「昔、俺が大きくなったら召使いになってくれるって約束しただろ!」
ロヴィーノにいきなりそう言われて、アントーニョは驚いた。そんな約束、いつしたのだろうか。記憶に残っていない。アントーニョが首を傾げている間も、ロヴィーノは滔々と語る。
「俺が大きくなったらお前は俺の召使いになって、俺の家に住んで毎日パスタ作ってくれて俺が帰ってきたら台所から駆けつけてエプロン脱ぎつつ『お帰りロヴィーノお疲れさんやね……! パスタもうすぐできるで。それともお風呂沸いとるから先に入ってくる? それとも……』って言いながら着てるシャツの上ボタンを少し外して『こっちの方がえぇ?』って言って『じゃあお前が先だな』って俺が言ってシャツに手をかけたら『こんなとこでやるんはダメやで、ロヴィーノ……』とか上目遣いで言いながら抗わないって、約束してくれただろ!」
「えええっ、そないに詳細に俺、約束しとったん!?」
「忘れたのかよ! 俺のことなんてどうでもよかったんだな、この薄情者!」
「そ、そないなことないで! お、覚えとるよ! うん!」
実際にはなにも覚えがなかった。しかも、今の発言内容を聞く限りにおいては召使いという存在なのかどうかも疑わしい。しかしロヴィーノがそう言うならば、そうなのだろう。
「だったら約束果たしてくれるよな……」
ロヴィーノは顔を近づけて言う。そんな風に言われたら断り切れないのがアントーニョだ。つくづくロヴィーノには弱い。
「まぁ、今すぐによめ……ゴホンッ、召使いになれとは言わない。――そうだ、シミュレーションしてみるか」
シミュレーション、とアントーニョはくりかえして首を傾げた。そのシミュレイトになんの意味があるのか分からない。しかしもう抗うのも無駄だ。アントーニョはともかく頷いた。
「台詞はカンペを用意するから、ちょっと待ってろ」
ロヴィーノはなにやらいそいそと紙に書き込んでいる。さっき言っていたことを書いているのだろう。なんとなくおもしろい光景だ。
(なんて言うてたっけ)
アントーニョはあんまり覚えていなかった。数分経過して、達成感に溢れた顔でロヴィーノが紙切れを手渡してくれた。細かく文字が書き込まれている。乱雑な文字だ。
「ロヴィーノ、字、汚いわ」
「うるさい! 読めればいいんだよ、んなもん。後生大事にとっとく訳じゃねぇんだから……」
たしかに、これを大事に仕舞っていたらちょっと気味が悪い。
「じゃあ俺は帰ってくるから、お前はドアを開けたらエプロン外しながらこっちに来い。俺は疲れてる設定なんだから、ちゃんと労いが必要だぞ。笑顔で。あ、カンペあるからって、そっちばっか見るんじゃねぇぞ? ちゃんと、俺を見ろ」
「う、うん……」
本日のロヴィーノは饒舌だ。勢いに押されてアントーニョはこくこくと頷いた。手渡されたエプロンをかけて、後ろでリボンに結ぶ。ロヴィーノの設定ではこのエプロンはすぐに脱ぐものらしいから、今結ぶことは意味がなさそうにも思えた。
ロヴィーノは一度自室に戻ると、スーツに着替えて出てきた。ブラウンスーツが良く似合っていたので、カッコイイと褒めたところ「分かってるじゃねぇか」と自信満々に言っていた。容姿については、ロヴィーノは微妙にナルシストな気がするアントーニョである。
「すぐ戻ってくるのも臨場感がないから、俺はしばらく外に出てる。チャイムが鳴ったら」
「えっと、お出迎えするんやね」
臨場感は必要なものなのか分からなかったが、もう口は挟まないことにした。
「分かってるじゃねぇか。じゃ、お前も適当に時間潰してろよ」
準備が整ったから、とロヴィーノは手を振って家を出た。帰りがシミュレーションなのだとは言われているが、一応、「いってらっしゃい」も付け加えておいた。
手持ち無沙汰になったアントーニョは、渡されたカンペを見てみる。なんだかさっきより文量が増えている気がした。カンペをじろじろ見るなと言われているので、完璧にこれを言わなければということでもないのだろう。
