「藤崎には陰がある」
そう、前の生徒会長である安形から聞いたのは、まだ、彼が双子の兄だと椿が知るよりも前のことだった。その頃、安形はすべて見抜いていたかのように、藤崎と椿は似ている、と言っており、椿はそんな彼の言葉を話半分で聞いていた。あんな男と自分とが似ているものか、と。上級生でもあり、敬愛する会長でもあった彼や榛葉からは揶揄われていたことも多く、何かと張り合ってばかりいるので、その一つとして彼は言っているのだろうと思っていた。それでも、脳天気な藤崎佑助のイメージとは違うその言葉を、頭の片隅で、椿は覚えていた。光ある場所には影が生ずる。そういった類だろうか、と少しだけ思って、忘れた。
その言葉を椿が明確に思い出したのは文化祭の日、自らの誕生日で――藤崎佑助が、双子の兄だと知った日だった。それきりまた忘れてしまい、もうすぐ彼が引退するという頃にふっと、思い出した。彼が会長でなくなってしまえば、会う機会も話す機会も殆どなくなる。そうすれば、気軽に話をすることも出来なくなるだろうと思ったからかも知れない。藤崎への興味と安形惣司郎という人物への郷愁。その何れとも取れずに、何となく言葉にした。以前、藤崎のことを陰があると言っていましたね、と。彼は珍しく遅くまで会長椅子で書類を整頓していた。
「お前に言ったっけか、それ」
「仰っていました」
「……んなモン、もう忘れろ」
「は?」
さらりと言われて、椿は思わず安形を凝視してしまった。
「んー、まぁ、色々とあんだろーがよ」
「何がですか!」
やっぱり揶揄っていたのかと思って椿が椅子を立ちかけたところで、安形はいつになく真面目そうな眼差しをこちらに投げ掛けた。この表情に、椿は幾度となく黙らされている。
「お前だって、いつまでも同じじゃねぇだろ」
「ボクがですか?」
「かっかっか! おめーも会ったばっかの頃は、今より尖ってたじゃねぇか」
最近も肩肘張り過ぎてるけどな、と安形は笑う。気合が空回りしているということは、指摘された以外でも自覚していたので、椿はさっと目を逸らしてしまった。
「それは……その」
「まだ堅ぇとこは変わってねぇけどな。昔に比べりゃ、丸まってきてる。兄貴のお陰っつーのもあるんじゃねぇか?」
「藤崎は関係ありません」
即答すると、ますます安形は笑みを深めた。過剰反応するのが図星だとでも言わんばかりだ。
「おんなじことだよ」
「同じ? 何がですか?」
「たまにゃあ、自分で考えるんだな。もうヒント出してやるヤツぁいなくなるんだ」
「……まだ……じゃないですか」
「まだなんつってると、いつの間にか過ぎてんだよ」
それでもまだ生徒会長は自分だ、と、言ったのはむしろ安形の方なのだ。きゅっと眉間に皺を寄せたのは、苛立ちのような負の感情によるものではないだろう。
「何でもいいが、張り切り過ぎて、怪我すんなよ」
「……気を付けます」
安形の言を忘れたわけではなかったが、基本的に椿は直情的だし、後先を考えずに動いてしまうことも多い。言い訳するわけではないが、怪我することを厭わないで行動している訳ではなかった。
(やはり言い訳か)
以前にも利き腕を刺されたことがあったが、大事には至らなかった。今も同じ。脳震盪を起こして意識を喪失してしまった為に、仰々しくも救急車などが呼ばれて、自分の家に担ぎ込まれたが、外傷はなく、脳に異常もなさそうだった。そんなことを、両親が咎め含めるように言っていたような気がしたが、半覚醒状態だったので、記憶には薄い。
自慢ではないが、ボクシングの経験から、脳震盪程度ならば経験している。だから椿は動転していなかった。壁に激突したくらいでは、人は死なない。それも、喧嘩の仲裁に入って突き飛ばされたくらいでは尚更だ。
「オイ、椿! 椿! しっかりしろ!」
だからどちらかと言えば、揺すらないでくれる方が助かるのだが、うっすらとした意識では言葉は出てこなかった。身体は殆ど眠っているのに、声だけが鼓膜を叩いている。兄の声が。取り乱しているような、混乱した様子ではない。けれど、普段通りというほどに落ち着いた言葉でもなかった。ずっと自分を呼び続けている。どうしてそんなにと言いたくなった。
「お前がいなくなったら、俺は――」
死ぬなよ、と切な声を聞いた。
(この程度で、死ぬ訳がない)
もしも彼が倒れたら、同じように叫ぶだろうかと思う。医者の息子として、怪我の程度は知っているつもりだ。それでも、目覚めない彼を見たら、パニックになってしまうかも知れない。それは、理屈ではないのだ。眠っている意識の中で、安形の言葉を思い出した。
『藤崎には陰がある』
朧気にその言葉の意味が分かったような気がした。
