「お前が好きだ、アントーニョ」
「は?」
可愛い子供こと子分であると思っていたロヴィーノが、ある日、いきなり好きだと言ってきた。今日は平日で、なんらかの記念日でもない。いきなり家に尋ねてきたと思えばそんなことを言い出すのだ。しかし好きだと言われたので「もちろん俺もやで」と笑って返そうとしたのだが、その言葉は遮られてしまう。
「愛してる」
愛ときた。
(愛……?)
暫し頭の中を一つの文字が占めた。愛。スペイン語でアモール。イタリア語でアモーレ。フランス語だとたしか、アムール。その言葉の意味を白くなってきた頭で考えて、目が回った。ロヴィーノはこちらをじっと見つめている。アントーニョはすっかり対応に困ってしまった。愛してる。家族として――とは、まさかつづかないだろう。如何にアントーニョが天然ボケと周囲に言われても、救えない程の鈍感だと言われても、これで意味が通じなかったらもはやただの馬鹿である。ローデリヒは「お馬鹿さん」とアントーニョのことを呼ぶけれど、そういう意味ではない。
「俺も、ロヴィーノのことは好きやけど」
結局、そのように返すのが精一杯だった。ロヴィーノは肯定とはどうしても捉えられないニュアンスの言葉を聞いても、表情に変化を見せなかった。不思議なくらいに冷静で、考えてみればそもそも告白らしい顔など浮かべていない。もっと頬を赤らめるとかないのだろうか。
(って、それじゃ女の子やん)
密かに苦笑すると、冷たい両の指先がアントーニョの手を握った。
「本気だから、覚えておけよ」
少し、どきりとした。こちらを貫いたまなざしは強く、まるでそのまま的を射るように美しく鋭い。アーチェリーをしたことはないが、中心に当てようとするのならば、そんな眼をするのではないかと思われた。
本気とはなんのことか。その日のアントーニョにはまだ、分からなかった。
朝、目が覚めて、まだ十分に覚醒し切っていないままにカーテンを開いた。時計を見るといつも起きているのと同じく時刻は朝の8時を示しているが、まだ少し眠い。それでも太陽の光を浴びると、今日も一日元気を出して働こうという気になる。伸びをした瞬間に電話が鳴った。慌ててベッドから抜け出す。
「もしもし?」
『Buenos dias、アントーニョ。そろそろ起きたところか?』
「あ、ロヴィーノやん。おはようさん」
電話の向こうの声は通常通りだった。昨日は妙なことを言われたものの、なんだ普段と変わらないではないか。アントーニョは安心して眠い目を擦りながら電話に応ずる。
『今日もいい天気だ。洗濯日和だな、太陽の国』
「ん、せやねぇ。お日さんも気持ちえぇ……」
うっかり陽気にうとうとしかけた。
『寝るなよ、ねぼすけ』
「え……う、うん?」
『愛してる――俺の、太陽』
ガンッと頭をクリーム色の壁にぶつけた。仰々しい音が電話の向こうまで届いたのか『大丈夫か、アントーニョ』と優しく囁くような声が届く。
「ろろろろろろ」
『じゃあな。今日も気張って働けよ』
ガチャン、と音が響く。
「ちょ、待ち、親分にツッコミ入れさせたって」
しかし切れてしまった電話は、ただ無慈悲な音だけを告げている。
「な、なん、なん……」
口をぱくぱくさせたが、答えはどこからも降ってこなかった。
朝からまた電話が来るかと身構えたが、アントーニョの気苦労に終わった。
(アカン……うっかり乗せられてもうたわ)
冷静に考えて見れば、一昨日、昨日とイレギュラーがつづいたが、今日もそうだとは限らない。というよりむしろ、そろそろ収まってくれないと収集がつかないだろう。ロヴィーノがいったいどうしてあんなことをしたのか知らないが、もうつづくまい。家事を終えたアントーニョは、ダイニングテーブルに座りながらうんうんと頷いた。今日も快晴だ。天気がよいのはいいことだろう。時計を見ると、針は正午を示していた。昼食にはパスタでも食べようかと思った。元々はそんなにパスタが好きというわけではないのだが、どうにもロヴィーノと長く暮らした所為で、パスタに馴染んでいるのだ。トマトもソースに合うし、悪くはないチョイスだろう。そんなことを考えていると、電話が鳴った。
「はいはーい」
『Buenas tardes、アントーニョ』
上機嫌で出ると、またロヴィーノの声が聞こえた。なんの用だろうかと思いつつ、今さっきパスタのことを考えていたからタイムリーだと思った。
「おぉ、ロヴィーノ! 今、お昼はパスタもえぇかなって思ってたとこやで」
『パスタか、いいな』
「せやろ。ロヴィーノ、パスタ大好きさんやしな」
パスタが食べたいと喚いていたことも思い出す。なんだか懐かしい。
『あぁ、でも』
「うん?」
『お前の方が好きだ』
ガチャーンとアントーニョは受話器を取り落とした。
『アントーニョ?』
落ちた受話器からロヴィーノの声が微かに聞こえる。落としたままでは、と慌てて拾い上げて、そぉっと耳に押し当てた。
『じゃあな。俺もパスタ作るか……』
言いたいだけ言って、また電話は切れる。
お昼までは警戒していた。電話が鳴る度にびくーんと背を震わせたりしたが、予期していた声はなく、上司が一週間後の会議の予定を伝えたり、かけてきた近所のおばさんと世間話するだけだったのだ。
(んー、やっぱりさすがに今日はあらへんな!)
