紳士と自称するその国は、菊にとっては友好とすべき相手でかつての同盟仲間。けれど酔わせたら本質が垣間見られるとか、友達がいないとか、諸々のことを鑑みるとあまり付き合いたくはない相手だった。
「菊、これを受け取ってくれ」
そんな相手が、今目の前にいる。朝も早くから呼び鈴が鳴らされて、まだ家事は終っていないのにと思いつつも戸を開ければスーツ姿のアーサー・カークランドがそこにはおわしました。なにやら手を後ろに回しており、おそらくその後ろにはなにかがあるのだと頭を回転させなくとも理解できる。菊は基本的に相手の行動を読み、感情を読み、そして空気を読む。なにかサプライズで自分に寄越したいのだな、と悟られた。面倒なことこの上ない。にこりとほほえむだけほほえんで、受け取るだけ受け取って、体よくお帰り願おう。それが一番いい。菊は唇だけで笑みを形作る。能面のようだとフェリシアーノは言うけれど、ほほえむパフォーマンスくらいは身につけた。アーサーには通用している。案の定アーサーは少し頬を赤らめてうれしそうな表情を見せてくれた。後ろにあるのはなんだろうかと思いを巡らせている内に、真っ赤な花が一輪、差し出された。薔薇だ。
「……どういう、つもりですか?」
欧米文化には慣れたつもりで明るくない。いまだに彼らが家に上がる時に靴を脱がずに入りそうになるのを目の当たりにしては驚いているくらいだ。文化が違う。価値観が異なっている。両の目は同じはずなのに、見えている世界はきっと違うのだ。それは合理主義とかそうでないとか、一言で括られるものではない。一瞬現実を逃避した菊は、改めて目の前の花を見つめた。赤い。どう見ても赤い薔薇の花だ。
花言葉は知らない。菊花や桜花については日本国の歴史にまで深く関わるから知っていても、この花には詳しくなかった。薔薇は彼の国の花で、彼は邸宅に薔薇園を有し、その手入れを欠かさずに行なっていることは知っている。ほぼ一方的に彼から通達された事情だ。そしてこの花の意味は知らないけれども知っていることがある。少なくとも、同性間で贈るに相応しい花ではないということだ。熱烈な愛の告白にでも使うのならば別だろうが、それとも今日は薔薇の日かなにかなのだろうか。慎重に尋ねると、薔薇の花が鼻先に近づけられた。
「好きなんだ」
「はぁ……薔薇がですか?」
冗談で返したわけではない。唐突に好きだと言われて自分のことだと思うのは自惚れだ。
「違う、お前がだ」
けれどアーサーは至極真面目にそう言った。菊は言葉を失い、若竹色をした瞳を覗き込んでみる。熱に浮かされたとか、アルコールによる酩酊の様子は感じられない。ある意味では恋愛という熱に浮かされているのか――いずれにせよ、アーサーは理性的に行動しているつもりなのだろうと考えられた。
「そうですか。お断りします。お帰りください」
ピシャッと言い放つと、菊はなにも受け取らずに戸を閉めた。そのまま戸に手をあてて、外の様子を伺う。アーサーはしばらくそのままになっていたようだったが、なにか言うでもなく踵を返した。安堵して菊は手を離し、そのまま扉に鍵をかけた。これで一安心だろう。今日は外出しない方がいい。そう思った。玄関を離れ、元居た場所に戻る。まだ掃除機をかけ終えていないのだ。家事があるから忙しい。午後からは経済会議が待っている。忙しいのだ。赤い花の色が一瞬だけ眼瞼の裏側に映し出された。それを害虫でも追いやるように払って、縁側から空を見つめる。青い空は今日も変わらず、光が燦々と降り注いでいた。ただそれだけの日。
