remains
その時に知覚した熱というものは、どうやら単なる発熱の余韻だったのかも知れない。
と、言っても微熱だったのだが。
蛍光灯に目が潰されそうだと感じる羽目になったのは、突っ伏していた所為だ。その時の世界というものは暗闇の様相を呈するので(実際は隙間から灯りが随分と漏れるが、瞳を閉じている所為で良くわからない)、つまり、急激な光に押されたというだけなのだろう。二、三度瞬きを重ねる内に、すぐ傍でじっとこちらの様子を、窺っているのだか眺めているのだか、今ひとつ良くわからない視線の主の姿が、鮮明に映し出されていく。瞬きの要らない、自分の友人。
「弦一郎、今、担任に言ってきたが」
ふう、と溜息を吐く音がする。彼は、先ほどからずっと呆れているのだ。人のことなど言えない癖に、勝手に呆れている。多分それは、別段悪いことではないし、恐らく両親だの教師だのがすることでもあろうし、友人がしてもおかしくはないのだろうが。
「熱があるのならば、無理をするな」
朝からだろう、と断定的に言われた。わかっていて今まで放任していたのなら、責める権利はないのだろう。が、そんなこと言い返せる体力があれば、机などに伏したりはしない。どうせ、彼はこちらの意思を尊重していたのだ。具合が悪いならばはっきりとそう言えば良いことだし、察して立ち回ってあげるなんて、小学生でもあるまい。それでも、無理ばかりの柳に対して、自分ならばそういう態度を取るんだろうことも気づいている。駄目だ、これでは、まったく。
その内柳はお小言に飽きたのか、不意に静かになる。周囲がざわめいているのがわかる。決して自分のことではなく、まだホームルームまで時間の余裕があるから。甲高い声が耳障りで、笑い声が頭に響く。
「とりあえず、下校するか」
まるで、今急に思いついた発言みたいに彼は唐突にそう言い、立ち上がった。
「許可は取ってある」
体力はないが、歩けないほどではない。彼の言葉に頷いて立ち上がると、とても心配そうな視線が向けられた。眺めているのか見つめているのかも良くわからないのに、その視線は、驚くほど心配げだった。
それがやけに印象的で、帰途についても、しばらくは彼の視線を窺ってみていた。彼の口数はだいたい少なかったが、ひとつ、鬼の霍乱だな、と笑っていたのは記憶に残った。
次に目を覚ましたのは、自室だった。頭がずきずきと痛んだが、具合の方は眠る前と比べて格段に快方に向かっているのが自分でもわかる。
静かだった。エアコンの送風音だけが響いていて、外気の気配は微塵もない。人の気配も存在していない。
「帰ったのか」
身体を起こして声に出してみると、部屋に複雑に響いた。ただ、しばらくして廊下を歩く音が聞こえた。足音は部屋の前で当然のようにぴたりと止まる。ノック音がしたが、返事する前に扉は開いた。
「すまない、起きていたのか」
そして、何事もなかったかのように、柳はこちらの方に近寄ってきた。
なんとなく、閃くものがなかった。なんで、まだ彼はここにいるのだろうか。ありきたりな疑問を浮かべて、他に人が居ないことを不意に感じとめた。多分、恋愛小説か少女漫画なんかでは心躍るようなシチュエーション、わかりやすく言えば、二人きり、と。そしてそれは、いささか妙である。なんだかんだと言っても、真田の母は、主婦なのである。それも、専業の。そろそろ日も暮れる、橙も欠けるこの時間にいないというのは、妙だ。
「どの辺りから、記憶しているか知らないが」
「家に帰ったことまでは、覚えている」
柳はすぐに、自分の疑問を察する。そしてそれが、なぜ生み出されたのかということまでも、ちゃんとわかって口に出す。彼との会話が、引きずり出されているように感じるのも少なくはない。たまに、わかっていて質問することもあるくらいなのだから。
「そうか。それで着いたが、居間に、少し実家の方に出向くという旨のお前の母親からの置き書きが残っていた。そこまでは?」
そしてまた、首を振るより前に、発言するより前に、彼はわかったように、「覚えていないか」と口にした。
「独りにしておくわけにもいかないから、ずっとここにいたんだが――薬を飲んだのは覚えているか?」
「いや」
「まあ、とりあえずその所為で急激に眠気が襲ったのだろう。十分と経たないでお前は眠ったよ。もう、三時間は前の話だ」
「今は、どこにいたんだ?」
「外を見ていたら、洗濯物が干したままになっていたのに気づいてな、勝手に失礼かとも思ったが、そのままにしておくのも気が引けて、取り込んでおいたんだ。そのまま畳んでいたら、随分な時間になっていた」
なんとなく、柳らしいな、と思う。恐らく、真田ならばそんなことには気づきもしないのだろう。夕闇に白い洗濯物がはためいていたとしても、それは気にする光景ではない。
「ああ、精市には言ってあるぞ」
それを心配するより前に言われたので、一瞬驚いたが、すぐに頷く。結局自分の巻き添えで、彼まで練習には出られなかったのだ。
なにか言わねばと思っている内に、遠くの方でドアが開く音がした。そして、「ただいま」という声。彼は即座にそれに反応すると、挨拶をしてくる、と風のようにすっと部屋から出ていってしまった。
彼の声は比較的大きい方ではないのであまり聞き取れなかったが、母親の声が響くので、内容は察せられた。彼は事の顛末を話し、勝手に失礼して台所を使ったりしたことを丁寧に詫び(自分の為に行ったのだから、詫びる必要など欠片もないのに)、さらに洗濯物を取り込んでおいたことなどを細かく話しているようだった。
あらそうなの、ごめんなさいね、蓮二くん。
なんて声が、こちらまで届いた。それに彼は謙遜の言葉で返す。予定調和。らしい、というのはどこからどこまでなのか。それともすべてなのか。そんなことを片隅で考える。そして、人の消える音がした。足音がこちらに近づいてくる。それに答える気になれず、真田はベッドにもう一度身体を倒した。眠ってしまえば、まだ残った熱なのかそれともあの時と同じ熱なのか考えずに済む。もう消えた人影を気にすることもないのだ。