perfect crimer
「われわれは、或る行為が犯罪であるからそれを非難するのではなく、それは、われわれがそれを非難するから犯罪なのである」
―デュルケム『社会分業論』(講談社学術文庫版)
耳障りな音がいつまでも鳴っているかのような。
得てしてそれらは奇妙な感覚なのだと柳は思う。奇妙な、解し難い。気づいた瞬間にまるで、悪事のようだと思った。そう思って、心中で責めた。
「――蓮二、平気か?」
目覚めることをなんとなく拒みたくなって、柳は一度目を強く瞑った。混沌とした暗いものが目の前に散らばって、薄気味悪い心地になる。身体中が熱い、倦怠感を訴えている。解熱剤は飲んだが、まだ本調子とまではやはりいかないらしい。柳は今度こそ目を開いて白い天井を眺めた。白い、天井。
「鞄は用意しておいた。帰れそうか?」
「……すまない」
「病人が水臭いことを言うものではない。大丈夫なのか?」
虚ろな頭の中で柳は考える。声が響き、水面が揺れるような微小な感覚。耳障りな音が、いつまでも鳴っているかのような。
その時、不意に頭を過ぎった。白い鳥がはばたいて消え去るヴィジョン。水面に降りる、白い羽。波紋が隅々にまで渡る、美しい水面。白い布団を力の入らない弱い指先でにぎりしめた。自分の下のシーツがよれているのが、なんとなく癇に障る。
「まだ、具合が悪いのか?」
「いや――それほどでもない。歩ける」
「連絡を入れなくて良いのか?」
「必要ない。この程度で煩わせたくはないんだ」
今は近くにいない――滅多に在宅していない両親、離れに住む高齢で病を患っている祖父母、一人で暮らす姉、誰も心配して欲しくなかった。そんなことに気を病む必要はない。所詮は風邪だ。
「この程度なものか」
真田は、いささか気分を害したかのように眉を吊り上げた。確かに、39℃の熱で"この程度"は言い過ぎかも知れないな、とぼんやり柳は思う。自立心が強いのだ。迷惑をかけずに生きていきたい。彼らは、忙しいのだから。普段から体調管理には気をつかってはいるつもりだ、いちおう。しかしそれでも病魔は容赦を知らないらしい。
真田はもう一度苛立たしげに呟いた。
「お前がそう、言ってくれるのならば、それで構わない」
「なにを」
そこまでは言ったが、結局二の句が継げなかったらしく、真田は沈黙する。柳は深く息を吐き、視線を窓の外へ移した。美しく晴れた澄み渡る蒼空。絵の如き白い雲。
この程度ではない、と言外に(いや、明言しているも同じだろうが)言われたので、少しうれしく感じたのだが、反面これが良くないとも思う。身体を心配するのは友人として当然だろう。友好的な感情はとてもうれしい。うれしいが、悪事だ。
風ではためく白いカーテン。
「もう少し、自分を考えろ――」
「考えている。俺が考えなくて誰が考えるんだ」
「まともに立っていることすらできなかったものを」
「迷惑をかけてすまない」
「それは不要だ」
「――ああ、」
まっすぐに向けられた視線が痛い。自分のことなどあまり顧みたことはなかった。正直、どうでもいい。崩れていくというのなら、おそらく崩壊すら止めようとしないのだ。まともな神経を有していない。柳は自分の性質を考えるに、いつも気分が悪くなる。多分、彼がいなければ、もっとひどかったのだ。成熟しているというと聞こえはいいが、中学生らしくないのは宜しくないと思う。無限の夢も希望もあったものではない。
希望的な観測が存在しないから、あまり多くは――否、ほとんどなにも、望んでいない。
「帰るぞ、蓮二」
普遍的な場所に導いてくれるのなら、きっとそれは正しい。正しいだろうがそうでなかったとしても、それは犯罪にすら値するような気がするのだ。手を引かれれば引かれるほど、気持ちが傾く。そんなことは望んでいないというのに。なにも知られていないから、そのままであればいい。これ以上心が乱れなければ良いのにと、いくら願っても現実はどうにも天秤を傾かせてしまう。
そうして呼ばれるままにベッドを立ち上がって、柳は眩暈を感じた。
これほどまでに美しくて完全な犯罪は存在しない。
「蓮二、本当に具合は良いのか?」
柳はふっと溜息を吐いて、右手で軽くこめかみを押さえて、もっとも顕著な痛みだけ口に出して呟いた。