デウス・エクス・マキナ -5

「嘆願書です。部長の署名もあります」
 生徒会室に再び入るなり、生徒会長の目の前に、柳生は書類を突きつけた。日も暮れ始める橙色の教室に、白い書類だけが浮き立つ。中にいたのは、生徒会長と副会長だけだった。だが、二人とも、書面を前に、冷静な面持ちだ。
「なになに、おもしろい話?」
 否。というより、副会長は好奇の視線を送っていた。
「別段面白くはないな。柳がいない時を狙ったのか?」
 会長の言葉に、柳生は微笑んで、回答しなかった。柳の在不在は、確かに影響しないようでもあるが、真相は柳生以外の三人には不明だ。先ほどとうってかわって、柳生は非常に落ち着いていた。直談判、などと物騒な単語は忘れてしまったのだろうか、と仁王は思う。どちらにせよ、彼は冷静な方がむしろ恐ろしいという点では、参謀に似ている。
 返答がなかったことに不満を感じているわけではなさそうだった。会長は書類を受け取ると、それを軽く読む。その横から、副会長が覗き込んでいた。へえ、とか、ふうん、とかいう声は、すべて彼女のものだった。
 柳生の手が、あくどいというか、本当に詐欺のようだったことに驚いたのも、やはり仁王であった。真田は基本的に真っ当なので、書類の内容を確認せずに署名捺印したわけではない。つまり、柳生の虚偽の内容についてのことで、そのことに対して生徒会に文句を言うような内容の書類であったはずだ。だから、二枚綴りであった紙の、丁度二枚目に真田は署名と捺印をした。一枚目が、彼のいった嘘の内容。とても単純な話で、一枚目だけそっくり柳生は本当の嘆願書に変えたのだ。
 事情を知る人間からすれば、こんなことは許されるべきことではないと思わされる。もし社会でこんなことをしたならば、然るべき処罰を受けるだろう。しかし、学校生活においては、ルール違反といえども、結局真田にもそれほどの不利益はないし、ついでに、黙っていればわからない。そして、柳生は、社会に出てこんなことを行うことは一切ないのだろう。その賢さが(というか狡猾さが)、問題なのだ。今ここで問題にならぬこと、騒ぎ立てる方が問題を起こすと仁王にもわかってしまうから口を閉ざすことを、わかっている。切原はわかっていないようで、その光景をただ見入っていたが、丸井はわかっているらしく、「こんなことしていいのかねえ」と仁王の方に呟いた。テニスでもややルールに引っかかりそうな交代劇をしていた詐欺師としては、なにも言えないのだが。
「なんだ、やっぱりおもしろいじゃないの。いいわよ、これくらい。でも校則を変えるのって面倒だから、特例で出せばいいんじゃない?」
 なんだか、始めから彼女がいた方が楽に進んだのではないだろうか、とは切原の感想だった。少なくとも、今ここにいない柳よりは数倍ことが早く終わってくれそうじゃないか。からからと笑う副会長の姿は、生真面目なイメージを持つ生徒会に似つかわしくなかった。
「お前はそう、簡単に言うがな」
「生徒会の連絡版に貼っておいても、誰も見やしないわよ。でも出したって事実さえあればオッケーなんでしょ?」
「そういう問題ではない」
「いいじゃないの。誰がどうやったか知らないけれど、あの真田がこれに全面的に同意しているんでしょ? それって、おもしろいことだと思わない? 彼、部長のポストが嫌そうには見えなかったもの」
 でしょ、とでもいうような視線を向けられて、柳生はにっこりと微笑んだ。ただうるさいだけの好かないタイプかと思われた彼女だが、思うよりも勘が鋭い。彼女は、この書面の内容なんかよりも、どうやって真田を懐柔したかの方に興味を注いでいるらしかった。しかし、そう視線で問われても、柳生は知らぬ存ぜぬを通すし、もちろん、真田の懐柔策も弱点も、ひとつも喋る気などないのだ。
「任せておいて。すぐに掲示を出してあげるわ」
「特例だぞ、その辺りをしっかり理解しておくように」
 会長は、言葉ほど副会長の言に反対ではないようだった。ただ、無制限にこんなものが通っては困る、ということを示すため――すなわち、これが特別な許可であることをしっかりとわかってもらいたいがために、そう言っていたらしい。正直、そんな誰も知らないような校則はなくしてもどうでもいいが、こんな風に何人にも言われると迷惑だ、と思っているようだ。
「あなたたちって、おもしろい人たちなのね」
 副会長は、夕陽を背に浴びて、楽しげに笑っている。
「柳に聞いておけば良かった。テニス部がこんなにおもしろいなんて」
 じゃあね、と彼女はまた笑って、会長は、面倒そうに頷いた。
 こうしてあっさりと、四人の、というよりは主に柳生一人の戦いは閉幕したのだ。

 その後の経過は察せられる通りで、幸村は硬式庭球部部長のポストに収まり、真田は副部長になった。書記と会計は、相変わらず柳だ。柳生はこの光景を自分が生み出したことにひどく感心した。これが正しいあるべき姿なのだ、と。
「で、何故、我々に賛同してくれなかったのですか、柳くん」
 部活の終わった騒がしい部室で、柳生は隣ですでに着替えを終えてロッカーを整理している柳に向かって、問うた。彼は、ちらりとこちらを見ると、またすぐ作業を再開する。
