祈願

バタバタと騒がしい足音には、馴染みがある。ここ数ヶ月ほどの間、随分と関わってきた自分の教え子の足音だ。音はドアの前でぴたりと止まり、ノックする音が聞こえる。
「セクター先生、いる?」
読んでいた本を机にバサリと下ろして、セクターはこの狭い家の中に来訪者を迎え入れる。ドアが開くと、来訪者たるその教え子は、ぱっと顔を華やがせた。
「いらっしゃい、フェアくん。どうしたんだい?」
「良かった、先生がいて。大変なの」
大変、という彼女は、言葉の割には慌てた素振りは見せていなかった。中に招きいれようとしたが、手を振って辞退されてしまう。
「ミントお姉ちゃんが、風邪ひいちゃって、寝込んでるの」
「……ミントさんが?」
それで、なぜ自分のところに、と問う前に、答えは返ってきた。
「本当は私が傍にいてあげたいんだけど、今、お店の方も忙しいし……他に頼める人がいなくて、先生のところに来たの」
この快活な優しい教え子は、今となっては帝国でも有名な料理人だ。もうそろそろお昼時ともなれば、確かに忙しいという言葉も納得できる。対して自分はといえば、午前中に授業も終えてしまって、特に今は用事がない。それならば、特別に断る理由などないのかも知れない。
「リシェルくんや、ルシアンくんは?」
「お店、手伝ってもらってるから」
「じゃあ、良く一緒にいるメイドの子は?」
「ポムニットさんは、オーナーの家のメイドさんだもの。お屋敷の掃除とか忙しいと思うし」
他に頼める人がいないの、という最初の言葉通りの眼差しで、フェアはじっと見つめてくる。
「私は、一人で生きてきたからね――看病というものに、あまり縁がないんだよ」
「特別なことなんてしなくていいんだよ。ただ、傍にいるだけでいいって。……前にね、私が風邪をひいて寝込んでた時、看病しに来てくれたミントお姉ちゃんが言ってたんだ。ひとりでいると淋しいから、誰かがついていてくれるだけでもいいって。早く治って欲しいって思ってくれるだけでいいんだって」
だから本当は、私があの時の恩返しをしたかったんだけど、などといわれてしまえば、セクターにも断るわけにはいかなくなってしまった。
「わかったよ。でも、私なんかが行って、本当に良くなるものかな」
「先生だからいいんだよ」
「? なんだい?」
「う、ううん、なんでもない。早く行こう、先生!」
彼女に急かすように手を引かれて、セクターは家を後にした。
看病に行くのが嫌なのではないのだ。得意ではないという言葉も嘘ではないが。これ以上、情を深くしてはいけないと、自分たちの状況を見てきた彼女ならそれを察して欲しいと少し思っただけなのだ。
(……彼女は、納得していないんだな)
ぼんやりと考えて足を少し止めると、フェアの明るい声が、厳しくセクターを咎めるのだ。早く、と。

思えば、ミントの家に来たのは初めてかも知れない。いつも、彼女が来訪してくれていたのだから、当然といえば当然の話だ。その家は、彼女をそのまま表すように、清潔で整っている。
「オヤカタ、待たせてゴメンね?」
「ムイムイ」
お姉ちゃんを看ててくれてありがとう、とミントの護衛獣、オヤカタの頭をフェアは撫でる。
「じゃあ先生、ミントお姉ちゃんのこと、よろしくね」
寝室は向こうだから、と彼女の指差す先を、セクターは眺めた。
「薬は飲んでるから、安静に休んでるだけでいいと思うんだ……あ、起きたらお粥とか食べた方がいいと思うけど」
「ああ、わかった。それじゃあフェアくんも、忙しいとは思うけど、頑張って」
「うん、ありがとう、先生。いってきまーす」
そしてパタパタと、家に来た時に聞いた足音が遠ざかっていった。
「ムイムイ、ムイッ」
オヤカタが、自分の主人を頼む、とでも言うような目でセクターを見ていたので、苦笑して、ともかく彼女の様子を少し見ていこうと寝室に向かうのだ。
寝室からは、女性特有の甘い香りがふわりと漂っていた。嫌味のない、これもまた彼女らしいというのか良くわからないが、そんな香だ。あまり覗き込むと失礼だろうと思って遠目から眺めてみるが、その表情は紅潮してはいたが、安らかなものであった。初めて彼女の寝顔――と、あの時の彼女の状態を考慮するとそう呼べるかは悩ましいところだが、それを見た時とは、比べようもないほどに。そのことに人知れず安堵した。
(熱は、もう少し……か)
薬は飲んだというので、きっとそのうち下がるのだろう。どれだけここに留まっていれば良いのかフェアに聞きそびれたが、まあ、彼女が起きればおそらくはお役御免というところだろう。
彼女の容態を確認して寝室を出ようとしたセクターを、「ムイムイッ」とオヤカタの声が引きとめた。
「……どうしたんだい?」
「ムイー、ムイッ」
「彼女に……着いていてやれ、と?」
「ムイ」
召喚獣と意思疎通できるはずはないのだが、なぜだか、主人を心配する彼の心情は伝わった。自分はなにもしてやれないから、とでも言わんばかりだ。
ここは居心地が良い。彼女がいるからなのか、それともここが居心地が良いから彼女にも似たようなものを感じ取るのか。どちらでもさして変わらない。結局は感情はいつまでもこちらに傾いているままだ。
(いけないな)
いつかこの街を去らねば、どうにかなってしまいそうだ。
すぐ傍の椅子を引っ張って、ベッドの少し近くに寄せる。
「早く、良くなってください、ミントさん」
「ムイムイ」

