「邪魔して悪かったな」
「いいえそんなまさか! お会いできてうれしいです。なあ、キリ?」
背後に話しかけてみたところで、またも不手際を自覚した。今度は即座に。
「はあ、まあ、そうですね。会長がそう仰るのであれば」
「いやボクが言うからどうこうではなく」
「……大学生って暇なのか?」
「キリ!」
「あーあー、気にすんなって、椿」
安形は右手をひらひらと払うように振った。丹生、浅雛の二人が歓迎ムードなのは見た通りだということで、残る相手に話を振ったわけなのだが、この中で唯一歓迎していないのだということを失念してしまった。
(いや違うな。まったく歓迎していないわけではない、と思ったというか)
考えてもみれば、安形や榛葉と一年を過ごしたのは自分たちだけであって、キリからすれば、自分とはあまり面識のない相手でしかないのだ。
(待て、もともと安形さんは生徒会長だぞ?)
置物だとは言われていたが、安形惣司郎は立派な生徒会長だった、と椿は思う。決して自分にとっての直接の先輩だからという贔屓目などではないはずだ。とは言っても、共通の話題の一つだってない二人を繋ぐのは点と点程度の接点でしかない。ここを、自分のホームだと考えるならば尚の事、キリにとってはそれは部外の存在であるのかも知れない。そして四人で会話が弾めば弾むほど、疎外感を受ける。宇佐美羽仁もいれば、疎外感が少しは薄らいだ可能性もあるのだが。
「そういや、もう一人はどうした? 宇佐美?」
丹生の入れた紅茶の香りが室内をふんわりと包む。安形は渡されたカップを右手に持ちながら、軽く、首を傾げた。
「ウサミは風邪で休みだ」
浅雛の眉が下がった。可愛いもの好きの浅雛には、椿にとって扱いにくい後輩だとしても、容貌も可愛く(と彼女が言う)素直な後輩は愛でるべき存在であるらしい。それが休みで、大層残念そうだ。
「季節の変わり目ですから、体調を崩しやすい時期みたいですわね」
「会長もお身体気を付けてください」
「あーハイハイ、ボクは健康には気を遣っているから平気だ」
心配性気味なキリの言葉は軽くスルーする。
「そういえば安形会長、サーヤちゃんとのお話を少し聞いてしまったのですけど、最近、風邪をひかれたという話は本当なんですの?」
「えっ、安形さんが!」
「健康が取り柄の安形さんが」
「いや失礼だろう浅雛」
「風邪を引いたなどと聞いたことがない」
KYJ(健康優良児)、とあまり略になっていない略語を用いて、浅雛は眼鏡のブリッジを押し上げた。蛍光灯に硝子が反射して光る。
「私も珍しいと思いまして」
おっとりと丹生は首を傾げる。
「いや、デージーの言う通りだ。ここんとこ風邪には縁がなかったんだが、さすがに雨に降られた所為だろうな」
「雨に!」
「傘を忘れたとか、ですか?」
「それとも、失恋したショックで雨に打たれた、とか」
全員が一斉に発言者の方へと目を向けた。浅雛は立てていた人差し指を再びブリッジに当てる。そして少し笑った。どうやら冗談を言ったつもりらしい。ガシャンと向こうのテーブルから乱雑な音が響く。見れば、安形が持っていたティーカップをソーサーの上に下ろしたときの衝撃音らしかった。
「あ、安形さん?」
今更気付いたが、今日の安形はやけに静かだ。らしくない。普段からそれほど多弁ではないにしても、妙に口が重い気がする。
「どうかしたんですの?」
「いンや、別に」
「なにか悩んでいることでも?」
「悩み事ねぇ……」
安形は頬杖をついた。尋常ではない様子に、もしやと思ってした質問ではあったが、案外、的を射ているのかも知れない。
(安形さんに悩み事?)
傲岸不遜でいつも寝てばかりいるが、頼れるどころか頼りになりすぎる頭脳明晰な天才、安形惣司郎に、悩み事。似合わない。なにで悩むというのか。
「熱出したときに看病して貰ったヤツに、なんか礼でもしたいと思ってんだけどよぉ」
「……看病の礼、ですか?」
生徒会の面々は、こぞって首を傾げた。妹のことか? と、唯一傾けていないキリが口にすると、安形は首を横に振った。
「サーヤなら考える必要ねぇだろ」
それはたしかにそうだ。妹のことではびっくりするほど取り乱す重症なシスタ・コンプレックスであるらしい、とは椿も知っていることだが、だからといって、兄妹で風邪の看病することくらい珍しくはないだろうし、悩むようなことではないと推測される。
「じゃあ、アンタ、なにに悩んでるんだ?」
キリ、と再び窘めても、彼はまっすぐに安形の方を見ているばかりだ。しかしその物怖じしない様子は、首を捻っているだけの三人よりもよっぽど、頼り甲斐があるようにも見える。彼の視線に貫かれた安形が口を開こうとした瞬間、静かな室内にリング音が響いた。安形はすぐにシャツのポケットから携帯電話を取り出すと、ワリィ、と右手を上げて廊下に出て行った。残された四人が、妙な空気のまま取り残される。
「妙だな」
「そうですわね」
「安形さんにも悩みがあるんだな」
天才には悩みなどないように思えたが、やはり安形も人の子だったようである。少しばかし、ありがたいような気もした。しかしながら、看病の礼で悩んでいると言われても、さっぱりわけがわからない。それは果たして、悩むものだろうか。
「もしやこれは、安形さんがボクらを試しているということでは?」
「悩みを相談できるような甲斐性があるかということか」
「まあ。大変ですわ」
ちっとも大変そうに聞こえない丹生の声が静かに響く。
「ふふふ……、わかったぞ、椿くん」
「本当か、浅雛」
「やはりこれは、恋の悩みだ」
キラリ、とまた眼鏡が光る。
「先ほど雨に濡れたという話をしていただろう。やはりあれは、失恋したかなにかで雨に降られたんだ。そして、風邪をひき、看病された……」
「誰にだ?」
「私が知るわけないだろう」
「いやいやいや、どこが恋の悩みだ」
よしんば失恋によって雨に降られたとしても、安形が悩んでいると言った『看病してもらった礼』とは離れてしまっている。前提条件が狂ってしまうのではないか。
「好きな人に看病してもらったということでしょうか?」
「それだ!」
「じゃあ雨の話は関係ないだろう!」
「いや、重要だ。それがないと風邪をひかない」
「看病してもらった相手が失恋相手だとでも言うのか? まさかそんな馬鹿な!」
じゃあどうして振ったんだ、と恋愛に疎い椿ですら頭に疑問符が浮かんでしまう次第である。いずれにしても恋愛とは無縁の椿には、どちらの事情だとしても理解が追いつかない。
「好きな人が看病してくれたら、幸せですわね」
うっとりと丹生が瞳を細める。浅雛まで頷いた。
「会長が風邪を引いたら、オレが看病しますから」
「キリ、乗っかるな」
話が脇道に逸れそうな後輩の発言はまたスルーする。
「もしかしたら、看病してもらったことで、恋が芽生えたのかもしれませんわ」
「その可能性もあったな!」
女子はどうにもこの手の話題に食いつきがよい。椿は軽く頭を振った。
「なんだか知らないが、一口に看病といっても、なにをしてもらったのか――」
椿がそう己の疑問を口にしたところで、生徒会室のドアが開いた。携帯電話を再びシャツのポケットに仕舞いながら安形は部屋に戻ってくる。
「ゴールデンウィーク中ずっと、傍についててくれたんだよ」
「安形さんの家で、ですか? 失礼ですが、ご家族は……」
「ちょうど旅行だったんでな。サーヤも友達と旅行で」
「それでは、安形会長お一人だったんですわね。風邪のときに家でお一人なんて、大変ですわ」
ちっとも呼称を改めようとしない丹生は、マイペースなまま、右手を口元に当てた。
「んで、心配だからっつって」
「そんな風に看病してもらったことで、恋が芽生えたというわけですわね」
「丹生ー!」
丹生は呼ばれたことを不思議に思ったように首を傾げる。どこまでも直球すぎる物言いに、椿は頭を抱えたくなった。そもそも、恋愛に纏わる悩みであるとも決まっていないのに早計すぎる。
「失恋の所為で雨に降られたという可能性も」
「だからどうして浅雛はそれにこだわるんだ!」
「この前読んだ漫画にそうあったから、安形さんもそうなんだろうと思って」
「現実と虚構の区別をちゃんと付けろォー!」
「フン、大学生なんて、浮ついたことしか考えてないんだろうからな」
「ああもうキリまで!」
「で、椿はどう思ってンだ?」
「え?」
問われて挙動が止まる。なんでもソツなくこなせる天才の悩みとはなにか。学業ではないだろう。運動でもないだろう。
「ボクもまあ、その、安形さんが悩めることといったらそういうことくらいかな……と」
丹生、浅雛、キリの視線が椿に集まる。ほらやっぱり、と言いたげな視線にバツが悪くなって、椿はキッと安形を睨むように見据えた。
「どうなんですか、安形さん!」
「だいたいそんな感じで合ってんな」
「適当!」
椿は机にがっくりと額をくっつけた。いろいろな意味で脱力してしまった。ゴンと音が響いた所為か、キリが「大丈夫ですか、会長」と焦ったような声を出したが、顔を上げる気力がすぐには湧いてこない。
「別にお前らを悩ますつもりでもなかったんだけどよ。つーか、言うつもりでも別になかったしな」
「安形会長も恋愛で悩むんですわね」
「安形さんには在学中お世話になった。できる限りの協力をする」
「あの、会長……」
数度目のキリの呼びかけに、ようやく椿はむくりと顔を上げた。
「世話になったのはボクも同じだ。ボクではあまり力になれないとは思いますが、できることがあればなんでもします」
「会長がそう仰るのであれば、オレも手伝います」
「オメーの部下、主体性ねぇのな」
「……ほっといてください……」
本題に入る前にすっかり疲れてしまった。しかも、メーンテーマとなる相談内容は椿が最も不得手だと思われるジャンル。大事な先輩の役には立ちたいが、自分になにかできるだろうかと思えばさらに、椿は憂鬱になる。
「気持ちだけでもありがたく受け取っとくわな、椿」
いつの間にか傍にいた安形に、頭頂をぽんと叩かれた。
この人は、本当の兄よりも頼れる兄のような人だった。その背を追って、自分は今も仕事をしている。安形に誇れるような生徒会長であらねばならない、と。
(……そういえば、榛葉さんはどうしたんだろうか)
そんな中でふっと思い出した。安形の親友にして、同じく、頼れる大切な先輩の榛葉道流。たくさんの女の子にいつも囲まれていて、恋愛なんて得意科目に違いないはずの人だ。
(まあ、安形さんとは大学が違うしな)
そんなことを考えていると、またソファに座り直した安形のもとに、女子二人が集まっている。キリだけは相変わらず、椿の後ろで腕を組んで立っていた。
「看病してくださった方が、安形会長の好きな方なんですのね」
「まあ、そういうこった」
「ふむ。それで、礼と称して効果的なアピールがしたいということか」
「アピールっつぅほど、なにかしたいわけじゃねぇけどな。どうせなら、喜ばせたいってのはある」
「まあ、よいことだと思いますわ」
「好きな人へのお礼か……」
「なんかあっか、デージー」
「考える時間が欲しい」
むむ、と浅雛は腕を組んだ。真面目に取り組んでいるらしいことが遠目から見てもわかる。丹生や椿自身もそうではあるのだが、取り分け浅雛は、安形や榛葉に対して敬意を深く抱いているらしいのだ。懐いている、と言い換えてもよいかも知れない。そんな彼女の眼鏡の奥がこちらを向いた。
「椿くんも考えろ」
「え? か、考えろと言われても、ボクにはなにも……」
「返礼の一つも浮かばないのか」
近付かれてもいないのに、間近で詰め寄られたかのような威圧感を受ける。言われてみればたしかに、なにかしてもらったことへの礼を考えるくらいならば、椿にだって不可能ではないだろう。それについての評定は後で行なってもらえばよいだけの話。
「ええと、どんな人なんですか?」
「そういうのは答えにくいからパス」
「えぇっ! せめてどういう知り合いかとかだけでも……」
「パス」
安形は面倒そうに右手を振った。これ以上、質問が続けば今にも出て行ってしまいそうな雰囲気に、椿は人物像を描くための質問を諦めざるを得なかった。
「せめて、同じ大学かどうかだけでも!」
「大学は違うな」
「頻繁に会っているのか?」
「いや。大学も違けりゃ、そんなに機会もねぇよ」
「だとすると、会うきっかけづくりも必要だということだな」
浅雛がうんうんと頷いた。会えない相手に会う方法、と椿も慣れない思考を巡らせる。
「で、でしたら、お礼にどこかへ誘うとかどうでしょうか」
「どこかってどこへだ?」
「ええと……」
「丹生ランドに行かれます?」
「ほお、そんなのがあんのか、ミモリン」
うふふ、と丹生はスカートのポケットからチケットを二枚取り出して見せた。
(常備しているのか?)
