Shapes of Love


 アントーニョは、執着心が薄い。それが生来的なものなのか、それとも歳を重ねた上で後天的に備わったものであるのかは定かではない。慈しんできたものでも簡単に手を離すことができるのと同様に、自分の存在価値を尊重していない節もある。その最たる顕現とフランシスが感じるのは、誕生日、だ。
『うん? せやねぇ、建国記念日、誕生日や。ありがとうなぁ。俺、今日王様に挨拶せなアカンことになっとるん。え? お祝い? えぇよ、そんなん別に。おめでとうって言葉だけで充分や。俺なぁ、今日は時間とられへんねん。会食もせなアカンし……せやからな、もし、どうしてもなにか――ってんなら、明日にしてや。ごめんなぁ』
「フランシス、本当にパーティーは良いのかね?」
 そんな数カ月前に聞いた台詞を思い起こしていると、後ろから肩を叩かれた。もしサラリーマンならば、リストラや首切りかと震え上がるのかもしれないが、フランシスには当然、そんな心配は無用だ。もっとも、フランスでそれを心配する者がどの程度いるかは不明なのだが。
 そもそも、机に座っているのはベルギーはブリュッセルにあるEU本部から送られてきた書類に目を通す為であり、厳密に言えば仕事をしている訳でもないのだ。外交関連について、国を体現するフランシスにも目を通して意見を述べるよう求められるが、これらは非公式の単なる助言である。それが実質的には発言力を持っていたとしても、表舞台に立って政治を執り行わないのが国としてのフランシスだ。
「いりませんって、そんなの。俺は自由に過ごさせてもらえればそれで」
 上司が気遣ってくれていることは分かっているが、フランシスとしては大々的にパーティーを開いて戴くよりも、身内でこじんまりと祝うくらいが調度良いのだ。できれば、恋人と過ごせるのが理想。美と愛の国の異名は伊達ではないのだ。その為に約束を取り付けようと思うのに、最近の恋人は忙しいようで、電話をしても中々捕まらない。
(明日、か)
 頭を捻らせる。鈍感で天然な恋人を捕まえることは可能だろうか。もしダメだったからとて、悲観することはない。アントーニョはつまりはそういう人なのだ。彼は一見なにも考えていないように見えてその実はきちんとバランスが取れており、なすべきことをなしている。もし、フランシスよりも優先することがあるのならば、そちらに赴くだろう。それは安心でもあった。アントーニョが恋にすべてを擲ってしまう性質を持っていないことは、フランシスがともすると彼を優先しがちであるということへの歯止めにもなる。
(ま、でも、誕生日くらいは――って思っちゃったりするけど)
 生憎、アントーニョは自分の誕生日ですら優先しない。と言っても、フランシスに祝われることが不要だなどと思っているわけではないのだ。ただ、等しく自分の生誕に敬意を払っていない。寂しいが、彼の主義は国を第一に考えることであるらしいので、致し方がないと言えばそういうことで終わる。
「で、これに従うと、国内法の整備が必要になると思うけど」
 トントンと紙を叩くと、上司は大仰に頷いた。
「それについては、こちらで調整するつもりだ。どうだね、フランシス」
「いいんじゃない? あ、それと、カシス・ド・ディジョン判決の要旨を確認したいんだけど、欧州裁判所の判決は――」

 時計の針が12時を示す。ソファに腰掛けていたフランシスは時計を確認して一人、頷いた。自分で自分にボナニベルセールなどと言うつもりはないが、少し感慨があるのも事実だ。こういう日だし、取っておきのシャンパーニュでも開けようかと思って、掛けていたソファから立ち上がるとチャイムの音が響いた。
