同盟を結んで以後、あまり交流のなかった聞くと、慎ましく付き合いを重ねていくようになった。欧州の中では「栄光ある孤立」を演じていたものの、希薄な人付き合いに多少孤独感を否めなかったアーサーは、欧州の面々と比べてみても受け身な態度の菊に対して、どちらかと言えば積極的に交流を持ちかけている。というのも、彼があまり嫌そうにしていないためだ。単純に打算のためだとか演じているだけだとか、そういった可能性もなきにしもあらずと思えど、人恋しい心情に加えて、あの端正な顔立ちに対面していることをアーサーは純粋に好んでいた。だから、ついまた誘う。その関係に変化はあまり伴わないと思っていた。
「アーサーさん、桜を見に来ませんか?」
以上のように考えていたため、菊の突然の誘いは、戸惑いと幸いと心地良さと、いろいろなものが綯い交ぜになって押し寄せてきた。これは、アーサーが自慢の庭園を彼に披露していたところで、聞くと、古くから菊の国の人は花を愛でるという心を持つ民らしく、素直な賞賛を受けていたのだが、一通り案内し終えてから、菊がなにか難しい顔をしていたので尋ねてみたのがこの言葉を聞くまでの経緯にあたる。
「桜、です。ええと、チェリーブロッサム」
「いや、わかる」
そうですか、と平淡な声が返ってきた。
桜は彼の国の国花だ。そして、その国を愛する心と同様に、そしてまた他の花とは一線を画す思いで、菊は桜を見ている。愛している。というのは上の人から聞いた菊に関する事項で。その国花を拙い英語で伝えようとする素振りは、存外に愛らしかった。
「桜は、良いですよ」
普段は感情表現があまり豊かだとはいえない菊の声が、輝いていた。
「……来て欲しいなら、行っても良いぞ。桜の鑑賞は悪くないからな」
彼はまた、そうですか、と返した。今度の声は、うれしそうだった。実際アーサーは、桜というものに思い入れなどまったくありはしない。しかし、聞いていた菊の桜を愛する心というものを考慮して発言しただけだ。
(そんなに、喜ばれると)
「では、いつが良いですか? 今は七分咲きくらいなので、もう満開も近いでしょう。早めに設定した方が良さそうですね」
ころころと、まるで鈴が鳴るごとく、いつもと違い饒舌に喋る。時折、薄く微笑んで。その姿を見ていると、先程の罪悪感はすっと掻き消えてしまったように思えた。両手を合わせて、喜んでいる彼に。
約束の日は、風が強かった。
「ここですよ、アーサーさん」
欧州とは違った"和風"の邸宅をじっくりと眺めていることも叶わず、すぐにでも自慢の桜を見せたいらしい菊に手を引かれた。そしてそのまま連れられて、見上げれば薄桃色のカーテンがさざめいている。強い風に花びらがひらひらと舞い降りて、空の澄んだ青さを背に、絶景を生み出していた。桜に興味を持っていなかった(どちらかと言われると、菊に誘われたことがアーサーには興味のある事項だった)アーサーでも、一瞬で心を奪われた。彼の愛する、愛して止まない、薄桃色の、花の舞い。
「とっておきなんですよ」
菊の方を見ると、人差し指を唇の前に軽く当てて、笑う。「秘密」の仕草だ。誰に対して秘密なのか、その真意はわからない。そしてそれから、やや落ち着いた表情で、桜にばかり見惚れていたアーサーへ視線を送っていた。このことにアーサー本人が気づくまでには、多少時間がかかったのだが。
「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは」
「なんだ、それは?」
彼の国の語を少しは知った、と言っても口語レベルであったアーサーには、いつも言い回しが異なるそれが、すぐには理解できなかった。つい早口で母国語を喋ったときに、菊がする反応もこれに近いのかも知れない。
「古人の言葉です。今私たちは、満開の桜を目にしてその美しさに惹かれていますが、そればかりが美しいものなのでしょうか、と」
言い方が回りくどい、とアーサーは菊に対して思うことがある。菊人ははっきりと物事を言わない(彼曰く八橋に包んだような物言いをする)民なのだ。その代表たる彼も例に及ばずである、というのも付き合いから学んできたことの一つ。そうでなくとも、アルフレッドやらフランシスやら、はっきりとしすぎているのが傍にいた所為で、戸惑ってしまう。
「同様に、満月のみが美しいすべてなのでしょうか、とも」