「それよりも相手の趣味を考えるべきではないのか?」
椿の疑問はさて置き、浅雛が眼鏡を軽く上げると、趣味か、と安形は顎に手を当てた。
「アイツの趣味なー……」
「ご存知ないのでしょうか?」
知ってっけど、と安形は言ったが、それがなにかまでは明言しない。ただ思い巡らせるように顔を上げて天井を仰いでいた。これでは埒が明かない。
「場所については、安形さんが決めるべきではないだろうか」
椿は立ち上がり、机をバンと叩いた。
「相手のことを知らない我々には、ベストな選択肢は採れないと思います」
知らないというか、知らせてもらえないというか。
「つまり、どこか楽しめそうな場所に安形さんの奢りで連れていく、ということだな」
「その通りだ。大事なのは、先ほど安形さんが仰ったような、相手に喜んでもらいたいという気持ちではないかと」
恋愛経験のない椿からすると、一般論的に、としか言えないが。安形は納得したように頷いてくれたので、椿は安堵して息を吐いた。後ろではキリが、さすがです会長、と褒めそやしてくれていたが(そう言えばほとんど彼は喋っていない)、彼のは存分に盛っているので半分くらいの話で聞いておく。
「安形会長、相手の方はモテるんですの?」
おっとりとした笑顔で、結構ズバっと聞く丹生に椿が慌ててしまったが、安形はあっさりと「すげぇモテる」と言った。浅雛と丹生が反応し、二人でこそりと話をしているようだが、「きっとものすごく美人なのだろうな」「おいくらくらい渡せばよいのでしょうか」などと話している声は筒抜けだ。
「んじゃま、くだらん話に付き合わせて悪かったな。邪魔した」
言うなり安形は立ち上がった。
「くだらないなんて、そんなこと」
「柄にもなくどうすりゃいいかわかんなかったもんだからな、参考になったぜ、椿」
「それならよかったです……あの、またなにかあれば、ぜひいらしてください。皆、歓迎して……」
背後をちらっと振り返り、椿は咳払いした。
「少なくとも、ボクや浅雛、丹生はいつでも歓迎しますから」
男嫌いの宇佐美もちょっと微妙だ。
「私も、どうなったのか気になりますし、お会いできるのもうれしいと思いますわ」
「助力は惜しまない。いつでも来てください」
「……オレも、会長が協力するんなら協力するんで」
「歓迎もしてくれ、キリ」
善処します、とキリは難しそうな顔で呟いた。
安形は、そこまで言われちゃあな、と笑い、また来ると約束をしてくれた。俄にざわめいていた生徒会室に、再びいつもの静けさが戻ってくる。
繋がりというものは目には見えないし、そこにあると確信していても、時に忘れてしまう。一年を過ごしたのに、と思う反面、自分の過ごしてきた十七年の内の、ほんの一部でしかないのだということもその年月の数から気付かされる。けれど、安形にしろ榛葉にしろ、丹生も浅雛も、皆、大切な仲間だと思ったことを忘れたくない。彼らと、繋がっていたい。携帯電話やインターネットがあればいつでも簡単に連絡は取れるけれど、ただそれだけでしかないそれよりは、顔を合わせて、他愛なくても会話をする方がきっと重要だ。それは恐らく、安形が頭を悩ませていたという『礼』ということにも繋がるけれど。
「うれしいですわね」
「ああ。しかし、適当なアドヴァイスをするわけにもいかない。世話になったのだから、安形さんの恋が実るよう、我々が尽力せねばならないということを肝に銘じるべきだ」
「頑張りましょう、椿くん」
「まあ、TKS(椿くんには期待してない)」
「う、うるさいぞ浅雛」
*
安形惣司郎が再び生徒会室を訪れたのは、二週間ほど経過してからだった。特別な行事などなくとも忙しい生徒会執行部室で日々の業務に追われていた椿はすっかり、安形とその恋愛相談について忘れてしまっていたのだが、ひとたび彼が「よォ」と執行部室の扉を開いて右手を上げると、瞬時に思い出した。思い出したことで反応が一拍遅れた椿を差し置いて、浅雛と丹生はすぐに立ち上がると歓迎の言葉を口にする。それを見ていた宇佐美が、「『どうも』とお伝えください」と丹生に伝えていた。
「ご無沙汰しています、安形さん」
「ってほどでもねぇだろ。調子はどうだ?」
「万事滞りなく動いています」
日々のパトロールでも不逞の輩や悪行は減っている。学校全体がよい方へ向かっているという確信はまだ持てないにしても、決して、彼がいた頃に比較して悪化しているといった事態にはなっていないはずだ。椿は誇らしくそう言うと、安形は平淡に「そらよかったな」とだけ返した。彼が大仰に喜ぶなんて初めから思っていない。
(安堵してくれればそれで十分だ)
うんうんと頷いていると、今日は忍者がいねぇんだな、と安形は椿の背後を見ながら呟く。
「職員室に用事があるだけですので、すぐに戻ると思いますが」
「別に会いたいってわけじゃねぇから気にすんな。いないときに来た方が、アイツも面倒がなくていいと思ってっだろうからな」
「そ、そんなことは……」
ないとは言えない。キリは椿に従順だし、言えば安形との関係を悪くしないように努めてはくれると思うが、誰かの強制力によって人間関係は構築するものではないと――女子と仲良くしろと命令してしまった過去があるにしても、椿はそう、思うのである。なにが彼をそうさせるのかはわからないが、どうやら張本人たる安形の方はなんとなくわかってしまっているらしく、関係修復を求めていないようだから余計に変わらないのである。安形がこの部屋に来てくれるうちに、せめて歓迎の態度をとれるくらいにはなって欲しい。
「手ブラじゃワリィから、買ってきたもんだけどよ、クッキー持ってきたぜ」
安形は持っていた紙袋を浅雛に渡した。中から更に紙の袋が出てきて、その過剰包装を開けると一個ずつ包装されたデコレーションクッキィが、今度こそ視界に映る。
「クッキーか、ありがたいな、ウサミ」
「はい。おいしそうです」
かっかっかっと、安形は独特な笑い方をしてみせた。キリはともかく、宇佐美については手懐けられるかも知れないな、と思う。元よりあの天才は、人を動かすことに長けているのだ。その彼が距離を置いておこうというのならば、キリについてはその方がよいのかも知れない。
「キリの分はボクが取っておこう」
「キリならいらないんじゃないか、椿くん」
ビニールを開けて、今にも中身を食べようとしている浅雛と、横で宇佐美がにこにこ笑っている。恐らく女子二人は甘いものが好きなのだ。無論、浅雛は、本来の上司が現れる度にテンションを上げているので、そちらも含まれている。
「浅雛、食い意地が張っているぞ……」
「デージーちゃんは甘いものが大好きなんですわ」
丹生は紅茶の準備をしている。良家の息女とは思わせないその手際にはいつも椿も感心させられるばかりだ。
「丹生も好きだろう?」
「もちろんですわ」
「……だったら、ボクのを食べるといい」
「まあ、どうしてですの?」
「どうしてって」
椿は浅雛の方に視線を移す。浅雛はすでに二枚目を手にしていた。宇佐美にも渡している。
「と、言うかなんだ、女子だけで食べればいい」
「ふふ、椿くんは優しいですわね」
「別にそういうわけではなく!」
「なんだ、見ねぇうちにミモリンと椿がいい感じになってんのか」
「なななッ! なにを仰っているんですかぁ!」
丹生はおっとりと首を横に傾けた。
「ところで安形会長、先日お話していたことはどうなったんですの?」
(動じてない……)
取り乱した自分が馬鹿みたいなくらいに、丹生はマイペースに微笑んでいるばかりだ。
「もちろん、そのことで来たのだろう」
「気になっていました、とお伝えください」
浅雛だけでなく、宇佐美も気色ばんでいた。
安形の恋愛譚、俗称恋バナは、宇佐美にも伝えられている。その理由については、ウサミだけ隠し事したら可哀想だろう、と浅雛が力説する通りである。それに、前回はたまたま宇佐美は休みであったが、また安形が訪れると聞いていたため、次に来るときは宇佐美が部室にいる可能性は極めて高いと思われたのだ。彼女とて頻繁に風邪をひくわけではないし、生徒会室には毎日顔を出しているのだから当然である。
「その後の進展は!」
「進展ってほどのことはねぇけど」
安形は腕を組んだ。毎度こうして女子に囲まれて自身の恋愛について話をしているのにまったく照れた様子もないので、剛毅な人だなと椿は感心する。自分などでは、女子に取り囲まれるだけでも居心地悪くて仕様がない。しかも宇佐美はぽりぽりとクッキーを食べて、おいしいですね、と浅雛に話しかけているし、浅雛は頷きつつも、微妙に眉間に皺を寄せている。カオティックだ。
「やはり、しはんひ――」
言いかけた浅雛が、ハッとしたように口を噤んだ。別に禁じているわけでもないのだが、と、椿は苦笑する。恐らく彼女は、もう一人の尊敬すべき先輩、榛葉道流のことを思い出してしまったのだろうと推測された。
榛葉のことについて、生徒会内でも話が出ていた。彼は常に女子に囲まれ、恋愛についても相当詳しいのだろうと思われたし、彼に相談すればよいのではないかという話にもなった。しかし、安形がそうしようと思えば、なにも自分たちを介さずともそうすることは容易であるはずだし、もしかしたら、なんだかんだで茶化すことのない後輩よりも、親しい友であるがゆえにそういった話はしにくいのではないか、という意見が出たのである。主に浅雛から。だとすれば、下手に彼の話題を出して不在を意識させるべきではないという結論に至り、できうる限りにおいて、榛葉道流の話題は出さないということに決定したのだ。しかしながら、うっかり名前が出ても咎められるほどではない。
「そのクッキーは、一緒に行った店で買ったんだよ」
「おお、そうだったのか!」
包みを見る限り、どことなくファンシィだが、安形も好きな相手とならば、そういった店に行くのだろうか、としみじみ思う。椿には様々な意味で難しい話だ。
「もしかして、もう告白されたんですの?」
「そこまでは」
「そう……なんですか。なんだか意外です」
安形は出たとこ勝負だし、直球なイメージがあった。好きだと気付いたなら、周りくどいアプローチせずに、はっきりと意思を伝える。そんな風に思えていたのだ。
「よく見てんのな、お前は」
「いえ、それほどでも」
照れて言うと、椿くんキモイ、と浅雛にバッサリやられた。
「そう簡単にはいかねぇってこった」
気付くと庶務の席に座っていた安形は、その位置から生徒会長の席に座る椿を見た。庶務が座るその席には、今はキリがいて、以前は榛葉がいて。
(その更に前は、安形さんが座っていたのだったな)
見たことがあるわけではないけれど。書記の席、浅雛の座る場所に榛葉がいたはずだ。一年前に刷新されて、また、新しくなって。
「今は会えるだけでも十分って気もしてるしよ」
「なにを。弱気でいても運は舞い込んでこない」
「友人関係破綻させんのもな」
安形は軽く笑ったが、その言葉は重いと椿にはわかった。親しい間柄であればあるほどに、一歩踏み込むのは難しい。ごく最近になって、関係性の変化した相手がいる椿には、カタチこそ違えど、それはなんとなく理解できたのだ。比喩的に言えばそれは、一度関係として結んだ紐を解いて、もう一度結び直すような作業。椿のそれは強制的だったけれど、強制されなければ、関係を変えようとは積極的に思わなかっただろうと思う。
「こういうことは時機も重要だと思いますわ、デージーちゃん」
「急がば回れです、デージー先輩」
やんわりと浅雛は窘められたが、嫌な表情は見せていない。むしろ、友人と後輩の言葉にはきちんと言葉を傾けているようで、彼女はふむ、と頷いた。
「では、今後も継続して会うのが一番ということだ」
椿くんもそう思うだろう、と浅雛は突如としてこちらに水を向ける。
「あ、会いたい人に会えるのはよいことだと」
「SWT(そんなことわかっているぞ椿くん)」
「で、できるだけ、そういう安形さんの気持ちを伝えるようにするのがベストではないかと……!」
「そういえば相手の反応はどうなんですか、と伝えてください、ミモリン先輩」
「ということだそうですわ」
聞いておきながらあっさりとスルーされてしまう己のポジショニングに脱力しながら、椿は机に顔を突っ伏した。
「あー……なんだ、会えてうれしいとかは言ってたか」
「まあ!」
「脈アリだな!」
「よかったです! ……と、お伝えください」
女子陣が色めき立つ気持ちもわからないではないが、椿の方はもう少し冷静だ。愛だの恋だのには疎いが、きちんと筋道立てて理解することは可能なのである。安形の好きな人というのは、そもそも、彼の家で彼の看病をするような人物なのである。椿なら、ここにいる生徒会のメンバならと考えても、誰もそこまで安形と親しい人物はいない。
(……ん? なんだ、今、なにか)
なにか思い浮かんだような気がしたが、具体化する前に立ち消えてしまったので諦める。
更に言えば、友人関係がきちんと構築されているからこそ、破綻してしまうことを安形は恐れるのだと推測できるというもの。即ち、最初からある程度親しい人物で、友人的な付き合いがあるのであれば、その発言は、悪い意味ではなかろうが、当然に恋愛色を帯びているかどうかは判然としないのだと考えられるのだ。だからこそ、安形は慎重なのではないか。
「迂遠にでも伝わるように行動をする、とかどうでしょうか……」
「そのココロは」
「メールを送ってみたりは」
「……なに書けばいいんだよ。オレはそういうの苦手だっての」
「共通の話題とか、ないんですか?」
数秒沈黙すると、安形は笑い声を響かせた。
「かっかっかっ、椿は思ったよりは真っ当なアドヴァイスしてんじゃねぇか」
「からかわないでください」
また安形が来たときに備えて、恋愛の指南書などをちらりと読んでみたなどとは言えない椿である。役立たずと浅雛に罵られるのは御免だと思ったための措置だ。しかし椿に言えそうなことはこのくらいである。
「共通の話題とメールな。覚えとくぜ」
「その程度で申し訳ないです」
「気にすんな。十分だろ」
(榛葉さんに……会いたい……!)