 時刻が時刻だ。一瞬、少しだけ期待した。しかしすぐに首を振る。勝手な期待は厳禁。けれどこの時間に訪ねてくるような相手がいないのも事実。黒い玄関のドア、その取っ手に手をかけて逡巡した。
「どちらさま――」
 それでも結局はグッと力を籠めて押し開けた。微温い風が頬や手の甲を撫で、フランシスは蒸した空気を吸い込んだ。夜空には満天の星。月齢は12から13、十三夜月は満月に次いで美しいと言われるが、まるで欠損など存在しないように光り輝いている。玄関に人はいない。
「Bon anniversaire! あっはは、フランシス、びっくりしとるなぁ」
 急に横からぬっと手が伸びてきたので慌てて飛び退くと、いつもの格好のアントーニョが笑っていた。
「驚いた?」
「驚いた」
 突如、横から出てきたこともそうだが、日付が変わる瞬間にアントーニョがそこにいたことが、一番の驚きだ。恋人は昨日中に連絡が取れなかったし、忙しいならとメールで呼び出すのも控えていた。誕生日を覚えていてくれたことも驚きだ。万事に鈍感な彼は、イベントごとに拘るというタイプでもない。
「一番にお祝いできた?」
「うん……一番」
 頬に触れると擽ったそうに瞳を細める。
「ほんじゃあ、まずは」
 今度はアントーニョの両手がフランシスの頬に伸びた。熱の籠った温かい手が触れる。通り過ぎるようにふっと、唇と唇が触れた。
「お祝いのキス」
 にこっとほほえむと、アントーニョは足元の白っぽい紙袋を持ち上げてこちらに見せた。
「ケーキも買ってあるんやで。一緒に食べようや」
「メルシーボク」
「あ、ヴィノはそっちで用意しといてな」
「はいはい、了解」
「フランスのヴィノが飲みたいんやって」
「それはどうも」
 もう一度、こちらから唇に触れると「それよか、はよケーキ」と急かされてしまった。やはり花より団子なのかもしれない。玄関のドアを再び開ければ、今度はひやりとした冷気が漂っている。涼しっ、とアントーニョが声を漏らした。
 アントーニョは先程見た白っぽい紙袋の他に、黒い紙袋を二つ程手にしている。持つと言ったらきっぱりと断られたので、恐らくはプレゼントと言うことになるのだろうと思料されるが、それがなにかはまったく予測できなかった。いろいろな意味で、アントーニョはイレギュラーなのだ。
「意外だね、お前が、夜遅くにうちまで来てくれるなんて」
 廊下を歩きながら、驚いた訳を話してやろうと思って少し笑いながら言った。
「なんでや? フランシスの誕生日って、大事な日ぃやろ?」
 振り向くと、アントーニョは不思議そうに首を傾げている。
「だって、お前、自分の誕生日――」
 アントーニョは尚も不思議そうに首を傾げたままだ。
「俺の誕生日が、フランシスの誕生日と関係あるん?」
 そこまで聞いて、違和感の正体に気づいた。アントーニョは『誕生日』という枠で括っていないのだ。自他を分けているということでもない。
 誰かの誕生日というものが等しく大切なものであるなんて欺瞞だ――結局大切なのは、自分にとってという主観的な基準だけ。そうであるとするならば、アントーニョが自分の誕生日に頓着がなかったとしても、他の、たとえばロヴィーノであるとか、ローデリヒであるとか、そういう親しい者の誕生日を気にしないことはないのだ。そうして、フランシスの誕生日は当然に大事な日、恐らくは特別に大事な。
「アントーニョ、プレゼントはなに?」
 論理の流れを追うことは不可能ではないが、アントーニョにとってのそれは正しく直感だ。そのことがうれしいとしても、筋道を立てて言うのは野暮な気がした。彼は直感でフランシスの誕生日を大事な日と位置づけているのだから。それなら、その大事な日になにを贈ってくれるのかを気にする方がずっと楽しい。
