デウス・エクス・マキナ -2

 もう後戻りはできない……とジャッカル桑原が呟いたかどうだかは知らない。新たに提出を求められた役職調査表に於いて、部長の欄に真田弦一郎、副部長にジャッカル桑原、そして会計の欄には柳蓮二と、それぞれの個性に溢れた文字が書き並んでいた。
「会計は兼任でもいいんスね」
「まあ、予算会議に参加するのはどうせ部長か副部長だからな。部内の事務処理係りのようなものだ」
 部長・副部長は生徒会役職との兼任が不可だというのは、やはり予算枠に関する諸問題のためだろう。ずばり言えば癒着。どこかの部の部長となったのが、生徒会役員で――まして柳のような会計職についているということがあったとして、どれだけ相当な理由があろうと予算配分が少しでも上方修正されれば非難の的になる。そういうことを恐れてのため、予算会議に出る可能性のある部長と副部長に関しては特に、規制されるのだろう。会計は、部内の予算に関して帳簿つけたりはすれど、直接公開の場において意見する機会は一切ないのが、役職に於ける違いだ。
 無論、それが会計だろうと平部員であろうと変わりはない、という言い分も通る。しかしそうすれば、生徒会役員は会計でなかろうと常にそういったリスクファクターがあるものと考えられ(平部員でもリスクがあるのだと考えるならば必然的に)て、部に入部することがまったく叶わなくなってしまう。そんなことをされれば、ただでさえ自主性のすっかり薄れてきた近年の学生のうち、何人が奇特にも生徒会の選挙戦に立候補しようなどと考えてくれるだろうか。立候補してくれるだけでもありがたい今日に於いて、そこまで手械足枷をつけるようでは、到底生徒のための自治は執り行われなくなってしまうだろうし、そもそも部に入部することを推奨している学園側の立場からしても、まったく好ましいことではない。そういうわけで、つまりは建前なのだ。最大限の譲歩として、部長・副部長に絞って、生徒会役員との兼任を不可にする。そうすることで、生徒会とで裏取引が行われるのを防ぐ、ということにしている。実際にそこまで切羽詰った予算問題が起こるのかどうかという話ではないのだ、まったく。形式的な話で。
 それはともかく、淡々と語った柳の手には、今日も文庫本があった。新しいものだからやはり、先日読んでいた本は読み終えたのだろうなとか、多分ミステリじゃないだろうなとか、本に思案を巡らせたのは、柳生だけだった。正直、先日の話ではないが、もし柳が文芸部にいるのなら、その隣にいたいものだと密かに彼は思っている。若干ぶっ飛んではいるが、柳は部内に於いては比類なきほどまともな存在であり、かつ、柳生にとっては良い読書談義の相手なのだ。
「じゃあ、柳センパイはあと部室の管理係もっスね〜」
「そこまでくると、完全に俺は雑用係のようだがな」
 溜息も混じらず、一般的な日常として捉えているような彼の言葉に反応したのは、僅か一人であった。なぜなら他の部員にしても、それは一般的な日常であったからだ。
「誰だ、蓮二を小間使いにしておるのは!」
 多分お前だ。実は一番柳にいろいろとしてもらっているのは、新部長真田本人であるのだが、自覚がないから突っ込みようがないし、突っ込みたくもないというのが全員の本音だった。柳は面倒なのか今更なのかそれを放置しているから、結局部室は真田がうるさいままだ。
「うるさい、弦一郎。わめいていないで仕事をしろ」
 で、それに文句を言えるのは園芸部帰りでようやく部室に入ってきた幸村だけなのだった。その幸村が敵わないのは柳であり、柳はわりと真田に寛容で反論しない(できないのか真偽はまったく不明)ので、世の中はうまく作られている。
 幸村の姿を認めると、柳は本をパタンと閉じて、すぐさま立ち上がった。もしや彼は真田が集合と言っても集まらないのではないだろうか、と一瞬見ていた切原も思ったのだが、それを口に出さない程度には彼は賢明だったのだ。実際、柳は真田の言うことも幸村の言うことも等しく聞いて頷くし、生徒会長の言う事だってまじめに聞いているのを知っているのだが。
 そして、ユニフォームに着替えて、なにということもなく部室にたむろしていた部員達も、幸村が来たことでようやくとコートに集まりだした。偉大なるはやはり、前部長幸村のカリスマ性にあり。