よかったよかったと胸をなで下ろすことができたのは夕方になってからだった。ペースを乱されまくっているが、そもそもがマイペースなアントーニョなので、いつもと変わらないと言えば変わらない日常を過ごしている。そろそろおやつが恋しくなる時間だ。もう少ししたらメリエンダの時間だし、ここはぐっと堪えるべきところだろう。チュロスが食べたい。朝も食べたが、アントーニョの好物なのである。まだかなと時計を見ると午後4時。今日の昼食は少し早かったし、もう1時間すればチュロスに手を出そうかというところで電話が鳴った。
「もしもし、こちらアントーニョ」
『Oiga、アントーニョ』
「ロヴィーノやん! どないしたん?」
『今日も一日お疲れ様』
「おおきになぁ。えへへ、どないしたん、ロヴィーノ。ロヴィーノも、今日一日お疲れさんやね。今日はなにしてたん?」
労う言葉が素直にうれしかったので、アントーニョは笑顔になった。
『会議があって、駆り出されてた。お前は?』
ロヴィーノの会議場での姿をこっそりと思い出す。今日は真面目に話を聞いていたのだろうか。
「今日は農作業しとったで。トマトの手入れしとった」
『そうか……そろそろ収穫時期か?』
「そうなん! ロヴィーノも食べる? 持ってくで〜、ロヴィーノ、トマト好きやろ?」
『好きだ。トマトを見ると、お前を思い出す』
「そうやったん?」
『だから、好きなんだ。お前が好きだから』
ゴトッとまた重い音がした。受話器はふたたび床に落下している。やっぱり落としたままにはできないので拾い上げて、恐る恐る耳に当てた。声は変わらない。
『じゃあな。トマト、楽しみにしてる』
通話が切れても、トマトを持っていくべきか、さすがにアントーニョも悩んでしまった。
メリエンダにチュロスを食べた。甘いショコラータにチュロスを浸して食べるのがやはり一番だ。今日はもう大丈夫だろう、とのんびりアントーニョは思う。メリエンダはとっくに済んだし、もう外は暗い。何事もなく終わりそうでよかったと思う。伸びをしてからソファにダイブした。点いているテレビの番組が切り替わり、そろそろ夕食かという午後8時に、また電話が鳴った。
「Digame、どちらさんですか?」
『Buenas noches、アントーニョ』
「ロヴィーノ! どないしたん? そろそろ夕食やと思っててん」
『そうか。遅いんだな。俺はもう済ませた』
「なに食べたん? パスタ?」
パスタ好きのロヴィーノのことだから、また同じメニューだろうと思って聞けば、意外な返答だった。
『今日は、パエジャを作った』
「ロヴィーノ、パエジャ好きやってん?」
パエジャ鍋はロヴィーノの家にはない気がする。その気になれば別に、フライパンでもホットプレートでもできるだろうが。
『お前が作ってくれたものだから』
「う、うん……?」
『作ってくれたものはすべて好きだ……お前を愛してるから』
思わずアントーニョは笑顔で受話器を床に叩きつけた。同じ流れが四回もつづいてはさすがに阿保すぎる。耳の奥に「お馬鹿さん」と友人の声が聞こえてきた。どういうこっちゃと思っても受話器の向こうの声に変化なし。しかし壊したら困るのでまた拾って、ふたたび耳に押し当てる。
『じゃあな、アントーニョ。今日はリゾットなんてどうだ?』
ぷつんと電話が切れる。また脱力した。
(さすがに今日は、気を抜かへんかったで!)
一日中気を張っているのはさすがに疲れてしまったのだが、やむを得ない。しかし、頼まれていた内職が捗らなくて困ってしまった。明日には遅れを取り戻したい次第である。今日を乗り切れば勝てるのだ。たぶん、問題ない。最近菊が「大丈夫ですよ、問題ありません」と言っているのを聞くが、そういうことである。
さすがにずっと内職では肩が凝ってしまう。アントーニョは伸びをして時計を見た。もう、時刻は12時。そんな夜遅くに、電話が鳴る。
「もうそろそろ親分はお休みするで〜」
『Perdon、遅い時間に悪いな、アントーニョ』
「ロヴィーノ? ロヴィーノなら構へんで。けどな、親分、今日は疲れとるんやで」
『内職か?』
「せや。ちょい頑張らんとアカンねん……」
『そう、か』
電話の向こうの声は急に黙ってしまった。アントーニョは眠気が少しずつ意識を奪っていくので、それを一生懸命に堪える。
『俺が』
「ん……?」
『俺が、お前を助けてやれたらいいのに』
「ロヴィーノ? 別にそんなん……」
いつものことやし、と言おうとしたが遮られた。
『お前が好きなんだから、好きなヤツを助けたいって思うのは当然だろ』
「……。やった、もう受話器落とさへんで!」
『よかったな』
電話の向こうの声は実に冷静だった。
「よくあらへん。なんやの、こないだっから……」
『五回もよくくりかえしたな。さすが親分』
「えっ、そんなん、褒めてもなんもでぇへんで〜」
『分かった。もう、電話はしない』
「ホンマ! 物分りのえぇ子は親分、好きやで」
『じゃあな。ゆっくり休んで、いい夢見ろよ』
「ん。ロヴィーノもな」
これで明日からは電話に怯えなくて済むのだ。アントーニョは安堵して受話器を下ろした。
しかしそれは間違いだったのだ。
目覚まし時計が鳴ってもすぐに起きられるわけではない。アントーニョは普段7時にセットしておくが、起きるまで「後数分」をくりかえして、いつのまにか8時になっている。稀なことではない。しかし今朝は違った。目覚ましが鳴った直後の静寂を破るかのようにチャイムの音が鳴り響いたのだ。
「うう、まだ朝早いやんか……起こさんといてぇな」
ぶつぶつと言いながら、しかしチャイムは無視できないので玄関へ向かう。
「どちらさんや――」
「まだ寝起きか、アントーニョ」
「んん……ロヴィーノ? どないしてん……まだ親分は、眠いんやで」
「ねぼすけに目が覚める特効薬をくれてやる」
そう言うと、ロヴィーノはアントーニョの右手を取ると、その甲に唇を寄せる。
「おはようのキス。目が覚めたか?」
アントーニョは硬直した。
「覚めただろ?」
「……さめました」
思わず敬語になってしまう始末である。目が覚めたのはたしかだった。見ればロヴィーノはきちんとした身形だ。ブルーのカラーシャツにジーンズが相変わらずよく似合っている。ここ暫く電話でばかりで顔を見たのは久しぶりだが、いつ見てもカッコイイことは変わらない。それに対してこちらは寝るときに着ていたティーシャツにラフなパンツである。この落差は酷い。
「無防備なのも悪くはないけど、俺以外にはあんまり見せるなよ……不安になる」
「不安?」
「可愛い姿見られたら不安だろ」
「なななっ」
愛してる、と耳元で囁かれた。
「今日も一日頑張れよ。じゃあな」
ようやく働き始めた頭で考えると、そういえばこの時間にどうやってロヴィーノはマドリードまで来たのだろうか、疑問が残る。しかもすぐに取って返すとは。アントーニョは暫くぼんやりと玄関に佇んでいたが、せっかく早く起きられたのだから、朝食を済ませて動き始めた方がいいと思い直す。
ふと右手が視界に入った。
『おはようのキス』
(い、イタリア男は皆、あぁなん!?)
