late word

 昇降口から外を見ると、雨が降っていた。朝の予報も友人の忠告も受けていなかった真田は、顔を顰めて、ともかく靴を取り出す。ざあざあとお世辞にも耳に善いとは思えぬ音が、辺りを包んでいる。冷たい音がするというはずなのに、しんとした印象で。
「お前は、傘を忘れたな」
 声に驚くと、自分より僅か長身の友人は、表情を変えた様子もなく、すぐ真横に立っていた。
「蓮二か」
「少々遅いようだが、図書館か」
「そうだ。図書館に、」
「……世界史の課題の資料集めだろう。遅くまで熱心だな」
 柳に疑問の言葉というものは少ないように思う。大概、断言するようになにかを言うか、一応こちらに返事を求めるような口調で喋るが、返すのは肯定ばかりというパターンのどちらかだ。つまり、これはあまりにも彼とは普遍的なやりとりである。しかし、軽快に話が進むさまには、本当に気分を害されない。見通されているのに気まずさを感じたのは、もう随分と前で終わり、今は、なんでも知ってくれているこの彼の様子に、日常と心地良さが感じられるくらいだ。そしてそれすら、彼には読まれているのかも知れない。柳蓮二は完全無欠だ。ともかく、傘――の話題は、最早返答しなくても彼には事実として飲み込まれているらしい。
 真田がいろいろと逡巡していると、柳はまるで突然思いついたように口を開く。
「入っていきたいのか?」
 語尾が一応疑問系であったことに安堵する。柳が傘を忘れるはずはないし、そして真田が傘を忘れたのは肯定せずとも柳の中では断定された事項で。それならば濡れ帰りたいなどと思うはずはなく、また友人という立場からしてその点、真田が柳にほんの少しでもなにかを期待するということはおかしなことではないだろう。だからこそ柳は、登下校では見慣れる革靴を下駄箱から丁寧に地面に下ろし(決してポイと投げ捨てるようにはしない)ながら、意識の断片もこちらに向いていない様子ながらも、そんなことを平然とさらっと尋ねるのだ。
 しかし本当に、「入っていきたい」と思われていないのは真田にとって幸いだ。なにせ真田は、予想以上に(柳の、ではなく真田の、であるが)驚いて狼狽していた。柳の様子からその真意は伝わってこないが、入っていくということは、それはすなわち世の乙女たちが憧れるシチュエイション(いわゆる相合傘)だということくらいはわかる。わかるから余計に混乱するのだ。
「あ、ああ……濡れるのは、嫌だな」
 平静を装ったその声が、さて柳に平静に聞こえているかといえば、聡い彼にそんなのが通用するはずなく、案の定怪訝そうに眉を顰める。しかしならばなぜうろたえるのか、その真意まではまだ掴めていない、という果てしなく不思議な柳の性質によって彼に生み出された結論は「はたしてよくわからない」とでも言うのだろう。というのは、その開いているのかどうだか、――こればかりはわからないが、とかく感情の起伏の薄い瞳からでも察することができるくらい柳との付き合いを長く積んだ真田の推論である。しかしその推論からするに、これだから、鈍いのだか聡いのだか全くわかりやしない、と、思われるのだ。
 しかし柳はすぐに表情をいつも通りに戻す。起伏の薄い、人形のような無表情。
「こうなる人間が必ずいるだろう――とな」
 などと、鞄を漁りながら彼は呟いていたが、その無表情になにとなく見入っていた真田は、あまり良く聞いてはいなかった。急に真田の方へ、黒い物体が投げられて、慌ててそれをキャッチする。その正体は、折り畳みの傘。
「それを使って構わないぞ」
