バレンタインデーは、愛の祭りである。ロヴィーノの認識としてはそうだ。それゆえに、恋人であるアントーニョには予定を空けておくように言いつけておいた。たいがい、アントーニョはロヴィーノの言葉に従ってくれるのである。もともとロヴィーノには弱い人だし、押しにも弱いのだ。しかし、その意味をきちんと理解しているかどうかは怪しい。
「カード?」
聞いた言葉を怪訝に思って、ソファの隣に座っているアントーニョの方を見やった。アントーニョはにこにことしている。
「せや。フランシスとギルにな、友達やし」
友達、と反復するようにつぶやいてみた。たしかにあのふたりはアントーニョの友人たちだ。昔からなにかとアントーニョを巻き込んでいる、どうにも迷惑な二人組。
「……なんでだよ」
「なんでって、今日、バレンタインやん」
「だから、なんでバレンタインに、カードを贈るんだよ」
「ロヴィーノにもあるで?」
アントーニョはテーブルの上のポストカードのようなものを拾い上げると、笑ってロヴィーノに見せてくれた。
「かわえぇやろ」
雑貨屋で売っているようなファンシーな柄のポストカードに、アントーニョの文字が書きこまれている。愛を込めて。まるですべてに納得がいっているようにアントーニョはほほえんでいた。
イタリアでは花を贈る習慣がある。基本的には男性が女性へと、もしくは双方がプレゼントを用意して交換するのだ。愛の日らしくアントーニョにも薔薇の花束を贈ろうかと思ったが、海の向こうの男を思い出したり、山脈を超えたところにいる男を思い出しそうだったのでやめた。そのために、花屋で色とりどりに花がまとめられた物を購入して持ってきたのだ。どうせ疎いアントーニョがその意味を察するとは思えなかったので、今日がバレンタインだからと言い含めて渡した。彼は喜んでそれを受け取ったのである。
アントーニョがカードを用意したということが悪いわけではない。彼のところでは恋人にカードを贈る習慣なのだというのであれば、それを受け取るだけでも十分満足だ。ハートマークが乱舞するそのカードからは、わけもなく愛する感情が浮かんでいる。カードでも花でも、そこに愛が込められているのであればなんでもよかった。
「俺のことじゃねぇよ、さっきのふたりの話だ」
カードは受け取りつつ、ロヴィーノは眉間に皺を寄せた。
「なんでこんな日に、カード贈るんだよ」
「せやから、友達やし。あ、ロヴィーノは知らん? スペインではな、親しい人らにカード贈るんやで!」
それははっきりと知っていたわけではないが、なんとなくそうだろうとは思った。アントーニョだって『友達』だからと言っているし、まさか愛などこめてはいないだろう。
「ロヴィもお花いっぱい貰ったんとちゃう? 女の子からいーっぱい贈られとるん?」
アントーニョは手を動かして山のようなジェスチャをしてみせた。そんなに贈られたらいっそ異様だ。そもそもこの日はどちらかと言えば男性が花を贈るのであって、女性から花が贈られてくる日ではない。たしかに贈られたら喜んで受け取りそうではあるのだが。
手元のカードを意味もなく見つめていた視線をあげて、睨めつけるようにアントーニョの方へと視線を送る。きょとんと瞳がまたたいた。なにも分かっていないのが余計にイライラする。ロヴィーノが急に口づけると、アントーニョは驚いたように肩を揺らした。空いている手が体温の高いアントーニョの手をつかみ、狼狽えているうちに舌を入れて口の中を這わせると「ん」と彼は甘い声を漏らす。キスが得意なのは、おそらくイタリアの遺伝子だ。カードを持ったまま冷たい指先が彼の首もとに触れてゆっくりとなぞる。びくりとしたのを構いもせずに薄いシャツの内側に入り込もとうしたところでアントーニョの両手がロヴィーノを引き離した。触れていた唇が離れて、ひやりとする。
「午前様っから、なにする気やねん!」
止められたことにまた苛立って、ロヴィーノの眉間に寄せる皺が増える。アントーニョはそれをじっと見て、眉間の皺に指で触った。
「こんなん作っとると、綺麗な顔が台無しやで?」
なにも、分かっていないくせに。
どうして怒っているのかちっとも分かっていないのだ。それなのに馬鹿みたいに優しくてやわらかすぎるほほえみを見ていると、それだけですべて許せてしまいそうになる。
(――バカは俺か)
子供じみた独占欲と嫉妬。焦燥感。