 その先の練習風景に関しては、いつも通り我らが参謀・柳蓮二によって作られたものであるため、普段とあまり変化はなかった。ランニング、筋トレ、素振り、乱打にストローク練習――といつも通り積み重ねられていく中で、違うとすれば号令が真田のものである点のみだが、これも、悲しいかな幸村不在の際で慣れてしまっているため、違和感はほとんどない。幸村はのほほんと笑っているが、たいがい指令は某鬼才衆によって考えられ、出されるものであり、ここにジャッカルが副部長である、という立場はなにもないに等しい、というか、本当になかった。
 しかし、そんな事態は彼にとってはとやかく言うものではなかったのだ。有名無実は最初からわかってのことだったし、余計な厄介事に巻き込まれるくらいなら、一平部員のように過ごしている方が心穏やか、平穏だった。
 が、ジャッカルの望みはわりとあっさり砕かれる。
 新入生ならずとも、普通の人間ならば、真田に物を言いづらいのは、彼とても察する。あの容貌(絶対に年齢を鯖読みしている、と新入生間でも噂だ)に喋りも若干時代錯誤。加えて隣に時代錯誤二人目の柳を引き連れて、まさに自分の所有物だか自分の参謀だかはたまた友人というより奥さん的にあれこれやらせてるのだから、なんだかいろいろな意味で近寄りがたい。それに幸村が加わると、凡人には近寄れないなんらかのオーラを醸しだす。そう、真田に直接なにか意見なんて、並大抵の人間ならば絶対にできない。
 しかしだからといって、部長に言いにくいからといって、それすべてを副部長である自分のところに持ってくるのは納得がいかないのである。一応は役職者であるのに、切原からはあまり敬意を見出せず、ついでに言うと親しみやすい雰囲気であるのは今のところ災いでしかなかった。ジャッカルの心情が廃れていく細かな経過や状況については割愛するが(そんなことは彼のためにも聞かない方が良いのである)、彼がロクな目にあっていないというか、今確実に人生の憂き目にあることは間違いないのだ。語るまでもない。
「どうしたんじゃ、ヒロシ?」
 さて、うーん、という唸り声でも聞こえそうなようすのダブルス相棒を見かねて柳生が声をかけたのは、ジャッカルがやつれていく過程の、その途上であった頃だ。柳生は顔を上げて仁王を一瞥すると、一拍溜息をついた。
「ジャッカルくんのことですが」
「ジャッカルがどうしたんだよ?」
 ふと彼がもう一度仁王の方を向くと、それより目前に、突如丸井がこちらを覗きこんでいたので柳生はあからさまに驚いた。理由は単純で、昼休みの今の時間帯に教室で箸を進めているのは普通、この教室にいるクラスメイトのみであり、彼の登場はまったくの想定外だったためだ。これが同じクラスの幸村だったら驚きも半減だっただろうに。仁王は他クラスとは言え昼休みごとに暇だからとか親睦を深めるとか、良くわからない理由でやってきては勝手に前の机を占領するので、こちらに関しては慣れている。それは問題ない。
「柳生、お前国語の便覧持ってるだろ? 貸してくれね?」
「それこそ、ジャッカルくんはどうなのですか」
 動揺を取り去り、落ち着き払って柳生はメガネをクイと上げながら答える。今日は現代文の授業があるので持ち合わせは確かにあるのだが、丸井が一番に行きそうといえば、ジャッカルの元だ。
「アイツのクラスは、今日現代文ないんだってよ。柳んトコに行こうと思ったんだけどよー、真田がうるさそうだし」
 で、廊下を歩いていたら見慣れた二人組みを見つけたから、とそういう寸法らしい。幸村が今は不在(園芸部の方でなにかあるそうだ)だから、というのも一枚噛んでいるな、と柳生は見た。どちらにせよ柳は便覧を(今日現代文の授業があろうがなかろうが)持っていそうだな、とふと柳生は思う。そして真田は忘れ物をするとはけしからんだかたるんどるだか、絶対にそう怒鳴る。三人の気持ちが共通したところで、丸井がようやく最初の質問に戻った。
「んで、ジャッカルがなんだって?」
 便覧を借りるという当初の目的などどこへやら。勝手に隣の机から椅子を奪うと机の横に座り込み、丸井は仁王の弁当箱の甘そうな玉子焼きに目をやっている。欲しいならやるぜよ、ジュース一本で。なんだよ、ケチくせーな、幸村だったら気前良くくれんのに。能天気な会話が目の前でくりひろげられているのに、いささか柳生は呆れを覚える。相変わらずの順応性。
「ジャッカルくんの心労に関して、言うまでもないことでしょう」
「そりゃあ、」
 と、丸井は二の句が告げなかった。そりゃあ、お前の所為だろ、と言うは易いが、躊躇ってしまう。なにせ、柳生は、部内でと言わずこの学校内で怒らせたくない生徒ナンバー3に堂々ランクインするためだ。ちなみに残り二名は柳と幸村。真田は怒ってる雰囲気がいつも通りなので慣れているため、惜しくもランクインを逃したが、たまに手が飛んでくるので嫌といえば相当嫌だ。