思い出して顔が赤くなる。今度フェリシアーノに聞いてみようと思った。
いつもより早く目が覚めた。昨日のことがあった所為だろう。アントーニョは早く動き始められたことを幸運とは思えず、しかし勤勉な性質から結局朝食をさっさと済ませて家事を熟す。それが終わると新聞を見ながら休憩。昨日は大きな事件もなかったようでなによりだと思いながらソファに寝転がっていた。暖かい陽気に、眠気に誘われる。
(今日は起きるん早かったし……)
言い訳にならないようなことをつらつらと思った。ちらりと時計を見る。11時。1時間くらいなら眠っても許されるような気がした。
「ほな、おやすみ――」
そこでタイミング悪く、チャイムが鳴った。アントーニョは目を擦りながら起き上がる。
「うぅ……どちらさん……」
よろよろと玄関に向かい、扉を開ける。
「また眠そうだな、アントーニョ」
「ロヴィーノやんか。あんなぁ、親分は早く起きた分、眠いんやで」
「早く起きた? どうして?」
ぐいっと手首を掴まれた。ハッとしてロヴィーノを見れば、その瞳はやわらかく細められている。微睡みの中にいるような、穏やかなオリーブの色がこちら見つめている。
「どうしてだ?」
「め、目覚ましを早くセットしすぎただけや! ほら、ロヴィーノもこんなとこで油売っとらんと、戻って――」
「油なんて売ってない」
掴む力が強くなる。
「お前に会うことは無駄じゃない。その為に来てるんだ。お前が好きだから、会いたいと思って来てる」
目を逸らすと手が離された。
「寝てもいいけど、寝過ぎるなよな。難なら、目覚めの電話でもしてやろうか?」
「目ぇ、覚めたから平気や……」
「そっか。じゃあな」
さようならのキスはなかった。
眠気が訪れるたびに思い出して目が覚める。
「……なんや、捗った気ぃはするけどな」
単調な内職作業は眠気に抗いがたくなる最たる仕事だろう。しかし今日のアントーニョは、眠気が訪れるたびに昨日と一昨日の出来事を思い出すので眠れなかった。それが功を奏している。助けたい、というロヴィーノの言葉ではないが、正直助かっていた。かと言って、これが持続して欲しいとはまったく思えないので注意が必要だ。いずれにしてもキビキビ働いたので、甘い物が恋しくなってきた。時刻は午後3時。一般的なおやつの時間だし、昼食を摂って間もないが、チュロスが食べたくなってくる。と、チャイムが鳴った。
「はいはーい、どちらさん?」
扉を開けると、暑い中クールな顔のロヴィーノが立っていた。
「お疲れ。疲れているときは、甘い物だろ?」
そう言って、紙袋を差し出した。仄かに温かい。
「本当は作って持ってきてやりたかったんだけどな……さすがに冷めるだろ」
「えーと、これは」
「チュロス。ショコラータもセットになってた。そろそろ疲れてる時間だろうと思って」
「おぉ、ロヴィーノエスパーみたいやな。ちょうどチュロス食べたかってん」
紙袋を受け取って中を開けると、ショコラータの甘い香りが鼻をついた。チュロスもまだ熱をもっている。
「エスパーじゃない。お前のことだから分かるんだ」
「ろ、ロヴィーノ。二本あるけど、ロヴィーノも――」
「好きだから。なんでも分かりたいと思ってた。今なら、お前のことは分かる」
「揚げたてチュロス、美味しいで〜!」
ショコラータもつけずにロヴィーノの口に突っ込んだ。
「美味しい、やろ」
噛み切ったチュロスを口から離すと、ロヴィーノは小さく頷いた。
「美味しい。でも、お前が作ったのの方が美味い」
仕返しだ、と言ってロヴィーノはチュロスをアントーニョの口に突っ込んだ。ショコラータがついていないチュロスは、甘くない。
「間接キス」
人差し指を突き出した。
「っ、ロヴィーノ」
「じゃあな」
紙袋の中は、まだ熱い。
アントーニョは寝るとリセットされる。かつてフランシスにそう言われたことがあった。怒りは一日しか持続しない。なにか言ってもすぐに忘れる。鳥頭も鳥頭。その上、鈍感天然ボケ。
(いくらそう言われたかて……)
さすがにそろそろは記憶に残るようになってきた。そんなわけで、夕食も近い午後の7時、鳴らされたチャイムにどきりとしたのである。しかし来客は特定の一人と限らない。それに、もう一週間以上あぁなのである。さすがにそろそろ諦めたのではないだろうか。またそんな、希望的観測を胸にドアを開く。
「夕食、まだなんだろ?」
果たして予想通りの人物がそこに立っていた。アントーニョを真っ直ぐに見る視線に耐えられず、また逸らす。問いには答えないといけないと思って小さく頷いた。
「パスタでいいか? 上がるぞ」
「ちょ、ちょい待ち。あんなぁ、ロヴィーノ……」
「パスタは嫌か? 来る前に漁港に寄ってきたから新鮮な魚介を仕入れてきたんだ。ペスカトーレでも作ろうかと思って」
「せ、せやけど……」
「鮮度が落ちたらもったいない」
俯くと溜息が聞こえた。
「嫌なら、無理強いはしない。せっかく買ってきたから、適当に料理してくれ」
渡されたビニール袋を受け取って、こくりとアントーニョは頷いた。
「愛してる」
顔が上げられなかった。
「じゃあな」
足音が去っていく。手元のビニール袋を見て、アントーニョはハッとした。
「……これ、ありがとぉな」
慌てて礼を言うと、振り返ったロヴィーノは優しく笑った。とても、うれしそうに。
早く眠ろうと思ったのに、眠れなかった。眠ってしまえば、寝ていて気付かなかった、で済ませようと思ったのだ。けれど。カチカチと時計の音が煩く脳に響く。いつもは決して聞こえたりはしないそれをどうにかしようと、枕元の目覚ましを取り上げた。短い針が、11を示す。
(あ、アカン)
チャイムが鳴り響いた。
無視してもよかったのかもしれない。こんな時間だ。良識的な客人ならば、誰も出なくてもきっと出直して明日にまた来てくれる。けれど、良識的な客人ではなかったら?
