マスター・オブ・ザ・ゲーム
「お帰りなさいませ、蓮二さん」
「――大沢さん」
家を空けることの多い母親に代わって柳家の家事の多くを任されている(建前ではそうだが、実際お嬢様で育ってきた柳の母親はそもそも家事などできはしない)、いわゆる家政婦の大沢さんが、帰ってきた柳を迎えた。彼女も毎日来ているわけではなく、週に多くても三、四回くらいで、また部屋数や広さの関係で、掃除は業者任せになっている。今日は来ている日だったのか、と少し考える。
「今日は俺一人だから、食事は必要ないです」
「はい、存じております。奥様は明後日お帰りになるそうで、またその時にお伺いしますね」
母が帰って来ると、家は俄かに騒がしくなる。これで姉が増えると更にすごいのだが、そういえば姉とは久しく会っていないような気がした。あの人は東京の大学に通っていて一人暮らしだから、なにをしているのか不明だ。
東京と言えば、父も仕事場が東京なので、単身赴任に近い状態で向こうに止まっている。もともと一家でそこに住んでいたという事情もあって住居が整っているため、わざわざ遠くから通う方が時間と労力の無駄だ。だからどうも、父親もあまり見かけない。そもそも忙しい人であることだし。向こうに住んでいた頃も、オフィスにいるのがほとんどだった。その父が住む家から遠くもないくせに一人暮らしするということは、実は家から遠いからなんて理由ではなく、自由に暮らしたいから、が姉の一人暮らしの真相なのだろう。家にいても自由だったが、と柳は思い出して心の中で苦笑した。自由奔放な姉に振り回されたのは、今となっては懐かしい(かどうかは複雑な)思い出だ。
「そういえば蓮二さん、ご学友の方がいらしていましたので、お部屋にお通ししましたが、よろしかったでしょうか?」
「……ご学友?」
家に来ることも多いので、大沢さんも真田のことなら知っている。彼でないとすると、他に唐突に家を訪れる人間がいただろうか。
「ありがとうございます、部屋に戻ってみます」
「はい。では、私はこれでお暇させていただきますね」
ご苦労様です、と声をかけて、柳は足早に玄関を離れた。
(訪ねてくる友人、か)
そういえば、人が訪ねてくることはあまり多くない気がする。もしや真田のせいだろうか。勝手に失礼なことを考えながら、柳はとりあえず考察してみた。手元に資料はないけれど。
浮かぶのはまずテニス部のレギュラーメンバー。実際、誰が訪ねてきたとしても、彼らならそう驚くことではない。クラスの人間だのどうだのよりは、親しい位置にある。可能性はやはり一番高い。だが、部屋まで上がっているとなるとどうだろうか。いくら図々しい切原でも、まさか先輩の家でそこまでできるものではないと思う。外で待っている方が、らしい。後は、区別なく可能性の中に入れられる。総じてメンバーは図々しいので、部屋に入るくらいならば許容範囲内だろう。
これだけでは考えたと言うには不足だ。まだ候補は5人以上いる。真田と切原を除いただけだ。そういえば、柳生も紳士という異名は伊達ではないから、勝手に家には入るまい。あと、4人。では、自分に用事がありそうな人物は誰だろうか。今日の学校では特別に変わったこともなかったはずだ。ああやはり、資料が足りない。
考えながら部屋まで行き着いて、ノックをするかまた考えた。ここは自分の部屋だから、本来ならばノックなど不要だろう。しかし人がいるとなれば話は別で、けれど相手は誰だかわからないし許可した覚えもない未知の相手だ。悩む。ノックして、我が物顔でどうぞ、なんて言われたならば物凄く滑稽だ。滑稽すぎる。やはり人がいることに配慮したい気持ちはあるが、プライドの問題でもあるので、ノックなしで入ろう。まさか、人の部屋で着替えをする愚か者もおるまいし、開けられて困るようなことを部屋でされているのなら、そんなものは発見した方が好都合というもの。意を決して柳は自分の部屋のドアを開いた。普段通り、扉が弱く音を立てて開く。