本当の両親を知ったときに、藤崎は、自分を天涯孤独の身だと考えたのだろう、と椿の父は語った。お前という兄弟の、弟の存在を知らず、近親者が誰もいないという彼を取り巻く境遇は辛いものだっただろうと。だからこそ椿に事実を語る必要があった。彼は孤独だったのだ。普遍的な親も兄弟も祖父母も従兄弟も誰も知らないで世界にいる。それが彼の持つ陰だと言うのならば、それが鳴りを潜めたとしても不思議はない。何故ならば彼には、半身が存在したと判明したのだから。同じ遺伝子構造を持つ弟がいる。一人ではない。彼も、椿自身も。
それまでに自身を、藤崎佑助の弟だと理屈で分かっても、そのように理解したことはなかった。さして仲の良くない同級生。藤崎が言ったように、自分をそう、思っていた。それでも彼は特別な存在だと、安形に語った通りに感じる。
「ふじ、さき」
「椿! お前、平気なのかよ!」
薄暗い視界の中に、金色に光る目が見えた。
(弟だ)
自分は、この人の弟なのだ。椿佐介は藤崎佑助の弟だ。椿は初めて、そのように考えた。もし、たとえ二度と彼に会うことがなかったとしても、それは揺るがない。事実ではなく、理屈ではなく、感情としてそう、定義付けることが出来た。
「会長はどうして、藤崎を気にするんですか?」
何気なく言われた言葉に、椿は背をぴくりと震わせた。
「なっ、気にしてなどいない!」
「ですが」
「くどい! まったく、誰も彼も……」
生徒会の仲間も、スケット団の鬼塚や笛吹も、揃いも揃って、藤崎と椿が並ぶだけでも不思議な視線で見るのだ。見守っているような、何となく、生暖かい目。それまでは口喧嘩をしても宥めるような言葉ばかりだったのに、双子だと分かって以降、まるで微笑ましそうに見るのだ。
書類を整えつつ憤慨する椿を前に、キリは首を少し傾げた。
「なにかあるんですか?」
「そんなこと、ボクの方が聞きた――」
苛立ったまま言葉を続けようとしたところで、不意に気が付いた。キリが生徒会に加入してそれなりに経つが、こうして執行部の部室で過ごすようになったのは極最近のことだ。それまで、キリと話そうとしても逃げられてばかりいたので、人となりも詳しくない。当然、キリの方から見ても、椿のことなど詳しくは知らないだろう。
「もしかして、キリは知らないのか?」
「なにがでしょうか?」
「その……ボクと、藤崎とのことだ」
キリは黒目がちな瞳を瞬かせると、軽く眉間に皺を寄せた。
「会長が、不真面目な態度のあの男のことを気に入っていないということは知っていますが」
そして主の敵はオレの敵です、などと言うので、敵ではないと慌てて椿は訂正した。
「たしかに、あの時一緒に来ていましたよね。なにもせずに、轡を殴っただけですが」
「……あれにはボクも驚いたな」
後になって考えれば、椿やキリが激昂したように、仲間である鬼塚のことを悪く言われれば、藤崎が怒るのも無理はなかったのだろう。ただ、椿とは異なり、藤崎は幼稚だとは思うが、普段は短気ではないのだ。それが手を出したので驚いたのだろう。
「って、別に、来てくれと頼んだ訳でもないからな!? 勝手にあの男が付いてきたというだけで」
椿は腕を組んで、ふんっと鼻を鳴らした。
「と、そうではない。わざわざ聞かせるほどのこともないが」
「はい」
「ボクと藤崎は、……双子の兄弟だ」
「はい……えぇっ!? 会長と藤崎がですか!?」
かなり驚いたらしく、キリはガタンと席から立ち上がった。表情の変化は薄いが、どうやら狼狽しているらしい。珍しいことだなと思いながら、手元の書類に判を押す。次が最後の一枚だった。
「あ、あぁ。なんだ、随分と反応をするんだな」
「すみません、取り乱してしまって……」
「いや構わん。しかし、本当に知らなかったのか」
二年生の間では少し話題になったが、学年も一つ下のキリには与り知らぬ話だったのだろう。
「いえ、その、真面目な会長とあの藤崎とが、というのは意外で……会長、お名前、椿佐介様でしたよね?」
「様はいらん。そうだが」
「苗字が、と言うか、家も違いますよね?」
「ん? あぁ、それか……まぁ、話せば長くなる、かも知れん」
「長くても構いません」
力強く言うキリに、椿は苦笑した。
「聞いて楽しい話でもないぞ?」
そう椿が言えば、キリは少し眉を下げた。
「プライベートなこと……ですか?」
「いや、言って聞かせるのは構わん。浅雛や丹生も知っていることだ」
「ではお願いします」
きりりとした表情でこちらを見るので、何だか大層なことでも話すような気がして、椿は軽く肩を竦めた。奇抜な話でも重苦しい話でもないというのに、どこから話し始めたものだろうかと少し戸惑ってしまう。最後の書類を確認して、ちらりと腕時計を確認してみた。少し遅くなってはいるものの、焦って帰らなければならない時間でもない。コホンと椿は咳払いをした。
