はばたいて鳥は消える
道を歩いていると、なにやら急ぎ足の柳を見かけた。遠くで声をかけられないで、様子だけ黙って眺めていると、その足がどこか、知っている場所へ向かっているような気がして、つい、追いかけた。
追いかけるというわりに、追いつくつもりはなくて、ただ後ろを着いていくさまは、下手をすればストーカーもさながらだ。それでも気にかかったのだから、しょうがない。どうにも最近は不安定で、精神と身体が連続していないかのように錯覚するのだ。だから、静止の言葉も聴かずに、身体は勝手に動いているような。
(……意味のわからぬことを)
身体が勝手に動くような事態は有り得ないのだ。そう、だからやはりこれは意思を伴っている。ただ、それを否定したいという心理状況にある可能性が極めて高いという程度で。ともかく真田はかぶりを振って、前を行くひとを見る。急いでいるようにも見えるが、そうでないようにも取れる、極めて不明確であるように(得てして彼はそうなのだ)、柳はすたすたと、ただ道をなぞるように歩く。
柳は、丁寧な人物だ。潔癖的なきらいがあるらしく、すべてきっちりとしていなければならない、それも、いかにも丁寧な様子で。時折、器用なのか本当は不器用なのかつかめなくなる。ただそれでも、彼に穏やかに(または丁寧に)言われると、なぜかひどく、否定できなくなるのだ。どうしても。
彼は、大きな白い建物の前に立ち、一度だけその前景を見渡した。そしてすぐに、早足で中に入っていく。
「――総合病院」
幸村の入院するそれとは違うが、大きな病院――そしてそこに入る理由が察せられるのが、ひどく反感的な感情にさせた。
追ってきたとはいえ、外までの話だったので、柳がどの病室に向かったのか、真田には判断がつかない。彼の恋人の名をひどく丁寧に真田は思い出し、近くの白衣の天使に尋ねてみた。彼女はすぐに調べて、親切に教えてくれたので、真田は礼を言い、ともかくまた、彼の後を追うことになる。ここまでくると、もはや追う以外にこの場に自分が存在することが正当化できなくなってきてしまっていた。
そうは言えども、考えれば考えるほど、自分がいわゆる見舞いに来るべき人間でないのは明らかで。手土産も花束も、なにひとつない。こんな状況で来たとなれば、柳も随分と不審に思うだろう。当たり前だ。真田自身、例えば幸村の見舞いをするひとの中にそんなひとがいれば不審に思うことは明らかだ。だが、今ここで帰ったらまったくの徒労だし、意味づけができなくなる。それは、不気味だ。自分の行動がなににも属されない奇妙なものであるということは、自分で自分が制御下にないようにも思えるし、ともかく、それ――すなわち行動――が自分にとってまったくわからなくなる。
「――とう」
急に声が聞こえて、真田は驚いた。気づけば、病室の前のプレートには、『秋山佑奈』の文字があり、少し開いたドアから、柳の姿もみとめられた。
遠くて声が良く聞き取れない。真田がそうふと思っていると、急に柳の手が彼女の方へ伸びたので、なんだか背筋が薄ら寒くなった。彼は、伸ばした右手で彼女の頭をあやすように撫でて、珍しく微笑んでいた。ただ、それだけだ。
「蓮二くん、屋上に行きたいなあ」
「屋上に? ……平気なのか?」
「うん、大丈夫よ。屋上に行って、話したいことがあるの」
「わかった」
会話が聞こえてきて、真田はとりあえず、その場から少し隠れることとなる。そしてまた、結局二人を追って、屋上に向かってしまうのだ。
晴れた屋上を見ると、わりと幸村を思い出す。というのも、病室で静養しているのに彼は良く飽きては、来たひとを巻き込んで屋上に出るのである。誰もがそれを許容してしまうのが幸村の恐ろしいところだと、しみじみ思う。しかし、狭い病室にいるよりは、太陽の下で広々とした場所に出たいという心理なのかも知れない。
「蓮二くん、ずっと、ありがとうね」
その時の、彼女の表情は、驚くほどに晴れ晴れとしたものだった。
「私、アメリカに行くことにしたの。移植を受ければ、助かるかも知れないって。だからね、バイバイ、蓮二くん」
「佑奈さん、」
「本当はずっと、躊躇ってたの。上手くいくかわからないって言われていて、お金もかかるし。でも、――蓮二くんに逢えて、傍にいられて良かった。また、元気になって再会したいって、思えたの」
相変わらず、隠れるようにしている真田には、会話に介入する余地などまったくなく、ただ、黙って話を聞いているだけだ。ふたりとも、淡々と、穏やかに会話が紡がれていて、不思議なくらいだった。悲しむべきか喜ぶべきかもわからない癖に。
「短い間だったけど、ありがとう。幸せでした。本当は、こんな風に傍にいて欲しかったんだと思うの――蓮二くんも、うまく行くといいね? また、会えるように頑張ってくるから。ええと、なんだっけ、古典で聞いたことがあるんだけど、君が為 惜しからざりし命さへ 長くもがなと 思いけるかな」
「藤原義孝だな」
「……相変わらず博識だね」
ゆるりと柳の手が、また彼女の方へ伸びた。彼女の前髪に軽く触れて、そしてそのまま額に、軽く口付ける。
「元気で」
「蓮二くんも」
からからと風が吹いている。青い空。
(なんだ、今のは)
目の前で行われているのが、あまりにもあっさりとした、別れであって。その淡白なまでの空気に、真田は馴染めずに、ただひたすらに気味悪く混乱した。
そして心の中だけで、言葉が浮かんだ。
(最低だ)
彼女を好きなわけではない、好きでもないのに付き合ったのだと言った彼が。そんな行為をするなんて、それは正論じゃない。額にでも、キスを贈るなんて。
(――最低、)
時折頭の中が落ち着く。澄んだ思考に、零れ落ちる。
本当に最低なのは、