温和で優しくて人間関係を得意とする美麗な先輩。けれど会いたいと思う気持ちは、ヘルプミィだけではなくて、ただきっと懐かしさを思い起こしたいからなのだ、と気付いた。家に戻ればアルバムにいくらでも姿はあるけれど、本当を忘れてしまいそうになる。どんな喋り方をしていただろうか。どんな風に笑っただろうか。
安形が去り、浅雛がぽつりと、「榛葉さんはどうしているだろうな」と呟いたのはきっと、同じように思ったからではないのだろうか。
*
榛葉道流について、僅かながら感傷に浸ったためかも知れない。校門付近でスケット団が騒いでいたのを注意しようと向かったところで、知った姿を見て椿は思わず跳ねてしまいそうになった。
「榛葉さん!」
「――え?」
「榛葉さんですよね! お久しぶりです!」
「椿、ちゃん……? うわ、久しぶりだねー」
榛葉は在学中に見ていたように、華やかな姿で、近付いてきた椿に微笑んだ。そうだ、こんな風に笑う人だった、と思い返す。語尾は少し伸ばし気味で、丁寧に喋るけれど使う言葉はとても平易。夏でも冬でもいつでも、彼は涼しげに見えた。
初夏も近付き始めているとはいえ、まだ風が冷たいことも多い。榛葉は白いジャケット(キザな感じではあるがそれは榛葉に非常によく馴染んでいた)を羽織り、中は薄紫のカラーシャツという出で立ちで、校舎を見ていたようだった。
「みんな、元気にしてる?」
「はい、お陰様で!」
偶然だ、懐かしい、うれしい。いろいろな感情が綯い交ぜになり、上手く言葉になってくれなかった。榛葉がいくつか軽くしてくれる質問に答えるのが精一杯だ。仕事は、新しい庶務は、新しい会計は。決して追いつくことのできないようなスピードではなく、緩やかに、けれど間断なく、迷惑でない速度で榛葉は喋る。誰にでもこうした気遣いをするからこそ、榛葉は学園の貴公子などと異名を付けられるほどにモテていたのだ。椿にもそれはわかる。魅力的だ、と自分で言うのは減点だが。
「榛葉さんはここでなにを?」
ようやく質問が途切れたところで、椿の鈍っていた思考回路も元通りになってきた。質問を挟むと、貴公子は美しい顔を軽く傾げて、懐かしいなーと思って、と微笑んだ。
「今、時間は平気ですか?」
「今日の講義は終わってるから大丈夫だけど」
「もしよければ、生徒会室に寄っていってください! 浅雛も……喜びます!」
後輩二人はわからない。
「あっ、今日は丹生が不在なんですが」
「なにかあったの?」
「家の事情でとだけ」
榛葉は、ああ、と頷いた。
「あのすごい家の事情かー」
「想像がつきませんので、聞きませんでした」
本日は生徒会業務についても遅滞は出ておらず、定例会にかけるべき議題もなさそうだったので問題ない、と椿が許可を出している。であれば、残りの役員も今日は早く帰してやろうかと思ったが、榛葉がいるなら話は別だ。
「オレ、入っちゃって平気かな」
私服なんだけど、と榛葉は笑う。制服だったらむしろ困るのではないかと思ったが、安形が平然と入るくらいだし、別に気にならないだろう。
(言われてみれば、そうだったな……)
生徒会長としては、部外者の立ち入りは禁ず、と言うべきだったのかもしれない。安形や榛葉が部外者などとは万に一つも思わないので、その発想はなかった。もちろん、不審な相手ではないことを生徒会長たる椿が証明するので問題はない。あるとすれば。
「……えぇと、女子に見付かると厄介かもしれませんが」
どうして、と榛葉は首を傾げる。オールド・ボーイ、即ちオービィである榛葉は、昼下がりだか学園だかどちらが真名か椿は知らないにしても、貴公子とまで呼ばれ、学園随一の人気を誇っていた人物だ。本人も自覚がある上に、女の子全体について尊ぶ、レディ・ファーストの精神の塊みたいな彼が校内を歩けば騒がれるのではないか。
「手なら、いくらでも振るけど?」
きらきらとした笑顔もオプションで付いてくるのか。
「大丈夫だって、椿ちゃん。静かにねって言えば、みんな静かにしてくれるからさ」
榛葉は余裕の笑みを浮かべて片目を瞑る。段々と男の人のウインクに慣れてきてしまった自分自身が複雑になりながら、椿は深く息を吐いた。
「椿ちゃん? えっとー、迷惑ならオレ、帰るから大丈夫だよ」
「ええっ! とんでもないです!」
自分だけ長々と喋った上で帰らせようものなら、浅雛にどう詰られるかわかったものではない。
(というか、ボクが引き止めておいてなんて失礼なことを!)
「そういうわけではないんです! 皆も会いたがっていますし、ボク自身も榛葉さんと話せるのはうれしいです! た、ただ、榛葉さんの身が心配、でし……て……?」
なにを言っているのかよくわからない。瞳を丸くした榛葉は、わたわたと狼狽しきりの椿の様子を見て、くすりと笑った。
「ありがとう、椿ちゃん」
でもヘーキだよ、と榛葉は微笑む。人を安心させる笑みだ。思えば椿は、この笑顔にフォローされてばかりいたように思う。引退し、卒業もした今となっても同じ。
「でしたらぜひ、生徒会室にいらしてください」
「ありがとう、喜んで」
榛葉は軽やかに言うと、椿の隣に並んだ。ふと校門を見ても誰もいない。どうしてここに出てきたのだろうかということを思い出して、藤崎やスケット団の姿をそっと探してみたが、見付からなかった。彼らは一所に留まっていられないのだ。
案内する必要もない校内を先に立つように歩き、ふと振り返ってみると、榛葉は女の子に囲まれている。そんなことをくりかえしながらようやく辿り着いた執行部室では、ドアを開けた瞬間に、浅雛から「遅いぞ椿くん、遅刻だ」と苦情を言われた。
「浅雛、そんなことを言っていいのか?」
「……どういう意味だ」
フフ、と椿は笑う。
「今日は榛葉さんを連れてきたのだ」
浅雛は目をぱちくりとさせた。
「榛葉……さん……?」
「お邪魔しまーす。あっ、加藤、なんで椅子に座ってないの?」
「オレの居場所は会長の背後と決めている」
「そうなんだ? 久しぶりー。ウサミちゃんも」
ひらりと榛葉は右手を振る。宇佐美はぺこりと礼をした。
「どういうことだ椿くん!」
浅雛は椿の両肩を掴むと、がくがくと揺らした。
「デージーちゃん久しぶりー。あ、昨日焼いたクッキーが余ってるからよかったら食べて」
「もちろん食べる!」
先ほどまで肩を掴んでいた浅雛は瞬時にいなくなると、榛葉の元に駆け寄っていた。
「お久しぶりです、榛葉さん」
「元気そうだね、デージーちゃん」
「当然だ」
浅雛は彼女にしては珍しい笑みを見せる。口元が少し動いただけだが、彼女が喜んでいることがわかるので、椿にも判別がついた。浅雛は、安形も榛葉も、双方を敬愛している。立て続けに愛する先輩方がいらしてくれたので、興奮しているのだろう。
「榛葉さんのクッキーが食べたかった……! ウサミ、この前のクッキーよりも美味しいぞ!」
「はいっ、デージー先輩!」
「この前の?」
榛葉は首を傾げる。
「あ、えぇと、丹生が持ってきてくれたんです」
はは、と笑うと、みんな仲良くしてるみたいだね、と榛葉は微笑んで返した。
「そうだ、今日は丹生がいないのだったな。よしキリ、紅茶を頼む!」
「任せてください!」
「加藤はよく動くねぇ」
にこにこと微笑む榛葉は、それ以上クッキーについては触れなかったので、椿は安堵する。意外と迂闊な浅雛が話していたのは、安形が持ってきたクッキーのことで、それを話せば安形が生徒会室に来ていることを話さねばならないし、その理由についても明らかにせずにはいられないだろう。榛葉道流という人は、非常に機微に聡い人なのだ。
(安形さんのことは言わない方が無難だろうな)
友人が内緒で後輩に会いに来ていると聞けば、如何な榛葉とて気を悪くするだろう。そうとは面と向かって言わないとしても、いい人なので、変に傷付けたくない。そうやって人は嘘を積み重ねていくのかも知れないと思ったが、一度そうと決めてしまった以上、もう後には戻れないのだ。
「淹れるのは苦手なので、自販機で買って来ました。ストレートとミルクとレモン、どれも用意してあります」
「うわー、早いね。しかも気が利いてるなー」
「会長、どれにされますか?」
「客人は榛葉さんだぞ、キリ。先に選んでください」
「椿ちゃん、こういうのはレディーファースト。デージーちゃんとウサミちゃん優先でいいよ」
榛葉はまた片目を瞑る。
「ウサミ、好きなものを選べ」
「えっ、では、ミルクで」
「私はレモンだ」
「椿ちゃん会長なんだから先に選んでいいよー」
「ええっ、ボクですか?」
「どうぞ、会長」
「な、ならばレモンで」
「加藤はミルクとストレート、苦手とかある?」
「ミルクは甘ったるいからあまり好きじゃねぇが」
「じゃあオレがミルクで、加藤はこっちで。あ、クッキーいっぱいあるから、余ったら貰っていってくれるとうれしいかな」
「やったなウサミ、いっぱい食べられるぞ!」
女子二人はきゃいきゃいしている。加藤はまじっと紅いラベルのペットボトル・ティーを見つめていた。
(……なんだかやっぱり、榛葉さんに気を使ってもらっていないか?)
