学校の行事というものは、それなりに胸踊るものだろうと考えていた。昔の自分は行事に積極的であったとは言い難かったが、高校に進学してからはそれなりに交友関係も広がり、イベントというものを肯定的に過ごせるようになってきている。たまに、羽目を外すのも人としては重要なことだ。一種のガス抜きであるとも言える。先代の会長である安形が肩の力を抜け、と言っていたこととも呼応する部分があるのだろう、と椿は考えていた。
「だから、何度言わせたら分かるのだ」
そしてそれ故に、目下頭を悩ませている。
「来週の修学旅行に『行かない』というのはどういうことだ、キリ」
「言葉の通りです、会長」
生徒会室、役員の顔をすべて見渡せる位置にある会長の席の前で、長身に銀色の髪が似合う庶務の彼の姿がある。
「俺は修学旅行には行きません」
「何でだ!」
思わず椿は机を両手で叩いた。キッと睨むように鋭く見詰めても、彼の顔色は一つも変わらない。従者のように従順な表情で、静かに佇んでいる。背後からの夕焼けが、顔を明るく照らしていた。
「キリ……お前がいつも、ボクを守りたいだのどうだの言うことは理解している。それに、人様の迷惑にならないことであれば、迎合もしているつもりだ。ボクはちっともお前の主になった記憶はないが、それについてもわざわざ否定したりしていない。だがそれらはすべて、支障が出ない程度であれば、だ」
「ですが、三日もお側を離れるとあっては、敵の脅威が心配で」
「だから脅威って何だ脅威って! ボクは誰からも狙われていないと何度言ったら分かるのだ、この愚か者ォ!」
あぁもう、と椿は頭を抱えたい気持ちになった。キリが椿に忠誠を誓う、などと言い出してもうすぐ一年にもなる。彼の忠誠心とでも言うべき真っ直ぐな心は理解しているし、評価していないこともない。自らの発言の通り、今でも主である気はしていないが、それでも、自分のためにと動いてくれることをありがたいことだとも思っている。望んだ通り、素直で優秀な庶務がいてくれることを快く思う。
「それに、会長はぼーっとしていらっしゃるので」
「していない! 何度言えば分かるんだ!」
果てない問答も何度繰り返したことだろうか。
「大体、たったの三日だろう。休日だってそのくらいは――」
口に出してみて、もしかして休日もどこかに潜んでいるのではないか、と一瞬だけ思った。いやまさかそんなはずは、と軽く頭を振り、不穏な思考を振り落とす。そう言えば、夏休みも連日のように生徒会室に集まっていたし、キリとはほとんど顔を合わせてばかりいた。他に長期で顔を合わせないこともない。
(だが、三日だぞ)
そもそも、常に傍にいなければという取り決めはない。彼が何を言おうと、椿とキリは主従関係にはないのである。
(戦国時代でもあるまいし、主従とは何だ、主従とは。そういえばこの前読んだ小説はおもしろかったな、安形さんだけでなくキリともこういったことで話が弾むのは良いことだ――)
「会長」
「はっ、な、何だ?」
うっかり思考に耽ってしまったことを隠すように、椿は咳払いをしてキリを見据えた。感情をあまり悟らせない真っ黒な切れ長の瞳が、椿に傾けられている。こうして対面に立つのは珍しい。普段、彼は、背後にばかりいる。
「たかが三日、されど三日です」
「あぁ……そうか……」
しかし言っていることはいつもと変わらない。
「俺がいない間、会長に何かあったらと思うと、夜も眠れません」
「睡眠はしっかり採れ。規則正しい生活を送ってこそ、全校生徒の模範となれるというものだ」
「はい」
再び二人きりの生徒会室に沈黙が流れる。
早く対処すれば良かったのだ。これまでにもキリは、来月は修学旅行があるな、と椿が言った折に「俺には会長をお守りする任務がありますので、行きません」などと発言していたが、まさかそれを本気だと思う人間がいるだろうか、いや、いない。
「修学旅行は、文字通り、学を修める旅行だ」
「はい」
「生徒として、参加する必要がある行事なのだ」
「ですが俺には会長を守ることの方が重要で」