「えーと、パスタもうすぐ茹で上がるところやで、トマトのパスタはいつも作っとるさかいにな、今日はいつもと違うんやで……やっぱりパスタなんや」
思わず顔が綻ぶ。ふふっと笑ってしまった。
「ロヴィーノはホンマに、パスタ大好きさんや」
パスタを作ろうかな、と思った。ロヴィーノはすぐには戻ってこないとのことだし、暇を持て余すくらいならば、彼の言葉ではないが『臨場感』を出そうと思ったのだ。ナイスアイデア。きっとロヴィーノも喜んでくれることだろう。アントーニョはそう思って笑みを浮かべた。ロヴィーノが喜んでくれることこそが、親分にとっての幸せなのだ。アントーニョは冷蔵庫を開ける。野菜室にはトマト、そしてパスタに合いそうなものとしてはチーズ。ゴルゴンゾーラだ。
(ふむ……トマトのパスタは親分得意やけど、ちょっとマンネリ感があんなぁ……さっきの台詞にもトマトと違うってあったし……ほな、チーズ使ってコクのあるパスタソースでも作ろかな。ほんならパスタは太めで……フェットチーネはどうやろ)
頭の中でパスタのレシピを紐解く。口の減らない子分のために、幾つも覚えたのだ。魅惑のレシピと言える。ロヴィーノはそんな風には言ってくれないかもしれない。なにが魅惑だ、と言うかもしれない。けれど最近は減らず口が、減った。
(そんじゃ、減らず口やないやん)
フライパンを片手に、アントーニョはくすくすと笑う。どのような意図であれ、望むことは叶えてやりたい。もちろん、さすがにアントーニョが彼の召使いになるわけにはいかないのだが。もっともあれが召使いかどうかもやっぱり分からない。しかしアントーニョのところの子分、すなわちロヴィーノも、子分かどうか疑わしい振る舞いをしてばかりだったので、世間通りの受け取り方をする必要もないと言える。
ソースの準備が整ったところで、パスタをいっぱいに水を張った鍋に投入する。タイマーをセット。それが鳴り響くまでは小休止だ。アントーニョは、ほうっと溜息をつく。彼のためにパスタを作るのが好きだった。喜んでくれるから。一番美味しい、と言ってくれるから。ふふっとアントーニョは思わず笑った。過去の回想を行っている内に、セットしたタイマーが茹で上がりを知らせてくれる。パスタはそのままフライパンへ。少しだけ火をつけてソースと絡めていく。
ガチャッ、と音が聞こえた。合図だ。アントーニョは慌てて火を止めた。
*
「つぅわけで、ただいま」
「あ、ロヴィーノ、お帰り……き、今日は遅かったんやね」
アントーニョが、言われた通り、後ろでリボンに結んであるエプロンを解きながらこちらに近づいてくる。言い聞かせた通り、カンペをじろじろと見るような真似もしない。正に新婚風景そのものだ。ロヴィーノは感動した。割と適当に書いた台詞もなるたけ見ないよう一生懸命に諳んじようとしている。なんとも可愛らしい。
「え、えっと……お疲れさま。パスタもうすぐできるさかい、待っとってぇな……あ、冷蔵庫ん中の勝手に使ってしもたけど、えぇ? えっとな、ゴルゴンゾーラチーズを使ったんやで! トマトばっかはマンネリなんかなぁって……あ、えと、やなくて……せや、お、お風呂! お風呂なら沸いとるで! そっちでも、えと……あとは……」
辿々しくセリフをなぞろうとしている様が本当に愛らしい。召使いどころか完全に新婚の風景なのだが、アントーニョはあまり分かっていないようだ。そうして分かっていないアントーニョは、おろおろとした様子でシャツのボタンを一つ外した。ちらりとこちらを見るので、こちらも見返してみる。
「あ、そ、それとも……こっち……の、方が」
もう一つボタンが外れると、褐色の肌に鎖骨が見えた。
「の……方が……えぇ?」
アントーニョは割と大らかというかおっとりというか寛容というか天然というか鈍感というかボケというか。
(こういうセリフに照れる……!?)