「――精市……?」
「待ってたよ、蓮二」
にこにこと、まるでここの主みたいな堂々とした態度で、学友たる幸村精市は微笑んでいた。
「お前、なにをしているんだ?」
人のベッドの上で。
相変わらず大きい家だなーと思いながらチャイムを鳴らしたら女の人が出てきて、蓮二の友人です、って言ったらまあそうですかって。応接間に通すかリビングルームがいいかそれとも、なんて悩んでたから部屋でいいですよって。
「それで通してもらった」
(……大沢さん)
上述の通りであるならば、そんなにあっさり通さないで欲しい。せめて名前くらい聞いておいてもらいたいものだ。しかしながら、確かに妙なのは多いにしても、基本的に柳の知り合いは真っ当な人間がほとんどなので、それだから彼女も通したのだろう。制服は今自分が着ているものと同じだから、少なくとも同じ学校ならば自分の知っている範囲内だろうと予測して。
ちなみにこのくだり、後に大沢家政婦に聞いたところによれば、幸村が見かけによらず強引にきっぱりと「部屋に通してください」などと言ったものだから、気圧されてすっかり名前を聞くのを忘れてしまったという話らしい。
「蓮二遅かったね、生徒会?」
幸村は寝転んだ姿勢のまま、目線だけこちらに向ける。彼のその姿勢は、確かに見慣れているとは思う。思うが、シチュエイションが違いすぎる。人の部屋で客人とは言え、どういう了見だ。しかし、眉間に皺を寄せて彼を見ても、なにも返ってこない。
「ああ、まあそうだが」
「ふーん。あ、ねえねえ、蓮二の部屋ってそういえばあんまり入ったことなかったけど、広くていいね。ベッドも広いし大きい」
「ところで精市、俺のベッドを、なぜお前が使っているんだ?」
「パソコンもこれ、蓮二の専用? 使うの?」
「……一応、使ってはいる。好きではないし得意でもないが」
ベッドからむくりと起き上がってきて、許可も取らずに幸村は勝手にスイッチを入れた。ウィーンと、コンピュータの独特の機械音がする。
相変わらず、幸村は会話をしようとしない。話を聞いているのかどうかもたまに不安になるくらいだ。柳が溜息を吐いたってどうしたって、幸村は変わらない。
「蓮二って、なんでも得意そうだから意外」
そんな様子は気づいて無視しているのか気づかぬことなのか、幸村は自分の乗った話題のみ、返答する。話を続ける意思を見せるのだ。
「俺は神様でもなんでもない」
「うそ、じゃあ観音菩薩だ」
「だから、」
「俺は得意だよ、コレ。ね、蓮二」
マジメな顔で観音菩薩とかのたまったと思えば、幸村はまた笑顔でコンピュータを指差した。
言われる通り、柳には総じて苦手なものはほとんどない。とりあえず一度でも教わればなんでも簡単にこなしてみせる。勉学もスポーツもさることながら、その能力は家事にだって及び、掃除洗濯、食事に裁縫と、言われるままにすべてマスターしてみせた。だからなんでも押し付けられているような気はしなくもない。母親譲りの茶道に華道、父親から習った会計学を筆頭とした経済知識に日常のトリビアまで、とにかくきちんと整頓されてすべて収まっている。それほど役には立たないことも多いが。
「脳がコンピュータっぽいのに苦手なんだ、蓮二」
「誰がコンピュータだ」
「蓮二は頭の中がコンピュータだから他のコンピュータはいらないんだ?」
カタカタカタと軽快な音を立てて、幸村は勝手にコンピュータをいじる。ああ、彼の言うことには反論するくせに、その手の動きを規制する言葉を発せられない。柳は少し自嘲的な気分で、得意だという彼の指先を眺めていた。あれは綺麗なブラインドタッチだ。