「えぇい命令だ、キリ! 修学旅行くらいきちんと行け!」
人差し指で人を指すのは行儀が悪いことだとは思ったが胸の辺りを指で差して、命令してしまった。何でも自分の言うことを聞くという彼には、出来れば命令したくないとは思っているのだが、これだけ偏屈であれば致し方がない。宵の色を思わせる真っ黒な目は一度瞬きをすると、少しだけ陰ったように見えた。自分がこうして『命じる』ことは、大概、彼の望むことではないのだ。
「……会長」
「何だ」
彼は命令とあれば、違えることはないはずだ。これで何とか、修学旅行に行かせることが出来る。溜飲を下げようとしたところで、キリは口を開いた。
「風邪を引いて休む、という可能性もありますよね……?」
「仮病を使うなど以ての外だ、愚か者ォォ!」
椿はまた声を上げてしまった。
「はぁ? なんで俺らがお前を守らなきゃいけねぇんだよ」
「だから、守るのではなく、守る振りで良いのだと言っているだろう! 話を聞け!」
スケット団の部室は、いつも通り菓子類がテーブルに並び、双子の兄でもある藤崎は今日も脳天気な顔で二人のメンバーと談笑してばかりいる。
「大体、アイツなんなんだよ、加藤」
「何とは何だ」
「まぁまぁ」
「まぁまぁってお前もなぁ!」
やはり彼らに相談するのは間違いだっただろうか、と椿は溜息を吐いた。凡そ、他に相談出来そうな相手もいないし、仕方なしにここまで足を向けたは良いが、早々に後悔し始めている。
「せっかく椿が、いつもみたいにお兄ちゃん頼ってきてくれたんやでぇ?」
なぁ、と鬼塚は椅子に座る椿の背後から肩を叩いた。彼女は藤崎の弟であるということを知って以降、椿に対して自分の弟か何かのような親愛を芽生えさせているらしいのだ。彼女からはそれこそキリの過去についての話を聞かせて貰ったりと恩義がないこともないが、本来的にはそれほど親しい関係にはないはずである。とは言え、ただの不良少女なのではないかと思っていた時期もあったが、今は単なる世話焼き(主に藤崎に対して)で、藤崎に負けず劣らずのお人好しの一人なのだと思っていた。
「いつもではない!」
『そうは言っているが、一年前に比べて部室に来る頻度は』
「えぇい黙れ! 話を聞く気がないならボクは帰らせて貰う!」
笛吹が更に余計なことをデジタル音で口走ろうとするので、椿は立ち上がった。
「加藤が修学旅行いかねぇって駄々こねてるっつーことだろ」
話聞くから座れよ、と藤崎は椅子に座ったままこちらを見上げた。自分と同じ、琥珀色の瞳が割と真剣そうにこちらを見ているので、椿はもう一度腰を下ろした。常から彼を兄だとか双子の兄弟だとか、そういう風に思っているわけではないが、いざという時に頼りになる存在だと、思わないでもないでいる。
「あぁ……敵の脅威がどうとか言って、ボクのことを心配しているらしいのだが」
「ま、お前、ボーッとしてっからな」
『そうだな』
「何だと! このボクのどこが、ぼーっとしていると言うのだ! どちらかと言えばボクはしっかりした人間で」
「おめーに直接言ってもどうせわかんねぇだろうから言わねぇけど」
「まぁまぁ、椿がどうかはともかくや。問題は加藤のことやろ?」
自分はしっかりした人間だという自負がある椿にしてみれば、ぼーっとしているなどと言われるのは非常に心外である。それもキリに留まらず、藤崎にまで言われては納得が行かない。しかしここで激高しても話が進まない。落ち着け、と椿は自分に言い聞かせた。
「行きたくないってんなら、行かなくてもいいだろ。お前が気にすることでもねぇじゃねぇか」
「そらまぁ、せやな」
好きなことを言って、と椿は眉間に皺を寄せる。
「……ボクは、キリにも行事を楽しんで欲しいと思っている。一年前のアイツは一人だった。いや、中学のあの時からずっとそうだったのだろう。だとすれば、学校行事を楽しんだ経験など少ないに違いない。だが、今は違う。言い争いが絶えないようだが、学友も出来たようだし、同じ役員の宇佐美という仲間もいる」