目が覚めた瞬間のミントの驚きは、本人にとって筆舌に尽くしがたいものであった。熱が下がったばかりのぼんやりとした、いつも見慣れた風景の中に、いつもとまったく違う人が存在していたのだから。それも、自分の想い人だ。
「せ、セクターさ……」
あまりにも驚いたものでがばっと上体を起こせば、まだ本調子でなかった身体が悲鳴を上げる。がくりと逆戻りしそうになった身体を支えてくれたのは、ここにいるはずもなかったセクターの腕だった。
「急に起きては、身体に障りますよ」
「ど、どうしてセクターさんがここに――」
「ムイムイッ」
オヤカタが上機嫌で自分を見ている。おそらくは、ようやく目が覚めたことに安堵しているのだろう。それよりもまっしろになった頭は、彼の言葉のみをずっと待っていた。
「フェアくんに、貴方が熱を出したと聞きましてね、看病を頼まれてきたんですよ」
淡々と、セクターは語る。
(フェアちゃん〜〜ッ)
確かに、眠りにつく前に、「ごめんね、お姉ちゃん。お店があるから傍にいてあげられなくて――代わりに、誰か呼んでくるから」と言っていたような気はする。けれどまさか、彼だとは思いもしないじゃないか。
「私は、なにもしてあげられてはいませんが……ああ、そうです。フェアくんに起きたらなにか食べさせた方が、と言われていました。お粥、食べられますか?」
「あ、はい……でも、あの、セクターさん、お作りになるんですか?」
椅子を立った彼を見上げてそんなことを尋ねたのは、なんとなく台所に立つ彼の姿をイメージできなかった為だ。
「私は自活してますからね。いつも、貴方の持ってきてくださった野菜も調理していますよ」
セクターは見下ろして、少し笑って見せくれた。
「あ、そうです、よね」
熱の所為か、彼の所為か、自分でも言っていることが良くわからない。とにかくこのシチュエイションはなんなのだろう。とりあえず、妹のように可愛い、自分を心配してくれただろう若き料理人の姿を思い浮かべてみる。なんだかんだと言って、ずっと自分のことを、彼のことを気にしているのだろう。もちろん、他に人手がなかった、と言われるんじゃないかとは思う。けれど、それだけが理由とは思えないし、それはセクターとて察していることだろう。
フェアが悪いわけではないのだ。こうして、彼がいてくれることは、きっと何よりの特効薬だろう。そんなことは、急に上手く喋れなくなった癖に、顔が紅くなって熱でもあるみたいな癖に、彼の言葉がはっきりと聞こえているのだから良くわかる。けれど。
(フェアちゃんに言われたから、だよね)
それがはっきりとわかるのも、辛いのだ。
寝室から出て行く彼の背中を見て、つい口をついて名前が出てきた。
「――セクターさん、」
「どうしましたか?」
あの時みたいにもう一度、言ってくれていたりはしないだろう。彼はもう決して。
「あ、いえ、あの……ありがとうございます。わざわざ」
「気にする必要はありませんよ。私が好きでしていることですから」
それでも、微笑んでそんなことを言われたら、嫌になってしまうくらい期待してしまうのだから、困る。