「やっぱり蓮二は文系なんだ」
「やはりとはなんだ?」
「だって、あれだけ計算速くて正確で完璧で非の打ち所がないのに、得意科目が国語と古典と世界史なんて、世の中間違ってるんじゃないかって思ってたから」
ということは、柳は世の中から間違っていなかった、と幸村の中では結論付けられたのだろうか。
「お前は理系だからか」
彼がいつも自称していることを言ってみたが、彼は返事の代わりに新たな質問投げて寄越しただけだった。
「メールする?」
「……アドレスはあるはずだが」
「へえ」
ホントだ、と幸村はからから笑って声をあげた。
文系は機械が苦手で、理系は得意なんて法則はないはずなのに、なんとなく当てはまっているのが不思議だ。世の中で言われていることは、こういう小さな積み重ねで生まれるものなのかも知れない。それならば、少なくとも偽ではないはずだ。真と言えるほど完璧ではないとしても。見られて困るものある? と聞かれたので、柳はあっさり首を横に振った。正直な話、本当にパソコンは活用していない。必要そうだからと与えられたが、ほこりを被らないように掃除するのがメインになりそうで困っていたくらいだ。メールのやりとりをするようなことも、まったくない。
画面をちらりと覗くと、いつの間にかメールソフトが立ち上げられたようで、新規メール作成、と出ている。どこまでいっても勝手な男だ、と柳は呆れた。それを、慣れているから、という一言で済ませてしまうのは彼のためにならないんじゃないだろうか。そう思うが、口に出せたためしはない。それは彼にも知られているらしいが、どうやら柳は一般大衆によって与えられた自分への評価よりも遥かに、「甘い」らしいのだ。
気づくと画面は受信トレイに戻っている。
「したよ」
振り返って、うれしそうな笑顔。
「どこに送ったんだ、勝手に」
「俺のトコロ。メール送るから」
は、と柳は頓狂な声を上げた。意味がわからない。
理論に基づいた行動がなされないから幸村は"読めない"。普通の人間ならば、思考に基づいて、その場の状況を見て、ああするこうすると判断できる。例えばテニスに於いて、ロブを打ったらスマッシュを打ち込もうとする心理などそれだろう。そういった積み重ねで柳は行動を読むが、たまにそれにはまらないことがある。大抵はそれは一瞬一瞬で、突き崩すほどの大きさは持っていないのだが、幸村は最初から線に沿っていないのだ。テニスをしていても、この部屋にいても、ベッドに横たわっていた時ですら。
「精市、なにをしたいんだ、お前は」
「だから、俺がこれから蓮二にメールを送るから」
「今メールを送ったのは?」
「蓮二のメールアドレスがわからないと送れない」
そうして彼は、ウェルカムメール以外一通もない受信トレイを眺めていた。
「誰も知らないんだ、アドレス? 弦一郎も?」
「あれがパソコンをしそうに見えるのか、お前には」
じゃあ知らないんだ、と幸村は急に笑みを深くした。上機嫌で、同じ事を尋ねられた。
「誰も知らないの?」
「いや……貞治は知っているはずだが」
「へえ、また乾か」
またと言われるほど乾の話題を自分から出したことはないはずなのだが、幸村は平生だったらそう言うと機嫌を悪くするくせに、今日に限って機嫌を崩したようでもなく、にこにこと笑っている。まるでうれしいことを見つけたみたいに、ずっとそうしているのだから不可思議でならない。
「メールしないの?」
「返ってこないから、と言われた」
「ダメだなあ」
ダメといわれても、いちいちそんなもの面倒臭い。どうしてわざわざそんなものを書いたりして連絡を交わさねばならないのか。電話でも直接会うのでも、どちらでも良いことだろう。そう反論しようとすると、幸村はその前にさっさと口を開いた。