彼女もまだ男嫌いを克服するには至っていないし、二人が目立って仲良くしている様子を見たことはないが、キリも生徒会役員を仲間だと意識してくれているらしいことは椿にも分かっていた。性格も丸くなってきていることが分かるし、今の彼にとって修学旅行は、孤立して楽しくない行事などではないはずなのだ。
守るとかどうだとか、そういうことはどちらでも構わない。キリがそうしたいのであれば、そうしても良いけれど、それで、彼の行動を阻害するようなことがあってはならないのだ。そういう存在でいたくない。
「正直加藤は気に食わねぇ」
黙って聞いていた藤崎は、少し間を開けて口を開いた。
「アイツが修学旅行に行っても行かなくても俺には関係ないけどよ、でも、お前が困ってるってんなら、力を貸してやんないでもない」
「素直やないんやからな、ボッスンは」
鬼塚が藤崎の背を叩いた。まったくだな、と笛吹が電子の音声で楽しげに笑う。
「で、具体的にはどうすりゃいんだ?」
「だから、キリの代わりにスケット団に警護を依頼したから問題がない、ということにすれば良いのではないかと思っているのだ」
敵の脅威とは何を指すのか、椿には皆目検討がつかないのだが、少なくとも、身辺警護をする者がいるとあれば、キリも納得してくれるのではないかと思うのだ。それも、一応、兄がいるとなれば尚更に。
「無論、本当の護衛は必要ない。そうだな、キリが何か言うようであれば、少しばかり演技を頼むかも知れないが」
『お安い御用だ』
「なんでスイッチが請け負うとるねん。ここはお兄ちゃんの出番やろ」
なぁボッスン、と鬼塚はにやりと笑った。
「……藤崎が?」
思わず眉間に皺が寄ってしまった。
「おまっ、椿! どういう意味だ!」
「藤崎の護衛では心許ないな、という意味だ」
鼻を鳴らして言うと、藤崎は立ち上がる。
「なんだとコラ!」
藤崎が掴みかかったところで、ふと鬼塚が首を傾げた。
「そういや、加藤はおらへんの? 珍しなぁ」
「あぁ、クラスの用事があると言っていたが――」
言い掛けたところで黒い影が過ぎった。
「会長への狼藉」
いつの間にか藤崎の身体が自分から離れていたと思えば、見慣れた苦無が彼の首には突き付けられている。
「だからコイツ怖いんだよ!」
「遅れてすみませんでした、会長」
俊敏に椿の足元に膝を付くと、キリは顔を上げてこちらを見た。遅れるも何も、特に何かを約した記憶はないのだが、彼のこれは性分だ。今更、椿もツッコミなどは入れない。
「調度良かった、キリ。今、スケット団に依頼をしていたのだ」
「依頼……ですか? 何かあるのでしたら、俺に言ってくだされば」
「来週のことだ」
来週ですか、とキリは軽く首を傾げる。まるで、来週、修学旅行という行事があることを覚えていないかのような反応だ。本当に、行くつもりがないらしいので心配になる。コホン、と椿は咳払いした。
「お前が修学旅行で不在の間、スケット団にご……護衛? を、頼もうと思ってな」
「スケット団に、ですか?」
キリは瞬きを重ねた。それから徐に振り返り、藤崎の顔を睨むように見る。見られた藤崎は嫌そうに瞳を細めた。
「せや、ボッスンに任しとき! なんたって、お兄ちゃんやからな」
『そうだそうだ』
「まぁ、その……藤崎が、守ってくれる……らしいから」
「“お兄ちゃん”が守ってくれるからな!」
『そうだそうだ』
「えぇい何なんだキミ達は!」
毎度毎度、椿と藤崎のことになると鬼塚も笛吹も異様なテンションでからかってくる。そんなに、双子という関係は物珍しいものなのだろうか。
「藤崎が、俺に代わって会長を?」
「そ、そういうことだ。だから、キリ、お前は安心して修学旅行に行くが良い」
振り返ったキリに腕を組んで言うと、彼は黙った。
「アンタに会長を任せられるのか?」
じろりと、キリはまた藤崎を睨む。
「椿は俺の弟だ」
面と向かってそのように言われたのは初めてなので、どきっとした。
「信用ならねぇ」
「って即行か!」
そんなこちらの心情とキリの信頼とは、全く重ならないものらしい。キリは一蹴すると、再びこちらに振り返った。椿の手を取り「俺がお側にいないと」と言う。
