恋に落ちた天才


 無事に後期試験を終えて安堵したところでふと我に返ってみると、ここ一連の妙な出来事というのは全部、同じところに根があるということに安形は気が付いた。根本的な誤解からスタートした椿との対話、藤崎・椿兄弟との喫茶店での邂逅。どちらも、安形としては椿と紗綾のことを話したつもりであったが、はっきりと名指ししたわけではない。会話内容を鑑みるに、どこかズレている椿は兄との関係について話しているつもりだったのだろうと推測できた。藤崎はどうやら、紗綾が自分を好いていることを知っていて、話していたのだろう。あの男嫌いで奥手だろうと思われた妹が告白でもしたのかも知れないが、考えると若干立腹してしまいそうなので、思考停止させた。藤崎が横槍を入れようとしている、と考えた辺りから、安形が周囲のことに気を配れなくなったわけであるのだが、それから突然、友人が家にやってきたのだ。
(……ミチルが家に来たのは)
 名目は勉強を教えて欲しいということであったが、もちろん彼は、安形を心配して来てくれたのである。部屋で話したので、まったくそれは知っているのだが、その後、なんだか知らないフリップ説明についてを安形が考え込んでしまった所為で、安形はさらに誤解を重ねたわけで。
「ミチル、悪くねぇなぁ……」
 思わず遠い目になってしまった。どうしてミチルが部屋にまでやってきたのか、という根本が、安形にはよくわからなかったのである。妹以外のことにおいて、安形はそれほど他人を心配したことがないし、関心も多くは払っていない。それはたしかに、ミチルが憂い顔をしていれば、らしくないなと思うけれど。
(いや、そりゃやっぱり気にするな)
 うんうんと頷く。特に、いつだって明るい表情で貴公子的な微笑みを浮かべているのだから、余計に気になるのだ。あれで、気落ちしていれば顔に出る方だし、他人が思うよりミチルは素直な気質だ。それを曲げて、格好付けてばかりいるというだけで。とかく、安形もミチルが悩んでいるとあれば気にせざるを得ない、という点では変わりないように思う。控えているのが受験だろうがそうでなかろうが、同じことだ。彼が言っていた通り、だって、友人だから。たとえ見返りなんてなくてもそうやって動く。紗綾のことで目が曇っていたとは言え、安形はと言えば、その好意を気付かずに踏みにじったのだ。頭の中の図式だけが滅茶苦茶に広がって、誤解が誤解を招き、仕方ないから――その図式の人間たちは、小芝居を打つことになった。今思うと、演技が下手な人間が多かった気がするが、あそこでまでいらん格好を付ける必要はあるのか。一番演技の上手だった友人にツッコミを入れたいばかりの安形である。椿が瞬間移動するはずもないので、生徒会室にいたのは藤崎だったのだろうなとか、なんでもうんうん頷くイエスマンと化していただけだろうとか、他にも言いたいことは無論あるのだが。
 椿ならばまだわかる、と最初は思ったのだが、そもそも論として、双子なので終局的に藤崎も椿も似通っている。思い出してきたらまた腹が立ってきたので、やっぱり藤崎佑助のことは頭から除いた。それだけスケット団も紗綾もミチルも、無駄に動いたにもかかわらず、安形の誤解が更に増してしまっただけだったために、朝からあんまりうれしくない妹とその想い人のシーンを見させられた、と、これが全貌なのだ。細かに考えたわけではないが、試験日の朝、三秒で気が付いた通りのことである。
(で、どうすっか)
 紗綾は大切な妹である。大事な大事な、そして目に入れても痛くないくらいに可愛い妹。椿ならば許せると思ったが、別に、他では許容できないということはもちろんないだろう。基準はただひとつ、妹が幸せになれるか否か。少し考えてみたものの、苛立ちの方が強かったので、やっぱり考えることは放棄した。学校ででも会って、その時に浮かんだことが、たぶん正解なのだ。
 他にはどうか。スケット団はあれで、人助けを趣味と生業にする集団なので、安形が礼を言うのは門違い。そうすると、最初の方から心配してくれていた友人のことだけが残ってくる。思えば、スケット団の面々というのは、紗綾が親しいからということで、三文芝居に付き合っただけだろう。安形を一番に心配してくれていたのは、ミチルだ。だからと言って「心配してくれてありがとう」などと言いたくもないし、言う性格でもないことをたぶん向こうは心得ている。それで感謝はしているのだとわかってくれているのだから、心情が通じているということは本当に強い。安形の悩みですら一発で看破できるのは、ある意味、どうして彼がモテるのかということにも繋がっているように思った。人の心に寄り添い、そうした上で心を向けてくれるのだ。
「まぁ……、迷惑かけただろうな」
 にこにこっとしているからわかりにくい。時折安形ですら、笑っているから平気なのではと思ってしまいそうになる。でも、文句の一つや二つ、言っていいのではないかと思われた。

 藤崎佑助は元々、悪い人間ではない。開盟学園にいる無数の人間の中では、弟分だと感じる椿と並んで、認められるとも思っていた。そうであれば、結論は自然と出てくる。紗綾には、藤崎は安形と似ているといった複雑なことを言われたが、まだ妹はちゃんと兄を想ってくれているのだ、と思えば悪い言葉ではない。認めざるを得ないだろう。素直に思った。とは言っても、可愛い可愛い妹が、複数の男に翻弄されているということはないにしても、一介の同級生なんかに惚れてしまって、自分の手まで離したということに寂寥感は否めない。屋上でつらつらとそんなことを考えていると、それまでちっとも顔を見せなかった友人が、ちょこんと現れた。寒くない? なんて、いつものように笑っている。彼を取り巻く歓声は聞こえない。静かで、穏やかで、ただ春に近付く風だけが吹いている。
「迷惑、かけたな」
 言葉に出したのは珍しい。料理番組の事件のときも(あれは絶対にミチルが悪い)、謝罪関連の言葉は口に出していない。ミチルはそれも含めて怒っていたようだが、彼が怒ったことと言えば、最近ではその程度だ。ちらりと見ると、ミチルはヘーゼルの色をした澄んだ瞳でまばたきをして、ほんの少しだけ笑ったように見えた。
「なんのこと?」
 あっさりと、それだけ。他にはなにも言わず、椿ちゃんたちだ、と見下ろして優雅に微笑む。一番迷惑をかけられたはずなのに、好意も伝わらずにきっと、踏みにじられただなんて思わないだろうけれど、少なくとも歯痒い気持ちにはなっただろうに、ミチルは一つも恨み事なんて言わない。悩みが解消できてよかったね、と笑っているだけだ。きっと、こんなに優しいから、女子が集まるのだ。彼を見て、きゃあきゃあと叫ぶのだ。ファンクラブができあがるのだ。――好きになってしまうのだ。
「卒業式は晴れるといいね」
 晴れるかな、とミチルは微笑んだ。
「……晴れるだろ」
「安形が言うと、本当になりそうでいいな」
 屋上フェンスから右手を伸ばして、左手で髪を触る。整えるのが癖のように。
 それから、ねっ、とこちらを向いて、ミチルはウインクした。その瞳の中に星が輝いて見えたのは、恐らくとんでもない不覚だったのだろうと思う。

OVAラストのミチルの清らかな嫁っぷりたるや