昨日と同じくらいの時間に呼び鈴が鳴った。昨日の疲れの所為か怠惰になっていた菊はまだ布団の中にいたので、呼び鈴で起こされた形となる。なんとも煩わしいと思いながら布団から這い出て、少し乱れた焦げた抹茶のような色の着物を直した。日が高いところから察するに、そろそろ起きているのが当然の時間なのだろう。来訪者が来ているとすれば、午前は10時程度だろうか。この国の人は相手の都合に配慮してくれる。だいたいが起床している時間にならねば訪問などありえない。眠い眼を擦って出るのはマナー違反かもしれないが、会社ビジネスの話ならば菊には無縁だった。これでも国家だからどこかの企業が内密に訪ねてくるのはご法度だし、用事があるのならば事前に電話の一本でも入れてもらえる。近所の人ならばふらっと訪ねてきて寝間着だとしても問題はない。
「すみません、どなた――」
「おはよう、菊」
目が合った瞬間に、げっと思った。上司にはインターフォンを設置しろと何度か言われたけれど、いつも断ってきていた。そんなものは必要ない。けれど今痛切にそれの導入が脳内で検討された。
今日は後ろ手にしていなかった。最初のアレは、サプライズで間違いなかったらしい。いずれにしても驚愕もいいところだと言えよう。
「お断りしたはずですが」
菊は努めて冷淡にそう述べた。なんだこの煩わしさは。手にあるのは同じ色の薔薇で、花弁から鮮度を見るに昨日のものとは違うのだろう。
「あぁ、でも受け取ってもらいたくて」
「お引き取り願います」
また戸を閉める。耳を欹てて、去っていく気配を確認して手を離した。どういうことだろうと思う。まったく意味が分からない。なんとなく右手を伸ばしてみた。昨日と変わらぬ今日が訪れる。ただそれだけだったのに。否、たしかに事象は昨日と同じことが起こっている。馬鹿馬鹿しくなって菊は独笑をした。
だいたい、日本に、自分に贈るというのならば薔薇よりも相応しい花があるのではないだろうか。気位が高いとかそういうことではないけれど、プレゼントをするくらいならばいくらか考えて欲しいものではある。
「薔薇なんて、好きではないんですよ」
綺麗な花。棘のある花。英国の庭園にはそれは見事な薔薇が咲き誇っていたことを思い出す。とても美しかった。空の青い色と、前日まで降っていた雨露に花弁が濡れて、その露に太陽の光が乱反射する。思わず目を細めてしまうような網膜を刺激する赤い赤い薔薇の姿がまだ、瞳に残っているような気がした。触れたら指先が血に濡れてしまう棘を持つとしても、それに手を伸ばしてみたいと思っていた。
だから薔薇は嫌いだ。
しかし菊がいくら拒絶しようとも、アーサーの花束攻勢は止むことがなかった。毎日毎日毎日、飽きもせずにまた同じ花束を使い回すようなこともなく続けられる。紳士というかなんというか、執念の深さは恐ろしい。アルフレッドが会議でもこぼすように、粘着する性質なのだろう。関わりがあると言われればたしかに、菊は彼と関わりがあるのだ。遠い昔の話。まだ、スーツの代わりに白い軍服を着ていたようなそんな時代の話だ。意識的に思い出さないようにしている、ということはないが、菊にとってそれらは苦い記憶であるばかりだった。遠くて苦くて、辛い。そんなものを浚うくらいならば、前を向いて歩くことの方が求められている。軍事ではなく経済で、日本国はそうやってまた立ち上がっていく。そのためには、過去の郷愁は捨て置くべきだった。赤い薔薇の庭園も同じこと。それを今更になって、思い出させようとするみたいに花を贈るから。
あの頃たしかに自分は。
(……過ぎたことばかりを思うのは、老いた証拠、ですね)
