虹の麓には宝物が眠っているのだと聞いたことがある。
「雨、止まねぇな」
コーヒーを片手にロヴィーノは窓の外を見つめていた。降り続く雨は視界を白く煙る程ではないにしても太陽の光が差し込んでいることが普通と捉えるスペインにすると少々ながら恨めしい。モスグリーンのソファに腰掛けているアントーニョは、外で雨露に葉をしとどに濡らしているチューリップの鉢植えに目を向けた。恵みの雨という言葉は正しい。水遣りをする必要がなくなったことは確かに都合が良いことかもしれない。今日は外出する予定がなかったし、お陰で家の中でロヴィーノとゆっくり会話をしていられるのだ。
「嫌やなぁ、やっぱ、雨は好きになれへん」
理論的にはそうであっても感情は落ち着かない。沈み気味のテンションで傍にあった丸っこいベージュのクッションを掴んでぎゅうと抱き締める。新しい物なので中の綿はふわふわだった。
「俺はお前程は嫌いじゃない」
「そんなに嫌いでもないで? あ、雨の国とかそういう話やったらちゃうで。過ぎたことをどうこうっちゅうんは、もう止めたさかい」
「割と好き」
「ほんならロヴィーノの方が好きなんかもしれへん」
ロヴィーノは黒のマグカップを持ったまま外を見ていた。室内に響く音は妙に静かで、視覚だけがその雨の強さを示している。
「雨を見てると、太陽の有難味が良く分かるだろ」
「有難味? そんなん、別に今更考えんでも」
「鈍い」
ロヴィーノは、つと振り返るとアントーニョの眼前に立った。屈んで左手が頬に触れる。自分と違って癖のないサラサラの髪が揺れるのを視界の端で捉えて、どきりとした。鈍いとは散々に言われているので慣れた言葉だ。ただ、その響きが想像以上に優しかったので戸惑う程度。
「……雨が上がると虹が出るだろ。お前は、その麓に何が眠っていると思う?」
(おんなじこと、考えとる)
少しだけ笑った。緊張気味な空気に一つ穴が開いたように感じて、アントーニョは肩の力を抜く。ロヴィーノは意外と夢想家なのだ。詩的なことやロマンスを信じている。信じていると言うか、実践すると言うべきか。顔が良いから大体のことは許されるのだ。それは全く、羨ましきは綺麗な顔立ちであるというところ。
「うーん、なんやろ。トマトでも見つかったりしてな」
「本気かよ」
クスッとロヴィーノも笑う。まるでロヴィーノはアントーニョがその言い伝えを知っていることを分かって言葉を交わしているようだった。けれど自分の記憶を信ずるならば、ロヴィーノとそういう会話をした記憶はない。もしかしたら、その昔溺愛していたロヴィーノがそこにいるのだとかいう趣旨の発言をした可能性もあるが、直感的に違うと思った。記憶力よりも直感力の方が当てになるのでやや不思議な話だが。
「ロザリオが輝いている、とか」
今度はロヴィーノはそのオリーブ色の瞳孔を少し広げた。
「そっちこそ本気かよ」
「何でロヴィーノが呆れるん?」
「教皇に聞かせてやりたい……バチカンに行くことがあったら、スペインは敬虔な信徒ですって伝えてやるよ」
「えっ、えぇてそんなん。恥ずかしいやん!」
思わず腕をばしんと叩くとロヴィーノは眉根を寄せた。
「俺はあんまり嬉しくないけどな。さっきの」
雨が降っているのに部屋は乾燥気味らしくて喉が渇いてきた。テーブルに手を伸ばして赤のマグカップを取ろうとしたら、ロヴィーノに手で制されてしまった。きょとんとして上向くと、じっとアントーニョしか映し出さないように真っ直ぐロヴィーノが見詰めている。
「雨の話もそうだ。俺にとっての太陽はお前しか有り得ないんだから、ちゃんと比喩表現を酌み取れよ、親分なら」
「そんなん、無茶振りや」
比喩と言われてもロヴィーノの言葉に含まれる太陽の全てがスペインに変換される訳ではないし、今は天候の状態について話していたのだからそちらと取るのが普通の筈だ。決してアントーニョが鈍いから分からないのではない。
「嘘。情報処理をサボってんじゃねぇよ」
「なんやの……それ」
「虹の麓には宝物が在る」
「も、ロヴィーノ、難しすぎや」
「それが思考放棄だっつってんだろ」
はぁ、と溜息を吐かれてしまった。強めの言動と溜息を落として尚ロヴィーノの表情は軟らかい。思わず見惚れてしまいそうになる程度には。
「それとも、遠回りな言葉じゃなくて、素直に言って欲しいだけか? 愛してる、アントーニョ」
指先は制していた右手の甲を掴んだ。疎ましくなったのか、持っていた黒いマグカップを背後のテーブルに置いてロヴィーノは膝をついた。
「雨が降るとその先にある太陽――お前のことを考える。雨は億劫だから、太陽が、有難いと思えば、昔のお前にも感謝する気持ちを思い出す。悪くない天気だと思う。虹の麓にはお前が目を閉じて眠っている。俺を待ってる。違うか?」
言った直後にロヴィーノはあ、と声を漏らした。
「あぁ、お前に想像がつかない理由が分かったぜ。そこに居る側だからか。探して貰うのをシエスタしながら待ってるのか」
「ななっ……な、なに言うてるん」
焦った所為で声が裏返った。隠すように手を振ろうとしても、片手は捕まったままで少し滑稽だ。まるで別れの挨拶のように無意味に左手だけが揺れる。
