はばたいて鳥は消える
空が青い。なにとなしに真田はそう思い、隣を歩く友人を見やる。いつもと変わらない済ました美しい顔で、柳は前を見ていたが、視線に気づいたらしくこちらの方を向いた。
「弦一郎、もしかして具合が悪いのではないか?」
柳は少し首を傾げ、まじまじと今度こそこちらを直視する。視線にいたたまれなくなった。確かに、朝から具合が悪い。滅多にない頭痛を患い、母親から鎮痛薬を貰って飲み干した。
(風邪――か)
こちらを見る彼は風邪をひくと頭痛が出やすい、などと言っていたが、わりと真田は頭痛とは無縁だったので驚いた。そういえば、この前も風邪をひいて柳は倒れたが、その時も、そう訴えていたことなどを思い出す。つとめて、健康状態を隠そうとしていた。そうでなくとも、自分は杜撰な管理の癖に、人のことだけ柳はうるさい。ばれれば、疎かにしたくなくとも、学業もテニスも彼の手によってやめさせられるような気がしていたのだ。それは、迷惑だが迷惑ではないことで。
「なぜ、そう思う」
「何故と、そのタイミングで聞かれるとは思わなかったが、そうだな」
「あれ、蓮二くん?」
柳の声に被さるように、明るい女声が響く。まるで耳障りなものでも聞いたみたいに思えて、さすがに少し真田は嫌悪した。
「佑奈(ゆな)さん、早いんだな」
すぐに反応して柳が返すと、佑奈――秋山佑奈(あきやまゆな)は、うれしそうに破顔した。
「蓮二くんが早いから、早く来たら会えるんじゃないかなって」
両手を胸の前で組む、おそらく可愛らしいと言われるだろう(真田はけして思わなかったとしても)仕草が似合う、相手だ。ずっと、なにかが頭の隅にひっかかっていて、彼女を直視できないでいる。なぜか。途切れた会話は戻ることなく、柳は真田の方をふりかえって、困ったようにほほえんだ。
「悪いが、先に行っていてくれ」
「ああ、知っている」
「体調には気をつけるんだぞ?」
その言葉は白々しい、と思う。別に、優先されるなんて欠片も思っていないが。彼女、秋山は柳の恋人だ。
そう思うと、余計に気分が悪くなった。身体中が倦怠感で溢れていて、頭が痛い。脇をすり抜けた時に漂った甘い香。雨が降り出しそうな暗い空を鬱陶しく見つめる。
(頭痛か)
薬を飲んでも良くなったと思えぬ、ずっと続いている頭痛。ひたすらに、身体を蝕むような。
「キミは、蓮二のことが好き?」
思わぬところで幸村に言われた言葉が、不意に脳を過ぎった。彼は、なんとなく素朴な疑問でももったかのようにそんなことをベッドから起き上がった姿勢のまま告げ、そのあと、まるで失態を演じたかのように驚いて言葉を取り消した。
「愚問だった。嫌いなはずがないね。それじゃあ、引き止めて悪かった」
夕闇の空に白い鳥が羽根を広げる。沈んでしまう太陽。完結した言葉を背に扉を開けた瞬間、幸村は今更思い出したかのように急に呟いたのだ。
「そういえば、蓮二に恋人ができたんだって」
それが、秋山佑奈という女だった。
雨はずっと、降りそうで降らずに保っている。体調も改善しないお昼休み。真田は息を吐き、身体を蝕んでいる頭痛が治まらないことに苛立っていた。薬もなんでもかんでも飲めばいいものではないし、あまり時間を置かずに飲むのは良くない。自然治癒が望めそうもないとなると、どうすれば良いのかわからなくなる。そんな中で、後ろから声をかけられた。
「弦一郎、保健室に行った方がいい」
なんごとか反論しようと思ったのだが、予想以上に体力がない。
「顔色が、あまりにも悪い」
珍しく柳は、手を引いた。あまり強いとも言えない力は、病人を慮ってのことだろう。
「こんなになるまで、辛くなかったのか?」
(それは、)
「お前にだけは言われたくない台詞だ――」
自分の体調など、僅かも顧みない。
柳は肩を竦めて苦笑した。それから、その言葉を流すみたいに(流したいかのように)、心配そうな声音で「苦しいだろう?」と囁く。まるで、自分と同じものであるかのように。つい口をついて苦しいといいそうになってすんでのところで止める。今、それをいうべきではない。しかし具合はおそらく、最悪のものであった。
それからずっと、沈んでいた。沈むように眠っていたというのが本当のところだが、沈んでいたと形容するに相応しい、泥のような眠りに落ちていた。けっしてこのところ夜更かししていたなどということもないのだが、まるで貪るように眠ってたらしいと、目覚めてからそう思ったのだ。まるで、柳のように。