(ずっと、ドアん前で待っとったら?)
意識はアントーニョを苛む。待ちぼうけを食らわせて、いつまでそこにいさせるのだろうか。
(でも、違うかもしれへんし)
(……違うなら、出ても問題あらへんやん)
時計の秒針よりも遥かに強く、アントーニョの脳内にチャイムの音が響いている。ぐるぐると。
「っもう、悩むんは性に合わへんねん!」
なにに逆上しているのか不明だが、アントーニョは走って玄関の扉を開けた。
「……よかった、出てくれたんだな」
そこに安堵したロヴィーノの姿を見つけて、胸が締め付けられた。
「こんな時間に来るんは、非常識や……」
「悪い。もう、寝てたのか?」
部屋は照明が落ちて暗い。ロヴィーノが気遣わしげに言うので、アントーニョは慌てて首を横に振った。
「ち、ちゃうねん。えっとな、早く寝るんが健康的やって言うからなぁ。んでも、こないに早くは眠れへんかって」
明るい調子で言うと、ロヴィーノはじっとこちらを見つめた。
「ロヴィーノ、帰り、どうするん?」
無言だった。考えていないのか、元々、帰る気などなかったのか、いずれかだろう。
「もし俺が出ぇへんかったら、ずっと待っとるつもりやったん?」
「そのつもりだった」
「帰る気、あらへんかったんやな」
きっと、最初からアントーニョがドアを開けることなんて期待していなかった。鳴らすだけ鳴らして、そのまま座っているかして待っているつもりだったのだろう。明日の朝、何気なくドアを開けるアントーニョのことを。
素直にアントーニョの言葉に頷くので心配になった。
「入ってもえぇで。寝るとこ、ソファしかあらへんけど、そんでえぇ?」
「いいのか?」
「ん。子分のこと、放っとけへんからな」
彼がどんな目で見つめたとしても、少なくともロヴィーノはロヴィーノでアントーニョにとっては可愛い子分なのだ。だから、こんな時間にこんなところで追い返すわけにはいかない。
「俺がお前を親分じゃなくて、好きだと思ってても、そう言ってくれるのか?」
「なんにしても、子分は子分やん。ともかく、入りぃ。ショコラータでも飲む?」
「……ごめん」
ロヴィーノの謝罪の言葉がどういう意味なのか、あまり考えたくないので黙殺して招き入れた。
「アントーニョ、起きろ。もう朝だぞ」
「……はやっ!」
忘れていたが、ロヴィーノは早起きである。昨夜泊めたはいいが、すっかりそのことを忘れていたアントーニョは、カーテンから降る眩しい太陽の光で強制的に目覚めさせられた。
「本当、昔から寝穢いよな……朝飯、できてるから食うぞ」
「もうできとるん?」
寝ぼけ眼でロヴィーノを見ると、すでにしゃっきりしていた。昨日はしょげていたようにも見えたが、今見る限りではそのような様子は見られないので安心する。
「暇だったから」
「まだ6時やで……?」
この時間から暇だなどと言われては敵わない。早起きだなと一瞬思った。
(早起き?)
「もしかして、あんまり眠れへんかったん……?」
硬いソファでは眠りに支障が出たのかもしれないと思って慌てると、ロヴィーノは穏やかに目を細めた。
「そういうわけじゃねぇよ。ただ、早く目が覚めて……人ん家じゃすることもねぇし」
「あ、そうなん。ほんならえぇけど……朝はパスタ?」
「安心しろよ。ちゃんとトルティーヤ作っといたから」
「ホンマ? ロヴィーノの手料理や!」
「うれしい、か?」
「ん? もちろんやで」
食事に釣られてベッドから起き上がると、ロヴィーノの方がうれしそうにこちらを見ていた。
「おはようのキスはいらないのか?」
手を引かれて、一瞬どきっとした。慌てて手を振り解く。
「間に合っとるからいらへんで!」
「残念だな」
くつくつと笑うとロヴィーノは背を向けた。
「愛してる、親分」
その言葉を聞きながら、リビングに向かう。
ロヴィーノはそのまま泊まると言い出した。イタリアに戻らなくてよいのかと尋ねたが、平気だと言われてしまった。
「置いてくれないなら、外にいる」
「それ脅迫やで……」
なんとでも言え、と開き直られてしまったので、仕方なくロヴィーノを暫くの間、家に置くことにした。昨日は警戒したが、ロヴィーノも四六時中見境なく好きだと言ってくるわけでもなかったので安心する。ちなみに内職を手伝ってくれたが、持ち前の不器用さを存分に発揮してくださったので、今日は丁重にお断りした。
フェリシアーノに後で電話したところ、暫くは急務はないとのことである。
『兄ちゃん、最近様子が変だったから、アントーニョ兄ちゃん見ていてあげてくれたらうれしいなぁ』
それどころか、そのような発言を受けてしまったのである。様子が変、とはアントーニョこそ思っていたが、身内にもやはり知られていたらしい。フェリシアーノの口調から察するに、様子がおかしいその対象がアントーニョであることまでは気づかれていないようだ。これを幸いに思い、どうせならば調子が悪いのを治そうとアントーニョは考えた。なにか変な物を食べたのか患ったのかは分からない。ともかく傍に置いて様子を見ようと思ったのだ。
「ほんで、今日は親分、午後から会議やからな。いい子でうちにおるんやで」
「ん。別になんもしねぇから……つか、やっぱり5食は多くないか?」
「アルムエルソは食べへん?」
只今の時刻、10時はスペインでは軽食の時間なのでサンドイッチを作ったのだが、気に召さなかっただろうか。アントーニョが首を傾げると、「そういうわけじゃねぇけど」とロヴィーノは複雑な顔をした。
「いらへんなら別に、俺が食うからえぇで?」
「いや、食べる。お前の作った物ならちゃんと……」
細い指がサンドイッチに伸びた。
「残さないのは、えぇことやな」
スペイン自慢のハモン・セラーノのサンドイッチは非常に美味しい。上機嫌でアントーニョが食べていると、急に目の前の席から指が伸びてきた。
「マヨネーズ、ついてるぞ」
指は唇の付近を拭うと、そちらに付着したマヨネーズを舌が舐めとる。
「行儀悪いって煩かったくせに、自分はこんなんでいいのかよ」
指を唇に当てたまま、流すような目線でこちらを見る。思わず頬が熱くなった。少しは鳴りを潜めていたかのように思った気障っぷりがまた復活している。
「お、や、ぶ、ん?」
「っ――ロヴィーノ……」
「ま、そこが可愛いけどな。愛してる、アントーニョ」
「〜っ、食事中は、静かにしぃ!」
「分かった」
まったく、と思う。昔から女の子が大好きで、見れば口説いてばかりいた。フェリシアーノもそうなので、あれがイタリア遺伝子なのだろうと思っていたのだ。まさか、本心で自分のことを好いているなんて考えられない。有り得ない!
