Gracias por tu (amor).

 血に濡れた歴史などというものは、いつか風化していくものなのだ。現代に生きる人々は幸せだし、それは国である自分たちですらそうである。アントーニョも別に普段から昔のことを思い出したりなどはしない。町並みを歩く足取りはいつだって軽くて、すれ違う人に声をかけられれば笑顔で応える。国民が笑っている姿を見ているのは清々しい。そういうものだ。
 右手に握っているのはたった一枚のカード。それに、どれだけの価値があるのだろうか。アントーニョは空を仰ぎ見る。太陽は満遍なく照らし、自分はここに生きているのだ。

「カフェ・オ・レでよかった?」
 紫のシャツが目に鮮やかなフランシスは、白地にパリの街並みが描かれたマグカップを差し出して片目をつぶった。のんびりと受け取ってアントーニョはほほえんで返す。
「おおきになぁ」
 なみなみと注ぐのは美しくないからなのか、マグカップの半分程度まで焦茶色の液体は注がれていた。立ち込める湯気の香りに少しを気を取られていると、いつのまにフランシスが横に座っている。手には同じマグカップがあった。揃いで買ったというようなものでもないが、似たようなものが二つもあるのだろう。口をつければ甘く作られたカフェ・オ・レの味が口の中に広がっていった。コーヒーの香りも豊かだ。
「どうかした、こんな日に」
「こんな日、なぁ」
 アントーニョはゆるりと目を閉じた。イベントというものが国によって異なっているとは言うけれども、この聖人の日も装いがずいぶんと異なってくる。お隣でもフランス様式はスペインのそれとは違った。
「もしかして、邪魔やった? 誰かおるん?」
 こちらではたしか恋人と過ごす日だ。アントーニョは彼の恋人ではない。そう思って窺うように横目でフランシスを見れば、あっさりと首を横に振られた。
「そういうことじゃなくて、単純に珍しいから聞いただけ」
 頷いてアントーニョはなんとなくフランシスの肩に凭れた。体温は自分の方が高いからきっと熱は向こうに伝播するのだろうけれど、温かい彼の体温をほんのり感じる。この感じがたぶん、一番落ち着くのだ。フランシスは驚いたような様子もなく、ただ少しだけ笑った。苦笑するみたいに。
「ウァレンティーヌスなんて、覚えとる?」
「さぁ? お兄さん、物覚えがよくないからね」
「ローマ帝国んころにいた――なんか、そんなことあったような気ぃもするけどな」
「そうだね」
「覚えられへんなぁ」
「長く生きてるからね」
 フランシスはカフェ・オ・レを口に運ぶ。隣から香りがふわりとアントーニョの方にまで流れて、アントーニョはマグカップを胸の前にある両の手でぎゅっと握った。かの人物が生きていたというころなんてまだ自分も彼も幼かったのだ、と思う。記憶の残滓をぼんやりと眺めてみても、覚えていない。もしかしたら、こんなイベント誰かがでっち上げただけだから本当にあったことではないのかもしれないとも思った。いずれにせよ記憶は判然としない。
 その聖人ウァレンティーヌスの関わるという帝国ローマの血に濡れた歴史に想いを馳せる人は現代では少ないだろう。まるで語り草のように人々が口に出しても、その暗いものに少し触れた気になるだけだ。それは当然で、現代の人々が、語られる当時の境遇に心底共感するなどということはありえない。その方がむしろ正しくて健全だ。
「日本なんかでは、チョコレートを贈る日みたいだし」
「あ、なんやそれ、聞いとる。この時期になると、いろんなチョコが売れるんやってなぁ。うちのとこも、珍しがってなかなか売れとるらしいで」
「ま、お兄さんのとこのは、いつでも売れ筋らしいけど」
 フランシスは余裕ありげな口調で笑う。たしかにフランス菓子は高名で、日本にも数多くが出店していると聞いていた。スペインのショコラテリアもいちおうあるのだが、知られているとは言いがたいだろう。
 そもそもなぜチョコレートであるのだろうか。
 甘いそれを、広めたのは自国であるとアントーニョは認識している。だからどうだということでもないし、誇らしいわけでもない。その甘いお菓子とウァレンティーヌスとどう関わるのだろうかとたまに思うくらいだ。贈り物にちょうどよかったからたまたまチョコレートで、他意はないというのが真実だろうが。
