デウス・エクス・マキナ -1
「俺は、部長はやれないよ」
そんな声が響いたのは、夏の盛りも過ぎたころ。
高校に進学したのは一年と少し前ほどに遡る。立海大附属中学は、その附属という名の通り、大半の生徒は高校、大学へとエスカレーター式で進学していく。その裏には、優秀な生徒(学業にしろスポーツにしろ)を逃すまいとする意図があるのかも知れないが、それは大人の事情で、そうでなくとも、学業・スポーツ面において優れた生徒が多数だった幸村や真田、柳を擁したこの学年に於いては、立海大附属高校への進学率は九割に迫る勢いだった。というのは無論、彼らも後になって聞いた話なのだが、とかく元立海大附属中テニス部レギュラーメンバーの面々は、高校でもまた顔を付き合わせることと相成った。
今更というくらいに知れ渡った話だが、彼らは立海大附属中の黄金期を築いたメンバーであり、各々、ことテニスに関しては(それ以外でも優秀であったのだが)天賦の才を見せつけ、高校に進学したとてその腕が落ちるというようなことはまるでなく、つまり、先輩なんて相手にならないという光景はまったく珍しくはなかったし、上級生もたいがいそれを認めていた。レギュラーを獲得したのは、彼らが一年の時に最上級生であった先輩が引退してからは即座のもので、彼らに遅れること一年、エースと呼ばれたり悪魔と呼ばれたりした切原もまた、入学してすぐにその才覚は認められることとなる。
と、ここまでは背景事情で。
そんな個性的で天才的な面々に対して、同じくテニス部に入部しようとも、天下を取れるような輩はおらずして、そうなれば自ずとこのメンバーからいずれ役職者が現われることとなるのは自明の理。そして先日、一つ上であった最上級学年がとうとう引退となり、ついに彼らが本格的に役職を握るような状況が生まれたのだ。
さて、この部を率いるリーダーとして、皆が諸手を上げて推薦したのが、中学に於いても部を率いていた幸村精市である、ということに関しては疑問に思うことは何一つない。中学までの踏襲がまた為されるというのであれば、誰もが首を縦に振ったであろう。しかして、そして話はここで、風雲急を告げるというか、とかく、冒頭の台詞へと舞い戻る。
皆が驚いたのも無理はない。推薦された幸村がその任を受けるのを皆、当然だと、確信していたのだ。皆が互いにそう思っていた、という認識は若干覆ることになるのだが。
「どういうことだ?」
同じく中学の時に副部長という役職を拝命しており、おそらく高校でも同じ役職に就くのだろう、と考えていた友人たる真田が口に出した言葉は、そういう意味で皆の気持ちを代弁していた。彼にしても、眉間の皺は、わかる人には三割増、わからぬ人にもいつもと様子が違うと判然とする程度だったのだ。だがしかし、ただ一人、いつも通りの無表情で、いまだに本から視線を上げすらしない、もう一人の友人を先程からの「皆」という言葉には含められないだろう。その冷静な表情を変えずにいた柳は、予め幸村から
「精市は、園芸部員だろう」
「……知っていますよ、それくらいは」
紳士然とした柳生が、溜息をつくように答えたが、柳はあまり意に介さぬように、再びページを捲る。
「もしや、校則を知らないのか?」
柳の言い方には、別段呆れたようすもなかった。校則、と言われてピンときた多くの者は(切原と丸井はまずそこでピンとこない)、慌てて生徒手帳を探る。一番に出したのはやはり柳生で、遅れて真田、ジャッカル、仁王は持っていないことに途中で気づいたらしく、少し肩を竦めた。
「――生徒会会則の第八章に部・同好会に関する規定がある」
「ああ、ありました。第34条、部は一名以上の顧問と――ではなく、」
「これか? 第37条」
「真田、なんてあるんじゃ?」
いち早く見つけたらしい真田の手帳を横から見ようとしてきた仁王を、鬱陶しげに真田が右手で払おうとする。見るなら柳生の方にでも行け、という素振りだ。そんなこんなで読むのが遅れた真田の代わりに、手帳を探ろうとも他の人の手帳を見ようともせずにいる甘党の友人と手間のかかる後輩のためだろう、声に出して読み上げてくれたのはスキンヘッドに褐色の肌をした留学生、ジャッカル。ほんの少し、どうせ校則ですら暗記しているだろう柳が手間を惜しまず読んでくれれば良いのに、と彼もちらりとそちらを見たのだが、彼の冷淡な表情に変化は乏しく、合理的に考えて自分で声をあげずとも誰かが読むだろう、と考えているのか否か、一言も発さないので諦めたのだ。