「考えれば分かる癖に考えないのが悪いんだよ。お前、確かに鈍感だけど馬鹿じゃないんだから、好きだって俺が言ってるのが分かってるなら、ちゃんと意図くらい察せられる。虹の麓だって、言い伝え知ってたんだろ。目の動きで分かった」
「良く見とるね」
思わず感嘆して言うとロヴィーノは何となく嬉しそうにした。
「いつも居心地悪そうにしてるけど」
「べ、別にそういう訳やないけど。なんか、慣れないっつぅか……ちょっと、優しすぎやん、ロヴィーノ」
我ながら我儘なことを言っている自覚はあった。優しくされるのが嫌な訳ではないが、今までずっと自分が親分で庇護者だと思っていたのだ。手を差し伸べるのは自分。愛するのも自分。可愛がるのも自分。そういうスタンスだった。成長したロヴィーノにそれを押し付けるのが間違いだとしても心情的には簡単に変えられない。
「恥ずかしがりなだけだろ」
居心地の悪いくらいに居心地が良い理由はロヴィーノのこの察しの良さにもある。アントーニョのことを良く見ている、良く分かると自負する通りにロヴィーノは深層心理まで理解していた。アントーニョが親分である自分を易く崩せないこととか、子分なんて呼んでいた存在にこうして逆に可愛がられているらしい状況になれないことまで分かっている。そうしてそれら全てを包括してアントーニョが恥ずかしいと思っていることを。情報処理しないのも思考放棄してしまうのも全部それに起因している。指摘されるとそういう言葉で纏め上げられるのかとアントーニョは納得するが、そんな感じのことを心の奥底では気づいていた。そんな感じ、漠然曖昧不明確で定義できないような外延のない存在。
「もう少し、恋人らしくなりたいってのも我儘か」
「あ――」
反論する言葉を見付けようとしたら、視界を先程までゆっくりと見ていた端正な顔が占領していた。浮いた身体がクリーム色の壁に押し付けられるような形で唇が重ねられる。ん、と鼻に抜けるような声が漏れて呼吸が一遍に奪われたような心地になった。そしてアントーニョは自分が主導権をはっきりと失うことを自覚するのだ。キスが上手に出来れば勝てるという話ではない。けれども翻弄されているのではきっと。
(勝てへんよ、ロヴィーノ)
親分だというのは安いプライドに裏打ちされたものではない。アントーニョは端正な顔が酷く自分を求める様を見ていられなくなって(無論これも羞恥心から来るものである)目を閉じた。視界が暗くなれば今度はくちゅくちゅと唾液の混じる音が身体に響く。逃げ場なんていつもどこにもないのだ。息が出来ない。
解放されると酸素を求めるように喘いだ。
「なぁ、アントーニョ」
ちゃんと息しとけとの忠言を囁きながら、ロヴィーノはもう一度手を握った。
「優しいのと今みたいに強引なのと、どっちを選びますか、プリンセス?」
頭がくらっとした。
「苦心してるんだぞ。いつまでも恋人らしくしてくれない恥ずかしがりなお姫様の為に」
「姫はやめようや……姫は」
「女の子は誰かのお姫様になれるって、昔ベルギーに言ったらしいな」
「そら女の子はな」
いつ頃どういう状況で言ったのかとんと記憶にはなかったが、ベルギーは可愛い可愛い子分なのでそう言ったこともあるのかもしれない。
「だったら逆に、俺だって王子様になりたいと思ったらいけないのか?」
しかしそうするとアントーニョにはそれは望むべくもないことになってしまうのだが、ロヴィーノは穏やかにそう言ってのけた。
「そんなん、女の子に言うたら」
「言った方がいいのかよ、女に」
声に苛立ちが含まれたことはさすがに分かった。
「嫌やけど、それは――」
「アントーニョ」
「せやかて、親分の王子様になったらえぇやん、なんて言えへんもん……」
「そう、言って欲しいのに」
「……恥ず」
鈍感だとは言われるがアントーニョとて人並みの羞恥心くらいは持っているのだ。
「なるほど、強引な方がお好みってことか、分かった」
「え、ちょ、待ちぃ」
手首が掴まれる。唇が重ねられる。それに応じようとするよりも先に強引に舌が入り込んできた。言葉も呼吸も何もかもが奪われる。思考の端から端まで。
(ロヴィーノ、ロヴィーノ)
窒息してしまいそうだと思う。やっぱりアントーニョは虹の麓で、ロヴィーノが来るのをおろおろしながら待っているのだ。来てと来ないでが綯い交ぜになって、期待して不安で。
「ごめん、な」
「どういう意味だよ」
「んー、何や、いろいろ! あ、それとな、俺、どっちのロヴィも大好きやで」
ちゅっとこちらからキスするとロヴィーノは少し驚いたようだった。どうせ勝てないなら、虹の麓で眠っていてもいいかもしれない。
(横着になってまうし、こんままだと駄目な子になりそうやけど)
でもそれがいいのならそれでもいいのかもしれない。
「……残念。お前が困ってるのが可愛いから好きだったのに」
ロヴィーノはくつくつと人が悪そうに笑った。
「なんやのそれぇ」
「冗談。愛してる、お前と同じだ……恥ずかしがっても困ってもどうでも、可愛いだけなんだ。――多くは望まないから、ちゃんと、待ってて、アントーニョ」
「虹の麓で?」
「そう、虹の麓で。必ず、そこにいて。それだけが俺の望みなんだから」