幸福な推理

うわあ、と思った。多分、恋をする乙女なら誰だってそう思うだろう。もしかすると天から降りてきた僥倖なのかも知れない。
「セクター、さん?」
木陰ですやすやと寝息を立てているのは、他ならぬミントの想い人だった。
心地良い風に誘われて、少し街の外れまで歩いてきた。日差しも温かかったので、ちょっとした散歩気分のつもりで。それが、こんな所に出くわすとは。無防備に眠る彼の姿を見るのは初めてで、それはきっと珍しいことのように思う。元軍人、という立場もそうであるだろうし、それよりもっと重いものを抱えていた彼にとって、眠りが安息だけであったとは、思えない。
「……セクターさん」
もう一度声をかけてみたけれど、返事はなかった。よほど深く眠りに落ちているらしい。こんなところでゆっくりしていられるということならば、急ぎの用事はないのだろうから、起こす必要はきっとないのだろう。しばらくその無防備な姿をミントは見つめていた。ただ、声もなく音もなく、静まった世界の中にいるみたいだ。疲れているだろうから、起こすのは躊躇われるのにこのまま放っておくことがどうしてもできなかった。理由はなく、ただ、なんとなく。こんな姿を誰かに見せたくないというのもひとつだろうし、それとはまた別の、なにかがあったのかも知れない。
少し息をついて、ミントは辺りをこっそりと見回した。街の外れのこんなところに、来る人は少ない。自分がここを通りかかったことでさえ、偶然で珍しい縁だったのだから。わかってはいたが、もう一度だけ確認して、こっそりと彼の横に座った。最初は緊張して堅かった姿勢が、次第に解けていき、両膝を十分に伸ばして、空を見上げる。こうしていると、恋人同士みたいだと、密かに思った。
(あったかくて、気持ちいいなあ)
それはこの穏やかな気候のお陰と、隣が彼だという高揚感が齎すもので。心地良さについ、意識が奪われそうになる。昨夜は少し遅くまで研究をしていたことも相俟って、眠気が穏やかな心地のミントを襲う。
眠ったら、と思った瞬間には、意識が落ちていた。

「せんせーい。セクター先生ー」
昼の戦争のような時間が過ぎ去って一段落していたところを、突然セクターの教え子たちに捕まってしまった。なんでも、宿題でわからないところがあったから聞きにいったら、先生が家にいなかったというのだ。そんなことくらいで、とつっぱねてしまうにはいかない事情がセクターにはあった。一時期彼は、行方をくらませていたことがある。今は帰ってきたが、子供たちの心配ようと言ったらなかった。その時、一応、曲がりなりにも彼を連れ戻したという経緯を持つフェアが頼られるのは確かに当然だ。しかし、もうセクターは黙っていなくなるような真似をするはずはないというのを知ってもいるので、複雑だった。まさか理由を言うわけにもいかないし。
まあ、彼のことだから街のどこかにいるだろうと軽く考えていたのだが、なかなか見つかってくれない。
「あ、せんせ……」
ふらふらと歩き回って、行き着いたのが街外れの自分が経営する宿屋の裏手だった。横から見えた特徴的な服が、すぐに彼の身元を報せてくれたので、フェアは駆け寄った。駆け寄ったところで、驚いてしばらく固まった。
「ミント、お姉ちゃん?」
陽光を浴びた金糸が美しい、セクターの隣ですやすやと寝息を立てている女性は、間違いなく自分が姉と慕うミントで。ふたりの想いを知っていて、密かに応援しているフェアとしては喜ぶべきだが、なんとなく複雑な気分になった。一言で言えば、この光景は少し、いや結構、恥ずかしい。大体の経緯を察することができたからこそ余計に。
(お姉ちゃんだよね……)
教え子として、また共に戦った仲間としてセクターのことを知っているフェアには断言できる。こんなこと、セクターは絶対にしない。ならどうしてこうなったかといえば、恋には奥手で、けれど確実に恋する乙女の一員である、ミントがそうしたかったからに違いないだろう。多分、こっそりと人目につかないように。そんな彼女の気持ちを、一応同じ女性として察したフェアは、トントンとミントの肩を軽く叩いた。
「おはよう、ミントお姉ちゃん」
「……? おはよう、フェアちゃ……」
にこにことやたらいい笑顔のフェアに、ミントは声を詰まらせて慌てて飛び起きた。
「先生を探してたんだけど、まさかこんなところで、お姉ちゃんと一緒だったとは思わなかったよ」
「フェ、フェアちゃ……ち、違うのよ。偶然、セクターさんを見つけて、私も気持ちよくてつい眠っちゃって――」
相変わらずわかりやすい人だなあ、とフェアは思う。家でなんて、セクターさんの話題をちょっと振るだけで動転して家中、すごい物音を響かせるところといい。
「セクター先生ー、生徒の皆が探してたよ」
慌ててミントが退いた場所で、フェアが屈んで、セクターに声をかける。小さく呻いて、セクターはすぐに目を覚ました。
「ああ、フェアくんか。いけないな、つい居眠りをしてしまったようだ」
「うん、そうだよ先生。皆が心配してたよ」
「すまなかったね」
少しだけ眠そうに瞼をこすったが、すぐにセクターは調子を取り戻したように立ち上がった。
「ううん、構わないよ。先生、疲れてたんでしょ? 隣に誰かが眠ってても気づかないくらい」
セクターが起きた途端、慌てて木の後ろに隠れてしまった愛すべき姉に向かってフェアが言うと、なにかが木に衝突したような音がした。やはりミントは、隠し事をできる性分じゃない。だがしかし、それを良くわかっていないような先生に言ってしまうのもさすがに気が引けたので、不思議そうな顔をしているセクターに対しては、笑って誤魔化しておいてあげたのだ。