花曇り
紙切れの一枚で自分の人生が決まるはずはない。柳はそう考えて、自分の思うことを単純に紙に書き入れた。だがその一方で、呆れるくらいに彼にはわかっていたのだ。少なくとも現時点においては、それに縛られるということも将来的に有り得るのだということを。
柳は無感情にシャープペンシルを机に置いた。シャープペンシルで書いたことに意図はない。ボールペンだと書き直すのに困難だとか、そういうことは一切考えていない。第一、周りを見てもだいたいがシャープペンシルを握っているのだから、判断は間違っていないはずだ。彼の呼吸は欠片も乱れてはいない。果たしてそれが、彼にとっては正常な状態であり、それが維持できているという観点からすれば、柳は正常であった。だが、友人は少なくともそうは捉えないだろうと思う。少し離れた席で、眉間に皺を寄せながら何事かを書き込んでいる友人は、恐らく、自分とは別の考えをする。それが人間として正しいのであるが、そういう話ではないのだろう。溜息を吐いた。
ホームルームの時間帯というのは、もともと静かなものではない。この教室のドアを真っ直ぐに見る視点からすると右隣である、今の柳から見ると前の黒板と壁を差し挟んだ向こうのクラスからは、幾らか声も洩れているくらいだ。そう考えれば、この教室の雰囲気は一種異様なものだろう。まるで試験時間のようだった。彼はあまり悩まずに筆を下ろすと、珍しく頬杖をついて黒板の方を見た。それから、視線を担任教師に移す。黒いストレートを後ろでひとつに縛っている、眼鏡の女性教師。余り優しくない(それは控えめな表現だとクラスメイトは言う)人なので、このクラスはおろか、彼女が数学の授業を担当している他クラスの生徒にも不人気だ。そのように柳は断定的に思ったのだが、他人の持つ感情のベクトルなど彼にも計り知れてはいないので、推論である。幸村は美人だからすべて許されるとも言っていた。彼女は、疲れているのかこの紙に書かれるべき内容がプライヴェートなものであるためか、瞳を伏せてじっと黙っている。この紙が幾らプライヴェートだとして、最終的に彼女が見るのは確定しているので、可能性としては前者が高い。そうなのだが、あの女性教師は意外とデリケートな人であるので、後者の可能性も捨てがたい。――否、後者だろう。いつも通りの思考パターンで柳は推論を真実に組み上げる。ちょうど、クロスワードパズルを解き明かすみたいに。
「そろそろ、書けたわね?」
女性担任は目を開いた途端にそう言い放った。言いながら、素早く立ち上がる。集中が解かれてクラスメイトがざわめき始めた。柳は頬杖をやめて前に意識を集中させる。前から回ってきた紙を再び前に戻すべく、列の最後尾である柳は、自分の書いた紙を前のクラスメイトに手渡した。フレームのない眼鏡をかけた理知的な容姿を持つ(柳に言われるのは心外だ、と以前怒られたのだが)彼が、如何なることをその紙のブランクに書き入れたのかを推測するのは容易い。だがそれは、飽く迄推測に過ぎない代物だ。或いは柳の持つ他者へのイメージと言い切っても過言ではない。相手の反応に対する予測や期待というものとしてのイメージ。予想外の出来事に狼狽したり驚愕したり、そういうことを避ける為の緩衝材。イメージとはそのようなものであると、どこかの本で読んだことがあるのだが、それは的を射た言葉だと思う。彼のイメージは、その役目を実に良く果たしてくれているというだけであって、人の思うような読心術などちっとも心得ていない。イメージは、さまざまな出来事(往々にしてそれは予想外なものである)を通して変容し、より現実に近いものとなる。柳はその精度を極めて高くした。物理的な情報によって。だから、精神的な純度の高いものは不得手なのだ。例えば、複雑な精神構造を必要にするもの。時にアンチノミーにも成り得るのでお手上げだと思った。こういう感覚に鋭い人こそ、読心術を心得ているのではないだろうか。
要するに、憶測に過ぎないもので空想するよりは、はっきりと本人に聞くべきだと柳は結論付けたのだ。
彼はさっと横を向く。前を見ていなくても教師の話は聞こえているし、意味理解もできているから問題はない。新緑がまだ美しい季節だった。どうしてこんな時期にこんなものを書かせるのだろうか、果てしなく疑問だ。まだ時期尚早ではないだろうか。それとも、一年は早いという暗喩なのだろうか。柳は黙って青々と(緑色だというのに)茂った木々をずっと見つめていた。誰もそれには気づかない。
