幸村は黙っていろと言われて素直に黙っているような人間ではない。柳は自分の席で、先日の出来事を思い返す。彼は驚くほどに偏屈な一面を持っているのだ。しかし幸村は実に察しが良いし、すべてにおいて弁えている。このような話を面白半分に誰かに話すべきでないと、心得てくれているのだ。だから柳は安心している。さて、安堵という感情が生まれる理由と、その感情の向かうべき方面は何処なのだろうか。季節は段々と巡ってゆく。色彩は赤と黄色から、白と灰色に移り変わる。彼はその瞬間を(瞬間と捉えるべきではないにしろ)瞼の裏に描いてみた。要するに、タイミングの問題だ。いつそれを行うのかということは、大変重要なファクタである。
 まだ時期尚早だ、と彼は思う。後戻りができなくなるまで、まだ時間の経過が必要だ。十分に時を経てからそれを行えば良いだけの話。柳は待つということを良く知っている。幼馴染に対して貫いた態度も、正にそれであったのだから。
「蓮二、帰らんのか?」
 肩に手が触れるのと同時に声がした。幸村の動作をふと思い出して、類は友を呼ぶという言葉を頭に浮かべる。そうなると、この友の同類には柳自身もあてはまるだろう。だが、柳はどちらかといえば動作には出さずに口頭から始める方が常だった。
「お前は図書館に寄っていかないのだな」
 受験生でもあるので、今の時期は放課後を図書館で過ごすという生徒も少なくない。冷暖房が完備されているのだから快適だし、少なくとも教室よりはずっと静かだ。柳は真田の放課後の予定など今のところ詳細に調べられていないので(新学期は始まったばかりでまだ十分にデータが揃う時期ではない)、声をかけられたという事象についてから考察した結果である。そもそもこの友人は図書館が好きでないと言っていたし、彼の家の学習環境は十分だと言えるからというのも理由であった。
 真田は、柳の言葉にまるで驚かない。本人に聞いたわけではないのだが、要するに慣れというものらしい。事実、柳の口調も性質も幼い時分からちっとも変わっていないのだし、真田とは短からず友人として過ごしているのでさもありなんといったところだ。慣れといえば、柳が慣れていることのひとつに、自分の言動に驚かれる、という現象が含まれている。
「なんというか、お前は余裕だな」
「余裕か。ゆとりを持たないで生活しない方が良いぞ、お前はな」
 なんとも言えぬ表情をしていた真田はやがて、彼にしてはゆっくりと独り言のように呟いた。
「……思うが、お前は二重否定が好きだな」
 柳は驚いた。彼が驚くのは実に珍しいので、真田の方もその様子に驚いたようであったが、とかく柳はそのように言われたことは初めてだったので、新鮮であったと言っても過言ではない。三秒で柳は落ち着いて、なるほど、と思考を動かす。
「二重否定の意は強い肯定だ。だから、お前はゆとりを持って生活すべきだな」
 言い直す必要は一切なかったが、真田は特になにも言わずに黙っていた。その沈黙の意味を柳はうまく理解できなかった。それこそが、複雑な精神構造から生まれいずるものなのだろう。このとき柳は、散々悩んでいたことを実行すべきかその一瞬に酷く悩んだ。結局は先程と同じ時期尚早という言葉に逆らうことができなかったのだが、もしここでそれを話したらどうなるのか、興味は尽きない。
「そうだな、帰るか」
 鞄を取って立ち上がると、真田も慌てて倣うように席から鞄を取ってきた。彼の後姿を視界の端に留める。自分の考えたタイミングを否定する自分はあまりにも自己否定的であった(柳にとってタイミングというものは自分で作るゆとりと同様の重要性を持つ)し、なにより、真田の反応がわからなかった。ある時を境に誰かの反応が読めなくなるなんていうのは、それ自体が複雑だ。夏の暑さを嫌悪するか冬の寒さに憤怒を覚えるか、そういった単純な問題でないことは火を見るより明らか。
 けれど実験は行われなかった。そうすることが、平穏で平和であるからだ。

 季節が冬へと移行しつつある風の冷たい日だった。これ以上過ぎれば本当に外の景色は銀色に変化してしまう、そのギリギリを柳はタイミングだと思っていた。その点で言えば、今日は相応しい日の内のひとつであると言えそうだ。彼は屋上へ続く閉鎖された道筋を歩いている。決して屋上へ出る訳ではない。鍵など持っていないのだから、出ようにも出られない。ただここは人目につきにくいので、秘密事を話すのに一番なのだ。告白が良く行われる場所でもあるというのは柳の統計的データにあることだった。彼は告白をする訳ではないが、広義の意味で言えば告白するに相違ない。秘匿していたことを打ち明けるのならば、それはコンフェッションなのだ。