「お、鬼塚もいる! ほら、笛吹もいるだろう! ともかくお前は修学旅行に行けと言っただろうが!」
「だー! 椿が行けっつってんだから行けよ! お前、コイツの命令ならなんでも聞くんじゃねぇのかよ!」
「め、命令って言うな! ボクだってこんなこと言いたくて言った訳ではない!」
「会長……」
キリは手を離すと、微かに淋しそうな目になった。
「わかりました。修学旅行には行きます。会長の命とあらば」
「わ、分かれば良いんだ。後のことはスケット団に任せて、お前は修学旅行を楽しんで来れば良い。スキー旅行だろう? キリは身体能力が高いからな、スキーも得意なんじゃないのか?」
「滑ったことはありませんが、会長が望むのであれば、滑り切って見せます」
「望むというか、まぁ、楽しんでこい」
「はい」
素直に頷いたキリに安堵して、そろそろ生徒会室に戻るかと促した。
「一件落着やな」
『めでたしめでたし』
「スイッチ、お前の今日の出番ひでーな……ヤジみてーなの言ってるだけだろ」
『はっはっは』
後のことは心配しないように、とキリを送り出したのが、昨日のこと。
(……まさか、このタイミングで)
眩む頭を押さえ付けながら、椿は思考を働かせようと努める。高熱で倒れたのは今日の昼頃のことだ。医者の不養生だとか何とか言われた気がするが、実家が病院だからとて、椿は医師でも何でもない。しかし、体調管理が出来ていなかったのは素直に反省すべきことだろう。何も今この時にとは思ったが、反面、彼がここにいたら、どれだけ心配させてしまっただろうかとも考えた。つまり、いなくて良かったのではないか、と。一人きりの部屋はいつもと同じだけの静寂しか有していないのに、いつもよりも冷たく淋しく瞼に映る。ここ最近は感じることのなかった、緩やかな孤独というものが横たえられているかのように。
(キリは、ちゃんと、打ち解けられているだろうか)
意固地になってしまうところがある。まるで、椿の命令しか聞かないことを、良いことだ・優れたことだ、と勘違いしてしまっているみたいに。椿が周囲と仲良くと言ったから、ではなく、自発的に人と接するべきなのだ。それが出来ない人ではないのに。本当は仲間思いの優しい人間だ。
「……眠った方が良いか」
「そう思います」
「考えが纏まらないとどうにも収まりが悪くて眠れな――い……?」
椿はがばりと身体を起こした。
「うええっ!? き、キリィ!?」
「会長! 急に起きてはお身体に障ります!」
「障ります、ではないだろう! キリ、お前、どうしてここにいるんだ!」
視界はぼんやりとしていたが、銀髪らしきものと、いつもの黒いカーディガンを着たらしい姿で、キリはベッド脇にいた。
「会長が風邪で倒れたとの報せを受けて、駆け付けました!」
「ど……どこから」
誇らしげな声に嫌な予感しかしない。それでも椿は、声を絞り出すようにして尋ねた。
「旅行先からです」
さらりと言われて絶句した。先程までも少しばかり頭が痛むと感じていたが、ますます頭痛は酷くなっていく。思わず額を押さえると、「俺のことは気にせず休んでください!」などとキリは宣う。
(呆れて……物も言えん……)
会長、とキリは呟いて、椿の手を取った。
「俺が付いていれば、このようなことには……!」
「風邪とお前とが、どう関係するというのだ」
「やはり俺が付いていなければ。俺は、常に会長のお側にいます。離れません!」
「……一応、聞いておくが、誰から話を聞いた」
「鬼姫です」
どうにもお節介な彼女の、元気そうな姿が頭の中でパッと再生された。悪意はないだろうし、まさか彼女とて、キリが舞い戻ってくるとは思わなかっただろう。
「まだ手が熱いようですから、熱も引いていないと思います。俺が傍にいてお守りしていますから、安心してゆっくりと休んでください!」
「キリ、お前はどうやって部屋に入ってきたんだ」
「眠れないようでしたら子守唄でも」