(そんな馬鹿な話、あるわけないやろ)
アントーニョとて弁えている。どうしてこんな行動を取るのかは分からないが、なにか他に理由があるはずだ。そう思っても、これだけ甘い言葉を投げられて、優しくされて、絆されかけるのも無理はないだろう。
(ダメや……しっかりせんと、親分が)
(親分が)
うんうんと頷いた。
太陽が昇って暑いから、作業能率が落ちる。シエスタするのはそれが故だ。ついでに言えば、睡眠という人間の三大欲求は重要なものなので、それをきちんと確保する意味も込められているような気もする。
「んん……」
「アントーニョ、いつまでシエスタしてんだ? もう2時だぜ」
「まだ寝たばっかしぃ……やん……」
顔の傍で声が聞こえたが、眠気で瞼が開かない。昼食を一時間ほど前に済ませて、ようやくシエスタの時間だ。この所は眠りが浅かったこともあり、程良く眠気がアントーニョを包んでいる。
「可愛い寝顔」
「うぅぅ……そんなん言われても、眠いからだめ、やで」
うとうとしていたところを起こされたのでは堪ったものではない。アントーニョが目を閉じたまま顔を逆方向に向けても、気配は消えなかった。
「だったら、俺はここでお前を見てる」
「ロヴィーノも一緒にシエスタしたらえぇやんかぁ……」
「お前の傍で眠れるかよ。起きるのは4時か? その頃にまた、声かけてやるよ」
「ん……了解、やで……」
また微睡みに落ちて行くと、頬に冷えた指先が触れる感覚がした。
「愛してる」
囁く言葉が耳を通り抜ける。
「ちゃんと、聞いてるのか?」
「うん……」
小さく頷いた。
「ロヴィーノがチュロス作ってくれるなんて、夢みたいやなぁ」
「大袈裟だろ」
「やって、昔は絶対作ってくれへんかったやん」
わざわざ教えたのに、と思ってテーブルに頬杖をついた。それがロヴィーノだから仕方ないか、と思っていたが、できれば家にいる内に食事当番を代わってもらいたかったアントーニョである。メリエンダの時間でもある午後6時、チュロスが食べたいとこっそり呟いたアントーニョに「俺が作ってやる」とロヴィーノが言ってくれたのだ。もちろん、お言葉に甘えることにした。
「んだからなぁ、トルティーヤでもパスタでもうれしいで。もちろん、チュロスもやな」
「よかった」
ロヴィーノはキッチンから白いカップを持ってきた。珈琲の苦味を感じる香りが漂っている。できあがるまで飲んで待っていろ、という趣旨らしい。
最近のロヴィーノは、食事を作ってくれる。毎食というわけではないが、朝は高確率で作ってくれるし、夕食もパスタを作ってくれることがあった。昨日はペスカトーレだ。パスタが多いのは、ご愛嬌ということだろう。たまにはピッツァも食べたい。
「ちゃんと、お前のレシピ覚えてる」
「ホンマにぃ? あれ、結構昔のことやで?」
「忘れたりするかよ。俺は、お前のくれたものをちゃんと残してる」
「……ロヴィーノ」
「信じられないなら、お前の舌で確認するんだな。まぁ、昔よりは美味く作れてると思うけど」
「ん……なら、ロヴィーノ言うこと、信じる」
嘘だと突っ撥ねるのも無意味だと悟った。渡されたブラックコーヒーは苦い。
「よく、覚えとるんやね」
「愛してる。だから、当然だろ」
当然かどうかはアントーニョには分からなかった。記憶なんて、留めようとすれば留められるというものではない。まして一緒にチュロスを作った当時のロヴィーノは本当に幼かったのだし。あの頃から記憶しようと思ったのならばそれも不可能ではないかもしれないが、そうするとあの頃からロヴィーノは――
(記憶力えぇんやね)
アントーニョは強引にそう結論づけた。
明日、帰る。ロヴィーノは突然そう言った。
「いつまでもスペインばっかりいると、馬鹿弟に文句言われるからな」
「フェリちゃんは平気やって言うてたけど」
「アイツ一人にイタリアを任せておけないんだよ」
「ロヴィーノ、ちゃんと働いとるんやね」
感慨深く言うと、当たり前だと言葉が返される。
「ほんなら、今日は親分特製パスタ作ったのに。はよ言うてや、そういうんは」
もう時計の針は午後10時を示している。明日帰るというのならば、もう少し早い段階で告知して欲しいものだ。ロヴィーノは唐突に過ぎる。
「別にいいんだよ。どうせまた来るから」
「あ、そういう前提なん……もしかして帰るのって明日一日だけやったりして」
ロヴィーノは是とも非とも言わなかった。
「えっ、冗談やろ?」
「未定」
「ちょ、勘弁したって〜親分とこも家計が苦しいんやで」
「そうか。だったら、俺がいた分くらいは払う」
「むむ、子分からお金受け取るのはノーサンキューやで」
「はぁ!? どっちなんだよ……」
その辺は親分としての矜持である。お金はないが、子分からお金を請求するのはいただけない。
「体よく追い出したいだけみたいに聞こえんぞ、このやろー」
「そういうわけやないけど」
そう聞こえるのも無理はない。けれど、追い出したいわけではないのだ。たまに謎のスイッチが入る以外はロヴィーノは普通に過ごしているし、ご飯も作ってくれる。一人で暮らしていた身としては、話し相手の存在は単純にうれしい。けれど、親分にもプライドがあるのだ。察して欲しい。
「冗談だ。本当に入り浸ってるわけにもいかねぇし」
しょげるとロヴィーノに頭を撫でられた。これではますます、どちらが親分だか分からない。
(ダメやなぁ)
「メゲなくても、お前はちゃんと親分だぜ?」
「ホンマに?」
パッと顔を上げると、悪戯っぽい瞳と目が合った。あ、と思う。
「ちゃんとそう思ってる――でも、好きなんだ」
