ブックオブデイズ

昼時もずいぶんと過ぎた午後になって、急に人が訪れた。
「あ、いらっしゃい、先生」
先生は、教え子に気づくと、優しく微笑みかけてくれた。
「お邪魔しに来たよ、フェアくん」

「あ、セクター先生、いらしてたんですか?」
「いらっしゃーい、先生」
ブロンクス家の二人姉弟が、倉庫から戻ってきた。いつもフェアの手伝いをする彼女らは、今日も昼時は手伝いをして、お昼ご飯をいただき、そして今また、忙しそうな友人の手伝いで倉庫まで行っていたのだ。丁寧にお辞儀する弟のルシアンと、手を振る姉のリシェルには、性格の差がくっきりと現われている。いつ見ても変わらない、とセクターは少し笑った。
「最近、良く来てますよね」
フェア、倉庫の整理終わったわよー、とリシェルが叫ぶと、ありがとー、と同じく大きな声で返ってくる。姉が報告を済ませている間に、ルシアンはセクターの方へ寄ってきた。
「ああ、そうだね」
それに頷くと、リシェルが今度は慌しく近づいてきて、「なんでなんで?」と尋ねる。率直な態度も、彼女らしいものだ。
「フェアくんにね、元気な姿を見せて欲しい、と言われているんだよ。彼女は忙しいから、わざわざ出向いてもらうのも難だろうと思ってね」
今や帝国きっての料理人(本人はまったく気負う様子も見せないが)である彼女に、これ以上負担をかけるのも悪いだろうと、セクターは思ったのだ。ただでさえ、以前に自分のことでは迷惑をかけたのだから、と。以来、急にどこかに消えるんじゃないか、となにかと心配そうにされてしまうのだ。
「先生だって、どうせ本を読むんだったら、明るい所で読んだ方がいいでしょ? あ、珈琲でいいかな、先生」
「やあ、フェアくん、お疲れ様。ありがとう、いただくよ」
こうして珈琲くらいなら出せるし、とフェアは付け足すと、また厨房に戻った。
教え子に心配される、というのも情けない話なのかも知れないが、それだけ彼女が成長したのだ、と思えば悪くはない。実際、この数ヶ月ほどで、驚くほどにフェアは成長したし、この二人の姉弟もそうだ、とセクターは思っている。
「そっかあ。そうよねえ、また、先生がいなくなっちゃうのはヤだし」
「もう、姉さん。先生はもうそんなことしないよ」
そうだな、と喧騒の中でセクターは思った。居場所があるのならば、ここに留まっていることもできる。
「リシェルもルシアンも、先生の邪魔しないの。帰っちゃったらどうするの?」
白いカップを持って、フェアがまた、テーブルの傍に来た。それをありがたくいただいて、セクターは、本の世界に没頭する。窓際の、最近のこの定位置で。

リシェルが、うーん、とセクターを見ながら唸るので、ルシアンは首を捻った。
「どうしたの、姉さん」
「絵になるわね」
「絵ってなによ?」
その言葉に先に反応したのは、フェアだった。どうせまた、ロクなことじゃないんだ、という目つきでリシェルの方を見る。この幼馴染は、結構、普通じゃないことを言い出す。
「先生に決まってるでしょー。窓際で本を読む先生。絵になるわね」
うーん、と首を傾げて、フェアとルシアン。そもそも、あの先生に、本は似合う。とっても良く、似合う。本人はそんなこと知らずして、好んで本を読んでいるだけなのだとしても。いや、先生という職業に本が似合うのか。しかし、彼の雰囲気もやはりそうだ。で、窓際で、珈琲を時折飲んで。
「……かも」
フェアの言葉に、ルシアンも頷いた。宗教画だの、そういうすごい絵の類ではないだろうが、ともかく、はまっているとしか言いようがない。
「やっぱねー、聞いてた通りだわ」
「聞いてた通りって?」
フェアがそう、友人に尋ねた丁度その時、また、客人が扉を開ける音がした。
「フェアちゃん、お野菜持ってきたよ」
ミントお姉ちゃん、とフェアが「タイムリー」などという父から聞いた言葉を思い浮かべながら呟いた。丁度、先生の話題をしていた時に。その先生はといえば、物音にはまったく気づかぬように読書の真っ只中だ。フェアが聞いた話では、読書の最中は集中しているから、物音や会話など、耳に入らないらしい。
「え、わざわざ持ってきたんですか?」
いつも、朝やなくなったりした時に、フェアが取りに行くのが日課のはずだ。その言葉にも、ミントは気にせずに微笑む。
「いいんだよ、ちょっと用事があったから、ついでに持ってきただけ」
「ありがとう、ミントお姉ちゃん」
野菜を受け取って、フェアは急にてきぱきと指示を出す。
「リシェル、ルシアン、運ぶの手伝って。後、他に不足してるものがないかチェックね」
「え、ミントさんは?」
「ルシアン! つべこべ言わずに手伝うの!」
姉に持っていた野菜を持たされ、思わずルシアンがよろけた。
「ミントお姉ちゃん、ここで待っててね」
「え、私はいいよ?」
「いいから、待っててね」
さっさと行くわよー、と意気込むようなリシェルの後を、フェアも追いかけていった。残されたミントは、その背中に、なんとなく手を振ってお見送りする。そして、その姿がきっかり見えなくなったところで、小さく息を吸い込んだ。窓際には、本に没頭するセクターが見える。
「セクターさん」
その横姿は、素敵だと思う。思うけれど、こちらに気づいてもらえないのでは、いささか悲しい。
「……ミント、さん? いらしていたんですか。すみません」
いえ、とミントは首を振る。彼が、集中していると周りから離れてしまうということは、知っているつもりだ。
「なにを、読んでいるんですか?」
難しそうなその本は、おそらく自分の知る召喚術――特に、メイトルパのものではないのだろう。ロレイラルだろうか、それとも教本だろうか? 良く知らないが、それを想像するのも少し、楽しい。
「お邪魔ですか?」
前にかけると、いえ、とミントと同じ言葉が返ってきた。