 なるほど彼は、『こうなる人間がいるとわかっていた』わけなのだから、当然準備は万端ということで。真田は、少なからず残念に思ったが、しかし濡れなくてすむのは、先の自分の言葉ではないがありがたいと思い、素直に礼を述べた。柳は遠慮がちでもなければ当然という傲慢な態度でもなく、まるで傍観者ででもあるかのように、一言ああ、とだけ頷いたのだ。
「あれ、二人とも」
 そんなやり取りを遮るかのように、また後ろから聞きなれた声がして、真田は後ろを一瞥した。柳に振り返る様子はない。真田がちらりと無表情のままの彼の方を向くと、まるでわかりきっていたことのように、淡々と傘立てへ赴くと、まるで彼自身のように、しゃんとそこに清潔に佇んでいる白い傘に手を伸ばしていた。
「やっぱり、蓮二なら持ってると思ってた。傘、入れてくれないか?」
 柳はその白い手をひたりと一瞬止めたのち、ようやく振り返って友人の瞳を覗き込むようにした。
「精市まで忘れていたか」
 その声は若干呆れを含んでいたようにも思えるが、真田にはこれも彼の予想の範疇のような気がしてならない。彼は、くつくつと音を出すほどでもなかったが、少し口の端が上がっていたのだから。後ろで幸村が謝辞の言葉を、大層うれしそうに叫んでいた。

 結局、柳の真白い傘には、幸村が入っている。納得いかないと思うのは真田だからであってそれ以上でも以下でもなく、また普通の人間なら二人で傘に入るのは狭いのだから(折り畳み傘も狭いが、二人で入っているよりはよっぽどマシだろう)、むしろ幸運と思うだろう。ならば真田もそれに倣うべきなのだ。おそらく。
「ごめんね、蓮二。弦一郎を不機嫌にさせてしまったよ」
 柳はまるで、そうなのか、とでも言うように一瞬首を傾げていた。幸村は、柳以上に感情の機微には聡い。とりあえず、どうせわかっていない(またはバレていないと言うのか)ならば、黙っていてくれれば良いものを、と思わないでもない。これは言う方が癪なのだが。
 ぴしゃぴしゃと水が跳ねる音に、真田は一々眉を顰める(というより、最初から眉間に皺は寄りっぱなしなのだが、ともかく)。雨が降らなければ水は不足するし、植物にも、作物にも、それは豊かな恵みを齎す。それは当然に知っていても、真田には昔から不快な音だったのだ、この雨音というヤツは。テニスはできないし、そもそも家でじっとしているのは性に合わないのだ、えらく。そして柳はいつもの無表情で窓の外を確認したのち、読書でも始めるのだろう。なんだかますます腹が立つ。幸村は外だろうが室内だろうがあまり変化はないでうるさい。
 その真田が厭う雨音の所為か、会話は少なく、真田はひとり、苛々とそんなことを考えている。パシャッと誰かが水溜りを踏んだような音がした。こんなことをするのはもちろん、幸村だ。見れば、さしかかった曲がり角で幸村が明るく笑っていた。
「俺はここまでだ。じゃあね、二人とも」
 電車通学の幸村とは、平生ならば、ここで別れている。そういえば、と真田も気づいてもう一度彼の方を向いて、次いで柳の方も見た。きょとんとしている。
「精市、まさか濡れて帰るつもりでは」
「平気だ、ここから駅までそう遠くはないだろう?」
 その言葉には、柳も真田も反発した。気にしすぎだ、と言われることは珍しくないし、もはやそんなことは考えなくても良いのだと言われても、自己申告されても、病を患っていた過去の幸村を気にかけてしまうのだ。雨に降られてたとえ風邪を引いたとしても、もう彼を病院に拘束するような事態は起こらないのだとしたって、そんなことは関係ないし、これは無視できる事項ではない。目の前で倒れたのを目の当たりにした二人だから、人より強くそう思う。あんな感情は二度と御免なのだと。
「駅まで送っていくよ、精市」