「ボクと藤崎の両親は、ボクたちが生まれた日に亡くなっている」
虚を衝かれたように、キリの肩が揺れた。
「待ってください! 会長は以前、優しい両親に育てられて生きてきた、と仰っていたと記憶しています!」
「なんだ、良く覚えているんだな。そうだ。ボクを育ててくれた両親は優しい人達だ」
キリは表情を硬くし、口を閉じたまま、瞬きを数回した。
「一言で言えば、別々の家に引き取られて育ってきたから、というのが、苗字と家が異なる理由だな」
やはりキリは表情を硬くしたまま、押し黙っている。
「実を言うと、ボクも最近――去年の誕生日まで、知らなかったんだ。藤崎が、自分の兄だということを」
「どういう、ことですか……?」
「去年の誕生日……あぁ、丁度文化祭の日だったが、その前日、父から知らされたんだ。自分達が本当の両親でないことと、双子の兄弟がいることを。尤も、両親が違うことについてはボクは知っていたが、藤崎のことについては……全く、寝耳に水だった。最初聞いたときは、ショックで寝付けなかったな」
繊細なタチではないと思うが、その日は初めて、眠れなかった。今までに寝付けなかったことなんて一度もなかったのに、良く分からない感情が渦巻いて、意識がいつまでも覚醒してしまっていたのだ。あの日と、その翌日『兄弟』として初めて会話した日のことを、椿は恐らく生涯忘れられないだろう。ただ、こうして人に話すことで、自分の気持ちが落ち着いたということは実感出来た。
「向こうも、その日初めて知ったのだから、お互い様だったのだとは思う。それまでもここで過ごしていて、藤崎とはやりあってばかりでな。そういうこともあってか、どうも周囲は兄弟、しかも双子だと分かってからは、何かとそのネタで絡んでくる」
考えてみれば、(勝手に)椿を主君と仰ぐキリが、揶揄するようなことをするはずもなかったのだろうが、やはり椿自身も反応が過剰になってしまっている感が否めない。だから、周囲の人間も揶揄うのだ。
「言ってみればそれだけの話だ」
「会長は」
大したことではない、と言おうとしたところで、声が被せられた。キリがこちらの言葉を遮るように発言するのは珍しい。
「のうのうと生きてこられた……、わけでは、ないんですね」
「? 何だそれは」
首を傾げると、キリは苦い顔をした。
「境遇の話なら、同情するようなことはないぞ。ボクは育ててくれた両親を本当の両親だと思っている。これまでも、これからも。藤崎のことは……複雑ではあるが」
彼が俯いたので、椿は右手を軽く振った。椿自身、血の繋がりについて、あまり気にしないようになっているのだ。両親は両親で、藤崎は単なる口喧嘩の相手で。
(完全にそれだけとも言えないが)
血は水よりも濃い。藤崎が完全な孤独にならないでいられるのは、椿の存在があるからだ。それは自覚している。椿が独りだと思わなかった理由もまた、彼にあるのだから。両親がいなくても自分には藤崎佑助という兄がいる。あまり意識しない部分で、それを椿は感じているのだ。
「聞いて楽しい話ではなかったろう?」
「いえ……無理を言ってしまって、すみませんでした」
「気にするな。本当に大したことじゃないんだ」
話を終わりにする意味も込めて、椿は書類を整える。これで残ってしまった仕事も終わりだ。安形がいなくなって、今まで会長から委任されていた仕事が、自分の仕事として回ってくるようになっただけで、実態は変わっていない。椿としては別に副会長の丹生に任せるつもりもなかったので、彼女の方は新しい会計に仕事を教えつつ、のんびりと過ごしている。
「会長は――すごいですね」
「どうしたんだ、急に」
「いえ、改めて、会長はやはりオレが最も尊敬すべきお方だと」
「だーっ、それはいい! やめろと言っているだろう!」
忠誠を誓うだの何だの大袈裟なことを止めるようにと常から言っているが、キリは全く聞かない。そういう頑固な面は変わらないのだろう。後輩に慕って貰えるということは有難いが、過剰になれば戸惑いの方が大きい。
(いやしかし、以前に比べれば……他の仲間とも仲良くしてくれているようだし)
最初に椿が「まぁいっか」と思ってしまったのが、最終的には原因なので、あまり強くは言えないのだ。それまでのキリは傍若無人というか独り善がりだったし、生徒会のスローガンに協調を定めていた椿の方針とは反していたし、それが改善されるのならば今より悪いこともないだろう、と。あの時に何か対策をしていればキリの現状が変わったかと言われると、正直、変わらないのではないかと思うのだが。
前半と後半関係ないですね 藤椿兄弟絡まずにキリ椿が動かない…… シジル:ぺよんの敵から取った