榛葉がレモンとミルクとストレイトのどれを好むのか知らないが、結局は最後に余ったものを取ってしまった。来賓であるにも拘らず。
(榛葉さんはわりと、そういう人だったな)
譲ることを惜しまない。尽くすことを厭わない。そういう人だ。だから彼の傍は居心地がよくて、それ故に安形も一緒にいたのではないかとも思うが、非常に面倒臭がりの安形が、面倒を押してでも関わろうとする相手は榛葉くらいだったということも椿は記憶している。榛葉を講師役とした料理番組のアシスタント、なんて、面倒だと本人もきっぱり言ったそれを、椿が自分に先んじて選ばれたというただそれだけの理由で自分もやりたいと言い出すのだから、こちらだって驚いた。そうだとすれば、彼といると楽だからとかそういう理由だけではないのだろう。所以も双方の感情も知らないが、二人が強い絆を持っているということは椿も知っていることだ。
「やっぱり榛葉さんのクッキーが一番だ……!」
「おいしいです、これ」
宇佐美が振り返ると、榛葉がにこりと微笑んでいる。宇佐美は咳払いして、「と、お伝えください」と浅雛に視線を向けた。
「で、榛葉さんはなんで来たんだ?」
「なんでーって、懐かしくなって校舎を見てたら椿ちゃんと会っただけだよ」
じとっとキリは榛葉を見ているが、安形のときのようなつっけんどんな態度ではなかったので椿はホッとする。
「榛葉さんも悩み事か?」
「……も?」
榛葉は首をまた傾げる。慌てて椿はわたわたと手を振った。
「さ、最近、生徒の悩み事を聞くのも生徒会業務の一環ではないかと考え始めていまして、手始めに目安箱でもと!」
「ああ、そうなんだ。そういうの、オレたちも考えたことあるよ。手が回らなくてできなかったけど、加藤もいるし、今ならできるかもだね」
にこにこと榛葉が話に乗ってくれたので、椿はまた胸を撫で下ろす。
(なんだかコレは、無意味じゃないか……?)
隠し立てする必要なんてないかも知れないことを、余計な気を回しているだけにも思える。だって榛葉が言う「たち」の中には紛れもなく、彼の友人、安形惣司郎が入っているはずなのだから。
(そもそも榛葉さんが安形さんを忘れるはずがない)
ふう、と椿は息を吐く。榛葉はいつだって安形をサポートしてくれて、椿から見ると甘やかしているんじゃないかと思うくらいに、安形のことを考えている人だった。そんな二人がバラバラに訪れている。最近、二人は会っていないのだろうか、とふと考えてしまった。
(そんなこと、ボクが口出しすることではない――)
「悩みというか、悩みなのかなー」
「なにかあるんですか!」
ぐちゃぐちゃと考えているのは性に合わない。榛葉の悩みという言葉に椿は素早く反応した。まるで罪滅ぼししたいみたいに。
「最近よく、友人と食事に行くんだけど」
この場合の友人というのは、女なのだろうか。一瞬思って、下世話だったと椿は反省する。榛葉が取り巻きに囲まれている姿は見るが、男友達というのはどうにもピンと来ないのだ。
「自分で作る方がおいしいということか?」
浅雛はクッキーをもぐもぐと食べながら首を捻る。
「そんなことは思ってないよ。誘って貰ってばかりなんだけど、どこもおいしいところだし、店に問題はない」
「ではなにが問題なのですか、とお伝えください」
「と、ウサミが聞いている」
「問題と、言うかね」
榛葉にしては珍しく歯切れが悪い。言いにくそうに黙ったので、全員の視線が榛葉に集まっていた。
「いっつもいっつも、食事代を払われちゃうんだ」
「……へ?」
椿は間の抜けた声を出してしまった。
「なにが問題なんだ?」
キリが首を捻る。
「問題だよ。なんでオレが一方的に奢られてるのさってこと。おかしくなーい?」
「えぇと、先輩だとか、そういうことは」
「ない。友人だよ」
「恋人でもなく?」
「友達だって。同い年だし。おかしいだろ?」
おかしいと言われても、椿にはピンと来ない。人とどこかで食事する、ということも、高校生の自分にはまだ早いことだろうし、奢るとか奢られるとか、そういうことには縁遠い。滅多にないが、家族で食事に出れば両親が支払ってくれるということとは違うのだということはさすがにわかる。
「椿ちゃん、普通、自分で食べたものの代金は自分で払うよね?」
榛葉は噛み砕くように、優しく椿に言葉を続ける。
「おかしいな」
自分はもうわかっているのだ、と言うように浅雛は呟いて頷いた。隣で宇佐美もうんうんと首を縦に振る。
「友達と、食事に……」
「あは。椿ちゃんはファストフード店とか行かないんだっけ」
「喫茶店にならば行ったことがあります」
やや様子のおかしかった安形とその妹、それから自分と兄の四人で入った。
「椿ちゃん、飲んだもののお金、自分で払っただろ?」
「当然です。ボクが注文したものですから」
さすがにそれくらいはわかる。頼めば無償でどこかから物が出てくるなどと思うのはきっと、丹生くらいだ。偏見だが。
「そういう話」
にこっと榛葉は笑う。
「もちろん、オレが椿ちゃんやデージーちゃんとどこかで食べるってなったら、奢るよ? それは、先輩としてそうしたいからってことなんだけど」
「いえ、奢られるわけにはいきません! どうして榛葉さんにそんな!」
「仮定の話だって、椿ちゃん。ほら、椿ちゃんだって、加藤にお茶の一つくらい買ってあげたいなーって思わない?」
ちらりと榛葉はキリを見る。視線を向けるとキリは背筋を伸ばした。真面目でいつも自分の言うことを聞いてくれるキリには、常から感謝しているし、茶の一杯でも奢るのはたしかに吝かではない。椿はなるほどと頷いた。
「思います」
「オレも同じってことだよ。そうだ。今度、みんな揃ったらどこか食べにでもいかない?」
「結構だ!」
ぴしゃりと浅雛は言うと、右手に持ったクッキーを榛葉に見せる。
「榛葉さんが作ってくれる物が食べられる方がいい。クッキー以外もおいしいんだ、ウサミも食べてみたいだろう?」
「は、はい」
浅雛の言葉に榛葉はうれしそうに微笑んだ。花のように、華やかな顔が美しい色に染まる。
「じゃあまた、なにか作ってくるよ」
「待ってます」
浅雛の言葉は恐らく、また来てください、という意味でしかないのだろう。彼女はたしかに、榛葉の料理を好んでいるけれど、それ以上に、榛葉道流という人を敬愛しているのだから。
「で、話を戻すと、榛葉さんは友人と食事に行くたびに奢られて困ってるってことか」
キリが脱線した話題を戻すと、榛葉は頷いて微笑んだ。困っているなんて様子は微塵も見られない。相変わらず優雅な物腰だ。
「一回二回くらいならいいんだよ。もう何回も続いてるから、おかしいなーって。オレもさ、会えるのはうれしい。誘ってくれるのは素直にうれしいんだ。でも、奢られたいなんてちっとも思ってないから、ちょっと困ってる」
「相手にそれを伝えてみては?」
「言ってるよー、奢る必要なんてないって。聞いてくれない」
榛葉は今度こそ眉を下げて、困った表情を見せる。
「お金は気持ち……」
「浅雛?」
なんだか丹生のような言葉が聞こえた気がする。
「榛葉さん、もしかしてその相手は榛葉さんに気があるのでは」
「き、気があるって――!」
思わず椿が机を叩くと、キリが音に反応してガタッと立ち上がった。
「なにもないのに椿くんは相手に奢るか?」
「や、それは……」
「デージー先輩の言う通りだと思います! と、お伝えください」
「ウサミも私が正しいと」
まあその意訳はあながち間違いではないのだろうな、と椿は肩を落とす。
「はは、そんなわけないって。そういう相手じゃないんだ」
榛葉はさらりと一蹴した。そんな風に否定されると、逆に椿の方は気になってくる。ただでさえこの人は、学園中の人気を攫っていたような人物なのだ。
(その割に、若干、無自覚なところがある気が)
ナルシストな傾向が非常に強い榛葉は、自分は人気があり、モテるという事実を知っている。自覚した上で、自分が非常に魅力的であるとか容姿が綺麗だとか言っているわけなのだが、どうにもその自覚・知覚というのは、包括的なレヴェルでしかないようなのだ。椿がそうらしいと知ったのは、クック・シェル事件でのことで、榛葉は常から、女の子はみな自分のファンだ、とでも思っているのかと思えば、そうではないどころか、学園でも一二を争う人気を持つ女性、由比涼子からの好意について、まったく気付いていなかったというのである。存外、個別好意については鈍いのかも知れない。椿くんが言うな、と浅雛辺りに怒られてしまいそうではあるが。
「浅雛のセンはアリだと思います」
「椿ちゃんまで」
榛葉は肩を上げた。
「奢られるのが嫌なら、会わなきゃいい話だろ」
「友達なんだって」
キリのやや礼儀のなっていない態度にも、榛葉は穏やかな表情を崩さない。
「会いたくなければ、オレだって最初から会わないよ」
にこにこと榛葉は微笑んでいる。この綺麗な人に、友達、だとか、会いたくなければ、とか、言われるのはどんな相手なのだろうかと想像してみた。目の前で、じっと自分を見て微笑む、昼下がりの貴公子――
「やっぱり、榛葉さんのことが」
光景を想像すればするほどに、結論がそこへと行き着いてしまう。榛葉の容貌というのは、どこをとっても綺麗だ。男の人だけれども、ウインクすら美しく決まってしまっていて、時折、髪が揺れると香ってくるフローラルさなんかについ動揺させられてしまう。そんな綺麗な人が目の前で笑っていて、思わず心が動くのは致し方ない。なにせ開盟学園には、そういう女子が溢れるほどにいたのだから。そして、今でもいるのだろうから。
「だから違うって。まあ、オレはモテるけど、そういうことじゃないからさ。なんだろうなって」
「それは相手に聞かねばわからないことだろう」
「そうだね」
「仮に榛葉さんの言う通りだとしたら……相手にやはり、奢る必要はないとはっきり言うしかないのではないでしょうか。むしろ困ると」
「……だね。次に会ったら、もう少しハッキリ言ってみるよ」
そうした方がいいってことはわかってたんだけど、と榛葉は瞳を伏せた。
「大切な人なんですね」
榛葉は答えずに一拍置いた。そうして微笑む。
「椿ちゃんも大切だよー?」
さらっと言われてどきりとした。戸惑っている内に、デージーちゃんもミモリンも、加藤もウサミちゃんも、と流麗に榛葉の発言は続く。
「話聞いてくれてありがとう」
「いえ! なんのアドヴァイスもできず……」
「聞いてくれるだけで十分だ」
榛葉は背を向けた。
「あ、あの、榛葉さん! またなにかあったら、いらしてください!」
立ち止まって椿の言葉を聞いてくれた榛葉は、振り返るとまた花のように微笑んだ。
「じゃあまた、経過報告するよ」
さらりと髪を掻き上げる仕草。優しくて温かい微笑み。去り際まで美しく、榛葉は扉を開けて去って行った。
「椿くんにも一枚クッキーをあげようか」
「一枚だけェ!? 浅雛、君という人はどうしてこう」
「榛葉さんも、また来てくれるだろうか」
「……オレたちで役に立てたとは思えなかったけどな」
キリの言葉に浅雛が眼光鋭く彼の方を振り返った。しかしキリの言う通りだろう。安形の場合とは違うのだから。
(安形さんも、聞きたい話ではないだろうな)
友人の別の友人との悩みなど、聞いて楽しいものでもない。まして高校の頃は二人が唯一無二であるように見えていた椿には余計にそう思えた。
(なんだかそれって)
どういう言葉で現すべきことなのか、一瞬だけなにか浮かびそうだったけれど、宙に消えてしまった。
*
果たして心配していたその人は、一週間後にはまたふらりと顔を出してくれた。のはいいのだが。
「椿ちゃん、みんな、元気にやってるー?」
ふんわりとしたウエーブの茶髪が初夏の風を受けて揺れる。ちょうど、部屋が蒸していたので窓を開けたところだった。衣替えまでもうすぐで、榛葉はまだ長袖のワイシャツに、見慣れた薄紫のベストを着ている。
(……ん? なんだ、この違和感は)
「今日はマドレーヌ焼いてきたんだけど、あれっ、デージーちゃんは?」
きょろりと榛葉は辺りを見回して首を傾げた。お久しぶりですわ、と丹生が軽く会釈すると、そちらに向かって微笑む。
「そっか、この前来たときはミモリンがいなかったんだ」