 柳は、微笑んでそう言った。善意の優しさとする方が彼に反発心を与えない、と考えての行動なのかも知れないし、天然なのかも知れない。柳の行動は大体真であり、的を射たものではあるが、それがどこまで計算かといえば、100%ではないというのが真田の見解だ。間違っている気はしていない。というか、今のところそんなことはどうでも良い。
「平気だよ、だから蓮二」
「送っていく。俺が気にするんだ」
「俺は、気にしない」
「だから、お前はどうでも俺が気にする」
 うるさい雨の音の中でも、問答する声が、耳に響いた。ざわりとなにかが動く。ちら、とこちらを見た柳の意図を、わからないほど愚かではない。考えが同じならば助太刀してくれと。真田は柳の言動に敵わないが、柳一人で幸村を論破するのも容易いことだが、こういうのは得意ではないらしいのだ。本心で説得できれば簡単だろうが、それをして幸村ははたして微笑むものだろうか。まだ心配をかけているのかと余計に気を悪くする。しかし柳は詭弁というものをあまり好まない上、得意としない。幸村に対しては尚更に。何故か。切原には良く嘘で誤魔化すくせに。
(なんだこれは)
 苛々する。雨音なんかに比較できないほどに。馬鹿みたいに苛立って、それを振り切るように柳の腕を掴んだ。珍しくもぎょっとする(どうせ苛立つ理由などわからなくて良いのだ)柳を、手元の黒い傘の中に引き入れる。瞬間、柳の手から白い傘が放れて、パサッと軽く、水浸しの地面に落ちた。一瞬虚を衝かれた幸村が、慌ててそれを拾う。柳は、まだ、ぽかんとしていた。
 さっきまでは確かに幸村の体調を気にしていた。偽りはない。けれど、としかし自分に悪態ついて、真田は息を吐く。
「精市に、ソレを貸せば済む話だろう」
 先ほどの白い傘よりも手狭なこの黒い屋根の下に持ち主と借主が留まる。後から来た第三者の手には、汚れのない白い傘。おかしいと、思わなかったわけではない。ただ。
「お前の判断は、合理的ではない」
 そう斬って捨てると、柳は苦笑して、合点がいったように頷いて、そして、ひどく居心地悪そうにした。幸村の方はといえば、更に居心地が悪そうだった。
 静寂を、雨音だけがまだ揺らしている。
「それじゃあ、明日返すから」
 微笑んだ幸村に心底安堵したように柳は見せたが、まだ掴まれたままの腕を視界の端に入れたのち、再び視線を落とした。気にせず真田は幸村に忠告する。
「とかく、体調には気をつけろ」
「まったく、本当に二人して心配性だな。じゃあ、また明日」
「あ、ああ。また明日」
 また居心地悪そうに視線を下げていた柳も、慌てて顔を上げて友人に別れを告げた。
 これだから、柳の計算というのは割合適当なのだと真田はつくづく思う。彼の考えがわからないではないのだ。黒い傘は手元を離れた時点で自分の所有を抜け出して、そして彼の頭から零れ落ちた。だから、彼の頭の中では、手元には自分の傘しかなく、真田の方まで迷惑をかけまいとして、思考は及ばなかった。そもそも最初に迷惑をかけたのは真田だったというのに。そして出た結論が、自分の手間より、幸村の体調の優先。彼の中に、合理的という言葉は浮かばなかったのだ。気づけば単純な問題だったはずなのに。手元の黒い傘を見ながら、しかしもっと究極は、こっちの黒い方の傘を彼に貸すことだった、とは今更の話だと思う。
「お前の言いたいことはわかるが」
 柳は視線を再び下げた。もし試合でもこうだったなら、彼は参謀としてはあまり役立たないことだったろう。しかしそうではないのが、柳蓮二が参謀たる所以だ。試合、というより、勝負というものに関して、柳は異様なまでにその能力を発揮するのだ。如何なく。将棋でこそ勝敗を分けるが、真田がその他の勝負事でその参謀に勝てたためしがないのもそれゆえだと思う。
 また顔を上げて、無言で歩いている真田に、なぜそこまで怒っているんだ、と柳は首を傾げて尋ねた。無表情に戻って。