やはりツッコミが追い付かない。彼はいつ鬼塚から連絡を受けたのだろうか。どのようにして戻ってきたのだろうか。どうやって、この部屋にいるのだろうか。いつから。
(駄目だ……考えるだけの思考能力が、今のボクには、ない)
「キリ」
「何でしょうか、会長」
どこまでも子供扱いのようで釈然としない。風邪を引いたら傍にいてあげないといけないなんて、まるで幼児だ。
「ボクの所為で、お前は」
急に意識が落ちてきた。考え過ぎて却って疲労が蓄積されたのかも知れない。最後まで言葉を発するだけの体力もなく、意識はくらりと落ちる。会長、と一言だけ声が聞こえた。
先達というものは、後人に道を示すべき存在である。かつての安形のように、安心と信頼を与えられるようになりたい。それは、学校をより良くするという目標と共に椿に芽生えていた、先輩らしい意識でもあった。それまで、部活動を行った経験もないし、後輩らしい後輩がいたこともない。キリや宇佐美は、そんな椿に初めて出来た後輩で、仲間だった。道を示せるようにと、そう思うことはある意味では傲岸かも知れない。安形は恐らく、そのようなことを考えて進んでいたわけではない。ただその背を自分が追い、ずっと憧れていただけで。そこに、前を行く者としての意義はあった。
助けられたと彼は言い、今度は自分が忠義を尽くす番だとも言った。今でもその言葉が分からないでいる。
(ボクに何が出来ている)
意識が開けてきたところで、まだ、誰かが傍にいる気配を感じた。
「キリ、まだ――」
「平気か、椿」
予想と違う声に、急激に意識が覚醒した。ガバッと起き上がって、そこにいる人を見る。近眼で良くは見えないが、恐らく、声の主がいるのだろう。当たり前だ。
「藤崎、何故、キミが」
「頼まれたんだよ、忍者に」
とくとくと胸は不自然に鼓動を刻んでいた。
椿の両親は温順で優しい。幼い頃から、椿が熱を出せば付きっきりで傍にいてくれた。今は、病院のこともあるし、一人で平気だからと部屋に篭ったが、慌てて診察し、薬を処方してくれる辺りは、まだまだ過保護なのだろう。そんな彼らと椿と、血の繋がりはない。
(兄弟がいたら、というのはまだ、幻想に近いな)
傍でじっと、苦しそうにしている兄弟を、見守っているのだろうか。
「別に、心配して来たとかじゃねぇからな」
「言われなくても知っている」
ふう、と息を吐くと、まだ具合悪いのか、と藤崎は顔を軽く近付けた。やっと、彼の顔がはっきりと見える。目が合うと、慌てたように藤崎は離れた。
「いや、もう熱はないと思う」
「んならいいけど。無理すんなよ」
「分かっている。無理をしたつもりもなかった。面倒を掛けてすまなかったな」
「別に……」
「ところでキリは?」
「んあ!? なんでお前そんなに忍者気にするワケ!?」
「何でとは何だ。寝る前にキリがいたから、どうしたかと思って――、はっ! もしや、あれは夢だったのか?」
良く良く考えてみれば、キリの姿を見たのは一瞬のように思う。睡眠と睡眠の間に少しだけ覚醒したときに見た程度だし、眼鏡もコンタクトもないので姿はぼやけていた。その上、記憶も朧気だ。
「いんや。加藤ならたしかにこっちに戻ってきてたぜ」
「そ、そうだったか……ん? そう言えば、君はキリに頼まれたと言っていたな」
あぁ、と藤崎は肩を動かしたようだった。
「夜にわざわざ家まで押し掛けてきやがって。新潟に戻るから、会長に付いててくれって」
「そんなことをキミに頼んだのか」
「……あの加藤が頭まで下げんだ、まぁ、困ってるヤツがいたら助けてやろうって考えてるしよぉ、仕方なく……」
「そうか。では、キリは戻ったのだな」
何気なく口にして、ここから新潟まで本当にどうやって往復したのだろうか、と思ったが、考えないことにした。彼は色々と規格外なのである。いずれにしても、キリが無事に修学旅行に戻ってくれたのであれば何よりだ。
「つうか、加藤のことなんざ、ホントにお前が気にするこっちゃねぇだろ」
「後輩の面倒を見ることも先輩の努めだ」
キミには分からないだろうが、と含みを込めて言うと、うるせぇと悪態をつかれた。
