デウス・エクス・マキナ -4

 生徒会にすげなくされてしまい、さすがに柳生も諦めただろうか、と切原は思った。が、仁王からすれば、柳生がここまで来た以上「諦める」などという言葉を辞書から意図的に抹消することはわかっている。丸井もそれは、薄々感づいていた。だから、彼の次なる一言を待っていた。だが。
「部室に行きましょうか」
 はたして彼の言葉はまったく普通で、遅れるとは言ったが欠席とは言っていない部活へ赴く指示であった。
 そうしてまた四人、行きと同じく渡り廊下を歩いて戻る。段々と日が翳ってきている、夜が近づくのが早くなってきた。カンカンと響く四つの足音は、他に生徒の気配を感じさせないほどに静か。
 と、途中でまた、柳生は歩を止めた。
「少し、ここで待っていてくださいませんか?」
 足を止めた扉の先は、コンピュータ室。彼がここに用事を持っている、というのはさすがに誰から見ても即座にわかるのだが、ますますもって謎は深まるばかりだ。よもや、メールで生徒会に攻撃を始めはしないのだろうが。
「コピーを取ってきたいだけですよ、五分程度ですぐに済みます」
 言うが早いか、アグレッシブな柳生比呂士は、コンピュータ室へと飛び込んでいった。残された三人は、最初から最後まで付き合わされ同士なのでお互いに微苦笑した。もう今になって突っ込む言葉は生まれない。こうなったらとことんやってやろう、そうだ、ジャッカルのために。柳生に果てしなく付き合わされていたばかりだっため、当初の目的をすっかり忘れ始めていたことに今更気づきながらも。もうこの際ジャッカルのためでなく柳生のためだったとしても、どうせ付き合わされるのだ。
 柳生は、宣言通り、五分を少し過ぎたくらい(柳でないので誰も正確には測ったりしない)で戻ってきて、また何事もなかったかのように部室へと歩みを進めたのだ。
 そしてその道中、今度は歩みを止めずにさらりと日常事を告げるように声を発した。
「真田くんを使います」
「は?」
 三人の声は、綺麗にとは言わないが重なった。そして柳生は、まるで三国志に登場する司馬懿みたいな策士の顔をしていた。ちなみに、例えるなら柳が諸葛亮孔明とでもなるだろうか。正直、今の柳生の方がかなりあくどい。普段柳も、ことテニスの試合のこととなれば、冷徹なまでに相手を叩きのめすプランを出してくれるのだが、それに匹敵するくらいだ。そもそも、使うとはなんなのだろうか、一応、うちの部長を。
「貴方達は私に頷いていてくだされば結構です」
 また、柳生は役立たず宣言を一方的にしつつ、部室への歩を止めない。
「でも、どうやるんスか?」
 あれであの人結構まともな人ですよ、と切原は本人が聞いたら絶対に激怒する言葉を吐く。しかし、丸井もそれに同調した。ただ一人、仁王だけは、柳生の動向をうかがっている。よもや、真田とて意味もなく生徒会に喧嘩を売ったりすまいが、柳生の言い方はすでに策を打ちたて、それに沿って駒が動かせると確信している表情なのだ。そう、真田自身に意味があるかないかは知らないが、真田が生徒会に喧嘩かなにか売らせられると思っているらしいので、気になる。というか、危険な気がする。
「真田くんの弱点をつけば良いだけです」
「じゃあ、柳センパイっスね」
 そんなこと軽やかに言うものじゃない、と後輩を嗜めるべきか悩んだ先輩二人(柳生除く)は、しかし沈黙を貫くことにした。そうだその通り、真田はとてもわかりやすく柳に弱い。柳の存在にというのか、なんと言えば良いのかわからないのでこれもまた沈黙を貫くこととする。すっかり生徒会との交戦モードなのだか知らないが、普段なら絶対に今の切原の言動を嗜める存在であるはずの柳生は、また、「その通りですよ」と微笑むのだ。
 金輪際、柳生をこんな風にしてはならない。立海大附属高校硬式庭球部の風紀のためにも。そこの辺りの加減を良くわからないで振り回されてることの多い参謀、柳蓮二のためにも。そんなことを心の中で密かに二人が誓っていたことなど露知らず(今の柳生は普段とはまったく異なり、まるで人格が変化したかのようで、仁王にしても丸井にしても、かなり彼に対して不安になったのだ)、柳生と、楽しげになってきた切原を先導に、一行は部室へとついに到着する。柳を使って、真田を使うという意味のわからない作戦に関してはノータッチのままだ。
