押し込まれた、甘い(恋心)

 アントーニョが新大陸から持ち帰ってきたものはさまざまだった。その中でもっとも魅力的だとロヴィーノが思ったものは、トマトである。それはアントーニョにも弟にしても、よく知っていることだ。
 指先についた甘い液体を舌で舐めとって、ロヴィーノは眉間に皺を寄せた。
「……カカオ不足?」
「そうなんですよ。それで、困っていて」
 目の前の麗しいマダムは、その美しい表情を曇らせた。綺麗な顔が台無しだと思ったが、珍しくそれはロヴィーノの口から飛び出さすことがなかった。言われたことを考えていたのだ。
 スペインから離れて弟とともにひとつの国となって、どのくらいだろうか。相変わらずアントーニョは呑気に暮らしているのだろうし、自分もあんまり仕事はしていない。いつも通りだ。髪をすり抜けていく風も降り注ぐ柔らかな陽光も、いつもと変わりがない。
「チョコレートが、作れねぇってことか――」
 ぼんやりとひとりごちた。美しい女性に目がないロヴィーノにしてはかなり珍しく、すぐ傍の人のことをふと忘れる。沈殿する記憶をさらっていた。埋れているといつも思っているのに、ふとした瞬間に記憶が浮かび上がってくる。そしてロヴィーノを、ひどくどうしようもない気持ちにさせるのだ。それに、名前をどのようにつければいいのか分からない。ずっと分からないで置き去りにしていた。
 窮屈にしまっている生成のシャツの首もとを軽くひっぱる。今さっき、良かったら味見をとさし出してくれた蕩けるような甘い茶色の液体のことを考えた。
『ロヴィーノ、これ食べてみぃ!』
『なんだよこれ! こんな変な色の食えんのかこのやろー!』
『そんなこと言わんと、ほら』
『おい、やめろって言って――甘い?』
『甘いやろ! カカオ苦いなぁ〜って思て、砂糖ごっつ入れてみたら甘なったわ! しかもめっちゃ美味しいや〜ん! もう、大評判やで!! な、これ、チュロスにつけて食べたらえぇんとちゃう!? なぁ、ロヴィーノも食べてみたいやろ!?』
(――甘)
 彼の声と姿がまじった記憶はどこまでも不透明に甘い。チュロス作らな、と言って抱き上げた腕が離れたことを思い出す。あの時たしかに、一瞬の寂寥感が襲ったのだ。わけもなく、意識を奪うように。しっかりしているとは言い難い日焼けした腕は暖かかった。いつだってそう。
 自分はチョコが好きだった、とロヴィーノはとうとつに思った。
「カカオの代わりに、なんか入れたらどうだ?」
「代わりですか?」
「わかんねぇけど……あ、いえ、わかりませんが」
 思わず普段通りの口調になっていたのでロヴィーノは慌てて訂正した。店主の女性はくすくすと笑う。
「そうですね。カカオがなければ、別の――考えてみます。ありがとう、ロヴィーノさん」
「いえ、お役に立てたのなら幸いです、シニョーラ。良かったらこれから、コーヒーでも――」
「ごめんなさいね、もうお店が開きますから」
 ロヴィーノは取った彼女の右手を離して、溜息をこぼした。ツイてない。会話してどうのというところまでは進むが、それ以上をいつも女性に断られるのはなぜなのか。弟の方がうまくやっていることを思うと、腹立たしい。そういう種の苛立ちはあったが、女性には当たらない。「それは残念です、次はぜひ」とロヴィーノは言ってその場を立ち去った。
『な、美味しいやろ、チョコレートって言うんやで。チョコレート。言うてみ?』
「チョコレート」
 声に出すと、心臓の音が聞こえた。

「これ、めっちゃ美味いわ」
 アントーニョはモスグリーンのソファに座りながら、感心したように包み紙を見つめていた。
「ロヴィーノんとこで作ったんやろ? すごいわ〜、さっすが、俺の子分や!」
「だから、誰が子分だっつう……」
 バカアントーニョ、と心の中でののしっておく。ロヴィーノが乱雑にマグカップに入った黒い液体を差し出すと、アントーニョは笑って受け取った。