「返ってこないから送らないなんて、ダメだなあ。俺は、別に蓮二の返事を期待して書かないよ。でも、読んで?」
言われて一瞬虚を衝かれた。どうやら「ダメ」は乾のことだったようだ。そう返ってくるとは思わなかった。思わなかったので、なんだかひどく驚いてしまったのだ。そして驚いて真っ白になったところに、彼の言葉が入り込んできたので、それを咀嚼する。そうすると、なぜだかとても納得できた。
「なるほど、お前の考えは基本的に"そう"なんだな」
彼の言動は、返答がくることを期待していない。つまるところは。
「今のは納得してもらいたいところじゃないよ、蓮二」
ようやく彼の表情が翳った。どうも、柳は幸村と話していると、七割は失望させているように思う。その気は一切ないのだが、彼の表情が翳るのは珍しくもなんともない光景となってしまったくらいだ。もちろん、そうさせたいと思っているわけでもないので、いつも複雑に思う。
「別に、喋っているときは返答を期待してるんだよ」
「ああ、俺も期待しているんだ、お前に」
ここぞとばかりに反論すると、幸村は翳ってしまった表情を戻し、代わりに肩を竦めた。
「……善処するよ」
くるりとコンピュータの方に幸村は向き返る。それからまた少し弄ると、画面が暗転して一分としない内に電源が落ちた。そこで彼は画面のスイッチを切る。
「ところで、なぜベッドにいたんだ」
「あれ、ダメだった? 蓮二のベッド、広くてふかふかでいいなあって。構わないだろう、今すぐ寝るってわけじゃないんだし」
「そういう話ではないんだが」
「眠りたかったの、眠り姫?」
幸村は立ち上がると、「それじゃあ」と、柳に譲るようにベッドの方へ誘う形で手を差し出す。大概良く眠ってはいるし睡眠欲は旺盛だが、童話と一緒にされるほどは眠っていないつもりだ。柳はいささかむっと考えたが、別に他意はないのだろう。それが女性であろうがなかろうが、幸村にとっては同じことだ。
なんて思っていても幸村はまったく気にせず、制服のままなのに「ほらほら」と後ろから身体を押されてベッドに倒れこんだ。まるで眠りたかったみたいでおもしろい。仰向けになると白い天井が瞳に映り、柳はそれをしばらくぼんやりと眺めた。
「蓮二、一緒に寝ようか」
「なぜまたそういう妙なことを言い出すんだ」
確かにシングルのベッドではないから、眠れないこともないが。そんなことをぶつぶつと呟くと、幸村はまた、肩を竦めて見せた。
「蓮二に冗談って通じないよね」
「冗談だったのか?」
「別に、蓮二と一緒に寝られるならそれもアリかな」
「狭くなるから御免だ」
眠れないこともないが気分良く眠れそうにないから、と。そう続く予定だった。
シーツがくしゃくしゃになって、ついでにワイシャツも皺が寄った。こんな格好でここに寝転ぶのは初めてだ。たとえどれだけ眠くとも、制服で寝るような横着な真似は絶対にしない。そんな気持ちの悪いことも御免だ。
「そうか」
幸村の声が硬く響いたので、柳は驚いた。静かな部屋にきつく響いたような印象を受ける。
「蓮二にとって俺って、ベッドを狭くする障害物のひとつかな?」
「……精市、どうかしたのか」
「わかったよ、蓮二。じゃあね」
ざらりとカーペットがこすれた音がして、友人は一方的に出て行った。ドアがバタンと音を立てて閉まるまで柳はそのことに気づけずに、不思議なくらい、ただ天井を眺めていた。そのまま落下してくるように錯覚したのだ、多分。
リビングを通ると、帰ったはずの大沢さんがひょっこり姿を現した。
「蓮二さん、先ほどご友人の方がお帰りになられていましたが……。礼儀正しい方でしたね」
「まだ、いらしてたんですか?」
「あ、ええ、それが奥様から先ほど連絡がありましてね。今夜、急に帰ってくることになったそうで」
なんだかまた予定調和を乱す人だな、とまるで他人事のように思う。