「ふふん、俺はなぁ、フランシスがいっちばん喜ぶもん知っとるんやで」
「お、自信満々だねぇ」
 ダイニングテーブルに紙袋を下ろす。ケーキはすぐに取り出された。時間も時間だし、夕食はとうに終えている。アントーニョも同じことだ。とすれば、今食べるのは少しだけ。残りは起きてから。キッチンから白い皿を二枚と銀色に光るケーキナイフと同じ色のフォークを引っ張り出してテーブルに並べる。シミひとつない白いテーブルクロスが、紙袋の置き方が悪かったのか少しだけ吊っている。
「フランシスがいっちばん喜ぶプレゼントはなぁ」
 そこで一呼吸区切ってにっこりと笑う。
「俺や!」
 片目を瞑って人差し指を立てた。
「アントーニョ、お前」
 良く分かってると続けようとした言葉は、気づかれなかったらしく遮られてしまう。
「ってのはまぁ、冗談なんやけど……な、フランシス、ちょっとここ空けてくれへん?」
「ケーキはどうするの?」
「まぁまぁ、時間はとらせへんさかい! えっと、10分くらい?」
「いいけど……汚すなよ?」
 10分ではあまり短いとは言えないし、ケーキを放置するにも複雑な時間だ。しかし、アントーニョがそう言うのであれば、と納得して廊下に出た。そこで突っ立ってるのも難なので、寝室に向かう。リビングにしか冷房をつけていないので、空気がむっとしていた。10分程度ならば、と冷房をつけるのを止めて、ベッドに腰掛ける。なんともくすぐったい気持ちだった。
 5分ほど経過したところで、微かに音楽が聞こえてきた。ピアノ曲らしい。聞いた旋律のように思えたが、すぐに思い出せる程、クラシック音楽に精通している訳ではなかった。流麗な旋律はモーツァルトかショパンか。ピアノと言えばローデリヒを思い出すが、アントーニョは恐らく弾けないだろう。ピアノもここにはない。
「フランシスー! えぇでー!」
 呼ばれて部屋を出る。外からは涼しい空気だと感じた廊下の気温も、リビングの冷気を感じてからはすっかり蒸して感じられた。その理由は、閉じられたドアだ。一目見て理解した。
 ゆっくりと近づけば旋律は明朗になる。閉められていた廊下とリビングを繋ぐドアを開けると、またアントーニョの姿は消えていた。呼びかけようと一歩踏み出すと、視界を赤と白と青のふわふわと宙を浮く物体に遮られる。
「愛の挨拶」
 アントーニョはすぐそこからひょいと顔を出すと、にこりと笑った。
「ローデリヒに頼んで弾いて貰ったんやで。そんで録音して、これ」
 手には今時珍しいテープレコーダー。そこから聞こえるピアノの音は、言われてみればなるほど、ローデリヒの音だ。
「大変やったんやで……ローデリヒが渋ってなぁ」
「あぁ、なんか予想つくよ」
「でも、『誕生日プレゼント代わりになさい』って言ってくれたで!」
「で、これは?」
 ふわふわと浮いているのは、風船だった。形を見ると、ハートになっている。
「ん、フランシスにぴったりのプレゼントって言うたら、やっぱり『アムール』やろ」
 アントーニョは誇らしそうに胸を張った。
「どっかで愛の形は風船って言うてるの聞いたことあってな――それ、むっちゃえぇなぁって思って、トリコロールで集めてみたんやで。赤一色と迷ったんやけど」
 手を伸ばして赤い風船に触れてみる。これが彼の言う、愛の形。
「後はやっぱり、ラブソングやろ! えーと、『Salut d'Amour』、ちゃんとフランシスんとこの曲やったはずや」
 ローデリヒの旋律が部屋を充たしている。
「ほんで、親分がおれば、これで、愛でいっぱいやろ!」
 アントーニョは手を広げた。これ以上ない愛を体現するように。
「お前って、本当に」
 大事なことを、ちゃんと分かっている。
「お誕生日おめでとうなぁ、フランシス」

back