「デージーちゃんからお話はうかがっています。クッキーも、とても美味しかったですわ」
「デージー先輩はまだ来ていません、と、お伝えください」
「ちょっと待ってください」
違和感の正体に気が付いた。椿が机を叩いて立ち上がると、何事かというように、榛葉、丹生、宇佐美の視線がこちらを向く。背後からのキリの視線はいつもと変わらない。
「なんっで、榛葉さんが制服を着ていらっしゃるんですか……!」
まあ、と丹生は今しがたようやく気付いたみたいにおっとりと呟く。あっ、と、宇佐美の声も小さく聞こえた。
「え? まだ処分してなかったから?」
「なんですか疑問形で言われても聞いているのはボクの方です!」
たしかに、榛葉はオービィだ。開盟学園の制服を所持しているのも不思議ではない。着ても、見た目上の違和感はまったくない。当然だろう、二ヶ月くらい前には彼はその制服を着ていたのだから。
「私服だとやっぱ目立つかなーって思って」
規定制服のある高等学校内において、私服で歩いていればそれは目立つだろう。事実、榛葉が来た日の翌日なんかは、彼を知らない新入生の間では、誰だか知らないがイケメンが学内にいた、との情報が流れてちょっとした騒ぎになっていたくらいだ。
(いやそれは榛葉さんだから目立つというだけだろう)
卒業しても貴公子は貴公子である。
「それ、見付かったら余計に厄介ですよ!」
「大丈夫だよー、女の子たちには、ナイショって言ってるから」
人差し指を唇に当て、ヘーゼルの瞳は片方を閉じる。榛葉が可愛らしくウインクして見せたので、ますます椿は嫌な予感がした。クック・シェル事件の発端となったのはなんだったのか。思い出してしまう。
(一人の女子生徒の恋愛による暴走、という最後の問題ではなく)
そもそも榛葉を講師とする調理教室に、調理室に入りきれないほどの応募者を出してしまったことが原因にあるのだ。
「会長、廊下の方から女の悲鳴が聞こえました!」
「言わんこっちゃない!」
特になにも言っていないが、椿の思考回路上に乗っかっていたので、思わずそう言って呻いた。前回とは異なり、まだ校内には人も残っている時間帯だ。卒業してしまったとはいえ、昨年度までは学園随一の人気者であった榛葉道流が、それも制服で現れたとなれば、騒ぎにならないはずもない。
「キリ……外の様子を見てきてくれ」
迂闊に出て、過去の榛葉関連の事件と同様に女子に取り囲まれるのは避けたい。厄介を押し付けてすまないと思いつつキリに命じると、言い付けられた後輩はむしろうれしそうに頷いて、瞬時に生徒会室を出て行った。
「女子どもがあちこちで騒いでました」
「……榛葉さんは静かになるまでここで待機してください」
「加藤ホント足速いねー」
マイペースな貴公子は、来客用のソファに座ってのほほんと笑っている。
「ついでに、榛葉さんに飲み物買ってきました」
「おお、気が利いているんだな、キリ。お金はボクが払おう」
「そんな! 会長が払う必要はありません!」
「いや、しかしキリが払うべきでもないだろう?」
「あ、じゃあ、オレが払えば解決するかな」
「榛葉さんは来客なので違いますよ!」
油断すると自分が、と言い出してしまうので危ない。キリの手に百円玉を握らせて、椿は椅子に腰を下ろした。その様子をじっとヘーゼルの瞳が見つめているのに気付いて、椿は顔を上げる。
「仲いいね」
「そう見えますか?」
こくりと榛葉は頷いた。愛おしく後輩を見る目で、微笑んでいる。
「変わんないんだよね」
「なにが、ですか?」
「前に話したこと」
にこ、と榛葉は笑う。制服を着ている所為で余分に、昔見ていた学園の貴公子の微笑みという記憶に合致する。
「お友達に食事のお代を支払ってもらってしまっている、ということですか?」
「そう。ミモリンはどう思う?」
丹生は軽く首を傾げた。
「デージーちゃんと出かけても、私、そういうことをしたりはしませんわ」
ふんわりと丹生は笑う。
「いらないと言われてしまいますもの」
「デージーちゃんはカッコイイね」
「ええ」
二人揃って微笑むので、なんだか生徒会室にマイナスイオンでも発生していそうだなと思った。生徒会の癒し系二人組である。
「ですから思うんですの。やっぱり、なにか意図があるのではないかと」
「意図?」
「相手の方はきっと、榛葉さんのことを慕って……」
丹生は年頃の女の子らしく、少し頬を赤らめて語尾を濁した。きっと、彼の友人というのは、生徒会室の外で騒ぎとなっている女子たちのように、榛葉のことが好きなのだ。だから一生懸命にそれを示している。そう思えてならない。
「いや、だからそれはないんだって」
「どうして言い切れるんですか、と、」
「どうしてもなにも。だって、友達って、相手男だよ?」
榛葉は呆れたように息を吐いた。
「……いえ、それはなんとなく察してます、榛葉さん」
「榛葉さんの女友達とか想像できないですね」
振り返ってキリと頷き合い、女子二人にも目を向けると、彼女らも首を縦に振っている。
「えぇー……」
榛葉は順繰りに生徒会役員を見て、眉間に皺を寄せた。
「だから、そういう相手じゃないんだって」
何度目か知らぬ言葉を吐いて、榛葉は項垂れた。
「それは、榛葉さんにとっては、でしょう」
「違う違う。相手も同じだって。そんな相手じゃないから、別のことだって」
(やっぱり、榛葉さんが鈍いだけじゃ……)
そもそも恋愛についてはまったく疎い椿には、同性同士での恋愛ということももちろんわからないが、どちらもわからないという意味では同じ線上にある。差別はなににしてもよくない。マイノリティだとしても、排除されるべき思考ではないと思われるのだ。
「榛葉さん、相手の方が嫌いなんですの?」
いつの間に彼の相手に感情移入でもしたのか、丹生が淋しげに尋ねる。
「まさか! 大事な友人だよ。そうでなかったら悩まないだろ?」
「大事だからこそ悩むということでしょうか……」
「――そうだね」
ハッとしたように宇佐美は口を押さえて、と伝えてください、と今更丹生に伝えた。意を汲んだように、二人の先輩はアイ・コンタクトで頷く。
(しかし、榛葉さんの言うことも当然、一理あるのだろうな)
傍から聞いているだけではわからないことは多い。話だけでしか判断できないこちらよりも、実際にその相手と対面している榛葉の考えの方が正しい可能性は高いだろう。
「嫌ならハッキリ言った方がいい」
「これ以上、奢られるのが困るのでしたら、食事には行かないという風にしては?」
「やっぱり、そうしないとダメかな」
榛葉は少し残念そうに笑った。
「榛葉さんのしたいようにするのが一番だとは思いますが」
「うーん、ごめんねー、変な話ばっかりで。そうだ、せっかく制服着てることだし、なにか手伝うよ? 今、デージーちゃんがいないなら、書記の仕事でも」
にこりと笑うと、榛葉は浅雛の机の上の書類を手に取った。机上では、彼女の愛するぬいぐるみのモイモイが倒れている。その腕を綺麗な指先が掴んで、起こし上げた。
「あの、榛葉さん、ボクらではお役に立てていないのは重々承知しています。けれどもし、話すだけでもと思ってもらえるのでしたら、ぜひまた来て欲しいのですが」
「……が?」
「制服は……ダメだと思います」
「そっか。じゃあ次は、私服で来るよ」
にこりと榛葉は微笑んだ。もしかしたら、制服というのは彼なりの冗談だったのかも知れない。
「会長、まだ外は騒いでます」
「それと、仕事の手伝いなんて申し訳ないので大丈夫ですが、もうしばらくは生徒会室に待機していていただきたいと思います」
「はは、了解。デージーちゃんにも会っていきたいしね、待ってるよ」
そう言って、彼はモイモイの腕をちょんとつついた。
*
しばらく榛葉に会うことが多かったので、もう一人の先輩について、椿は軽く失念してしまっていた。しかし、榛葉の例ではないにしろ、私服で校内を歩くというのはやはり目立つもので、後ろ姿を遠目から見ただけでも、おやっと思った。
「安形さん!」
「なんだ、椿か」
榛葉が来てから数日ほどの頃に、再び、安形は校内にいた。
「今から生徒会か?」
「はい。今日は日直で、少々時間が……安形さんは」
「オレぁもう帰るところだ」
「そ、そうだったんですか! すみません、なにもできず……」
「気にしてねぇよ。デージーも、椿くんはいらないっつってたぜ」
かっかっかっと、笑い声が廊下に響く。
(浅雛め)
これまで、意外にも(自分で言うのも難だが)苦手な恋愛について、頑張ってアドヴァイスしてきたというのに、浅雛からすれば、自分の出番を奪われたといったところなのかも知れない。
(もう『相談』も終わったということか)
役に立たないだろうことはわかっているが、話に加わっていないのはちょっぴり残念だ。しかし、こんなところで彼の恋愛の悩みについて聞くわけにもいかない。内容は後で浅雛や丹生から聞いておこう、と心に決める。
「……サーヤは、どうしてっか知ってるか?」
「安形紗綾ですか? いえ、クラスも違いますし」
「そうか。変な話を結構聞くんでな、気になってんだけどよ」
「大丈夫だとは思いますが……」
安形の妹、紗綾については、自分よりもむしろ、兄である藤崎佑助の方が親しいようである、と椿には思えていた。彼女のことを気にして欲しいと安形には言われているものの、自分のことが忙しくて手が回っていない。申し訳ないとは思うが、元々安形の側も、親しい友人関係でもない妹を椿に見守って欲しいなどとは思っていないだろう。なにかあれば、という程度だ。それより、なぜ急に妹のことを、と、思った。
(まあたしかに、安形紗綾は人気があるらしいからな)
椿は基本的に気が強い女子は苦手な方であるので、態度が棘棘しい紗綾などは、あまり得意ではなかった。結局、兄である安形惣司郎のことがなければ、話す機会もなかっただろうと思う。苦手を理由として撥ね退けるような真似は、今はあまりしないけれども。
「んじゃまたな」
「あ、はい。また」
安形はさっと背を向けると、右手を上げた。白いワイシャツに黒のズボン。
(私服と言っても、榛葉さんと違って、ひどく目立つということもないな)
背を向けて去っていく安形本人が改革したように、開盟学園は普段の制服着用についての規則が緩いために、シャツ姿であれば風景に溶け込みやすかった。
(と、そうだ、生徒会室に急がないと)
立ち話で更に遅れてしまっている。廊下は走らずに、けれどできるだけ急いで。二律背反的なことを思いながら、椿は生徒会室へと早足で向かう。
「遅れてすまなかった」
定例会は椿が主導となって行なっている。来なければ始まらないだろうが、個々の仕事を進めていることは可能だ――そう思って扉を開けてみれば、紅茶を口に運ぶ丹生がおっとりとこちらを見て微笑んだ。くっつけられている四つの机の中央にはチョコレイト。浅雛も宇佐美も、机の上には紅茶と取皿しか置いていない。
「……茶話会かァァァ!」
「椿くん遅いぞ」
「今の状況で言われたくはない! とっとと片付けてしまえ、キリ!」
「ハイッ!」
相変わらず椿の椅子の後ろに立っていたキリは、名を呼ばれて俊敏に動く。菓子類とお茶は来客用のテーブルに移し、おまけにダスタで机を拭いて仕上げた。さすが、便利な小間使いのような特技を持っているだけのことはある。
「まったく遅いぞ椿くん」
「先ほど、安形会長がいらしていたんですわ」
「空いていたからそこの椅子を勧めたんだが、キリがうるさい」
「勝手に生徒会長の椅子を勧めるのはどうなんだ……」
他の役員席ならば重要ではない、とは言わないが、普通の生徒が入ってきたときに戸惑うだろう。如何に、安形が元生徒会長であるとしたって。
「知っている、というか、先ほど会ったところだ」
「そうだったんですの」
「でしたら話はもう聞いたのですか、とお伝えください」
「安形さんのお話は聞かれたんですの?」
「いや。安形紗綾のことについては少々話したが」
浅雛が真っ黒な瞳をじっとこちらに向けた。
「断られたそうだ」
「ええっ、なにが!」
「食事に誘ったら、断られてしまったそうなのですわ」
頬に手を当て、丹生が眉を下げた。
「そ、そうか……」
「なにを安堵している、喜ぶことではない、空気ヨメ男!」
