迷宮論
窓辺から赤い夕陽が差し込んでいる。その目に痛い橙の光は、まっすぐに本棚の方をこうこうと照らす。少し見ぬ間に、五十音順に並べていたはずの本が整った状態になくて、完成形が壊されたような不快感に柳は陥った。どうして元に戻そうという簡単な労力を惜しむのだ。そう叫びたいのは山々だが、しかしその柳自身が、彼らの性質を一番に心得ている。面倒だから、というよりは意識の欠如。直すのが当然だと考えないのがその理由なのだ。
そろえて帰りたいものだと思うが、時間が時間なので、あまり長いもできそうにない。なにぶん、かなりあれているのだ。最初の本がワから始まっているくらいに。気持ち悪い。もう少し早く気づけばよかったのだ。柳はもう随分とここに残っている。それはデータの整理を落ち着いて行えるのがここだと判断したためで、もう結構あれから経つ。最初に作業に取り掛かるときに気づけば良かった。そうは思っても後悔は先にたたず。仕方なしに帰り支度を始めようと、テーブルに鎮座する自分のノートに視線を移す、と、そばに見知らぬものが転がっていた。
「――腕時計?」
思わず独り言を呟いてしまったが、もちろん柳のものではない。今も自分の腕時計は、左の腕にきっちりと収まっているのだから。では誰のものなのか。さっきからデータを整理していた……つまりは、とうぜんにテーブルを使用していた。そのはずなのに、どうしてまた先ほどは気づかなかったのだろうか。本棚のことに加えて。
意識がひとつのことに集中すると、周りが見えなくなるということはある。つまり、これはただの柳のボケとしか言いようがない。幸村が聞いたら笑いそうだし、真田が聞いたら溜息を吐かれるような。しっかりした人物、という他人の柳に加える評価は、ときおり彼自身の性質に合致しないようだ。別にさしたる理由もなく、そこにあったがためにとでも言うべきか、柳はそれに手を伸ばした。その途端、計られたかのように、急に後ろの扉が開いた。
「おや、柳くんですか?」
さらりと柳生は笑顔を浮かべる。反射的に振り返った柳の瞳に、それがすっと入り込んだ。
「柳生か。どうかしたのか?」
「ええ、少し忘れ物をしまして」
忘れ物、と聞いて柳は少し表情を変えた。
「腕時計ではないか?」
「……違いますが?」
なぜ腕時計なのですか、とでも言うように柳生は少し首を傾げた。なんだ違ったのか、と柳はなんとなく落胆した。別に彼がそうであればいいというどうでもいい望みはないはずなのだが、これはなぜなのか。ともかく柳は手にしかけていた腕時計を掌の中に握り、柳生の目の前で開いて見せた。
「腕時計ですね」
「ああ。忘れ物らしい」
「それを見つけたから、忘れ物という単語を聞いて、結びつけたわけですか」
「短絡的だったな」
「いいえ、別に。人間として自然な流れでしょう。まだ見つけたばかりで思考がそれに占拠されていたとすれば」
柳生はまるで、一連の流れを見ていたかのように軽快に話す。そしてそれに疑問を挟む余地を与えずに、すぐに答えを提示した。
「簡単なことですよ。貴方の性格からすれば、見慣れぬものを見つければすぐに手を伸ばすでしょう。後になってからではなく、すぐにでも落とし主を推理する――その為の手段として。だとすれば、今手を伸ばしていたということは、今見つけたばかり。手に取るまでの僅かな時間。訪れた人間を結びつけてしまったとしてもそれほど不思議はありません」
「推理小説か?」
いいえ別に、と柳生は涼しい顔をして見せた。と言っても、彼はいつも基本的には涼やかな顔をしているのだが。
「では探してみましょうか?」
一瞬なにを彼が言わんとしているかわからずに、「なにを」と口にしかけたが言葉を発するに至らなかった。すぐに話の流れから考えて、腕時計の持ち主を探す、という主旨だと察しがついたのだ。
柳生に関してはともかく、柳は察しが良い。そのため、友人たちは最低限(それ以下であることも多々)のレベルでしか言葉を発さないことがある。これは自分と会話する場合ははともかく、対人コミュニケーション能力に支障を来たすことになってしまうだろう。しかしだからといって、柳の能力が変わるはずもないし、それに横着した相手方に非があるのだから、柳自身にはどうにもならないし、かつ無関係な話なのだが。
「おそらく仁王くんだと思いますが」
「……すでに結論は出ているのか」