黙りこくった姿に、菊は気を悪くした様子もなく、ただひたすら無感情げに黙っている。この感情への理解や、共感といったものをすべて、求めていないかのように。
「難しいな」
「散りゆくもまた一興、ということです」
(やはり、菊の文化は難しい)
桜が美しいから好む、という単純な理屈だけではない。咲くのをひたすらに待つ蕾の頃も、散っていく最期の瞬間までをもいとおしむ。風流、とそれを彼らは呼ぶのだと。
しばらく言葉が途絶えた。
「古来から、お前たちは桜が好きだったんだな」
そしてアーサーが風流な彼に同調できるはずもなく、考えた結果、出た言葉はこれだけだった。価値観の相違にあたると、どう返せば良いのかわからなくなる。それも周囲からどちかと言えば孤立していることが多いためで。しかし、気を悪くさせて、二度と誘ってくれなくなってしまうような、そんな失態は犯したくなかった。だから、なにも壊さないように慎重に発言したのだ。
しかし、そこには穏やかな肯定が返ってくることはない。
別段、気を悪くしたようではないのだ。菊はただ黙って、また、そう、難しい顔をしていた。
「今のこの桜、ソメイヨシノは、明治以降に新しく作られた品種です」
「え?」
間髪を入れずに、彼は淡々と続ける。
「昔は山桜――もっとこの花盛りとは別に、若葉も共に生い茂るような、そんな桜が野山にありました」
口を挟んで欲しいわけではないらしいと悟ると、アーサーは黙って彼の言葉に耳を傾けることに専念した。風が隣り合う黒い髪を揺らし、また、花びらが舞う。花盛り。
「我々は日本の民なのだと、一致団結し誇りを持つ。西洋の文化に負けぬよう。だから、そのために、私の上司は桜を象徴とすることに決めたんですよ。国民統合の証として。この頃、ソメイヨシノが生まれました」
そこまで言うと、ついに菊は言葉を切り、ゆるやかにアーサーの方へ視線を送った。けれど、穏やかな表情には、やはり、待ち望む返答などなにもないかのようで。この世のすべては欺瞞なのだと、そう言いたいようにすら見える。
この花盛りと異なる、若葉と共に茂る山桜というものを想像してみた。けれど、上手くできない。目の前で可憐に咲き誇る花が、思考を邪魔する。この世の桜はすべて、これでしかないように映る。ああ、だって、菊はこれを愛しているはずなのだから。
やがて彼はまた、静かに口を開いた。
「桜が美しく花びらに桃色を散らすのは、この木の下に死体があるからなのだと、そういう謂れがあります」
「死体、が?」
「ええ。土葬の習慣を持たない我々が、妙な話でしょうが、死体の血を吸って、白い花びらは静かに紅く染められてゆくのだと」
なんと言いようもなく黙っていると、菊は少し微笑んで、掘り返してみましょうか、と。
また、平淡な声。無機質な表情。こうしてたまに彼は、感情を埋没させたようになる。
「誰の死体でしょうね」
菊は屈むと、その根のあたりをそっと撫でた。その所作は、日本女性の在りし姿、大和撫子のようで、普段刀を持って武士道を言うそれとは重ならない。まるで、誰かの死体がそこに寝転んでいることを切望しているようだった、その、か細い姿は。
ああ、やはり、と痛感する。菊の美学とやらは、わからない。いつか彼は、その細い体躯を、この国のために捨て去ってしまうような、そんな気がしてならないのだ。散るもまた美学とする、その志が。おそろしい。
おそらくきっと、彼は願っているのだ。その桜と共に横たわっているのが、桜に美しく鮮やかな紅い色を与えているのが――自分であることを。そしてその日本の象徴が、幾年も咲き乱れていくことを、菊とともに。それだけを。ただ。
しん、と静まり返る。花びらはまた風に舞い、菊はやっと顔を上げた。その顔にはまた、微笑が浮かんでいる。たとえどういう姿勢にしても、菊はこの桜を前に、感情が揺れ動くのだ。美しさに微笑み、散りゆく姿に哀惜を。我らの象徴、この極東の国が決して、何者にもひけをとらぬよう。それが古来とは違った形の、偽りを内包していても。
菊、と声をかけようとしてやめた。
(花は、盛っているばかりが美しい)
滅私奉公する志を美しいとは思わない。死んで花実が咲くものか。そんなものなら、たとえ彼の機嫌を損ねても、否定してやる。消えてしまえば、彼の微笑みもまた共に失われてしまうのだから。
そう。花は咲くから、だからこそそれだけが、美しいのだ。