※ベルギーの名前はエマです
甘い香りが室内に立ち込めている。エマはボウルの中に溶かした茶色い液体に指を差し込み、ついた液体を口に運んでみた。ベルギーのチョコレートは世界で一番だ。そんな自画自賛をして、まるでフランシスのようだと思い笑った。チョコレートくらいなら、そう言っても怒られはしないだろう。
濃厚なミルクチョコレート、コクのある生クリーム。ぐるぐると混ぜていくと茶色と白でマーブル模様ができあがる。それも束の間で、すぐに白色は茶色の中へと溶けて消えていった。そういう様子も甘く思われる。誰かのためになにかを作るという時間は、それだけで甘い時間だ。
(喜んでくれるやろか)
ぼんやりと頭の中に思い描いてみたが、なにをあげても喜んでくれそうなので苦笑する。小さなチョコレートの一粒だって、たぶん彼にとってはショーケースの中の宝石にも勝るのだ。そういう人だということは知っている。指につけたチョコレートはどこまでも甘くて美味しい。朝からショコラータを飲んでいた姿を思い出す。どうしてこんなに甘いものを朝から飲めるのだろうかと、エマも昔は思っていた。今なら、平気かもしれない。
ブランデーを少量チョコレートと生クリームの中に入れ、ふたたびくるくるとかき回す。たちまち香りが大人の色合いを帯びてきた。彼を酔わせない方がいいと、フランシスに言われたことがある。何気ない日常にいくつも思い出していることを気付かされた。甘い、とエマは思う。
甘すぎて、息が苦しい。
ベルギーのバレンタインはチョコレートにこだわったものではない。しかし毎年この時期になると、日本への輸出の打診が激しいのだ。訳を聞くと、この日は日本ではチョコレートを贈る日だからだと。そして、ベルギーのチョコレートは大人気なのだと聞いた。そう聞いて悪い気はしない。どんどん買うたってや、とエマは菊の手をとって首を縦に振った。世界一美味しいチョコレートだ。海と大陸を超えた遠い国でもたくさん食べられていると知ってうれしかった。
数多あるベルギーのチョコレートの店も日本に向けて、ずいぶんといろいろ作っているらしかった。今まで、フランシスのところでチョコレートの祭典などを見かけたこともあり、その際も「チョコレートなら俺の国の次に美味しいな」などと言われたものであるが、それに劣らぬくらい力を入れている様子が見受けられる。なににせよ活気づいているのはよいことだと思われた。自国でもチョコレートを食べるカップルがいるが、恋人がロマンティックに過ごせればというのがバレンタインであって、チョコレートに限らないのである。
鼻歌交じりにストリートを歩いていると、見知ったチョコレートの店が見えてきた。よく食べている店だったのでたまたまショウウインドウを覗いてみると、ハート型の大きなボックスが陳列されているのが目に入って来る。中には定番のトリュフが可愛らしく並んでいた。それは、なんとなくエマの心を打つものだった。ふらりとドアを開けて入れば、やっぱり濃厚なチョコレートの香り。濃密な空気が店内を埋め尽くしている。きゅっとエマは唇を噛んだ。
「エマはん、いらっしゃいませ。いつものですか?」
顔なじみの店主がこちらを見てほほえむ。エマは慌てて笑顔を繕った。
「あ、いえ……、ちょっと近くを通ったんで、寄ってみただけなんよ。なんや可愛らし箱が置いてあるんやね」
ショウウインドウを指させば、老齢の店主はメガネをくいっと押し上げてほほえんだ。
「えぇ、バレンタインですからね」
「売れとるん?」
「ぼちぼちですね。よかったら、味見していきます?」
店主は傍のスタッフに視線を向けた。スーツ姿の女性は頷くとささっとカウンターの奥へと向かい、銀のトレイを持って戻ってくる。
「日本に向けて出してる物の一部ですが、バレンタインだけ特別に作っとります」
大粒のトリュフをそのまま渡されたので、エマは慌てた。一粒だって数百円の値段がつくものだ。それを試食にと渡されれば、さすがに驚く。
「得意さんですさかい、遠慮せずどうぞ」
「えっと……せやったら、遠慮せんといただきます。おおきに」