 幸いにも、園芸部に行っているらしい幸村はおらず、後輩に基礎練習を指示しているジャッカルも不在で、部室には遅刻者を待っているのか、真田だけが残っていた。
「遅いぞ、お前たち!」
 とまあそうくることはわかっていたので、四名ともまったく怯まない。どころか、柳生はほほえみを崩さない有様だ。
「遅くなってすみませんでした。しかしこれには事情があるのです、真田くん」
 品行方正優等生キャラ。真田の中での柳生の位置づけはそうなのだろうか。まじめそうに切り出した柳生に対して、真田は振り上げていた手を下ろして(殴る気だったのか、と切原は戦々恐々としたのだが)、少し眉間に寄せる皺を増やす。
「実はですね、本当は秘密裏に穏便に済ませる予定だったのですが、大変なのですよ」
 柳生の喋りは、やたらともったいつけるようなもので、真田は苛立ったように「なんなんだ」と返す。この辺も彼の手口なのかも知れない、と最早気分は自分にあらぬ詐欺師を見る心だったのは仁王である。柳生が、少し躊躇うように(多分演技だと思われる)言葉を詰まらせたが、意を決したように(これも多分演技)、右手を結んで真田の方をキッと見た。
「生徒会の方で、柳くんを我がテニス部から退部させようとしているとのことなのです」
「な、なんだとッ!?」
 あの演技に騙されたのか、真田はなんだか良くわからない途方もない話をあっさりと鵜呑みにしたように驚いた。柳生のプラン通りか、と正直三名は同情した。
「我々も偶然知ったのですが、」
 ここで柳生はまるで演技には見えないようすで三人に視線を送るので、仁王は済ました顔で、丸井はちょっと慌てて、切原は明らかに挙動不審で、皆こくこくと頷いた。
「生徒会では校則の改正を教師に要求するようで、ああ、以前話題にも上りましたね、37条、あの、部長・副部長は生徒会役員と兼任できないという項を、生徒会役員のうち会長、副会長、会計の役職に就く者は部に入って活動することを禁止する、というように変更するというのです」
「そういえば、そんな規則もあったな……」
 切原は生徒会室で柳生に対し、良く覚えてたなこの人、と思ったのはあながち間違いでもないらしく、真田もあまり規則に関しては覚えていないようだったが、うろ覚えの知識で柳生に合わせているようだった。
「予算配分における癒着を防ぐため――しかしそれはただの建前です」
 しかしどうでも良いが、柳生はどうしてこうありもしないことをべらべらと喋れるのだろうか。ちょっと、というか白状するとかなり、柳生が、怖い。切原でなくとも、相方たる仁王ですら、そのさまはおそろしく、紳士ジェントルマンのはずなのに、これではよっぽど詐欺ペテン師である。
「生徒会は有能な柳くんを自分たちの手元にのみ置いておきたいだけなのです!」
 適度に柳を有能と褒め称え(柳生は素でそう思っているだけかも知れないが)、更には真田の嫉妬を煽るような文句をすらすらと紡ぐ。もう柳生は訪問販売でもセールスでもなんでもすれば良いと思う。詐欺師だけはお株を奪われるので、本当に止めて欲しい。
「今の会長はどうやらかなりワンマンで、柳くんを気に入り、特別に重要視していまして、自分の手元に置いておきたいだけなのです。中学時代から付き合いも長いですからね、あの時の選挙も強引に立候補させていたましたし」
 うむうむ、と真田は嘘か本当か頷く。柳生はまだ演技をまったく崩さずに真田の言葉に同意して続けた。
「彼が有能であることは言わずもがな。我が部に欠かすことなどできません。そうです、柳くんは、我が部の――今は部長たる貴方の、参謀だと言うのにですよ!」
「柳生、ちょっとその辺にしときんしゃい」
 芝居がかりまくり、ちょっと半壊(全壊かも知れない)状態の柳生には、部の風紀などどこへやら、だ。多分、明日になったら自分が言ったことを忘れて、切原が似たようなことを言ったら説教を食らわすに違いない。このままでは柳が、少なくとも柳生と真田の脳内で、名実共に真田の所有物に扱われる恐れがある。
 自業自得、という言葉くらい切原も知っている。だがこれは、因果応報の範囲を易々と超えている。ちょっと非協力的な態度を取っただけで、誰かの所有物にされるなんて、誰がどう考えても、まともじゃない。
(柳センパイ、頑張って生きてください……!)