目が合った瞬間に、言われることがなんとなく予測できていた。
「愛してる」
オリーブの瞳がじっとこちらを見つめている。
「今日は早く寝て、明日早く起きて帰るか……」
「いっつも早いのに、もっと早く起きるん?」
「明日は5時起き」
「うぇぇぇぇぇ……」
「起こさない方がいいか?」
「う、でもそんまま出てくんなら起こしてや……朝起きたら誰もおらんかったって、ちょっと嫌やし」
「了解」
果たして宣言通り、朝の5時にアントーニョは起こされた。見送ったらまた寝ようと心に決めて起き上がる。
「眠そうな顔してる……別に、起きなくてもよかったんだけどな」
「また、遊びおいでぇな。遊びん来るんは歓迎、やで」
ロヴィーノは頷くと腕を伸ばした。そのまま身体がやわらかく抱き締められる。反発する気持ちはなかったが、ギョッとした。
(心臓の音が)
とくとくと鳴っている。鼓動の音が身体に響いた。甘い音色はなにもかも信じてしまいそうに鳴っている。麻酔のような、毒のような。その真っ只中で「愛してる」とロヴィーノは囁く。
「あんまり、寝てばっかいるなよ」
くすりと笑ってロヴィーノは離れた。煩くなっている鼓動が、自分の物でもあったことに離れて気がつく。それだったらきっと、ロヴィーノにも伝わっているかもしれない。抱擁には慣れていないから心拍数が上昇したのだ、なんて嘘はバレバレだから言えそうにもない。
鼓動の示す音が真実なら。少しだけそんなことを考えて首を振った。真実なんて大仰な言葉で括られるものなど、ここにはない。
「じゃあな。朝飯作っといたから、食えよ?」
「あっ……、ロヴィーノ」
背を向けられた瞬間に、すうっと心に冷たく風が吹いた。
「また来る」
けれどロヴィーノはそのまま出ていってしまった。
(ロヴィーノがハグしてくれたんは初めてやしなぁ)
回された腕はとても温かった。
電話が鳴った。洗濯物を干し終えて、時計を見たらちょうど9時。きっかりにベルが鳴り響く。
「もしもし、アントーニョですけど――」
『アントーニョか。用事があったから電話した』
「……電話するんやから、用事あるんは当然やろ?」
『物覚え本当に悪いな。ある意味ではポジティブっつぅか……」
いきなりそんなことを言われても首を傾げるばかりのアントーニョである。ポジティブはとりあえず褒め言葉らしいと受け取った。
「ほんで、用事ってなんやの?」
『二週間後の欧州会議。開催場所はマドリードだろ? その打ち合わせしとけって言われた』
「そんことやね……ちょい待ち、上司からもろた資料持ってくるわ」
受話器を肩で挟んで、部屋まで戻った。近日中に使う資料は机の上にまとめて出してある。
「お待たせ」
『探すの早いな。お前、掃除得意だったか……』
「ん、まぁな。ロヴィーノの所為やで」
『俺の?』
「ロヴィーノがすぅぐ部屋汚してまうからな、親分の片付けスキル上がったんやで」
ピロリロリーンと菊やアルフレッドがよくやるというゲームの効果音が脳内で響いた。
『そうか……俺が』
8bit的なアントーニョの脳内とは裏腹に、ロヴィーノの声が喜色めいていたので首を傾げる。今のは特に褒めたつもりはなかったのだが。
『今度、部屋を片付けるの手伝ってくれよ』
「えぇで、お安い御用や。いつがえぇの?」
『いつでもいいけど、空いてるなら明日――ついでに、その時に欧州会議の話もするか。直に資料見た方が話しやすそうだし』
手元の資料には文字がびっしりと打ち出してある。たしかにこれをいちいち説明するのは面倒だ。
「おぉ、構へんよ。ほんなら明日……何時がえぇ?」
『1時。っつっても遅れそうだな……12時にしとくか』
「お昼でも食べながら話すん? フェリちゃんはおる?」
『馬鹿弟なら、明日はドイツに行くとか言ってたぜ。昼飯は用意しとく』
「了解やで!」
アントーニョはカレンダーに丸をつけた。昨日今日で忘れることもないが、一応念の為に、だ。考え事をし出すと忘れてしまうことがある。げに恐ろしきはひたすら一直線なスペイン人の性である。
「ほんなら、明日。またなぁ」
『あ、待て、アントーニョ』
「ん?」
『愛してる』
「え、と……あぁ、うん」
『明日、待ってる。じゃあな』
(……デート前の会話みたいやな)
部屋の片付けと仕事の打ち合わせでは、色気のあるような内容とは思えないのだが。
「ごめんなぁ、ロヴィーノ! 急いだんやけど、なんや電車が遅なって――」
「想定通りだから別にいい。本当に1時間遅れてくるとは思わなかったけどな」
ロヴィーノは腕時計を指し示した。言う通り、午後の1時を指している。
「昼飯は作ったばっかだから安心していいぜ」
「そらよかったわぁ。パスタ? それともパスタ?」
「それともになってねぇし……パスタだよ悪かったな」
「悪くあらへんで? なんのパスタやの? 親分たまにはピッツァも食べたいなぁなんて思わんでもないけどな!」
なんの気なしにそう言うと、ロヴィーノの動きがぴたりと止まった。
「ピッツァ、食いたいのか?」
「最近食べてへんから」
「だったら、今すぐ作るから座って待ってろ」
椅子にかけてあった黒いギャルソン風のエプロンを手に取ると、腰に結んだ。
「え? 別にえぇで、そんなん……」
「いいから。黙って座ってろ」
「ロヴィーノ」
「俺の作ったピッツァが食べたいんだろ」
こくんと頷くと、ロヴィーノはぱっと顔を明るくさせた。思わずどきりとしてしまう。
(な、なにがそんなにうれしいんやろ……)
「すぐにできる、とは言わねぇけど、今日は時間あるんだろ?」
「あ、ほんなら……できるまで片付けしてよか?」