意外だった。アントーニョはちらっとカンペを見ながら、恥ずかしそうに台詞を口にしている。照れた姿にすっかり魅了されたロヴィーノが問答無用で口を塞ぐと、虚を突かれた形のアントーニョはぎょっとした。
「んっ……っふ……ぅ」
思わず舌が入り込んで深くなった。唇を離すと、少し塗れたような緑の瞳がもの言いたげにこちらを見つめている。
「ええとっ……こんな、とこで……ダメ、やで……?」
キスの余韻で頬が赤い。まだ照れながらも律儀に実践しようとしてくれる姿が血を吐くほどに可愛かった。くらくらする。理性を感情が凌駕していく。堪らずロヴィーノがまた口づけながらシャツの下に手を入れると、緑色の瞳が驚愕でぱちぱちと開閉した。
「ちょ、ロヴィ……ノ……! なに、して……っ、あ――こんなん、書いてな……」
シャツが邪魔に思えたので、ボタンを外す作業を先行させることにした。正気に戻らせると厄介なので、とりあえず口づけで意識をシャツから逸らさせる。
「ん――うぅ、んっ」
舌が入り込んでも、抵抗はなかった。ぴちゃぴちゃと水音が響く。固く目を閉じたアントーニョは、キスに応じるよりは逃げ回っていた。それを追うのがまた良かったりする。しかし舌に集中していた所為で、ボタンを外すのに手間がかかってしまった。ようやく全部外したところで唇を離すと、銀糸が二つの唇の間を伝っている。
「ここからはアドリブだ」
首筋に唇を這わせると、アントーニョの身体がびくっとした。
「えっ――やっ、やぁ……あ、待ってぇ……ぱすた……」
「パスタ?」
尋ねるついでに耳朶を噛むと、甘ったるい声が漏れた。
「作ったん。ホンマやっ、っや、そこは……んっっ」
「本当に、作ってたのか――?」
アントーニョ観察に夢中で嗅覚が疎かになっていたが、言われてみれば濃厚な乳製品の香りが漂っている。アントーニョは目の端に水を溜めながら、こくこくと頷いた。吐息が荒い。
「ロヴィーノ、喜んでくれるかなぁって、思て……」
「ばっか……お前、本当」
思わず手が止まると、アントーニョはうるうるとした瞳でこちらを見つめた。
(俺のために)
『ゴルゴンゾーラチーズを使ったんやで!』
花の咲いたような可憐な笑みを思い出す。まさにあの笑みは、今、本当にロヴィーノに向けられていたのだ。
(やっぱり俺が好きなんだ……アントーニョ)
別に自意識過剰なだけなのではない。証拠にアントーニョは、逃げようと思えば逃げられるし、抵抗すれば力では劣ることがないのにどちらもしていない。抗わずにとは当初予定では言っていたが、紙に書いてある訳でもないし、今はアドリブだと言ってある。
(だからって、逃げても良いなんて言ってやらねぇけど)
ベルトに手をかけると、アントーニョの身体がまたびくりと跳ねた。未知の状況なのか心細そうにその碧色の瞳が揺れるので、ロヴィーノは頬に甘くキスを落とした。一瞬で、夢想するようにアントーニョの目がとろんとする。ベルトを外す音がなんだか卑猥に聞こえた。意識の問題かもしれない。指をズボンにかける。アントーニョの身体が急に前に倒れて、顔がロヴィーノの胸に埋まった。
「アカン……おれ、アドリブでけへんよ……」
「だったら別にいい――俺のことだけ考えて、トォノ」
少し沈黙があった。それから一言「ん」とだけ肯定の返事が胸から聞こえる。
*
「つうわけで、今日のアントーニョは動けねぇから会議に出られない」
「う……ゲホッ……ロヴィーノ、寝かせてくれへん……ゴホゴホ……もん」
「もういいよお前等」