 たとい真田のモノになろうとも、自分は貴方を慕っていますから。そして、ここにも、参謀に弱い仲間は存在している。
「赤也、お前もつまらねえこと考えてないで、柳生を止めろーい」
 妙な表情でいたので思考を大体読めたのか、丸井が苦笑しながら言う。止めて止められるものなら、と切原もかなり苦い顔を返した。口うるさいけどまともな先輩だと思っていたのに。またワカメ野郎などと呼ばれるのは勘弁だ。
「というわけで、我々は抗議に行ってきたのです。しかし結果は、ご覧の通りですよ」
 切原の思う通り、仁王の言葉などどこ吹く風で、柳生は、演技か素なのか、とにかくしょげたようすを見せる。真田もそれを見て、ますます怒りを顕にさせた。
「お前たちなどに任せるのは手ぬるい! 俺が直にいってやる!」
「それはいけませんよ、真田くん」
 てっきりそれに賛同するものかと見ていた丸井と切原は、目を丸くさせた。仁王は気づいているらしく、これに関してはつい、にやにやと笑ってしまう。そう、柳生は半壊しようが全壊しようが、冷静な部分は冷静に保っているのだ。だから余計に厄介なのだが。
 そもそも、生徒会と全面抗争などとそんなライトノベルまっしぐらな状況、柳生はまったく考えていない。真田がどんな理由にせよ生徒会に喧嘩を売ったとしたら、それなりに穏便にことを解決したい柳生としては迷惑極まりない。それに、嘘を並べたのも即、バレてしまう。
「まず、これは柳くんには秘密裏で動いています。柳くんは、あれで情に厚い人です。どうしても、といわれれば自分のやりたいことをセーブしても、責務を果たさんと努めてしまう恐れがあるからです。真田くんも、柳くんの性質は、良くおわかりかと思いますが」
「うむ、そうだな。蓮二ならばそうするだろう」
 本当に柳がそうなのか、真田がそれを知っているのか誰も知らないが、柳生の方が自分より詳しいなどと絶対に思われたくないのだろうな、とは仁王の推論だ。柳生の言葉の真偽は不明。仁王や丸井や切原より、少なくとも柳生の方が、柳に近しいとは思うのであながち嘘とも思えないが、それはわからないし、今のところ無関係だ。
「しかし、皆で生徒会に押し入れば、柳くんの不審は格段に増します。特にこの部の最高権力者たる貴方が率いていれば尚のこと。それに、貴方には我々が生徒会室へ向かう間、柳くんをここに留まらせていただきたいのです。おそらく貴方が最も適任でしょうから」
 柳生の話術はまたしても巧みだ。真田は満足げにうむ、と頷く。ここまで来たら、柳生がどれだけ嘘八百で真田を騙しまくるのか、むしろ逆に見物したい心地にすらなってきた。切原なんて、完全に、おもしろい漫才かなにかの見物客気分だ。
「お前の言うことはわかった、しかしだな」
「ええもちろん、生徒会に対して我々だけで対抗できないことは実証済みです。そして、真田くんの腹が収まらぬことも理解できます。そこで、真田くんには書面に於いて、意志を向こうに告げるのが適切と思います。部長まで出てくれば、さすがに生徒会も苦慮し、善処してくれることでしょう。……ええ、書類はすでに作ってあります。貴方は、ここにサインと、判子を――ああ、拇印で結構です」
 そう言うと柳生は、印刷してきたプリントのうち、何枚かを部のテーブルの上に乗せた。そして如才なく朱肉も用意。まるで公務員と対話しているかのように、てきぱきと書面にサインさせる。中身はざっと見せてはいたようだが。
 前述の通り、真田に喧嘩を売ってこられては困るが、このままもう一度生徒会に訴えてもいたちごっこなのも承知している。真田の手を借りたいのは事実なのだ。部長まで出てくれば、生徒会だって動く可能性は高いに違いない。だから真田には、書面で参加してもらうことにしたのだ。正式な書面を作り(こういうことは柳生にはお手の物だった)、部長のサインまであるとなれば、これは、きっと武器になるだろう。そう、この世の中、書面というのはIT社会に於いても重要なのだ。
 さて、真田がその書類にせっせとサインしている中、柳生はまた嘘八百を忘れないらしい。
「我々だけで解決できれば、貴方の心労を増やすこともなかったのでしょうが、いささか手腕が足りず、申し訳ない限りです」
「いや、お前は良くやっているだろう」
「そう言っていただけると、救われますよ」