「す、すまない」
てっきり、告白して断られた――即ち、振られた・失恋したということなのかと思って、焦ったのだ。誘いを断られただけであれば、完全なる失恋ではない。勘違いとは言え、安堵してしまうのも致し方ないことだろう。
「だが、どういう流れでそうなったのだ?」
「詳しいことはわからないが」
浅雛は腕を組んだ。
「今までは普通に二人で出かけていたそうですが、と、お伝えください」
「それが急に断られたのか?」
「安形さんからは、一応心当たりがあると聞いたが、それでも気にしているようだった」
「心当たり……」
もしや、相手が好きでもない相手と会う気はないと思っているのではないか、とかそういう心当たりではなかろうか。
「そ、それで、どうアドヴァイスしたんだ?」
「一度や二度断られたくらいでくじけてはいけない、NG!」
「や、その略称はどうなんだ……?」
「ネヴァー・ギブアップ」
浅雛は人差し指を立てたが、ノーグッドにしか思えない。
「私は、少し時間を置いてから誘ってはどうでしょうか、と」
「おお。丹生の意見にはボクも賛成だ」
突き進むだけではなく、緩急をつけるべきである――これも、恋愛指南書にあった文言であるが、なるほどその通りだと椿も納得した。押してもダメなら引いてみろ、である。
「椿くんはミモリン贔屓だ」
「贔屓するなんて男は最低です」
「ええいやめろ女子!」
「テメェら! 会長は女なんざ贔屓しねぇ!」
「キリ、お前、今までまったく会話に入ってこなかったな……?」
やはり彼にとって安形は鬼門なのか敵なのか。
「ウサミちゃんは、出かけてばかりでは疲れてしまうのではないかと言っていましたわ」
「あ、はい……家に呼んだりするのはどうかと」
「手料理でも食べさせてもらったらどうかと私が追加した」
「浅雛、この前、榛葉さんと会えなかったのをまだ気にしているのか?」
榛葉が来た日は、結局浅雛が戻らなかったため、彼は帰ってしまったのだ。作ってきたマドレーヌは食べていたが、実に不満気にしていたため、椿が榛葉にメールでその旨を伝えたところ、近いうちにまた遊びに行くから、と、またも気を使わせてしまったのである。今度はなにか料理を作ってくる、とまで言われてしまった。浅雛に伝えたところ、榛葉さんの料理に超反応していたため、今のような発言に至ったものと推測される。
「さすがに手料理はハードルが高いと思ったのですが、と宇佐美ちゃんが言っていますわ」
「意外だったんだが、安形さんは相手の手料理くらいなら食べたことがあるらしいんだ」
「そうなのか? ふむ、やはり、かなり親しい相手なのだな」
ではなぜ食事の誘いを断られてしまったのか。
「案外向こうも、手料理を振舞いたいのではないか?」
「椿くん、自意識過剰だろう、それは」
「ボクがじゃないだろう!」
「他意識過剰……ですか?」
「キリもまた変なところに乗っからんでよろしい!」
「すみません」
たしかに、相手のことを知りもしないのに、そのような推論は早計だろう。椿はコホンと咳払いをした。
「これでどうなるか、というところだな……」
見守るだけというのは歯痒いものである。
*
「軽い物がいいかと思って、サンドイッチにしちゃったんだけど」
大きめの白い紙袋を手に生徒会室に入ってきた榛葉は、いつもと同じ、フラワリィな微笑みを浮かべながら、ひらりと右手を振った。
「フルーツサンドとかもあるから、デザート感覚で食べられると思うよ。加藤とか椿ちゃんは、普通のでオッケー?」
「私は食べるぞ」
席を立ち上がった浅雛は、眼鏡を輝かせた。
「待っていました、榛葉さん」
「ありがとー、デージーちゃん。ってアレ、ミモリンとウサミちゃんは?」
「会計の仕事で少々出てしまっていて……」
ややこしくなりそうだったので、元・会計にもサポートを頼んでいるので、二人して不在になってしまったのだ。そうなんだ、と榛葉は僅かに残念そうな顔をしたが、すぐに切り替えて笑みを浮かべると、キリにも手を振った。
「椿ちゃん、嫌いな食べ物ないよね? 加藤も大丈夫だろ?」
紙袋から取り出されたのは、ビニールの容器だった。トーストされたパン、耳を切り落とされた白いパン、フレンチトーストのような色味のものもある。
「これはちょっとだけどフルーツサンド。中はイチゴとパイナップルとピーチ。こっちはたまごサンドで、ベーコンレタストマトにかつサンド、これはツナサラダで、こっちはスモークサーモンにレタスとチーズを一緒に挟んで……あ、ベーグルサンドも作ってきたんだ。これはツナマヨとかクリームチーズであっさり目、えびアボカドがこれ、蒸し鶏をスライスしたのが――」
「って、どんだけ作ってきたんですか!」
その紙袋のどこから出てくるのかと問いたくなるくらいに、ビニールの容器が来客用のテーブルに積まれていく。
「やー、やり始めたら止まらなくなっちゃって。あ、これはクロック・ムッシュだから温かい内に食べてねー。こっちはハムチーズフレンチトーストだよ」
浅雛がぼうっと、ピクニックに行きたい、と呟いたが、量的に言うと間違いなくそうなるだろう。
「えーっと、これも、余ったらテイクアウトで」
榛葉はぱちりとウインクした。愛嬌なのだろう。
「お昼に食べたい」
「あはは、じゃあ今度、お弁当でも作ってこようかな」
浅雛の瞳がきらりと光ったので、椿は慌てた。
「浅雛! 少しは遠慮というものを知らないのか!」
「冗談だ。昼に来てもらえるわけがないだろう」
憤慨したように言うが、半分くらい本気だっただろうことはわかる。浅雛はふん、と顔を背けた。
「器用だな、アンタ」
「加藤も器用だろぉ? よかったらクロック・ムッシュ食べてくれないかな」
はい、とビニールの容器ごとキリの手に榛葉は押し込んだ。
(クロック・ムッシュ……?)
椿は首を捻りながら、キリの手元を覗き込む。
「榛葉さん、この上にかかっているものは?」
「ああ、ベシャメルソースだよ」
クロック・ムッシュの次は、ベシャメルソースと来た。なんだかわからないが、どこかクリームシチューやグラタンに似た香りが漂っており、香りだけでも美味しそうだ。
「キリ、食べたら飲み物」
一口大のロールサンドを摘みながら浅雛が指示をしても、キリは「自分で行け」と取り合わなかった。仕方がない、と椿が改めて「飲み物を頼む」と言えば、掌を返すみたいにキリはあっさりと頷く。会長も、とハムチーズフレンチトーストの容器を机に乗せられた。
フレンチトーストというのは甘いものではないかと思いながら口にしてみると、椿の想定する甘いそれとは異なり、コショウの効いた卵の味とハム・チーズは絶妙に絡んでいた。チーズも市販のスライスチーズではないらしい。聞いてもわからないだろうと思って、それ以上は口に出さずに咀嚼する。
「……おいしいです」
「ふふっ、ありがと、椿ちゃん」
榛葉は伸びをした。入り込む橙色の光――夕焼けが顔を紅く染め上げている。見惚れてしまっていると、視線に気付いたらしい榛葉が首を傾げたので、慌ててもう一口頬張った。
「な、なんというかその、本当にピクニックにでも行きたくなりますね」
「いいねー。前の生徒会と、今の生徒会とで」
重複している者が三名いるので、キリ、宇佐美、榛葉、そして安形がそれに加わるのだ。榛葉は笑って、生徒会長の席の後ろに開ける窓の方へと、視線を投げた。
「榛葉さん?」
「ん? まだ食べられるようだったら、こっちも食べてみて? ベーグルも作ってみたんだ」
「作れるのか!」
浅雛は驚いたように叫ぶと、ベーグルの入った容器を手にとってまじまじと見つめた。
「……食べてばかりになるところだったな。榛葉さん、今、どうなっているんだ」
パックを開けようとした手を止め、浅雛が視線を榛葉の方へと向けると、榛葉は笑った。
「うまくいかなくて」
「そう、なんですか?」
「うーん、一時は、いろいろあって奢られるってことはなかったんだけど、また戻っちゃって」
困ったね、と榛葉はのんびり笑う。
「前より頻繁にご飯に誘われてる気もしててね」
「榛葉さん……それはやっぱり」
「椿ちゃんもしつこいなぁ」
じとっと見ると、榛葉は苦笑した。
「そこまで頑迷に言うのなら、たしかめてみたらどうだ」
「たしかめるって」
「こちら側は友達だと思っているのだ、と、きっちりアピールしておく」
「それ、必要あるの?」
当然のことだよ、と榛葉は困ったように笑う。
「相手が当然と思ってねぇ可能性はあるだろ」
クロック・ムッシュを食べ終え、ダッシュで四人分の飲み物を用意して戻ってきたキリは、榛葉にペットボトルを渡しながら言葉を挟んだ。
「オレに言わせれば、みんなの方こそ頑固だよー」
ペットボトルの蓋を開けて、冷たい紅茶を喉に流し込む。そんな単純な仕草すら、榛葉はどこまでいっても美しい。
「一応、それとなくは言ってみる。変に思われるだけだとは思うけど」
榛葉は溜息を吐いた。
*
榛葉さんは意外と鈍いのではないか。
彼が帰ってから、全員集まった生徒会メンバで話し合った結果、そのように結論付けられてしまった。以前に兄、藤崎佑助が榛葉に対して、恋の魔術師とか言ってたぜあのモテ男、などと奇っ怪なことを言っていたが、椿にはとてもではないがそんな風に思えない。彼の友人というのは恐らく、まったく気付いてくれない榛葉を相手にしても、挫けることなく懸命に誘い出しているのだ。相手がどんな人物なのか余計に気にかかったが、それを聞くのはタブーのような気がするし、推測で人物像を描くべきでもないだろう。
とは言え、そんなことは、生徒会執行の業務の片手間に考えたにすぎず、一学期中に体育祭もあることから、それらの準備について早めに話し合ったり、日々は忙しく過ぎていた。榛葉がサンドイッチを片手に訪れて数日、忙しなさも抜け切らない矢先に、再び、今度は安形が現れたのである。
「……いろいろとやっているにもかかわらず、友達だとしか思われていないということですか?」
「それは……お辛いですわね」
「ツライってほどでもねぇよ、ミモリン。友人だってのは向こうも前に言ってたしよ、だいたいはわかってたことだからな」
言葉の通り、安形はとても気落ちしている、といった様子は見せていなかった。熱心に誘った賜物かどうかはわからないが、誘いには応じてくれたらしいし、手料理だって食べられたという話をしてくれたが、何度目かの逢瀬(安形の方から見た主観的に言えば)の際に、自分たちは友達だと、それとなく言われたらしいのだ。
「安形会長の好意について、相手も勘付いているんでしょうか……」
その上で、友人だと言うのであれば、少々状況が悪い。安形は、その辺はわからねぇな、と曖昧な返答だった。忙しい合間でもあったため、生徒会室に残っていたのは、穏和だかぼんやりしている丹生と、恋愛については疎い椿のみ。重要な話であるにもかかわらず、頼れる人間が少なかった。
(浅雛、宇佐美、キリがとても頼れる、とは思わないが)
「話聞いてもらっといてワリィけど、まー、アレなら、やっぱこのままでいいような気もしてんだよ」
「……ないです」
「椿?」
「らしくないです。このままではよくないから、いろいろと考えてきたんじゃないですか!」
椿には恋愛はわからない。かつて由比涼子が語ったように、エゴがあるとかなんとか言われても、ピンと来ない。それでもただ、好きだという相手になにも言わず、友達のまま終わらせようという安形の態度は、なにか違うと思った。
「せっかく――前みたく会えるようになってんだ。それともオメーは、友情壊してまでなんかしろってか?」
「……それ、は」
「安形会長は、傍にいられるだけでも幸せなのですわね」
丹生は両手を軽く組んだ。祈りを捧げるみたいなポーズだ。
「とても素敵なことだと思います。でも、なんだか淋しい気もしますわ」
彼女の言葉は静かな室内に厳かに響いた。淋しいと聞いて、椿も合点がいく。諦めてしまうのは、そうやって傍にいるだけなのは、きっと、淋しいことなのだ。
(それが恐らく、恋)
椿にはまだわからないけれど。
(榛葉さんにはそれが、わかるのだろうか)
兄が『恋の魔術師』などと言った榛葉の姿がふと脳を過る。女性に自由に花を見せられる、などと言っていたが、彼自身がいつだって花みたいに笑っていた。