ピッツァがそんなに短時間でできあがるとは思えない。どうせ元々掃除しにきたのだから、別れて作業をする方が効率的だろう。だいたい、ロヴィーノが片付けに加わるとろくな事にならないという経験則もあるのだ。
「そう、だな。頼んでもいいか?」
「了解やで!」
立ち上がってロヴィーノの部屋の方に向かうと、背に言葉が投げられた。
「愛してる」
作ってあるというパスタはどうなるのか、その顛末が気にかかった。
玄関のチャイムが鳴ったのはシエスタから目が覚めた頃だった。慌てて時計を見ると、すでに午後5時。うっかり寝すぎてしまったと思いながら玄関に向かう。
「アントーニョ、昨日、結局会議について話すの忘れただろ」
「……あ」
昨日はアントーニョが掃除している内にできあがったピッツァを食べて、満足して帰ってしまった。そもそもなにをしにいったのか、ということは忘れやすいアントーニョである。しかしロヴィーノも忘れていたのでお相子だろう。
「午前中は用事があったから来るのが遅くなったけどな――今から平気か?」
「ん、大丈夫やで。ほな入りぃ」
用事というのは仕事かなにかだろうか。ロヴィーノはグレーのスーツをきっちりと着こなしていた。リビングに入るとジャケットを椅子にかけて、ネクタイを緩める。なかなか、様になっていた。
「暑ない? アイスコーヒーでも作ろか?」
「あぁ、悪い……」
暑いとは言っているが、その表情は涼しげだった。濃い目にコーヒーを出して、氷の入ったグラスに注ぐ。甘い方がといつもロヴィーノは言うので、先に砂糖は溶かしておいた。アントーニョはブラック派なので、分けて作ってある。ついでになにか甘い物でも、と戸棚を探ってみると、先日戴いたクッキーがあった。ついでに皿に出しておく。
「ほい、親分特製アイスコーヒーやで」
大きめのグラスを渡すと、本当に暑かったらしく、ロヴィーノは一気にごくごくと飲み干してしまった。
「もう一杯飲む?」
「頼む」
グラスを受け取ってキッチンに舞い戻ると、クッキーを齧る音が後ろから聞こえた。
「美味いクッキーだな。どこのだ?」
「ご近所さんのお店。ほら、右ん曲がって、ほんで角っこにあるやろ」
「あぁ……見た目は地味だったよな」
「そないなこと言うたらアカン。ほい、アイスコーヒーもう一丁やで」
グルメなロヴィーノに美味しいと言わせるとは、なかなかのものである。アントーニョも一つ摘んだが、塩味の効いたさっぱりしたクッキーは何度食べても美味しい。甘いロヴィーノのコーヒーには、さらによく合っているのかもしれないと思った。
「お前のコーヒー、いつも甘くできてるよな」
「そら、ロヴィーノが甘いの好きやって言うからやろ」
「あぁ……お前は、俺のこと分かってくれてる。俺よりずっと――」
「ロヴィーノより?」
「俺よりも。俺がお前のことを分かってる以上にも」
指摘されて数秒考える。思考過程に思わずポンッと顔が赤くなった。アントーニョの記憶がたしかならば、アントーニョが好きだからなんでも分かっているのだという趣旨の発言をロヴィーノはしている。それよりも分かっていると言われたら、まるで自分の方がロヴィーノのことを好きみたいだ。
(そら、ロヴィーノんことは大好きやけど)
それ以上に、子分であるロヴィーノのことをきちんと見ていたから。大事だと思ってきたからだ。
「大切にしてきてくれたんだって、ちゃんと分かってる。だから――」
「あい、してる?」
「先に言うなよ」
ロヴィーノは笑った。
「愛してる、親分」
言われるたびに早鐘のように鳴っていた鼓動が、収まってきている。
(ダメやのに)
(慣れてもダメやのに)
「また、泊まるん?」
「……わざとじゃねぇぞ。ただ、ちょっと家の改修工事するっつぅから」
「どっか悪かったん?」
「水道管が破裂した」
「なんやのそれ!」
「仕方ねぇから、馬鹿弟はドイツに行った」
「そんで、ロヴィーノはスペインに来たっちゅうわけかい」
「遅い時間で悪ぃけど」
チャイムが鳴った時には午後9時を確認した。たしかに、来訪する時間としては遅いだろう。
「事情が事情やからしゃあないやろ。えぇで、泊めたるさかい」
ロヴィーノは本当に済まなさそうにしていた。アントーニョは深く考えずに彼を招き入れる。夕食はすでに済ませてきたとのことだったので、とりあえず風呂でも入って疲れをとるといいと勧めた。
「服とか、持ってきとる? つか、いつごろ直りそうなん?」
「分かんねぇ……服?」
「持ってきてへんねんな。ま、えぇわ。親分のでも平気やろ。ちょい見繕ってくるさかい、待っとってな」
サイズ的にはやや小柄な感はあるが、それほど外れてもいないだろう。問題は服装のセンスである。イタリアのお洒落な洋服と比較すると、機能性重視なのでデザイン面では劣ってしまう可能性が大だった。ロヴィーノは顔がいいのでどんな服でも着られるだろうとは思うのだが。目下のところは寝るときに着る服を用意して、気に入るものがなければ、明日にでも買いに行ってもらう他ない。結局ティーシャツ(黙れと書いてあるものはさすがに避けて、トマトと書いてあるものにした)と黒の綿パンツを出しておくことにした。
「これでえぇ? 明日んなったら、なんか服買いに行こか」
頷いて受け取ったロヴィーノは、まじまじと服を見た。
「お前が着てるヤツ、だよな」
「せやで? トマト好きやし」
ちなみに表はトマトと文字がプリントされているが、裏返すと端の方にトマトに顔がついたキャラクターがプリントされている。
「気に入らんかった?」
ロヴィーノはふるふると首を横に振った。
「違う。ただ……」
「ただ?」
「興奮する」