みましょう、などというから一緒に推理するのかと思えば、勝手に柳生一人が探偵役のようだ。
「順に追って考えていきますか? まず現場の状況を考えると犯人は我々レギュラーメンバー8人の中にいると考えるのが妥当でしょう」
「なるほど。ところで落とし主でなく犯人なのか?」
「貴方が推理小説と仰いましたから、雰囲気に合わせたのですよ。では続けます。まず除外すべきは、腕時計をつけないだろうメンバーです」
まず? と柳が密かに眉を顰めたのにはすぐに気づいたらしく、柳生は「もちろん、私と柳くんは最初から除いております」と加えた。
「まあ、基本としては第一発見者は疑うものですが、この場合は当然貴方は除外になります。私も、嘘を吐く理由などありませんから除外します。よろしいですか、これで?」
重箱の隅をつついたから気を悪くしただろうか、と柳は少し考えたが、柳生にはそんな素振りはなかった。
「ああ、続けてくれ」
「ではふたたび先ほどの話に戻ります。100%つけていない、というには至りませんが、切原くんと丸井くんはつけていないでしょう」
「根拠は?」
「切原くんに関しては、彼の時間に対するルーズな態度を見てそう考えました。多少時間に遅れても、という意識では腕時計を日常的にはめないのではないかと」
なるほど、可能性は低くない。柳は頷いて次を促す。
「丸井くんは、ジャッカルくんが時計をしているのでそれに頼り切っています。彼がジャッカルくんに時間を聞くことは多いようでしたから」
微妙にデータの絡んだ推理になっているな、と柳は思う。ふたりが本当に恒常的に腕時計をしないのかどうかまでは、柳でも知らないが、つけている可能性は低い。(低いがゆえにつけていたことを忘れたと考えることもできるだろうが、まったく身につけない説をとりあえず選ぶことにする)
「ではそのジャッカルくんですが、彼がつけているのディジタルのものだったのを拝見したことがあります。これは、正真正銘、アナログの時計ですから、彼も外しましょう」
「そうなると、残りは――弦一郎、精市、あとは仁王か」
「後は推理するまでもないでしょう? 仁王くんに違いありません」
「そのこころは?」
「おや、柳くんらしくないですね。貴方方三人は鬼才三人衆であると同時に仲の良い友人同士でしょう?」
なるほど、と柳は納得した。幸村は腕時計をつけていたり忘れていたりばらつきがあるが、どんな時計か見たことはあるし、真田は毎日つけているから見ているし、急に変わったようなこともなかった。となれば、二人も容疑者候補から外れるわけだ。そうして残ったひとり、仁王雅治こそが真犯人。
「残しておくのも悪いですから、私が預かっていきましょう。まあ、慌てて返すほど必要であれば忘れることもないでしょうから、心配することもありません」
「そう、だな。ならばお前に頼もう」
「ええ。それでは帰りましょうか?」
いきなり話が飛んだような気がして、柳はきょとんとした。目の前で柳生は、まるで道端で座り込んでいる女性に手を差し伸べるかのように、または舞踏会かなにかで女性を誘うかのように、ともかく優雅に右手を前に出した。もちろん、そこに手が乗ることまでは考えていないだろう。パフォーマンスなのだ。
「……あ、ああ」
そういえば帰ろうとしていたのだった。やっと柳は思い出し、帰りましょうという言葉に頷いて返したのだ。反射的に。柳生は満足げに微笑んで、差し伸べていた手を下げた。気がつけば橙は翳り始め、紫とまざった複雑な色が空を織り成している。境はグラデーション。少し肌寒さを感じたのは、冬が確実に近づいているからだろうと、柳は出したままになっていたノートと筆記用具を鞄に仕舞い込んだ。
柳生は穏やかで真面目で、優等生的とでもいうべき性質の人間だろう。女子からの人気も厚い、らしい。喋りも丁寧だし、非という非はない。しかし底が見えないと思う。特にここ最近は。柳は良く気配に圧されてしまう。そして、本質が見抜けないような、そんな不可解なものを感じるのだ。意図的なのか否かそれすらわからない。先ほどは「みましょう」と言いながらひとりで推理して披露して見せたくせに、今度は「帰りましょう」の言葉通り、柳生は柳の身支度をずっと待っていた。それともこれは、先ほどの意趣返しなのか。
(わからない)