「私も反省していますよ。安易でした。しかし、彼が適役という意見はやはり、覆りそうにありません」
 なんだかんだでジャッカルは常識的だ。部長が破天荒なら、その下に常識的な人間を配置したい、という青学の気持ちが良くわかる。そういう意図なのか実際のところは知らないが。柳辺りならば知るかもしれないが、さしあたり興味はない。幸村も真田も破天荒だった時代は今のところ終わったのだ、それなら、と思う。がしかし、このままでは不安だ。
「とりあえず、相談でもしてみましょうか」
 息をついて柳生は、母親の手製ハムサンドを一口大に千切って口に入れる。
「面倒な食べ方してんな〜」
 などと言いながら丸井がサンドイッチをひとつ掻っ攫ったが、気にしない。紳士たるもの、不逞の輩に対しても態度は崩さず。
「丸井くん、せめて許可を取りたまえ」
 かと言って、釘を刺すことは忘れず。
 丸井は卵サンドを大口で食べながら、一応、頷いた。そういえばかの丸井はランチを済ませたのだろうか、と思って聞けば、もう既に菓子パン三つたいらげたのだそうだ。良く食べることで。

 丸井の乱入で少し遅れたが、ランチも滞りなく終わって、時間がまだ余る昼休みを、結局三人で行動することになる。目指した先は図書室で、先導するのはもちろん柳生だ。
「なんで図書室なんじゃ?」
「この時間帯ならば、おそらくいますよ」
 もちろん、先程の話は継続で、つまり相談する相手を探しに行くところだ。その人は、昼食が終わると、目の前の相手のことをあまり考慮してやらず(不憫だなあともついてくれば良いものをとも柳生は思っている)、ほとんどの場合、ここを訪れる。カウンターの女生徒に如才なく微笑みを向け、そのまま左へまっすぐ。目的の彼は、隅の方で沈黙して読書中だ。生徒会役員でなければおそらく図書委員に入りそうな、柳蓮二こと我らが参謀。
「柳生だけでなく仁王と丸井を引き連れてくるとは、意外だな」
「おや、柳くんでも意外だと思われることが?」
 そう言うと、柳は肩を竦めて、「世の中は想定外の出来事が多いからな」と、すべて悟っているかのように静かに答えたのだった。相変わらず、年齢にそぐわぬ達観ぶりだ、と柳生は慣れたように考える。
 見ている二人からすると、この二人の意思疎通は今ひとつ解せないのだが、この当本人の二人は互いに気心知れているかのようで、柳生は微笑みながら対面の席に座ると、ちらりと仁王と丸井を見てアイコンタクトだけで座るように指示した。柳はその間、ページを捲る手を止め、どことなくぼんやりとした調子で二人を見ている。ここに来た目的なぞ悟られているように思ったが、案外柳はそうでもないらしく、また肩を竦めてくれた。良かった、柳も人の子だ、と思ったのは誰とは言わないが。
「ジャッカルくんのことですが」
 しかし一言紡げばたちまち、柳蓮二の脳内高性能コンピュータ(仮、多分)はすぐにでも動き出すらしく、すぐに言葉を遮るように返す。
「良くやっているな。さすが、柳生が推薦しただけはある」
 それは別に褒め言葉では多分ないのだろうが(そう仁王は思う)、柳生は気を良くしたようだった。そのようすを見て仁王は再確認したのだが、柳生は極端に柳に弱い気がする。というかうちの部、参謀に大概弱いのだが大丈夫か、とか。まあしかし、参謀だから人身掌握術などもお手の物なのかも知れない。詳しくは知れないし、まして本人に聞けるほど傍若無人ではないのでやはり、真偽のほどは不明であるが。でもってそのそこらの部員の心も支配してるっぽい参謀は、そんなことなど露知らぬ穏やかなようすなのだ。
「まさか、ジャッカルも壊れるほど柔ではないと思うのだが、お前が心配しているのならそうだな、これを渡しておいてくれ」
 とかまあ考えたのはともかくとして、しかしながら、渡されたものを見て、柳生も仁王も丸井も、かなり落胆したのだ。なにせそれは、紛うことなき胃薬、サ●ロンだったのだから。言葉に出さずとも、それが雄弁に語っている。まあ、胃潰瘍にならないように頑張ってくれ、と。かくして参謀は、自分の仕事は終わったと悟ったのだろう、読みかけていた本に再び視線をずらす。
 もう持っているんじゃないか、と柳生が一瞬危惧したことは見抜かれたのだろうか。
「まだ薬に頼ってはいないようだから、忠告しておいてやってくれ。早めに頼った方が良いかも知れない、とな」
 柳の声は、いつもの如く起伏を欠いていたにも関わらず、冗談味を帯びていた。今日も我らが参謀は、のんびりマイペースに人の上を歩いている気がする。
 相談は、不発に終わった。