トリュフを指でつまみ上げる。同時に甘い香りが鼻を通り抜けた。トリュフを口に運ぶ瞬間は、惜しいものだと思う。半分にして残しておくのも無作法だし、一口で終わってしまう魔法の時間のようだ。口中ですぐに溶けたトリュフ。エマは目を閉じた。
「ごっつ、美味しいわ」
「ありがとうございます」
「これ、三箱ください」
「三箱、ですか?」
「あげたい人がおるんや」
そう言って、エマはにっこりと笑った。ちょうど店内に入ってきた女性が、エマが頼んだ物に視線を向ける。「可愛い」とつぶやく声がしたのでエマは振り返った。可愛いだけじゃなくてとても美味しいのだと、女性に伝えるために。
「でな、お兄ちゃんとロヴィーノにもチョコ配ったんやで」
彼らより一回り大きい箱をアントーニョが開けている横で、エマはにっこりと笑った。
「へぇ、そうなん? しっかし、いつ見てもエマんとこのチョコは美味しそうやな!」
日本とは違うから、アントーニョが気にしないのを見てもエマもそれほど気にはならなかった。それでも胸が少しだけ掴まれたように痛む。彼の分は特別なのだ、とはきっと気づかれないのだろうと思った。
アントーニョは真ん中のトリュフを躊躇いもなく口に運んだ。エマが試食したものはそれで、アントーニョは口に運んでふわりとほほえむ。
「ん、美味しい。ここのチョコ、いつもうんまいわ」
「親分とこにもよく持ってっとったね」
「せやね。いつもありがとなぁ、エマ」
うれしそうな姿を見て、エマはとてもうれしく思った。それと同時に、胸に小さな針が残っているようにも思えてくる。不思議だ。振り切るように台所に足を向け、緑のマグカップに注ぎ込む。ショコラータだ。
「はい親分、特製ショコラータやで」
「おお、おおきになぁ、エマ。どうしたん?」
甘い物の二乗だが、アントーニョはそういうことは気にしない人だ。受け取った緑のマグカップにすぐに口をつけると喉に押し流していく。どろりと溶けたチョコレートと温かいミルクが彼の胃を満たしていくのだ。エマは白いエプロンを外して椅子にかけた。そしてアントーニョの向かいに座る。
「しっかし、むっちゃ可愛い箱に入っとるんやな」
「それな、日本で大人気なんよ」
「知っとるで! うちんとこのショラテリアでも張り切っとったからなぁ、たしか、女の子が好きな男にチョコレートあげるんやったやろ」
ストレートに言われてエマは一瞬つまった。アントーニョはいつも通りの綿のシャツで、いつも通りのふわふわとした髪で、いつも通りのエメラルド色の瞳でこちらを見ているだけだ。
「そ、そうらしいやね」
アントーニョは右端のトリュフを手にするとまた口に投げ込んだ。すぐに瞳が細くなって、うれしそうに笑う。見ているとどきどきしてきた。
「そんで、ハート型なんやな。心を、あげとる」
言いながらまた指先が別のトリュフをつかむ。口に運ぶ。動きがあっさりとしていた。まるでいつも通り、エマがお裾分けとお菓子を持っていったときと同じ。
「親分、それ、特別なんやで?」
「へぇ、そうなん?」
「せやから、もっと味わって食べたってなぁ」
アントーニョはエマを見つめてまばたきした。同じ緑のまなざしがかち合う。
「まぁ、ここんチョコレートは美味しいけどな、市販の物やもん。特別製って、ちょっとちゃうやろ」
(……天然なんやろか)
まるでエマの心を見透かしたように親分はほほえむ。入手したチョコレートは甘くて美味しくて、きっと皆が喜んでくれるだろうと思った。アントーニョには一回り大きい物を、それが込められた“本命”の想いだ。それだけで終わらせてしまおうと思っていた。息ができなくなってしまうくらいに甘い空間など、喉元に押し込めてしまえばよいと思った。
「なぁ、アントーニョ」
「なんやの、エマ?」
心臓が高く高く鳴っている。空気がうまく吸えない。ひさびさに名前を呼んだら、甘すぎた。鞄の底に眠らせているという事実が、恋なのかもしれない。
「他に、受け取って欲しいもんがあるんやけど」
甘くて、息もできないくらいにとびきりの。