もう一度手を伸ばして距離を縮める。結局のところ、甘いキスは拒まれた試しがない。腕を背中に回して唇が触れ合うと、アントーニョはまた驚いたようだった。わけが分からないという風に戸惑った指先が空を切って、けれど終いにはロヴィーノの背中に触れる。そろりと。
「今日はFesta dell'amoreだ」
今度は触れただけの唇を離すと、アントーニョはきょとんとこちらを見た。
「そんな日に、カードなんて贈んな!」
「あ、それで怒っとったん……?」
堪忍な、とアントーニョは苦く笑った。それだけではないのだけれど、そこまで言うと自分ばかりが好きだと言っているみたいだと思った。けれど向こうに嫉妬しろなどと要求できるはずはないのだ、そもそも。
アントーニョは穏やかだ。きっとロヴィーノが他の人と談笑していてもなにも感じることなんてない。こちらのように、友人だと言っている二人組に向かってアントーニョがほほえむのを見ているだけでも胃がむかむかしてくるというようなことはない。ロヴィーノが誰かと親しくしていればむしろ、喜ぶのだろう。どちらかと言えば友達は少ないほうだし、親しい人がいれば安心するのだ。
彼を『自分だけ』にしたい。それは今や決して難しいことではないのだろう。けれど自分だって『彼にだけ』であって欲しいと望まれたい、というのは難しい。人の感情は動かし難い。けれど、花のひとつやふたつ貰ってきてもなんとも思われないのであれば、悲しすぎる。
「ロヴィーノのとこは、そうなんやね。覚えとくわ」
背にあった指が気づいたら頭を撫でている。子供にするみたいにいつだってやわらかくて温かい。
「なぁ、ロヴィ、せやったら、お花とか貰うん?」
「は?」
意味が分からなくて首を横に傾げると、アントーニョは困ったようにほほえんだ。
「お花、女の子から貰うん?」
「……貰わねぇよ。だいたい、アレは――」
「あ、そうなん?」
アントーニョの声が急浮上したのでロヴィーノは驚いた。ぱっと明るくなった萌黄色の瞳が、うれしそうにこちらを見つめている。
「んでも、ほんならカードだけは寂しいなぁ。せや、今からちょい出かけてなんか買うてくるわ。待っててぇな。花がえぇの? それとも、チョコレート?」
気が付いた事実に、ロヴィーノの脳は他の反応を奪われていた。声が耳を通り抜けて、とって返すまでに時間がかかる。頭が追いついていかない。ロヴィーノはアントーニョのことをずっと見ている。誰よりも知っている。どういう時に彼が喜んでいるのか知っているし、分かるのだ。今のは。
(嫉妬……した……?)
愛を伴う贈り物を受け取っていないと聞いて、明らかにアントーニョの感情は動いていた。自分からしか受け取らないことを知って、安堵していたのだ。たったひとつの言葉でそんなことまですべて分かる。それはほぼ直感で、けれど自信のある直感だった。
「花もチョコレートもいらない」
感情に言葉が追いつかない。そのことをなぜだかひどくもどかしく感じながら言葉を紡げば、アントーニョはきょとんとするばかりだ。
「えぇー、そんなら、なにがえぇの? お金かかるんはちょっと――」
皆まで言わせずにロヴィーノはまた唇を奪った。気を引くためのキスはアントーニョの視線をまっすぐこちらに向けさせる。そうして目が合うと、ロヴィーノは笑った。角度を変えて唇に触れ、また舌を入れる。
「んんっ……」
今度はシャツの下から指を入れて肌に触れた。びくりとアントーニョの身体が震える。
「夜まで待てない。今すぐ欲しい。他にいらない」
「ろ、ロヴィーノ」
「Amor mio.」
耳元で囁くと名前を呼ぶ声が上擦った。どうせ落ちないことはないくせに、と思いながらも後一押しの言葉を与える。
「Eres el hombre de mi vida.」
教わったスペイン語は、こういう時に使うものなのだ。
「Estoy loco por ti.」
「っ、ロヴィーノ……! どこでそんなん覚えて――」
「Te amo. Te amo, amor mio.」
耳を食むと身体が小さく震えた。侵入した指先はもはや拒まれることはなく、やけに紅い顔と結ばれた瞳にロヴィーノは口角を上げる。
「それから、後でチュロスとショコラータ」
「――りょ、っかい……」
頭の中で今日一日どう過ごそうか考えてみようとして三秒で諦めた。ショコラータは今日中に飲めるだろうか。
※後半のロヴィーノさんのセリフは甘ったるい愛のお言葉です。