ヒールの後ろ。


 縁側に腰掛けて足をブラブラとさせていた。今日は明るいし、なにひとつ問題のない景色を見つめている。もうそろそろ季節は夏へと移り進んで、差すような日差しに目を細める日々が始まるするのだ。今はまだ、この梅雨の中休みのまどろみを甘受している。季節の移ろいの、そのなんと素晴らしきことか。菊は人知れず溜息を零す。なにもかもが幻のように見えてくるときがある。あれはいつからだっただろう。バッシュにいただいた精密な腕時計をちらりと確認すると、もうそろそろすれば待ち人が来る時間だった。彼は時間にだらしがないから、時間通りに現われるかはわからない。この時計をくれたバッシュ、同盟を組んでいたルートヴィヒ、それから律儀な紳士のアーサー辺りならば、ぴったりに来そうだとぼんやり思う。時間に遅れそうなのは、数が多いので割愛。
 彼が時間通りに来ると否と関わらず、菊は立ち上がってその場を引き払った。どちらにしても、時間までにお茶請けの用意だとか、そういうことはこなしておく必要がある。菊は真面目だ、と最初に言ったのは誰だったか。西洋人たちは、それほど和菓子を好んではいないのかも知れない。甘さが控えてあるだとか、上品な味わいだとか、言うのは難だがそれらと合っていない人たちが多い。なんでも食べられる、喜ぶ、というのとはワケが違うし、詫び寂びなんて言葉がないのだから仕様がないのだ。
「Hello,菊。遊びに来たよ」
 ノックの音や訪問する際に出てくる言葉もほとんどなしに、突然英語で挨拶が聞こえたので、菊は一瞬戸惑った。どうして彼は、時間通りを通り越して、20分も早く来るのだろうか。他人の家を訪問する場合は、定刻より少し遅れて、というのは礼儀だと信じている菊には、その行動は不思議でならない。彼らしいので、不快とまでは言えなかったけれども。
「こんにちは、アルフレッドさん。まだ、迎える準備ができていませんよ」
「菊は真面目だな。別にいいよ、そんなの。君と、俺の仲じゃないか」
「なんですか、それって」
 大げさに肩を竦めるジェスチャをしても、アルフレッドは軽快に笑っているだけだった。彼がセンチメンタルなのを菊はほとんど見たことがない。感心すべきポジティブさだ。とりあえず席を勧めると、Thank you.と彼は母国語で礼を言った。菊も母国語で、どういたしましてと返す。
「君を自由にできる権利をもらったのは、俺だろう?」
 You are mine. と、菊に人差し指を向けながら(行儀悪いですよ、とそして菊は嗜める)本気なのだか冗談なのだか良くわからないことを彼は喋り、また笑う。
「そうでしたね。ええ、そうです。イヴァンさんよりずっと良かったですよ」
 菊は背を向けて緑茶を淹れながら、本心からそう言った。イヴァンとはさまざまな問題で折り合いが悪かったのだから、彼こそが正に菊のヒールであったとしても、それでも余りあるくらいだ。
 そしてそれは、本心であると同時に、果てしない皮肉でもある。
「怒ってる?」
「いいえ、むしろ感謝していますよ、『私』を属国にしたわけでもなかったでしょう、貴方は」
「やっぱり怒ってる」
 彼のためにはブラックコーヒーを用意した。最初はこんなに黒々とした液体をどうして飲めるのだろうかと戦慄したものだけれど、慣れるとこれも悪くないと思えた。そうは言っても菊は緑茶をやはり愛飲しているので、染み付いて抜けそうにない。
 イヴァンが、参戦すると聞いた時菊は絶望した。もともと、アルフレッドに勝てる見込みはもはやなかったし、ルートヴィヒもフェリシアーノも降伏していたし、その上でイヴァンまで参戦するとなれば。それでも降伏しなかったのはもはや意地だったのだろうか。菊には降伏するしないの自由はない。すべて、上の人たちが決めていることだ。耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んだのも、すべてそう。
「怒らせるために来たわけじゃない。怒ったのなら、まあ、謝るけど」
 菊は黙ってお茶請けをキッチンで探している。
「原爆なんか使ったから、菊は許せないのかい?」
「……なんです、それ」
「あれには理由がある」
 菊は嘆息した。ちっともわかっていないのだ、アルフレッドは。
「理由って、なんです?」
「君を俺のものにするためさ」
 You are mine. と先ほどの言葉がふと脳裏を過ぎった。菊は永劫、彼のものになったつもりはない。だが、それは負け犬の遠吠えのようなものに過ぎない。彼は戦勝国で、菊は敗北したのだから。
「だとしたら軽蔑しますよ」
「冷たいな、本当さ。だって、あのままだったら菊は、イヴァンのものになっていただろ?」
 その通りだ、と菊は表情に出さずに心中だけで頷く。菊の敗戦が、イヴァンにもたらされたものだとしたら、菊への覇権を渡されたのは、イヴァンだったろう。原爆によって敗戦が濃厚になったあの時、菊も薄らいだ意識の中で、アルフレッドの所為だと感じた。アルフレッドの所為で、負けたのだと。だから、彼が言う菊を自由にする権利は、アルフレッドの手に渡ったのだ。そうであれ、と望んだのはあまりに皮肉だった。
 それでも菊は表情を変えずに、水羊羹と最中を出して、ようやく椅子に腰掛ける。アルフレッドはすぐに最中に手をつけた。コーヒーには不似合いだが仕方あるまい。それとも、彼には飲料と似合うか似合わないかわからないかも知れない。和菓子には緑茶だと、それは菊の文化だから。
「これ以上菊を傷つけるのは嫌だったけれどね、イヴァンにとられるのはもっと嫌だった」
「……貴方は、そういう人ですよね」
 彼の信じたことこそが正義。いまさら、菊はそう思って従っている。過去も未来もすべて肯定するように。
「だから、感謝していますと言ったでしょう?」
「菊は感情が読めない」
「光栄です」
「コーヒーに最中は合わないよ」
 なんだ、彼にもそういうことがわかるのか、と菊は少し驚いた。
「最中には、グリーンティーだろう?」
 菊のことは勉強しているんだ、とアルフレッドはまた軽快に笑った。
 彼が正義だろうとヒールだろうと、もう、道を違えて進むことなど許されないのだから、それなら彼が正義の味方だと信じ続けるしかないのだ、とぼんやり思った。

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