「大沢さんは、お帰りになっても大丈夫ですよ――夕食なら俺が用意しますから」
勝手な母親の都合で大沢さんに時間外労働させるのは好ましいことではない。ただでさえこの人はここに来てからずっと献身的にしてくれているというのに、母はいつでもマイペースで都合というものを考えないのだ。夕食の準備くらいは、柳にとっては造作もないし、今宵もどうせ作る予定だったそれの人数が増えた。それだけだ。
「いえ、私は平気ですが、」
「すみません、急いでいるので」
早口でそう言うと、大沢さんはきょとんとしてその場に立ち尽くした。支度は結構、と一応従うべき雇い主の息子に言われ、しかし彼女は心優しいので、夕食の準備が、中学生男子で、さらにこの家の息子たる柳蓮二のもとに回ってくるのを気に病んでいるようだ。説得するのは普段の柳ならば容易だが、今は時間が惜しい。そうなると、と、諦めて柳は、息を吐いた。
「私なら構いませんよ、蓮二さん」
「……それでは、ご迷惑おかけします」
本来ならばお辞儀の一つでもすべきだが、今必要なタイミングはこちらではないのだろう。そう判断して、頭を下げるのは後回しにした。今日会えずとも、明日か明後日かその次か、必ずこの人とは会うのだからその時でも問題はない。
「私にまで、気を使ってくださらなくても平気ですよ」
お優しいのですね、と大沢さんは微笑んでいたようだったが、柳は特に言葉を返せずに、曖昧に笑って玄関に向かった。そうして慌しくも静かに、家を後にする。急いている所為か呼吸が乱れて、心音がやけにうるさく響いた。乱れていると言えば、ベッドに寝転んだせいで皺が寄ったワイシャツも、やっぱり乱れている。気持ち悪い。
家を出て左に、すぐに人影を見つけた。
「精市!」
叫ぶと驚いたように振り返り、柳を見つけた所為で彼は慌てたように駆け出した。体力に自信がないこともないが、この距離では追いつけるかどうかは果たして疑問だ。幸村とて、もう病人ではない。全力で走れば互角なら、この距離を縮めるのは不可能だ。けれど、このまま勝手に部屋に侵入して荒らしていった友人を逃がしてしまっては困る。なぜかわからないが、困るのだ。
「――止まれ」
だから柳は、彼にそう、声をかけた。しんと静まった夕方の閑静な住宅街。辺りに響くほどの大声は出していなくとも、十分に伝わったはずだ。一瞬びくりと背中が揺れて、もう一度幸村は振り返った。さしずめ、母親に怒られた子供のようだ。
「精市」
もう一度呼んだ。これはゲームや賭けや、そんな類なのだろう。それでも幸村が去るというならば、そこで終わり。どちらが負けかはわからないけれど。もうカードは切ったから、後はなにが出るか運任せ。こちらが最善の手を用意していないならば、向こうにロイヤルストレートフラッシュでも出されたらどうしてもそこで負けなのだ。
「狡いよ、蓮二は」
聞こえる程度に、幸村は呟いた。事実上の敗北宣言だ。
「なにが狡いんだ。一方的にいなくなる方がよほど、迷惑だ」
こちらに向かって幸村は戻ってくる。ああ狡い、なんて言いながらくるのだから、多分向こうはワンペアくらいだったのだろうな、と思う。もしくは手札が21を越えているとか。
賭けのためになんてトランプはしないが、ルールくらいならポーカーもブラックジャックも、大富豪でもダウトでもなんでも知っている。負ける気はしない。ことゲームに関しては、柳は才を発揮できる。それこそ
「……別のこと考えてるだろう、蓮二」
「お前はどれだけ人の名を呼ぶんだ」
「気が済むまで」
話題を逸らそうとして、柳はふと、核心に突っ込んだ気がした。気づけばずっと名前を呼ばれてばかりいる。その感情の振幅はどうなっているのだろう。そう思うと、迂闊にも乾や勝負事のことに頭を巡らせたことを後悔する。もっと、彼を観察した方が良いのだ、おそらくは。ほんの数十センチ離れているだけの、幸村精市を。