あの頃など思うのは無駄だ。今日も来たら冷たく追い返せばよい。ただそれだけのこと。幾日が経過したのだろうか。時間は自分たちに有限であるようには思われない。菊は日本という国が亡ぶことを思わないし、他国も同様だろう。知っている国の中に、存続の危ういものは存在せず、自分たちはまだ長らえる。悠久に近い時を得て、それでも指折りを日を数えるものだろうか。掌を見つめると生成の色をした袖がはたりと揺れた。三ヶ月近い。頭の中で試算してみる。昨日が――百日だった。
無駄になった薔薇はどこへ行くのだろうか。そういえば昔、薔薇のジャムを貰ったことがあるけれど、それにでもなるのだろうか。それとも切花は使わない? ドライフラワーにしてしまう? 浮かんでいるのは赤い薔薇の咲く庭園のヴィジョン。ここ数ヶ月、振り払おうとしても消えることはない。朝になればまた、一輪の薔薇を見つめることになるのだ。表に出なければいいのに。
「菊、薔薇を持ってきたんだ」
声が聞こえる。自室から玄関まで距離は長くない。戸を隔ててそれでも、その響きは悲しいくらいに鮮明だった。
「菊花は縁起の悪い花なんだろう? 桜は折って持ってくるものじゃない。薔薇が一番だと思ったんだ」
「今更、なんなんですかッ」
声を上げると空気が震えた。襖を開けて、ゆらりと玄関に近づく。
「薔薇は嫌いなんです。帰ってください」
「嫌いだったのか? だって、お前、綺麗だって言っていただろ」
「昔の話でしょう。あれから薔薇は嫌いになったんです。見るのも苦痛なんです。帰ってください」
「どうして。お前は花が好きだろう?」
「あなたの所為でしょう――!」
言葉に出してしまって、ハッとした。扉の向こう側に見えているわけでもないのに、袖で口元を覆う。
「俺を、恨んでいる?」
薔薇の咲いた美しい庭園を、見た。間違いなく英国で。大英帝国で。自分とアーサーは友人で、同盟を組んでいて、親しくなれたと感じていたのに。それを見て以降、彼と顔を合わせる機会はついぞなかった。さようならもなにも言わずに、アーサーは去っていった。彼が悪いのではないし、背信でも裏切りでもないはずだとしても、それでも最後の血に似た赤い花が残っているのだ。いつまでも、苛むように。薔薇の棘に触れて、血を流してしまったようにずっと赤い。広い庭園で、アーサーは洒落た洋装で笑っていた。あの時見せた顔が少し淋しげだった理由を離れてようやく気がついて、菊は天を呪った。
所詮こんなものだ。
「恨んでいませんから、帰ってください」
菊は多くの言葉を飲み込み、冷静に言葉を返した。
「あの薔薇が好きだと言ってくれて、うれしかった。隣で笑っていてくれて――もう、別れなければならないことは知っていたけれど、いつかまた、笑ってくれると思っていたんだ。敵になるとは思っていなかった」
「詭弁ですね」
「あぁ、詭弁だ。だから花を贈ることにした。平和な今にしかできないと思って」
「くだらない!」
耳の奥で蝉の声が聞こえた。彼と過ごしたのは、暑い夏の日だったのだろうか。覚えていない。思い出そうとすると頭が痛くなる。
「ずっと好きだったんだ。知らなかっただろう?」
(そんなこと、知りたくなかった)
笑い合っていた遠い記憶を、ボトルシップに詰め込んで海に流してしまいたかった。そのまま見つけられることもなく、淡い思い出だけがあればそれでよかったのに。背を扉につけて、菊は凭れかかった。頭が痛い。眼瞼に赤い色が浮かんでいる。薔薇の花が散っている。棘に触れた指先が血を流している。そこから薔薇の毒素が体内を駆け巡っているのかもしれない。否、実際に棘に触れたわけではなかったから違う。違う違う違う違う違う。
「I love you.」
昔、必死で覚えた言葉が。101本の薔薇と共に。
今すぐ駆け出してしまいたいという衝動を抑える術を持ち合わせていなかった。