同様のことは夏休みの明けた新学期でも行われた。そして、柳は夏休みにはご丁寧に担任教師から呼び出しを食らってしまったため、部の練習を一時的に抜け出してわざわざ職員室にまで来る羽目となった。こういうとき、「自業自得」と言って良いものなのかどうか、柳は思い悩んだ。デリケートな女性教師は、まるで小説やドラマや漫画といった世界のものを現実に踏襲しているかのように、決まりきった言葉で尋ねる。一番目は、本気なのか、であった。
柳の頭脳とてパーソナルコンピュータやフロッピーディスク、その他の記録媒体ではないので、記憶する容量には限りがある。彼女の言葉を一字一句正確には覚えていないのだが、概要だけは記憶してあった。どのような時でもこれは同じで、いかにも真実その人が喋ったように柳が話せば、たとえ話者であろうと、そう言ったと思い込ますことは可能だ。ただしこれには幾つか制限がある。まず話者の意図していた内容であることは必須条件で、それからこれは柳に関してのみクリアしているのだが、日々の信頼関係・柳蓮二という人物への相応の評価とでもいうべきものだ。だから、柳はこれを駆使することは可能だが、今のところその評価を上げるためにしか使い道がないので、役に立たない技能である。無論、話者にとって重要なもの(だと彼が判断したもの)は意図的に記憶しておく必要があることは言うまでもない。
そのような、少なくとも愉快ではない記憶があるにも関わらず、柳は前から回ってきた最後の一枚を机にぺたりと貼り付けるように置くと、前回と同様のことを書き入れた。ちなみに、新学期となって席を替えたにも関わらず、長身の柳はまた最後尾に回されてしまったのだ。ほとんど変わらない身長を保持する真田は、どうして後ろから三番目なのだろうか、と思った。その内きっと、彼には苦情がくるに違いない。その確率は87%、だ。夏の間に再会した旧友の、自分とは恐らく別方向へと進んだだろうデータ活用術を真似して考えてみる。どうもしっくりこない、というよりも、そのパーセンテージはどのような根拠から来るのだか、ちっとも理解できないのだ。これは、彼が理系で柳が文系であるという示唆だろうか。しかし、同じ文系らしい人間に言わせると理系に近く、理系らしい人間に言わせると文系に近いと言われるので、これまで柳は自分をそのどちらにも置いたことがない。中学生の内から人を二極に分ける必要性も、思えば存しないのだ。
柳は今また、職員室の前に佇んでいる。呼び出しておいて不在とはどういう了見だろうか。たといそれが十数分の出来事であったとしても、彼は時間通りに動かない物事が嫌いだった。時間通りに来ない電車、時間通りに終わらない授業、時間通りに来ない友人、そのどれもが柳を不快にする。どれにも、悪意はないのだ。わかっているから、怒るべき存在を見つけられずに気持ちの中でだけ不快指数が上がっていく。時間にいない教師も、この枠に該当すべきであった。仕方ないので、窓の方へと視線を移す。最初から遅れると知っていたならば、本の一冊でも用意したというのに、無駄な時間を作られた。柳にこういう種のゆとりは余り存在しない。ゆとりとは、自分で計画して作り出すべきものであり、予期せぬものなど不要だった。実に彼の人生らしい考えであると、友人らが手放しで喝采するような。
しかし、不意に与えられたゆとりを、どうにか活用する他はないのである。柳は外を見た。数ヶ月前には瑞々しい色だった葉は、いつしか赤と黄に装いを改めている。すなわち、紅葉。柿を食べれば鐘が鳴る。そんな季節だ。紅葉で一句浮かべてみようか、と柳が一瞬考えたところに、タイミングが良いのか悪いのか、待ち人は来る。
「待たせてすまない」
息を切らしてはいなかったが、廊下は走るべからずとあるので仕方あるまい。彼女は紺色のスーツ姿で髪を後ろでひとつにしていた。この人の装いは、変わっていない。
「とりあえず職員室でって訳にもいかないだろうから、教育相談室だね」
「そんなに大層なことでしたか?」
柳は感情を籠めずに、というより籠めるべく感情もないので機械的に尋ねた。その淡々とした(と評される)態度に、教師の方が少し肩を竦めてリアクションを見せる。基本的にはこの人も、冷徹と呼ばれるほどにクールなのだ。「待ってて」と一言告げると、なにに必要なのか分厚いリングノートを手にして職員室から出てきた彼女に先導され、柳は職員室の隣の教育相談室に足を踏み入れた。この部屋も防音になっていないのだから、聞こうと思えば話など幾らでも聞けると柳はまた冷静に考えた。