 その言葉は、本心で言っているようにしか見えなかったが、当然嘘。柳生は役者にも向いているかも知れない。同じく実は結構芸達者な柳と二人で演劇部になど行かなければ良いのだが。
 真田からサインの終わったプリントの束をさっと受け取ると、柳生はおそろしいくらいに爽やかな笑みで、ではもう一度行って参りましょう、と言う。このメンバーは、一人では対応してくれない可能性があるのでもうしばらく付き合わせていただきます、と言うのも忘れない。結局本当に最初から最後までひとりで喋ってばかりで、他三人はポカンとしていたにも関わらず、真田はそんなことに見向きもしないで、彼の言葉を鵜呑みにしていた。ダメだ、詐欺ペテン師の名がのっとられる、と仁王はかなり深く思った。しかし、自分にはあれだけのペテンを働けるだろうか。答えは、絶対に、否だ。あの、柳には弱いけどそれ以外には極めて真っ当なはずの真田を、こんなに容易くも。
「ああ、そうです。くれぐれもこのことはご内密に。特に、柳くんには」
「無論だ。良い報告を期待しているぞ」
「任せてください」
 そうして柳生がほほえみながらパタンと扉を閉めたところで、丁度渦中の彼に出くわした。ということはつまり、生徒会の会議は終了したのだろう。
「ああ――、まだなにかあったのか?」
 制服のまま、また部室を出た四人がどうしようとするのかさすがに見当がつかないのだろうか、柳は小首を傾げる。なんでも大体知っている参謀であるからして、この小首を傾げるといった程度の仕草でも滅多にないもので、これが真田の弱点か、と(別に仕草がどうのではないのだが)改めて三人は思い至り、そして柳生はまた無駄に笑顔を振りまく。柳はまったく法律的な意味でいう善意のようで、まさか柳生が半壊した挙句、目の前の彼を真田のモノ的な発言をし、更に嘘八百を並べ立ててその真田を利用したなどとは知る由もないのだろう。惨い話である。
 と、ふと柳はじっと柳生を見て尋ねた。
「弦一郎に、なにかしたのか?」
 それは真田のように、自分の所有物になにかしたのか、といった変な敵意ではなく、彼にとっては純粋な疑問のつづきのようだった。
「なにか、とはなんですか?」
「いや、わからないが。……勘だ。すまない」
 謝る必要なんてなに一つありませんよ、柳センパイ。そう切原が叫びたかったのは無理もないが、そんなことをしては部内の風紀にすら気を向けない柳生になにをどうされるかわかったものではない。口は災いの元。沈黙は金。
 なにかあったのでは、とこの四名の機微を敏感に察知したのに、肝心、自分がネタにつかわれるなどと思いも寄らないのだから、これ以上発展しないのだ、思想が。ああまったく悲しきかな、このどこまでも鋭く、しかしなぜか鈍い、この参謀は。その気になれば、部内で最大の権力者になれるはずなのに、彼が気づかないから、終局的にこの部は参謀に弱い人間が多すぎても現在のように平和維持なのだ。まあしかしそう思えば、やはり、彼は鈍いからこそ正しいのだ。
 と、そこで不意に柳生はおもむろに、四名を通り過ぎて部室のドアを開けようとしている柳の方へと振り返った。
「そういえば柳くん、いつまでも部室に留まるのはお勧めしませんよ」
 柳がその言葉を如何様に理解したかは知らないが、二秒くらい彼は言われた言葉の意味を咀嚼しようとしたようで、それからすぐに、呟くように、ああ、と頷いてみせた。その反応は、サイボーグだとかアンドロイドだとかが、言葉の意味はわかれども意図はわからないし人間の感情はわからないのだがとにかくその言葉は自分に発せられたものでありそれは受け取ったということを示すために頷くとか、そういう感じだった。
 真田が自分の所有物をどうしようが勝手だ、とまで柳生は彼の人権というものを無視していないらしい。しかしそこは喜ぶべきところか、そんな余計な察しはいらないような気がするというか、とにかくそれは、複雑な発言だった。当本人は良くわかっていないにしても。
 そして、察するとかどうとかというよりも、柳生自体が柳を気に入っているから、彼を危難に陥らせないためにそう発言しただけだったのだが(そもそもの元凶が自分だなんて、柳生の中では瑣末なことだ)、その意図を理解したものはつまり、どこにもいなかった。