「なんか知んねぇけどよ。アイツは、お前といたいって方が重要なんじゃねぇの?」
「……キリの話か?」
首を傾げると、お前な、と藤崎は溜息を吐いた。
「馬鹿なことを言うな。キリも行事を楽しんでいるのを見てきているんだぞ、ボクは」
「そら、お前が傍にいたからだろ」
「何を」
「ほらよ。これ、預かってきてっから」
藤崎は乱雑に白い封筒らしきものを手渡した。
「手紙?」
キリにはメールアドレスも教えてある。わざわざ手紙を託す必要があるだろうか、と首を傾げながら、ベッドサイドの眼鏡を掴んだ。封筒には『椿佐介 様』と丁寧な毛筆で書かれている。
「そりゃ俺も言ったよ。あーなんか、『会長は視力が悪い。その上、具合の悪いときに小さな画面の文字を読むのは身体に負担だと思ったからな』だと」
「どうでも良いが、君は人の真似が上手だな……」
レターカッターのような洒落たものはない。机に鋏があるんだ、と言うと、藤崎はそれを取って寄越してくれた。きちんと糊付けされた封筒に慎重に鋏を入れて、中の白い便箋を取り出す。
「心配だった、か」
本当は付きっきりでいたかったが、椿が修学旅行に行って欲しいと考えているのだということを考慮して、やむなく(この部分は強調されていた)頼むことにした、と便箋には記されていた。
「――藤崎」
「なんだよ」
「付いていてくれて、ありがとう」
気味ワリィな、と藤崎は首を振った。自分でもあまり、らしくはないな、と思う。風邪で弱っているのかも知れない。
「そういや、お前が眼鏡掛けてんの、初めて見たな」
「そうだったか? まぁ、普段は掛けないからな」
さっと外すと、気にしてんのか、と藤崎は小さく呟いた。
「何をだ?」
「眼鏡だよ、眼鏡。近眼なの」
「? どういう意味だ?」
「……なんでもねぇ」
「何でもないとは何だ」
「いーから寝てろ! 病人はよ!」
煙に巻かれたような気持ちになりながらも、まだ体調が万全でないことを考慮して、再びベッドに身体を横たえた。
「帰ってきたら、すぐに顔を出すってよ」
「書いてあった」
「あぁそうかよ! 俺は帰るからな!」
寝転んだまま頷くと、立ち上がりかけた藤崎はぴたりと動作を止めた。
「……一人で平気なのかよ」
「平気だ。熱も下がっているし……と言うか、最初から一人で平気だ。キリのヤツめ」
キリが来たから、そして藤崎に後を頼んだりするから、まるで一人でいられないように見られてしまっただけだ。過保護か、と呆れて呟く。
「……てやる」
「え? 何だ、良く聞こえない」
「だから、付いててやるっつてんだよ! とっとと寝ろ!」
「なっ、何を言っているんだ、キミは。一人で平気だと言っているだろう」
「いいから寝てろ!」
強引な言い方に、二の句が継げずに黙らされてしまった。
「ルミは風邪引いたときだけ、いっつもみたいな強気な態度じゃなくなるんだよ」
「……あまり妹に迷惑を掛けるなよ」
「かけてねぇっての。年末のは、お前も同罪だろ」
結局モンファンは買わずじまいだった。楽しかったけれど、きっと、独りでは遊ばない。図鑑と地図とばかりを見て過ごしていたのは、そういう理由もあるのだ。
(まぁ、昔は暗かったか)
「弱ってるときは、傍に誰かいると安心するっつーか」
最初から兄弟として育っていたら、或いは。時折、そんなことを思う。数秒で消えてしまう程度の思考だけれど。キリもそう思ったのかな、とぼんやり思った。彼にとって重要な『会長』が、独りで、孤独ではないように。けれども椿は、独りで校内の見回りをしたって、孤独だとは思わないだろう。生徒会室には帰りを待ってくれる仲間がいる。頼れる同輩の仲間が、慕ってくれる後輩がいるのだ。歩いていれば、兄にも出会すだろう。個性的なクラスメイトたちが、騒いでいる。
(取り留めない)
揺蕩う思考の端で、兄弟の温もりを感じた。そうして同じような温度で、帰ってきたら大切な後輩を叱り付けるよりも前に、来てくれてありがとうと言ってやらないといけないと思った。
キリくん修学旅行いけるのかなって思ったのです