「大層、というより、そういう選択肢を考えることが余りないからね」
随分遅れたが、先程の質問に答えるように彼女は話を切り出した。丁度窓から入り込む西日が目に痛い。
「目的はテニスかな?」
「いいえ。ただ、向こうで学んでみたいと思っただけです」
「そう。海外留学ね……」
遠い目をして、担任は呟く。最初の進路希望では、具体的になにか決めていた訳でもなく、思いついた学びに行ってみたい国を記入した。夏休みに呼び出されて、ふざけているのか悩んだ、という言葉を頂戴した。先日行った二回目には、今度はきちんと調べて学校名を三つ記入した。これならば、ふざけているとは思われないだろうという予期と、それに具体的に考えねばならないという私的な理由があった。
「ご両親は?」
「さあ。反対はしないと思います」
家にいるということの少ない二人にとって、息子が家にいようが外にいようが同じであるように思う。放任主義などというものではないだろうが、自主性を重んじてもらえるだろうと柳は断定している。憶測などではなかった。
「本気で行くつもりなのね。君なら、不可能だと思ってないけど」
『ありがとうございます』と『光栄です』とどちらを使うべきか悩んだが、後者はいささか生徒らしくない発言(学生になれば許されるだろう)だと思い、平淡な声で前者の言葉を述べた。
「具体的な話は、日を改めて。進路相談の時は、両親のどちらかでも日程を合わせてもらって。後、それまでにできれば話しておいて」
「わかりました」
柳は座ったまま軽く会釈した。なおも彼女は考え込んでいるようで、目を閉じて何度か頷いている。柳はこのまま帰って良いものか珍しく悩んだ。こういうシチュエイションにおけるデータまでは、流石に存在しない。
ノック音が聞こえて、素早く声「福永先生、レポートのことなんですけど」と身体が入り込んでくる。それと重なるように、福永女史からも溜息のように声「まさかうちのクラスの生徒が海外留学なんてね」が洩れる。入り込んできた身体は、柳にも馴染み深いものだった。
「精市、ノックは相手の同意を得る為のものだと言っているだろう」
「ちょっ、それどうでもいいよ、今のところ。なに、留学?」
微妙に厄介な人物に知れた、と柳は思った。柳の考えるランクでは二位に相当するくらい、厄介で微妙だ。迂闊な福永女史は、放心してしまっている。一概に彼女を責めるのも間違いだ。この場合、責められるべきは幸村であって、彼女はまったくの失態を犯したとは思われない。鍵をかけていないのだから開けられる可能性を予期することはできるが、そこまで考えねばならないとは言えないのである。遅きにしろ早きにしろ、いずれ全校生徒であろうと知りうることなのだから。
柳は、表層では落ち着いた動作を見せた。そもそも彼は福永教師よりもずっと落ち着いていたし、もっと言えばこの程度の動揺は彼の中では動揺に含まれないという程度なのだ。どちらかと言えば正しい道筋を踏まれなかった混乱とか、そういう感情に近い。ただ平生よりも落ち着いていないのは紛れもなく事実だった。
「俺とお前の知る間において、その単語に別の意味が存在するのか?」
「質問に質問で返すなってのは蓮二だよね」
「言わねばならないこととは思えない」
「じゃあ、イエスかノーで構わない。留学するの? どこへ?」
「最初の質問はイエス。次の質問は、それでは答えられないな」
幸村は押し黙ると微笑んだ。幸村の素性というものを知らない人間が見れば、一様にそれを善良だと判断するだろう。だが少しでも事情を知っているものならば喜怒哀楽の変化が見え隠れする。今は不満そうだ。
「蓮二は狡いよ」
幸村はそれだけコメントすると、当初の目的をすぐに思い出したらしく、福永女史に本日の数学の授業で出されたレポート課題について二、三尋ねた。最初は良く聞いていなかった様子であったが、すぐに正気を取り戻し、彼女もその意欲的な質問に機嫌良さそうに答えていた。柳はそのやり取りを、横目で眺める。
「じゃあね、福永先生、蓮二」
「ああ。今の話はオフレコだ」
「レポートのこと?」
とぼけた返事をして、幸村は笑顔で去っていった。その時の笑顔は、哀だった。