「チョコ食べる? ショコラータ?」
「んー、いらへんわ。朝飲んできとるし」
「相変わらず」
 苦笑する様子からすると、やはり朝から甘ったるいショコラータはどうも周辺諸国にはウケが悪いようである。
「せっかくだから、あげるよ。お前、チョコ好きだろ?」
「……なんやの、せっかくて」
「この時期、お兄さんチョコレート結構貰うんだよね」
「わー、モテモテやんなぁ」
「なにその棒読み」
 別に、と言ってアントーニョは笑う。シャツの胸ポケットがかさりと音を立てた。
(せや、これを……)
 届けに来たことを忘れてしまいそうになる。忘れてしまえばいいような気がしているからだろうか。ぼんやりと考えて首を軽く振った。少し妙なアントーニョの様子に、フランシスがこちらに視線を寄越す。温かいカフェ・オ・レの香り。ショコラータとは違う、苦い風味。
「これ、あげるわ」
 ポケットから取り出したのは、白いカードだった。
「Gracias」
 見せる前に文面を言葉に直した。
「Gracias por tu amistad.」
 つぶやきを口に出せば、まるでいつも通りのようだった。たぶんそうなのだろう。これが通常の日常だ。変わることなくずっとつづいていくこと。フランシスはずっと山脈を超えた隣側に、いて。
「Merci beaucoup.」
 少しだけ返答に間があった。そんなことを考える。
 歴史はやがて記憶から薄れていくのだ。アントーニョは昔自分がしたことすべてを覚えているわけではないし、フランシスだって同じだろう。かつて相対したという記憶は薄れ、幼いころにふたりで、ふたりだけで過ごしたこともまた忘れていくのだ。忘却は常に等しく降り注ぎ、癒しを与えてくれる。ずっと生きつづけている自分たちでさえそうなのだ。誰が悠久の歴史に同じく想いを馳せられるというのだろう。
 語られるウァレンティーヌスという人は、結婚できないふたりを結びつけてくれた人らしい。
「わざわざ、持ってきたの?」
「重要やろぉ」
「送ればいいのに」
 フランシスは凭れるアントーニョの身体を離すと、手で支えながら立ち上がった。アントーニョも重心を自分の方へと引き戻す。ひやりとした空気が温かかった肩を冷たく通り抜ける。アントーニョは黙ってフランシスの挙動を見つめていた。彼は特になにか言うでもなく自室に入っていく。声をかける必要はないと思った。出てくるまでその一点をじっと見つめる。淡いクリーム色に統一された壁、いつもお洒落な絵画や花が飾られて廊下ですら彼の家は華やいでいた。
 一分程度でフランシスは部屋から出てきた。手には紙袋を下げている。ここからは遠くて太陽の光が差していない廊下は暗く、その色までは認識できない。フランシスはアントーニョの目の前までやってくると、頬に口づけた。それを驚くこともなく受け取ってほんの少しアントーニョは笑う。フランシスはやはりなにか言うこともなく、持っていた黒い紙袋を手渡した。
「Pour t'amitie.」
 紙袋を受け取ったアントーニョは、しかし言われたことに首を傾げた。フランス語すべてが分かるというわけではないが、自分と同じことを言ったのだということはなんとなく分かる。ただ、フランスでも友人になにか贈る日であっただろうかと思ったのだ。認識しているのは、恋人たちが過ごす甘い日であるということ。
 深い部分でつながっている。人だったら、もしかしたら愛とか恋とか言うのかもしれない。けれど我々は人ではないのだ。結ばれるのは政治的な行為、つながるのは単なる事実的な好意。彼はフランスで、アントーニョはスペインなのだ。ただそれだけ。隣にいたから昔からの馴染みで、けれど絶対にふたりだけの世界なんてものは築かれない。
 ウァレンティーヌスがここにいたら、結びあわせてくれたのかもしれないと夢想してみる。なんだかそれは、ひどくロマンチックだなとだけ思った。

※ふたりが言ってるのは要約するとFor your friendshipって感じです。