「っと、部は部長・副部長・会計を選出してそれぞれの任務にあたるとともに、その活動状況等を生徒会総務に報告しなければならない。但し、部長及び副部長に関しては、他の部との兼部、生徒会役員との兼任を不可とする、か?」
ジャッカルがそこまで読み上げたところで、がやがやしていた室内がようやく静かになった。そしてまた、柳がページを捲る音。こちらに興味はないのだろうか、と数名思ったのだが、彼のことよりとりあえずは幸村のこと。
「だから、ほら俺は園芸部員でもあるから」
幸村の趣味がガーデニングであるということは、このメンバーに関しては周知の事実だ。そしてそれが高校へと入学するまでの中学校での過程を経て、ついに園芸部に入部してしまうほどにまでレベルアップした、というのも皆知っている(中学でも実は密かに園芸委員だったのだが)。だが、誰も生徒手帳を――まして校則など、読んでいなかった。そんなことになっているなんて。
そういえば、とふと過ぎ去ったことについて思い出すことができたのは柳生だけであったのだが、幸村が園芸部と兼部する、と言い出したとき、唯一難色を示していたのが実は柳だったのだ。他のメンバーは趣味の領域に関して制限するようなことは思わなかったし、おそらく丸井がクッキング部と兼部すると言い出しても柳生がミステリ研究会と兼部しようが仁王がマジシャンズクラブに入部しようが真田が剣道部に入ろうがジャッカルが英語研究会にいようが柳が文芸部の部室ににいても切原がゲーム研究会のドアを叩こうとも、とかく文句を言うものはいないだろう。それは個人の自由だ。だから柳が、ほんの僅かにだが、それでも幸村の宣言を聞いて眉間に皺を寄せたとき、おや、と思ったのだ。少なくとも、柳生比呂士はそうだった。
「俺は、園芸部を止めないよ」
そうして幸村は、にこっと微笑んだ。この笑顔、見てくれは良いが、長い付き合いでメンバーは知っている。これに逆らったら大変な目に遭う笑顔だ、と。そう、それは無言の圧力。言い換えれば、「だから代わりに誰か部長をやるんだよ?」である。もっとも、この笑顔のタチの悪さを知りつつ慄かないのは彼が友人真田であり、性質について鑑みようとみまいと、どうせ害を被らないだろう柳の表情がやはり変わらないのも最早日常事だ。
「ま、弦一郎で良いと俺は思うけど」
選択権を与えた、ように見せかけてすでに決定事項、というのも別に普通の流れで。
「賛成だな。反対意見もあるまい」
彼に意見できる唯一だろう柳もこうとあれば、誰も反対はしない。そもそも、反対して自分にその役目が回ってくるのも非常に厄介なので、誰もそのような薮蛇はしないわけなのだが。付け加えるならば、とりたてた異論も実際ない。一応あれで、真田も幸村不在の間の部長代理を務めていた経験もあるし、そもそも副部長の予定が繰上げされただけ、と見える。そういうわけで皆が沈黙を保つところで、しかし空気を読めない人間というのはどこにでもいるものだ。
「柳センパイじゃダメなんですかー?」
能天気に声をあげたのは、一年下だから自分にお鉢が回ることはあるまいと考えているのかいないのか、切原だった。幸村にかかれば一年で部長も千葉の例からあり、と言い出しそうなものだが、まったく恐れを知らない。
「うん、蓮二も良い、というか全然問題はないね。むしろ柳部長は拝んでみたい。でも物理的には問題がある」
拝むのか、とかいうどうでも良い突っ込みと、わざわざジャッカルが読み上げてくれた規則を聞いていなかったのだろうか、と思ったのは柳生だけだったようで、他の面々は切原が話を聞かないことなどいつものこと、と気にしていなかった。
「で、問題は副部長なんだけど」
「幸村ぶちょ……じゃなくて幸村さん、俺の話は無視っスか? それに、真田副部長……じゃなくて新部長が、えーっと部長になるなら、ますます柳センパイが副部長で適任」
