きみのいるせかい

 ちらりと振り返ってみても、アントーニョは普段とさして変わらない様子でぽわぽわとしていた。高い部屋だったためか、窓からの眺めが意外といいなどと言っている。丸い緑の瞳がじっと夜景を見つめる姿が窓に反射してこちらに見えた。そんな一瞬の表情にもロヴィーノの鼓動は早くなる。高級なホテルだというわけでもないのに、それだから逆に指先は震えるのかもしれない。
「お、おい」
「ロヴィーノ、喉渇かへん? あ、ヴィノでもあらへんかな」
 にこにこと笑いながらアントーニョはしゃがみ、備え付けの小さな冷蔵庫を開いた。こんなところで無料の飲み物もないだろうに、手探りで中の物を引っ張り出している。だいたい酒に強いわけでもないのに、酔ってどうするつもりなのだろうか。
「そういうのは、だいたい金がかかるだろ」
 呆れて背後に近づきながら言っても、アントーニョはまだ手を冷蔵庫の中で彷徨わせていた。
「へぇ、そうなん? ロヴィーノ、詳しいなぁ」
「詳しいんじゃなくて、常識なんだよ、このやろー」
 アントーニョは振り返ると目線を上にあげつつ首を傾げた。けれどぱちりと目が合うと逸らされてしまう。逸らした視線のまま、ほんなら水で我慢しよ、と笑う声が響いた。小さくて静かな部屋に反響する。音楽でもかかっていたら、と思った。けれど思い切りそれらしい(どんなであるかは分からないが)音楽がかけられてもいたたまれない。普通にしているアントーニョはなにを考えているのだろうかと思った。
(普通に?)
 ここに入る前のことを思い出す。いわゆるラブホテルというものを見たのは珍しかった。カトリックだからか、意外とイタリアではそういうものには敏感だ。同じくカトリックが多いスペインでも事情は同じだろう。アントーニョも見慣れていないらしく、不思議そうに建物を見ていた。
 恋人にはなったものの、まだキスしかしたことがない。数百年単位の片思いはもはや純情を通り越していっそ不気味である。触れたいという欲求を抑えこむ術ばかりが身についている己が恨めしくもあるが、変に勢いづいて拒絶されるのが怖いというのもロヴィーノにとっては事実だった。これが本当に恋なのか、アントーニョはまだ分かっていない節があるようにも思われたのだ。キスされるのが嫌だとかどうだとか、そんな程度では本当は計れない。アントーニョのロヴィーノへ向かう感情はとても広くて、許容だけを見ればほとんど無条件で許されてしまうほどだ。それは分かっている。それでも押し切ってしまえば勝ちだと思ったのは事実だ。その卑怯がこういう時に遠回りばかりさせていた。
「ロヴィーノ、こういうとこ結構来るんやない? 別嬪さんと」
 薄暗い闇の中、星は小さく瞬いていてこちらまでその光は届いてこない。煌々と光って佇むのは街灯の光ばかりで、月光だってうっすらとしている。くすっとアントーニョは笑ってみせた。なんてことないみたいに優しくて、ただの親代わりと変わらない笑顔で。温い風が郊外の路地を吹き抜けて、掌が少し汗で湿った。美人には弱くて、いつもナンパばかりしている可愛い子分。アントーニョの認識はいつだってそれで。
(告白しても恋人になっても、変わらないのかよ、このやろ)
 違うと躍起になって否定してもたぶんなにも分かってもらえない。
「だったら、お前も連れてくぞ! この、バカ!」
 苛立って手首を掴むと瞳が揺れた。
「えぇよ」
 けれど直後にはにっこりとほほえんで頷いた。その真意を、ロヴィーノは掴めないでいるのだ。
「甘いモンとか、食べたくなるわなぁ」
 くすくすとまた背を向けてアントーニョは笑っている。その声が耳にやけに響くので、振り切るように名前を呼んでみた。けれどそれに対する返答は不明瞭で、ただなんとなく彼は笑っているばかり。
 こういう場所に来たのだから、なにをする気でいるのか分かっているはずだとは思う。或いは彼こそがこういう場所に慣れているという可能性もあった。そんなことを聞けるはずもないけれど。
 笑い声に焦れてロヴィーノが手首を掴むと、驚いたようにもう一度振り返った。
「し、シャワーとか、先浴びてきても、えぇで?」
 声をちゃんと聞いたら、上擦っていることに気づく。それでも視線だけは無理にこちらを見つめていた。まばたきをくりかえす緑色の瞳。アントーニョの様子が普通だとかそうでないとか、分からないわけではないのだ。ただ、ロヴィーノはすこぶる緊張していた。アントーニョの反応を見逃してしまうくらいには。
「お前、緊張してんのか?」
 まさかと思いながらロヴィーノが問うと、アントーニョはパッと視線を逸らした。
「し、しゃあないやろ。こういうんは、経験ないから初めてやし……」
「なっ! 今までに、一度もなかったのかよ……?」
 ロヴィーノの心臓はバクバクと音を立てていた。先程まで感じていた緊張とも少し違う。例えて言うなら、合否判定を待つような心地だ。是非が知りたい、知りたくない。
 ずっと彼だけを見ていた。他の何者かなんて、ロヴィーノの眼中にはない。一人だけを求めていた。そんな風に一人だけを想っていたのは自分だけだなんて、分かっているつもりだったのだ。もちろんアントーニョでも例外ではなくて。だって生きてきているのだ、人から見れば長い長い悠久とも言えるような時を。心を奪う者なんていくらだって考えられる。可愛い女の子も、美しい女性も。
「人と恋しても、どうしようもないやろ、俺らは」
 一度言葉を切ると、アントーニョは息をついた。そうして視線をこちらに戻す。その碧色と視線が絡んだ。
「恋愛なんて、できへんと思うてたし。少なくとも、俺は。……ロヴィーノがおらんかったら、たぶんそうやったと思う」
 呼吸は急速に乱れる。だってそんな、自分しかいないみたいな発言をするのだから。まるで一途みたいにこちらを見つめるから。
「心を奪われるような出会いなんて、そんなんあらへん」
「あるだろ」
 遮るように声を上げた。掴んでいる指先に力を籠める。アントーニョは呆けたようにまばたきをした。
「え……?」
「あるだろ、お前にだって。たった一回、恋ができる出会いが」
 言うだけ言って口づけた。自分は国で、南イタリアでよかったと思った。そのような時だけひどくそんなことを思うのは現金だ。
「俺たちは、出会ったんだから」
 あの日にロヴィーノは太陽を見た。なによりも明るくて、どこまでもまっすぐにすべてを照らしつける美しい陽光を。あの出会いが彼にとって幾千も重ねる出会いに勝るのだとしたら、それはきっと紛れもない恋だ。
「付いてきた意味、ちゃんと分かってるんだろうな……このやろー」
 アントーニョは大人しく、優等生みたいにこくりと頷いた。
 指が頬に触れる。
(「お前にだけ、だ、このやろー」)
 その言葉は、明日の朝までには言えるのだろうか。そして彼に伝わるのだろうか。目を閉じて、祈るように口づけた。

back