「何回同じこと言うんだよ、お前」
「え? んー、俺、何遍くらい言うた?」
 耳にたこができるくらいには聞いている気がする。アントーニョはジャンドゥーヤをロヴィーノのところで食べるたびに、同じことを言うのだ。美味しいと、さすが。いつまで親分気取りであるのかと言ってやりたいが、たぶん永遠に親分のつもりでいそうだから聞くのをやめた。分かっていても、はっきりと言われたら傷つく気がするのだ。
 甘いチョコレートの味わいは、ロヴィーノにとって彼に直結するものだと気がついた。チョコレートが減ってきて段々と希少になっていくに従って、なんとなくぼんやりとそれを察したのだ。板状のチョコレートを投げ込んで溶かして、どろどろとしたそれをミルクに突っ込むとショコラータ。ボウルの縁についたのを舐めるとやっぱり甘い。ショコラータも、変わらずに甘かった。ただそれだけなのに。
 人には、母親の味というものがあるらしい。ロヴィーノには分からないし、たぶんそこで笑っているアントーニョも知らぬものだろう。けれどアントーニョが作ってくれたものがロヴィーノの平準になっていた。どうやらそれが追い求める味であるらしいのだ。チュロス、パエジャ、そしてチョコレートすら。
「いや、よく思いついたもんやと思てな」
 このチョコレートができた頃のアントーニョは財政が逼迫していた。そして疲れきっていたのだ。甘いチョコレートは疲れに効くらしいと聞いて、さっそく作ったものを持っていった。試食だと言って口に押し込んだ。ヘーゼルナッツの入ったチョコレートは、さきほどの店主と話し合って何度も作ったものだった。
「ロヴィも、チョコ好きやったもんな」
「はぁ!? なに、勝手なこと――」
「ロヴィーノの好きなもん、親分わかっとるで」
 ロヴィは分かりやすいわ、などとアントーニョは片目をつぶって言い募るので困惑する。
(チョコレートが好き?)
 初めて食べたそれは甘やかで優しくて、口中で溶けて消えた。それがなんだかもったいなくて、美味しくて、食べさせろとせがんだ。離された腕が寂しかった所為もあった。アントーニョは振り返ってほほえみ、ほら、とスプーンで掬ってまたチョコレートを与えてくれた。どろどろとした茶色い液体。どろどろとした、純化されていない感情。急に、顔が熱くなった。思わず口元を押さえると、アントーニョは不思議そうに常盤色の瞳をまたたかせた。そして首を傾げてじっと見つめる視線に「なんでもねぇよ!」とぶっきらぼうに言うと、アントーニョは首を逆の方向に傾げたのだ。
「そんなに食べたかったんやったら、言ってくれても良かったんやで! たしかあんとき、ロヴィーノんトコ、カカオ不足やったって聞いたし」
「――っ、関係ねぇよ!」
 言われた言葉に思わず心臓が脈打った。動揺を悟られまいと大声を出せば、アントーニョはまた不思議そうにこちらを見つめるばかりだ。
「? なにがやの?」
「うるせぇ! 食わねぇなら、俺が食うぞこのやろ」
「え、嫌や〜! 食べるからやめたってぇ!」
 アントーニョが持っていた可愛らしい缶からチョコレートを取り上げようとすると、アントーニョはわたわたと抵抗してみせた。ぎしぎしとソファが変な音を立てて二人きりの部屋に響いている。
 チョコレートの甘さが彼と同質だと言うのであれば、きっと。
(巫山戯んな!)
 自分の思ったことに動揺して奪い取ったチョコを口に放り込んだ。ジャンドゥーヤの甘い匂いが口の中を巡っていく。甘い。チョコレートはこんなに甘い物だったのだろうか。
「最後の一個やったんやでぇ」
 アントーニョはむぅっとして、顔を背けるように窓の方を見た。透き通る陽光、緑の溢れる庭を同じようにロヴィーノも見て、とくとくと胸が鳴っている音を聞いている。まだ飲み込んでいないジャンドゥーヤ。思わず言葉が出てくる前に、ロヴィーノは慌ててチョコレートを喉元に押し込んだ。