「……相手の方は、花とか、好きですか?」
「ん? あぁ、好き……、だな」
「だったら、花を贈るのはどうでしょう。花でなくともなにか、気持ちを伝えられるような物とか」
「赤い薔薇百本でも贈れってか」
「茶化さないでください」
むっとすると、安形は楽しげに笑った。その顔が明るかったので、ほっと安堵する。
「そういえば、重要なことを忘れていました。もしかして、相手にはもう好きな人がいるとか、そういうことはないでしょうか」
「聞いたこたねぇけど」
「だめですわ、それは調べておかないといけませんわ」
丹生は再び自身の両手を握った。
「モテる人、なんですよね? すでに恋人がいるとか、可能性はないのでしょうか」
あー、と安形は曖昧な返事をして頭を掻いた。緻密な天才のはずなのに、こういう部分で粗が出てしまうのは、やはり、恋愛は得意でない証拠だろうか。丹生はもう一度、お尋ねした方がよいと思います、と珍しく強い口調で訴えた。
「わぁった。オメーたちの意見はちゃんと聞くよ」
「まあ、よかったですわね、椿くん」
両手を握ったまま、丹生はこちらに向かってうれしそうに微笑んだ。
「あ、ああ、そうだな」
おっとりとした笑顔は普段から見ているが、満面の笑みを浮かべる丹生は珍しい。柄にもなくどきりとしてしまったものだから、返答に少し詰まった。
「あの、安形さん」
「どうした、椿?」
「相手の人は――ご友人、なんですか?」
なぜ、そんなことを聞いたのかはわからない。椿は口から出してみて、自分の質問に疑問を持った。改めて尋ねずとも、情況証拠だけで十分に判明していることだ。看病してくれる。共に食事をしてくれる。何度でも会ってくれる。手料理も振舞ってくれる。
安形は少し黙って、珍しく、髪を軽く掻き上げた。黙って、済ました表情をしていれば、この人も十分様になる顔をしているのに、怠そうな表情ばかりだから、隣にいた彼の親友に、人気をすべて奪われてしまうのだ。
(なんだ、今、違和感がまた)
「だろうな」
そうして安形は、彼にしてはとても珍しいくらいに優しく、瞳を細めた。また来ると言い残し、余韻を残したまま安形は去っていく。
「いいですわね」
丹生はなにがと言わずに微笑む。
「……ああ、そうだな」
そうなのだ、と純粋に思った。辛い出来事があったり、悲しい結果に終わることもあるかも知れないけれど、彼のように柔らかく、強く、温かく、人を想えるということはきっと素晴らしい。
(願わくば、安形さんの望みが叶いますように)
恋愛に疎いらしいとは知らなかったが、よい人で、本物の天才なのだと知っている。敬愛する先輩だからこそ、報われますようにと祈った。
*
今現在、榛葉に好きな人はいないらしい。
「好きな人がいるか聞かれるとは、やはり榛葉さんは愛されている」
「デージーちゃん、からかわないでよ」
浅雛の言葉に、榛葉は困ったように微笑む。
「そうじゃなくて、前に、いろいろあって……オレが好きな人を誤解されてたってことがあったんだ。すっごいロクでもない勘違いでなんだけど……、だからまたそういうことかと思って。だったら困っちゃうなあと」
彼は非常に形のいい眉毛を顰めて、考え込む様子を見せた。友人から食事の席で、好きなヤツはいないのか、と聞かれたのだと言う。恋人は、とも。椿と一緒に生徒会室で彼の話を聞いた浅雛は、もちろん、やっぱりその相手は榛葉さんが好きなのだと気色ばんでしまって、椿はすっかり気圧されてしまったのだが、彼女の言うことには同意したい気持ちだった。
(困っているのは相手の方なのだろうな)
榛葉は絶対に認めようとしないのだ。なにが彼をそこまで意固地にさせているのか知らないが、好きな人はいないという発言からも、相手が好きなわけではないらしいということはわかる。
「あの、榛葉さんは、相手のことが嫌いではないと言っていましたが、逆に、どうなんですか?」
「……どうって?」
ことりと首を傾げる。
「もしも、仮にですが、その友人から好きだと言われたら」
「だから、ありえないって」
「仮定の話だ」
「ないよ」
榛葉はきっぱりと言い切った。微笑んでいるが、言葉の端は揺らがない。
「変なこと言わないでよ、椿ちゃんも、デージーちゃんも」
嫌いな相手ではない、大切な相手だと言い切っているほどだし、榛葉にとっては大事な相手なのだろう。それは間違いない。
(そうでなければ、呼び出しに応じたりはしないか)
けれど、恋愛とは違う。相手は同性だし、友人だし。
「と、ごめん、メールだ」
榛葉はジャケットのポケットからスマートフォンを取り出すと、手早く操作する。もしや件の相手ではと思ったが、差出人は大学の知り合いの女の子と言うことで、大学でもモテモテなのだろうな、と椿は思った。
「榛葉さん、可愛いストラップを付けているな」
送信を完了させたらしい榛葉の手元を浅雛が指差す。彼の白いスマートフォンからは、浅雛の言った通り、可愛いらしい銀色のストラップが下がっていた。
「薔薇の花ですか?」
「ああ、これ? 貰ったんだ」
素材は遠目の椿からはよくわからないが、シルエットは判別できる。そのストラップに触れると、榛葉は笑みを浮かべた。
「貰い物らしいんだけど、いらないからって」
「……榛葉さん、もしかしてそれをくれたのって」
「友人だけど?」
さらりと言われて、椿はがくりと頭を垂らしてしまった。
(そうかやっぱり、榛葉さんは鈍いんだ――)
確信した。その友達が今まで話題となっていた相手だと、簡単に結び付けられる。これだけしても、榛葉の態度には変化がない。
(携帯電話に付けているくらいだし、大切に扱っているのは事実か)
なんとも難しい。そもそも榛葉は絶対に認めないのだから、こちらがなにかを動かそうとしても無駄なのだ。梃子でも動かないとは正にこのこと。
「長居するのも悪いし、オレは帰るね。休講になったから急に来ちゃったけど、手ブラでごめん」
「構わないですよ! というかいつも本当に、すみません」
「いーんだよ。オレが好きでやってるだけだから」
にこっと榛葉は微笑む。
「GNF(激ニブふわふわ頭)」
ぽそりと浅雛は彼に聞こえないように呟き、次は甘いものがいいと勝手なことを言う。榛葉が笑顔で応えてしまう所為なのだろうが、この人が、女の子の頼みを断るはずがないことは椿もよく知っている。そうして榛葉が笑みを浮かべたまま去っていくのを見届けて、椿は残っている浅雛に、どう思うか尋ねてみた。浅雛は腕を組み、こっくりと頷く。
「間違いなく、相手は榛葉さんが好きなのだろうな。ご愁傷様だ」
プレゼントか、と椿も思う。
(しかし、なんだ。この違和感のようなものは……)
椿は一人で頭を捻る。榛葉の話を聞いていると、なにか違和感に似たものが頭をもたげてくるのだ。思えばもう、随分と前から感じているような気がする。浅雛に尋ねようとしたが、彼女はモイモイと戯れており、邪魔をするのは憚られた。そうこうしている内にキリが戻ってきて、丹生も宇佐美も帰ってくると、生徒会業務を行わねばならず、ぼんやりと考え込んでばかりもいられない。仕事をしている内に、違和感なんてものは宙に消えていってしまった。
*
便利屋でもないのに資料室の整理を、生徒会長なんだから、という言葉で頼まれてしまった。ダメならスケット団に、などと言われては断れず、それなりに重労働をこなして椿は疲れていた。身体は鍛えているが、まったく疲労しないはずもない。キリには代わりにパトロールするように言い付けてしまったため、一人でというのも堪えた。
「よぉ、椿。なに疲れてんだ」
「……キミか。なんでもない」
今は口喧嘩するのも億劫だ。それでなくとも、まだ生徒会室に戻って定例会を行わねばならず、気が重いのである。あしらうように言えば、藤崎は不満気にこちらを睨む。
「なんだよ、生徒会長様は気取ってやがんのな」
「ああ、うるさいうるさい。ボクは疲れているんだ」
「ほらやっぱりな」
面倒だなと思ったが、生憎と今はキリも傍にいない。
(や、というか、キリに頼りすぎるのもよくないな)
すっかり後ろにいるのが日常になってしまっている。元は後輩を顎で使うなど、と思っていたはずなのに、気付けば彼に命じてしまっている己がいて、気を付けねばならないと思っていたところでもあった。
「そういや生徒会長っていやぁ、安形のヤローと、もう一人、なんだったっけなー……ファンクラブとかいた」
「榛葉さんのことか?」
「おーソイツ。最近よく生徒会室に来るってスイッチが言ってたけどよ」
「笛吹は本当に情報通なのだな」
肩を動かしながら、椿は息を吐いた。
「なにしに来てんだ? もしかして、お前まだ、こき使われてんじゃねぇのか?」
「バカなことを言うな! というか、先輩方に失礼だろう。第一ボクは、昔からこき使われてなどいない!」
「はんっ、どうだかな」
不敬な発言が目立つ藤崎に、米神辺りにでも青筋が浮かびそうになったが、ここで腹を立てるのは相手の思う壺だろう。彼は、椿が怒るからますます、そんなことを言い出すのだ。売り言葉に買い言葉を必要としている。
「……お二人とも、悩みを相談しに来てくださっているのだ」
「はあ? 相談してくださってるぅ?」
立場が逆じゃねぇかと言われたが聞き流し、椿は事の経緯をざっくばらんに説明した。別段、藤崎からのアドヴァイスなどが欲しかったわけではないし、向こうが状況を理解しようがしまいがどうでもいい。この場を早く終わらせたかっただけだ。些か早口気味で説明したが、藤崎は椿に聞き返してくるようなこともなく、ふんふんと頷きながら聞いていた。
「わかったらボクはもう行くぞ」
「――ちょっと待て、椿」
話し終えて、もういいだろうと背を向けたところで、急に手首を掴まれてギョッとした。
「藤崎? ボクは急いでいるんだ」
彼はゴーグルを掛けると集中力が増すらしいが、ふと顔を見ると、その集中しているときのような真剣な目をしている。
「待てよ、安形のヤローとえーと……」
「……榛葉さんだ」
「あのモテるヤツの話だ」
名前を出したのになぜ使わないのだ。
「お二人がどうだと言うんだ」
よもや自分以上に的確な助言を見付けたというのだろうかと椿は身構える。この兄というのは、ちゃらんぽらんの癖に、椿よりもセンスがあり、閃きについてはほとんど天才的だった。以前に安形と張り合ったことがあるほど、頭脳は働く。
「お前、気付いてないのかよ!」
「なにがだ?」
「……つーかよー、生徒会ってのはボケばっかか」
「なっ、侮辱する気か!」
「お前ら気付いてねぇみたいだから教えてやっけど、たぶんそれなぁ……」
そうして椿は、兄の口から驚愕するような言葉を聞くことになった。
*
「安形さん、いらしてたんですか!」
「おう、遅かったな椿」
「そうだぞ、遅いぞ椿くん」
来客用のソファに腰掛けている安形は、扉を開ける椿の姿を見ると、軽く右手を上げた。浅雛は完全に椅子を後ろに向けている。その横で丹生がふわりと微笑み、宇佐美が「遅いですとお伝えください」と丹生に伝えている。キリは相変わらず、椿の後ろの定位置だ。
「パトロールが終わったので先に戻っていたんですが、なにかあったんですか?」
「いや、なにもない」
椿は右手を軽く振る。学校内での問題は、なにも起きていない。
「んじゃ、オレはそろそろ暇すっか」
「またいらしてください、安形会長――」
「ちょっと待ってください!」
椿が声をあげると、全員の視線が生徒会長の椅子に座る椿の方へと向いた。
「あの……いつもの、安形さんの好きな」
「それはもう聞いた。聞きたいなら椿くんにも後で聞かせてやる」
「安形さんは、その……相手のことを本当に好きなんですよね」
「椿くんどうしたんですの?」
そんなの当たり前だろう、と浅雛が言う。たしかにそうかも知れない。どうしても好きな人だからどうにかしたくて、こんなところにまで相談に来ている。それなのに、重要な一手が打てないからなにも進まない――相手との関係が大事だからで、だから安形の気持ちは容易いものであろうはずがない。けれど、今、どうしてもたしかめたかった。そうせねば椿には言えない。真剣な目で見ると、安形はやや面食らっていた様子ではあったが、最後には頷き、頭を軽く振った。