なんとも奇妙な――と。
「お前たち、なにをしている」
急に声がふたりを遮ったような気がしたので、どちらも同じように視線を向けた。
「人の家の前で」
「あ、そっか。弦一郎の家の前か」
「そう――だな」
「なにを納得している、話し合うならば中でしたらどうだ」
「どうだろうね。ああ、蓮二」
顰め面で家の門を開けた真田の方を追っていたふたつの視線が、ひとつだけずれた。そして、幸村はじっと柳の方を見て、笑う。
「アドレス言っちゃダメだよ?」
「言って、どうなると、お前は思うんだ」
うんそうだね、と幸村は笑った。多分、話は噛み合っていない。不審そうな表情でふたりの共通の友人は振り返った。
「弦一郎、寄っていったら悪い?」
「今日は弦一郎の母親は不在だったはずだが、そうだな、お茶ならば俺が出そう」
真田に出させると、驚くくらい変なお茶が出てくるので、柳は忍び笑いしながら提案した。味覚音痴の気はあるが、お茶は飲み慣れている所為か、濃すぎたり薄すぎたり、そういうのに本当に敏感なのだ。我ながらわからない味覚なのだが。
「お前たち、本当にここでなにをしていた?」
さあ、と言いそうな幸村を押さえて柳は珍しく、うっすらと笑みを浮かべた。
「もちろん、お前を待っていたんだ」
「――そうか」
入れ、と真田は町並みに添わないくらいに古風なお屋敷にふたりを招き入れた。門を見ても、かなり歴史やら伝統を感じてやまない。隣の自分の家との整合性が悪すぎて、逆に気に入っている。確か母親の実家もこれに勝ると劣らぬ伝統ある屋敷であったはずなのだが、どうして洋館なぞに住みたがるのか。そもそもあまりいないくせに。
「蓮二のって、確信犯じゃないんだよね?」
「確信犯――道徳的・宗教的または政治的確信に基づいて行われる犯罪。そもそも確信はかたく信じて疑わないことだが、お前の言いたいことはそれで正しいか?」
「わかっててやってるってことを言いたいんだけど、そういう意味だったんだ。知らなかった」
「理系――だな。まあ良い。で、なにを、俺がわかっていてやっているんだ?」
「そう聞いてる時点でわかってないんだよ、蓮二」
そうだろうな、とわりとあっさり柳は納得した。
「入らんのか?」
「ああ、いや――」
先ほどまで機嫌は良いように見えたが、またなにか気分でも害したか、真田は苛立った風にふたりを急かした。もしくはこれも、いつも通りというだけなのか。
「うん、やっぱり蓮二は自分が悪くないって信じてる確信犯なのかも知れない」
「単純にわかっていないだけだ」
幸村が笑って言い、ぼそりと真田が吐き出したが、柳には今ひとつわからない話だ。
急かされるままに門を越えると、金木犀の香りがふわりと鼻腔を掠めた。柔らかい香だ。
「金木犀だ。いいね」
「ああ、本当に」
頷くと、真田は明るいオレンジの花を眺めて怪訝そうに柳の方に視線を移した。
「お前の家も、随分と咲き誇っているだろう?」
「あれは咲きすぎて濃すぎる」
何事もほどほどが一番だ。薄く香っているくらいが一番良い。
真田に会ったせいで、すっかり大沢さんのことを忘れていた。それにふと気づいて門の向こうの自分の家を見る。今頃、台所でトントンと包丁の音でも響いているのだろうか。申し訳ない。そう思いながらも結局、柳は家に背を向けてしまった。
「ところで精市、用事はなんだったんだ?」
「用事? 特にないけど。強いてあげるなら蓮二に会うために来た」
なるほど、と柳は納得した。
家に来られる用事が浮かばなかったから誰が来たかわからなかったが、わけのない話だったのだ。つまり、用事もないくせに来る人間、幸村精市しかそんなのは考えられないのだから。