「目が覚めたか?」
柳は、まるで当たり前のように椅子に座って、ベッドの隣にいた。ずっと、そこでそうしていたと錯覚させるように。そんなことありはしないのだ。自分が保健室にいったのが昼休みで、まだ授業は残っていたはずだし、眠っていただろうこともわかっている。それこそ、一時間では済まないほどに。だがしかし、まるで幼子にずっと付き添う母親が如くに柳は見えた。
だから、名前を呼ぶことすらできずに焦点が定まらないまま存在を感じる。
ひょいと右手が伸びてきて、そのまま額に触れた。熱を持った身体と、ひやりとした冷たい手。
「だいぶ、下がっているみたいだな。調子はどうだ?」
優しい声音だったのだが、どこか、耳の奥底――遠くでだけ響いているように感じた。感触も希薄だ。
「授業は、どうした」
「ああ、もう放課後だ。良く眠っていたな」
起き上がって儀礼的に尋ねると、柳はそういって、わらう。気づけば、窓の外から雨の音が響いている。いつのまにか、降り出したのだろう。なぜ柳がここにいるのだろうか。不意に、そんな疑問が真田の頭を過ぎった。しかしぼんやりとした頭では、それ以上の疑問も答えもはじき出されることはなく、思考はふたたび沈み込む。窓の外へ向けている視線を察してか、「お前が眠って少しして、降り出したんだ」と柳は先に答えを提示する。
意識に入れた途端、空間の狭さを感じ取った。普段ならそんなことを思わない――現に、柳が倒れてここを訪れたときでだって、そんなことは微塵も感じなかったのだ。余裕は確かになかったが。しかしだとすると、今この状況は余裕だといえるのだろうか。(――違う、な)まだ残留する熱でくらくらとする。今の時刻は放課後で、彼とていつまでもここにいて良いのだろうか。朝見たあの彼女は。
「蓮二、いつまでここに」
「……なんだ、その台詞は?」
柳は心底わからない、といいたいように首を傾げてみせた。
「秋山は――」
「佑奈さんのことを、お前が心配するのか?」
奇妙だと柳は述べて視線を窓の外へと向けた。そらすように。心配したはずなのに、それを嫌悪で返されたような感覚だ。真田は少し眉を寄せ、苦々しく思う。これは、不用意な言葉であるようで、核心であるようにも思える。
「好きでもない癖に付き合うのは、最低だ」
「そうだな。その通りだと俺も思う」
勝手に言ったのに柳はあっさりと納得して頷いた。それは核心でないというみたいに。柳は別に尋ねられてもいないが、聞かせたいようにでもなく、かといって独り言のつもりでもないような、そんな風に口を開いた。
「佑奈さんは、心臓が弱いらしい。精市の病も深刻だが、こちらも可也のもので――生まれたときに15年しか生きられないと宣告されたそうだ」
「……それは」
「だからもう、余命いくばくもないと推測される。お前が言わせたかったことは、こういうことか?」
「同情して、望まれればなんでもするとでも言うのかッ、それでは卑怯なのはお前ではなく――」
「望まれてすらいない。ただ、告げたかっただけだといわれた。勝手に押し切ったのは俺だから、やめてもらおうか、その発言は」
柳は追随を許さぬように言い切って、美しくほほえんだ。発言と整合しないような。
(違う)
一度そう否定して、かぶりを振った。
(本当は、そんな下らないことが言いたかったわけではなく――そんな風に責めたいなどとは、)
彼が責められている人間の顔をしていないから、余計に真田は自責の念に駆られる。ただ、それでも、どうしても責めなければならないことなのだ、と。彼女と付き合ったということは。
「まだ、もうしばらくは休んでいた方が良い。鞄はそちらに用意してあるから」
一瞬どこへ、と引き止めそうになった。それは決して、自分が言うべき台詞ではない。
「お大事に」
そして彼は消え去り、後には雨の音だけが残っている。余命いくばくを宣告されている彼女――秋山の姿が脳裏を掠めた。今、おそらく彼と会っているだろう。共に過ごしている。
「……だな」
起き上がっているのが辛く感じて、そのままベッドに沈み込む。
「馬鹿だな」
はたしてそれは、なにへの言葉なのか、眠りに落ちていく思考を持たない頭で少し考えた。