「そうだ」
「だったら、その気持ちを伝えた方がいいと思います。時機というならば今だと」
「そりゃまた急な話だな」
安形はかっかっかっと笑う。
「ボクは、回りくどい真似をするよりも、ストレイトに言った方がよいと思います」
「……それはオメーの意見なんだな」
「はい」
生徒会室がしんと静まる。端と端にいるのに、安形と椿が中心になっているように、皆の視線が二点を見る。やがて安形は立ち上がると、背を向けた。
「今まで悪かったな」
「安形さん!」
浅雛が呼び止めるように声をあげても、安形は振り返らなかった。そのまま、扉を開けて去っていく。
「椿くん、どういうことだ……」
「なにかあったんですの?」
「……わかったんだ」
「なにがですか、と、お伝えください」
「安形さんの好きな人が」
三拍くらい置いて、えぇッという叫びで生徒会室が埋め尽くされた。
「違和感は最初から感じていた。言葉にはしがたいなにかがずっと、引っかかっていた」
椿が最初にそう言うと、浅雛が「前置きはいらん!」と怒ったように詰め寄ってきた。
「誰なんだ、相手というのは!」
浅雛も、丹生も、キリも宇佐美も、誰も気付いていない。指摘され、解を知った今となっては、藤崎の言う通り、全員がボケているのではないかと思ってしまっても仕方がないように感じてしまう。
「……例えば安形さんの好きな相手がどんな人物だか、ボクらはまったく知らないんだ。ただ、安形さんにどうアプローチすればいいのかをうっすらとアドヴァイスしているだけで。精々知っているのは、大学が違うこと、相当モテるらしいということ、それから安形さんとは親しい仲だ、ということくらい。安形さんが語ってくれなかったのだから当然だ。だが、安形さんが相手のことを詳しく語らなかったのは、最初から答えないという姿勢をとっていたのには、理由があったんだ」
「理由、ですか?」
「言ったらわかってしまうから、だ」
四人、呆気にとられたようにポカンと椿を見ている。
「ちょっと聞いたくらいで相手がわかるはずないだろう。安形さんの交友関係を我々が網羅しているとでも言う気か」
「わかるんだ。……ずっと、ボクも疑問に思っていたんだ、安形さんはどうして榛葉さんに相談しないのか。ボクらに恋愛経験がないことも、そのテの話題に疎いことも、安形さんは知らないはずがない。なのに、安形さんは、とても親しい榛葉さんを差し置いてボクらに相談することにした。そして、同時期に――榛葉さんも、悩んで、ここを訪れている」
言い切って呼吸をすると、丹生が首を傾げた。
「それは、話しにくいからだということだったのではありませんでしょうか?」
「SG(榛葉さんは偶然)」
「そう、勝手に思っていたのは、ボクらだけだ。榛葉さんが来たのは偶然ではないし、安形さんが榛葉さんに相談しなかったのは、もっと単純な理由によるものだったんだ」
「単純な……理由?」
浅雛がくりかえす。
「相手が榛葉さんだったから、だ」」
再び生徒会室に静寂。
「相手、というのは」
その沈黙を破るように、浅雛が口を開いた。
「安形さんの好きな相手のことだ。安形さんの好きな人が榛葉さんだったから、相談することは不可能だったし、榛葉さんに相談するなんて最初から想定外のことなんだ」
また数秒沈黙があり、生徒会室が驚く声で溢れた。耳がキンとするほどに、部屋中を満たしている。
(藤崎に言われないと気付かないとは、本当にボクも……)
――アイツら、友人同士なんだろ? だったら、その安形の相手ってのがモテ男で、モテ男の相手ってのが安形なんじゃねぇの?
たった一言で確信をつかれてしまったのだ。
「なんでそんな、ややこしいことになるんだ! そんなはずはないだろう!」
「ボクもそう思った。……まあ、別に図式はややこしくないが。たしかに、そう考えると辻褄が合うとは言え、俄には信じがたい」
「しかし、会長は確信を持っていらっしゃるようでしたが」
振り返ってキリに頷く。
「だから、聞いたんだ。安形紗綾に」
「まあ」
首を傾げた宇佐美に浅雛が、安形さんの妹だ、と助け舟を出した。
「ゴールデンウィークに安形さんを看病した相手は誰か、と」
藤崎の言葉に呆けていた椿は、「椿くんじゃない」と呼び止められた声で我に返った。
「ぼーっと立ってて、なにしてるの?」
「安形紗綾……キミこそなにを」
「もう帰るところよ」
ぷいっと紗綾は顔を背けた。椿くんには関係ないじゃない、と言われてしまうと、返答に困る。
「そういえば、椿くんたち、最近、お兄ちゃんに会ってるの? 今日も来てるのかなぁ」
「ああ、会っているのは事実だ。今日来ているかまではわからないが」
「ふうん。あっもしかして、ミチルさんも一緒?」
「しっ、榛葉さん? いや、榛葉さんと一緒にいるのは見たことがない……」
安形と榛葉と聞いて、思わず脳が反応してしまった。
(なにをバカな!)
たしかにそう考えれば、辻褄は合うのかも知れない。指摘を受けて考えてみたが、時期と発言を一致させていけばさせていくほどに、噛み合っているように思えてならなかった。しかし、現実というのは別に、辻褄合わせするために動いているわけではない。噛み合ったからそれが真実であると決めつけるのは早計にもほどがある。
「そうなんだ。最近お兄ちゃん、ミチルさんといつも会ってるみたいだから、てっきり一緒なのかと思った」
「いつも……会う?」
「いっつも『ミチルとメシ食ってくる』ばっかり言ってるけど?」
紗綾は人差し指を顎に当てて、軽く首を傾ける。
(……ちょっと待ってくれ)
「だから最近は、お兄ちゃん今日もミチルさんと食べるのって夕飯前に聞いてるんだけど」
「それは本当に、榛葉さんなのか?」
「椿くんなに言ってるの?」
紗綾は思いっ切り眉を顰めた。
「ミチルさんの焼いたクッキー持って帰ってきたこともあるし、だいたい、なんでお兄ちゃんが嘘吐くのよ」
わけわかんない、と紗綾は腕を組んでぷいと顔を背けた。
「つかぬことを聞くが、安形紗綾」
「……なによ」
「ゴールデンウィークに安形さんが風邪をひいた、と聞いたんだが」
「あ、うん。ちょうどゴールデンウィークが始まったくらいに大雨が降ったでしょ? そのときずぶ濡れで帰ってきて、そのまま倒れちゃった。びっくりしたんだからね!」
「誰が、安形さんを看病したんだ?」
「え? 誰って……」
「安形紗綾は、はっきりと言ったよ。たまたま家に来た榛葉さんに、旅行にいく自分に代わって看病を頼んだ、と」
椿の言葉に、生徒会室はまた、静寂に包まれた。安形の最初の話が嘘でないとすれば、安形が好きな相手というのは、ゴールデンウィークに自分を看病してくれた相手である。紗綾の言葉ではないが、安形がわざわざ自分たちに嘘を言う必要性はない。彼の話は真であるはずだ。そして、榛葉の話が嘘でないならば、彼を困らせている相手というのは、頻繁に食事に誘う相手。
「相手の趣味と聞いて安形さんは、料理のことを思い浮かべたんだろう。榛葉さんと言えば料理というのは、ボクらでも思い付くし、本人も公言しているからな。それで、どこか、おいしい食事でもできる店に連れ出したんだ。自分の奢りで」
椿たちが最初にしたアドヴァイスの通り、安形は看病の礼と称して飲食代を支払った。そう言われれば、最初は榛葉もすんなりと受け入れたのだろう。
「これは推論になるが――一般的に、好きな女性と食事などに出かけたら、自分が飲食代を持つべきだ、と、ボクが読んだ本にも書いてあった。安形さんはきっと同じように考えて、毎回、飲食代を自分で支払ったのではないだろうか。安形紗綾の話によると、それまで随分とバイトばかりしていたらしいし、そういった余裕があったのだと思う」
「椿くん、なにを読んだんだ?」
「うっ、うるさい」
「なにも知らない榛葉さんは、それをおかしいと感じたんですわね」
「……恐らく。一度や二度ならばわかる。けれど毎回であれば、不審にも思うし、なにより心苦しいのではないだろうか。それで、榛葉さんは開盟まで足を運んだんだ。偶然じゃない。安形さんと過ごした記憶がある場所だったから、足を向けたのだと思う」
「なんだ。我々の読みは当たっているじゃないか」
浅雛の言う通りである。気があるから奢っているのではないか、という読みは完全に当たっていたのだ。よもや、自分たちのしたアドヴァイスに依拠するものだとは思わなかったにしろ。
「安形のヤロー、極端だな」
「……否定できない」
昔から付き合いのある友人を度々誘い出し、その飲食代を毎度持つというのは、人間関係に明るくない椿であっても妙を感じる。
「安形さんは、変に盲目なところがある」
「ああ、安形紗綾を使ったときもそうだったな」
彼の頭脳を持ってすれば、なんでも簡単に見抜いてしまえるだろうと思うのに、どこか一つ、足りないというのか欠けているというのか、ボタンを掛け違えるとずっとそのままになってしまうのだ。なまじ天才などと呼ばれているから、彼は自分の誤りに気付くまでは時間が掛かるし、周囲の人間も彼が間違うということを思い付かない。
「そしてボクらが余計なことを榛葉さんに言ったがために、安形さんは誘いを断られてしまった」
で、生徒会室に来た。循環している。
「今になって思えば、気付くポイントはいくつもあったんだ。安形さんを家で看病するような親しい友人が、出会って一ヶ月に満たない大学でできるとは考えにくいし、そこまで親しい相手だと思えば、付き合いの長い榛葉さんには容易に行き着いたはずだ。モテる人と聞いて榛葉さんを即座に浮かべてよさそうなものを。その上、ボクの中にあった違和感というのは、先に聞いた話と後に聞いた話とが連関しすぎているということだし、一方から片思いの相手へのアピールの話を聞いて、一方から友人からアピールされているかも知れない、という話を聞いているのにちっとも結び付けようとしなかったなんて、手落ちにもほどがある!」
「THN(椿くん話長い)」
「だいたい、あのお二方に他の友人がいると考えたのが間違いだった!」
唯一無二のようだ、と自分で思ったにもかかわらずだ。
「会長、それはさすがに失礼では、と、お伝えください」
丹生にじっと見られたが、微妙にそのことには気付いているので黙殺した。
「それで会長は、どうしてあんなことを言ったんですか?」
「……今が時機だと言ったことか? 榛葉さんは、頑なに否定しているにもかかわらず、会うのを止めようとしないだろう? 嫌いな相手に対する反応であるはずがない。まあ、榛葉さんが安形さんを嫌うはずもないだろうが……しかし反応を見ても『そうであるはずがないから』という時点で思考停止させてしまっている」
浅雛もそう思わなかったか、と話を振ると、少し思案して彼女は頷いた。
「誘いを断った理由もはっきりした。ただの友人に奢られる謂れはないということだ。安形さんと会うのが迷惑だとか、共に食事することを疎んでいるといったことが理由ではない。現に榛葉さんは大切な相手だと言っているし、はっきりと奢られるのは迷惑だと言うことすら躊躇っているようだった。反応は極めて好意的だ。……安形紗綾曰く、最近では週の大半は二人で食事をしているということらしいが、榛葉さんは気付こうとしない。だったら、もし必要な一手が他にあるとするなら、はっきりと伝えることじゃないかとボクは思う」
言い切って息を吐くと、キリが「さすが会長です」と尊敬するようなまなざしを送ってくれた。
「結局、我々は、安形さんの手助けをしていたのか? それとも、邪魔をしていたのか?」
浅雛は首を捻っている。丹生が少し眉を下げた。困ったように笑っている。
(ああ、こんなややこしいことになるのなら――)
最初からそう言ってくれればよかったのに。
榛葉が好きだと言ってくれれば。安形の様子がおかしいのだと言ってくれれば。
「……ケーキ、食べたいな」
「今度、榛葉さんに頼むか」
「次に来るときは、お二人一緒がいいですわね」
「みんな揃って、サンドイッチでピクニックがしたいです」
「そうだな……上手く行くと、いいな」
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