誰も突っ込んであげないのを不憫に思ったのか、柳は読み終わったのかパタンと本を閉じると、切原の方へ向き直った。そしてようやく人間らしい表情を見せた――少し、苦い表情で笑う。
「悪いが赤也、俺は生徒会役員だ」
あ、とようやく納得したらしい切原は放って、幸村は話を続ける。一応折角後輩が振ってくれた話題を踏襲しつつ。
「知っての通り、蓮二は生徒会役員で、今年もまた立候補するつもりらしいから。多分信任だろうけど。まあ、だから副部長は誰かやってくれ」
ちなみに、この学校で柳と争って生徒会役員になろうとする人材は、まずいない。あのすべてを見透かしたような完璧な口調で演説をやってくれるのを中学時代に皆、見ているのだ。もちろん、外部から入った新入生その他はいるが、まず同学年ならば去年のそら恐ろしい高校生離れした演説を聴いているだろうし、内部進学生か教師が教えてくれているのだろう、去年だって対立候補はゼロだった。だから誓っても、対立候補は絶対に出ない。そのくらいならば、おそらく会長には立候補しないだろうから、そちらに立候補した方がよほどまともだろう。柳の完璧な計算など要すまでもなく、誰もがわかっている事実だった。
もともと柳は、生徒会に入ろうなどとは思っていなかった。というのも積極的に生徒自治に関わろう、などと考えていなかったためだ。それが、二年の時にクラスメイトの生徒会副会長に付き合わされて仕事を手伝っていく内にいつのまにかまるで役員のように扱われ、ついにその副会長だった彼が会長に立候補するときに名実共に役員になれ、と半強制的に立候補させられたのだ。そしてやる以上は徹底を期す柳蓮二、常日頃真田辺りがうるさく言っている「何事にも負けは許されん」という言葉に従うかのように、立海大附属中硬式庭球部を背負って選挙に出て、対立候補に大差で圧勝したのだった。それ以来、結局柳は生徒会に対してもある種の帰属意識を抱いているらしく、高校に入ってもまた立候補したというわけだ。無論、昨年度の信任投票に於いては、99.9%の支持率で当選したというデータも付け加えておく。
さてそんな柳の生徒会に関する与太話はともかくとして、誰もがこの、目に見えて中間管理職に就きたいとは思わないのだった。部長が真田である、というのも確かに大変だ。おそらく部員との軋轢は免れず、それらの負担はそのまま副部長という名の中間管理職にのしかかるだろう。しかし、それですら、瑣末な問題なのだ。もっと問題なのは、最強なる平部員、幸村精市と柳蓮二である。真田を含め、鬼才三人衆と呼ばれた彼らが、事実上であろうと名目的であろうと、部のトップに君臨するのは誰からも疑う余地がない。上に立つのが幸村と真田で、それをサポートするのが柳である、という今までの形ならば、結局この三人をトップとして考えて上手くまとまっていたのだが、今回は状況が違う。真田はともかく、前述の二人より上の役職に立たねばならないのだ。この中の誰かが。
と、そこまでで思考ストップ。
「ジャッカルくんで良いでしょう」
「そうじゃな」
「おう、頑張れよ、ジャッカル」
「――!? 俺かよッ!?」
いろいろと鑑みたくなかった結果、中間管理職として適当なのはジャッカルだと皆は(というか柳生が一番に)踏んだ。はっきり言って、嫌な役どころを押し付けるということへの適任性と言わざるを得ないかも知れない。誰も納得していない(ジャッカルが、であるが)しイエスとも言っていないのに、すでに後輩は無邪気に笑っていた。
「でも、ジャッカル先輩はジャッカル先輩のままでいいんスよね?」
「では、書記と会計はまた俺が受け持とう」
「頼んだよ、ジャッカル」
無責任な三名の発言と、能天気な発言、すでに決定したかのような判断に挟まれて。もう早速ジャッカルは中間管理職の体だった。そこに、平部員となった幸村がにこやかに笑顔を浮かべて更なる追撃。
「苦労かける」
フフ、という怪しい笑顔とともにあったその台詞は、中学時代に副部長であった真田に向けられたものと同じであったが、それ以上の含みがあった。と、少なくともジャッカル桑原はそう、思ったのだ。