 友人は、柳から随分遅れてついてきていた。まるでこれから話されることを知っていて、それを聞きたくないかのようだと柳は勝手に思う。真田の反応もシミュレイトしてあるが、彼は柳の中で一番読めていないと思われる人物なので真偽の程は定かでない。むしろ、そのシミュレーション通りに動くかのテストだと言っても構わない。自分が相当人間的に妙なことを考えているということを柳は自分で認めていた。
 時期に関しては柳は考えていたが、場所に関しては適当だった。話というのはどこで行おうとも干渉を受けたりしない。ただ、不必要な聴衆を避けてここを選んだのだ。
「イギリスに留学しようと思う」
 真田が階段を昇りきる前に柳が言ったために、結局彼は階段を昇りきることはなかった。綺麗に放心状態であった。放心しているというのはこういう状態だと、広辞苑かなにかにでも載せておきたいくらいに。
「イギリス――?」
「グレートブリテン及び北部アイルランド連合王国。まさか知らない訳ではないだろう?」
 知らないという言葉は、イギリスの正式名称についてではない。繰り返された言葉を、まるで発言者がそれ自体の意味を知らないかのようであったので、冗談を言ったまでだった。
「いつ?」
「卒業したら、向こうの学校に進学しようと思っている」
「なにをしに」
「勉強するために。おかしいか?」
 まるで5W1Hの勉強でもしているかのようだ。柳はひっそりと苦笑する。真田が混乱するのはイメージの範疇内だから、柳の許容範囲だ。狼狽する方が正しい反応であるとすら思える。幸村こそがマイノリティーだ。あんなに上手に切り返しされてしまっては、柳の方が逆に混乱する。
 状況を整理する為に質問する。それは、悪くない順序だろう。わからないから、戸惑うのだ。それなら疑問点は解消させてしまえば良い。それも柳のスタンスだ。次の質問はなんだろうかと柳はイメージから予測し、期待する。積極的な期待ではなく、消極的に。
「他に知っている奴はいるのか?」
 柳はあの秋の日のように再び驚いた。それは、柳のデータベースからは予測がつかない質問であったのだ。いつ決めただとか、なぜ黙っていたとか、そういう類の質問が来ると思っていた。そうした彼の期待は裏切られる。しかし、完全なイメージを創り上げる為には、この裏切り――予期せぬ突然の、案外な行動が不可欠なのだ。柳はまた新しい像を組み上げる。質問に一拍遅れた。
「精市が知っている」
「なぜ、精市には喋った?」
「こちらからアクションを起こして喋ったのではない。偶発的な、いわば事故だ」
 真田は黙ってこちらを睨んでいる。彼が返答に不満足なのは、彼を良く知らない人でもすぐに看破できるだろう。
「俺が喋ったのは、お前に対してが初めてだ。精市には聞かれたからイエスとノーで返答した」
 彼の表情が変化しないので、柳は驚いたというよりもむしろ呆れた。なんと子どもっぽいことで怒るのだろうか。柳にはそれはあまり理解できるものではなかった。どうしても、不可抗力が働いたとしても、一番に話して欲しいと願うのだろうか。そのソースはなんだというのだろう。
「友人関係に順位付けした記憶はない、お前がどう考えていようとも」
 真田は溜息を吐いた。柳が思う限り、真田に溜息を吐かれるような理由はない。
「お前は、俺の考えがわかって喋っているんだな」
「なにを今更」
「精市に知られたのは、昨日今日の話ではないだろう」
 断言された時、柳は驚いたというよりも初めて思い至った。世間的な自分に対する見方というものを。そして、真田に対して持つイメージという希薄なものはなんなのだろうかと考え始める。完全に正しくはない。けれど、部分的には正しい。柳は自己否定を行わなかったが、真田に対するイメージを持て余す結果となった。廃棄してしまっても構わないだろうか。
「お前に、なにを言われるか不安だったのだろうな」
 デリートして柳は白紙の状態で呟いた。友人であるから、彼を傍で見ている。行動というものを把握しているはずだと柳は自分に言い聞かせていたが、人というのは深く知れば知るほどに読めなくなるものなのかも知れないと思っていた。シミュレーションは嘘だとわかっていた。しかしそれは自己否定だから、柳はそれを拒否して自己欺瞞を行っただけだ。多分、それはなにか致命的な間違いだったわけでもないし、大切な解決法でもなかったということ。
 柳はステップを下りると、真田と同じ位置に立った。二人が黙ると、しんと静かになる。ここは本当に生徒達から隔離された場所で、声や音が届きにくいし、人もほとんど通らない。
「反対されると思った」
「俺の個人的な事情でお前を留められるか?」
 答えずに柳はステップを更に下りる。どの道、もう後戻りなどできはしない。両親にも話して承諾してもらったし、進路相談でも福永女史に話してある。資料は取り揃えてあるし、勉強も進んでいる。川の流れのように、それらは途絶えることはない。柳は淀みなくステップを下りる。真田はまた随分遅れてからその動きを追ってきた。