柳の付き合ってきた友人は裏表がない。幸村は善意そうな笑顔を振りまく割に口がキツイこともあるから表ではないのかも知れないが、裏なら裏ではっきりとしている。変わって真田は、それこそ表を地で行く。裏表があるなどと言えば悪口にでもなりそうだが、そういった悪辣な意味ではなく、単純に、性格がふたつあるのではないかと思ったりしてしまうのだ。
特になにということもなく、談笑して商店の通りを歩いていた。違和感はない。そして話題がまた腕時計に移った。ただ不意に。その時。
「それにしても、貴方はどうしても抜けているのですね。ずっとデスクを使っていて腕時計に気づかないなんて」
初めて違和感を感じた。それは、言った話だったろうか。いつから自分がそこにいたのか、彼は知り得るのだろうか。これもまた簡単な推理なのか。
しかし言われてみればそうだ。放置されていたノートから書き物をしていたことはわかる。柳が、となればメモ程度で済むことではないだろう。それくらいなら暗記して家でまとめればいい話。そうしないのならば、最初からノートをまとめる意思があった。それでノートと筆記用具。
聡い柳生のことだから、本棚の乱れには気づいているはずだろう。しかし柳の意識はもう、それを離れていた。もし片付ける意思があるならば腕時計のことはふたたび気づかなかっただろう。そうでないならば、片づけを諦めてしまった。諦めた理由は暗いから。柳は書き物をもう日も暮れそうな薄紫の近づく時間帯に行うことはないだろうから(長時間になると予想するため)、最初から気づいていれば整理を優先したはず。それが行われなかったということは、すなわち最初の段階では気づいていなかったということで。腕時計がそれと同様だったのだろう、とまでだろうか。
「……無言なのは、言われたことを正しい道筋に沿って理解するために思考が没頭するからですか?」
「ああ――、普段は黙り込んでも誰にもなにも言われないものだから失念していた。不快にさせたようならば謝ろう」
慣れというものは横着に繋がるのかも知れない。コミュニケーション能力は、慣れだけでは発達しないようである。慌てて謝ろうとすると、いえ、と手で止められた。
「貴方らしいなと」
「どれがだ?」
「今私が言ったすべて、ですよ。ところで柳くん、種明かししましょうか?」
すべて、というのはどの範囲に渡るのだろうか。もしや、抜けているという部分もなのか、と一瞬考えたような気もしたが柳生が続けた言葉の方がミステリアスで、興味と思考はそちらに奪われた。
「なにを、明かすんだ?」
「先ほど部室で見せた推理ですよ」
種明かしはマジシャンがトリックを観客に明かしてくれることではないか。推理、とイメージして繋がらないようだが。
「結論が先で、推理は後付だったのですよ。こじつけ、とも言いますか」
貴方の行動に関してはまったくの推測でしたけど、と柳生は薄く笑う。とりあえずその推測は間違っていなかった。
いつのまにか辺りから橙色が失せて、静まっている。先ほどまで商店が立ち並んでいたのが嘘のように、静まった住宅街。気の早い街頭がチカチカと光っている。
「貴方方三人を、鬼才三人衆であると同時に仲の良い友人同士、と言いましたね。私と仁王くんも、ダブルスパートナーであると同時に、気の合う友人なのですよ?」
あ、と柳は思った。声に出したかどうかまでは定かでない。言われたときにどうして気づかなかったのか。やはり柳は柳生のペースに乗せられていたのだと痛感する。
柳生は嘘を吐く必要がない。その大前提は最初から間違っていたのではないか。柳生は直接的に嘘を吐いてはいないが、「推理する」ということは間接的には嘘に当たるだろう。推理は、真実を知らないことが前提にあるものだ。
「なぜ、そんなまわりくどいことを――」
怒りはないが、ただ漠然と『わからない』。またそれだ。
「貴方と、話していたかったからですよ」
またさらりと微笑んで、柳生は急に道を左に曲がった。
「それではまた明日、お会いしましょう」
柳生は電車通学。駅へ行くならばこの道を左に。
「また……明日」
振られた手を機械的に振り返すと、彼は苦笑したように肩を揺らした。そしてそのまま背を向ける。
(話など――そんな切欠がなければできないものか?)
黙って柳がずっと背中を見ていると、顔が判別できなくなる手前に、彼は一度だけ振り返った。そうして微笑んでいた。