「むしろ、お前こそなんだってそれほど精市を部長にすることに拘ったんだ?」
「柳くんも、ジャッカルくんのことは知っているでしょう」
 それはだから、柳生の所為でもあるのだが、と、柳もやはり言わなかった。それは瑣末事であると、少なくとも柳生は思っているし、多分黙殺されるのが落ちなのだ。
「知ってはいるが、それが直接お前を動かす動機になるのか?」
 副部長という迷惑なポストから解放されたジャッカルは、今日も丸井と切原に囲まれて、振り回されている。しかしこの図の方が健全で、彼自身も安定しているように見えた。丸井が「腹減ったからマック行こうぜ」と鞄を手にしてジャッカルを引っ張れば、「俺も連れてってくださいよ、先輩」と切原がくっついてくる。それに困ったような言と表情で引っ張られていくジャッカルはしかし、表面上よりも困ってはいないようすだ。
 確かに今回のことでの直接の被害者はジャッカルであり、それが改善されたのは事実だろう。しかしそれが、柳生に対しての動機になり得るだろうか。騒動を起こしたのがジャッカルであるならばいざ知らず、一応は無関係の彼で、しかも、目立った交流があるわけでもないのだ。
「柳くんでも、わからないことが?」
「わからないというより、あまりそう思いたくはないというくらいだ」
 なんだやはり、と柳生は苦笑した。柳参謀にはお見通しということだ。仁王にも丸井にも切原にも知られていない、柳生を突き動かした理由。
「ジャッカルくんが心労で倒れるか部を辞めるか、どちらにせよ次にそのポストが回るのは私でしょうから」
 降りかかる火の粉は未然に回避したいもの。ジャッカルのさまを見ていれば、自分がどれだけ大変になるかは目に見えていたのだ。仁王も丸井も、どうしても適任とは言えないと、そして柳生は自分自身が副部長に相応しくないといえないと自負できてしまった。だから、そうなる前に、早急に、元に戻しておく必要があった。すべてを。
 柳は言わずとも、というように柳生を見て、「そういう打算は、俺は嫌いではない」とすこし笑ってみせた。なるほど計算高いと、と柳生は彼の表情を見て、いささか気分を良くした。良識ある人ならば、呆れるだけで終わってしまうだろうから。柳は呆れながらも、すこし肯定してくれた。柳生はそれを聞きながらハタとようやく最初の質問を思い出した。「そうです、結局、何故、我々に賛同してはくれなかったのですか?」ともう一度最初の質問を柳に投げかける。答えはまだ、返ってきていなかったはずだ。
「あなたも、真に部長に相応しいのは幸村くんだとわかっていたはずです」
 そして加えてそんな風に続けた。騒がしい部室内でも良く通った、柳生のその断定する口調に、「別に弦一郎が部長でも悪くないと思うが」と柳は苦笑しながら言った。こちらの声は控えめだ。柳生が続けて、ならば柳くんが副部長になるべきです、と言うと、今度は肩を竦めて否定する。結局、校則に問題ありなんだな、とそれから笑みを漏らす。
「確かに、俺は部長って役職、好きだから良いけどね」
 柳の笑んだようすに感づいてか、幸村はさらりと会話に入ったと思うと、にこやかに笑ってそんな風に言う。柳生は初耳だったが、そうだったのだろう。道理で、特例が出されてからそのことを彼に打診したとき、二つ返事で部長に戻るといわれたわけだ。しかしそんな幸村の思っていたことなど、済ました顔で彼の言葉に頷く柳にはわかっている事実なのであろう。口に出すパーソナリティーや思考のどこまでを悟られているのかわからないが、今の彼の表情から柳生が察するに、そうなのだ。ともかく、そのことが本当ならば、柳生のしたことは無駄ではないということになる。
「俺も興味ある、蓮二」
「さしたる理由ではないが、精市も部長になれば園芸部などにそう顔を出してはいられなくなるのではないかと思ってな。だから、しばらく好きなようにさせてやれたら良いと思った、それだけだ」
 それに、部長という役職は案外疲れるものだろう? と加える。柳は淡々と述べたが、実際、友人想いの発言であるとは聞いていた二人にも簡単に理解できた。
「蓮二が俺のことを考えてくれていたってことが、うれしいよ」
 そして、微笑んでそう言った幸村は、本当に言葉通りの表情であった。柳生のしたことがけして間違っていたとは言えないけれども、気遣ってくれた気持ちはやはり、感謝に値するのだ。事実、幸村はしばらく好き放題できたのだったから。
「ジャッカルには確かに悪いことをしたが」
「いえ、柳くんが幸村くんを労わるからこそ、彼は部長であることができるのでしょうね」
 ジャッカルくんならばきっと丸井くんや切原くんがいますから、と柳生は微笑んで言った。
「ああ、それにな」
 柳がふと思いついたかのように呟いたので、柳生も幸村も、不思議そうに首を傾げる。とりあえずこの善き話にどのように水を差すつもりなのだろうかと。その視線に彼は苦笑して、一息で告げた。
「少しだけでも弦一郎を部長にしてやれたら良いんじゃないかとも、な」