ここに来てロヴィーノの言動がついに進化した。ピロリロリン、とレトロな効果音がまたアントーニョの頭に鳴り響く。仰天しすぎて口が聞けないアントーニョにロヴィーノは顔を至近距離まで近づけた。
「まぁ、お前が好きだから。好きな相手の服だから」
「うっ……」
「明日もお前のを借りる。別に、新しい服はいらないから安心しろ」
上機嫌で風呂場に消えていくロヴィーノを呆然と見送る。それを安心と評するべきなのか、アントーニョにはよく分からなかった。
浅い眠りのままにうとうとしていると、リビングの方で物音が聞こえた。ソファで寝ているロヴィーノだろうかと思ってアントーニョは起き上がる。目を擦って時計を見ると、草木も眠る午前2時だった。カーテンの隙間からは月明かりが差し込んでいる。
「ロヴィーノ? こんな時間にどないしたん?」
なんとなく部屋から出てリビングに向かうと、ロヴィーノは驚いたようにアントーニョの方に振り返った。
「お月さんでも見とったん?」
窓の方を向いていたので適当に言うと、ロヴィーノは頷いた。
「綺麗だろ。満月かと思って」
「どうやろ……たしかにまんまるくて綺麗やな」
丸い月は煌々と輝いていた。まるで自らが発光しているかのように美しい。あれが太陽に照らし出された光だなどと、昔のアントーニョは信じられなかった。たとえば、地球が回っているのだということもそうだ。コペルニクス的転回を何度も経験している。生命の長さは不思議に思うことの積み重ねのようだった。
「教皇は太陽、皇帝は月――なんて言われた頃もあったらしいな」
「なんや懐かしなぁ。まだ俺も小さかったし」
それはローマ帝国があった時代の話だ。まだイスパニアでしかなかったような時代。
「俺も、月みたいだと思ったことがある」
「ロヴィーノが? なんで?」
「太陽がないと」
急に肩を引かれて、目が合わせられた。
「呼吸ができない」
その時、太陽とは昔繁栄した頃のスペインを指す呼称であり、自らもそのように名乗っていたのだというようなことは咄嗟に浮かばなかった。前にも太陽の国、とロヴィーノには呼ばれていたにも関わらず。
けれど。
(フランシスはいっつも俺のこと、鈍感やって言うけどな)
この場合、アントーニョが彼の言うところの太陽であるのだということは、はっきりと分かった。
愛してる、と言葉が耳元に囁かれる。
明け方、あまりよく寝付けないでいたら物音で目が覚めた。
「ロヴィーノ? もう、起きとるん?」
リビングに顔を出すと、ロヴィーノはすでに着替え終えていた。昨日洗って乾かした自分の服を着ている。かけてある時計に目をやれば、まだ時刻は朝の4時だった。いくら早起きとは言っても、さすがに早過ぎる。
「悪い、起こしたか」
「まぁ、えぇねんけど……また寝るし。どないしたん?」
「朝から会議があることを思い出したんだよ……すっぽかすわけにもいかねぇし、今からちょっとイタリアに戻る」
「ふぅん……朝からご苦労さんやね」
また帰ってくるのかどうかは聞かないでおいた。なにも言わないということは、まだここにいるつもりなのだろう。
「いってらっしゃい……気ぃつけてな」
欠伸を噛み殺しながら言うと、ロヴィーノは急にこちらに寄ってきた。何事かと思ってきょとんとしていると、指先が半分閉じているような瞼に触れる。
「いってくる」
ほぅっと溜息のような息を吐いて、ロヴィーノは指を離した。
「俺がいない間に、どこか行くなよ?」
「どこ行くねん。ここは俺ん家やで」
「そうだな」
物分りよく頷くと、ロヴィーノは「愛してる」といつものように言って背を向けた。
ロヴィーノの帰りは日を跨ぐような時間だった。起きて待っていたアントーニョが「おかえり」と言うと、やたらとうれしそうにロヴィーノはアントーニョの身体に腕を回した。相変わらず立場が逆転したような状況である。昔は「ただいまロヴィーノ!」なんて言ってアントーニョが抱き着いて、それを鬱陶しがるのが子分たるロヴィーノの役目みたいなものだった。アントーニョは抱き寄せる腕を疎んだりはしないけれど。
「眠いのに、わざわざ起きて待っててくれたんだな」
「眠いのにってなんやの……親分寝てばっかみたいやん」
「この時間は、普段もう寝てるだろ」
指摘された通りだったので黙った。
終局的に言えば、アントーニョはロヴィーノに敵わないのだ。待っていたらきっと喜ぶだろうと見越して、眠気もアントーニョをどこかに連れ去ったりしなかった。湯もふたたび沸かしてある。もしかしたらなにか食べるだろうかなどと気にして、タパスを用意してもいた。それらのすべては、昔から変わらない子分への情愛だ。受け取られることが少なくても、気にすることなく注ぎ続けたもの。今のロヴィーノなら、すべてを引きとってくれるのだろうかと思った。
とくとくと、鼓動が揺れている。
とりあえず湯を浴びると良いとアントーニョが勧めると「着替え」と言われて、一昨日と同じ一式を手渡した。トマトティーシャツはよく似合っていたので、ロヴィーノにあげてしまおうかと考える。どうせ似たようなティーシャツはいくらでもあるのだ。黙れティーシャツに限らない。
ロヴィーノが出てくるのを待つ間、うとうとしていた。今日も内職しかしていないが、あの作業の精神摩耗ぶりは凄まじい。なにか魂的なものが持って行かれそうになる。ソファに座って、少しだけ目を閉じた。遠くで微かにシャワーの音が聞こえる。ロヴィーノはイタリアでなにをしてきたのだろうか。先に眠っていてもいいような気はしたが、待っていたい気分だった。
「アントーニョ? 寝ててもよかったんだぞ?」
気づくとロヴィーノは上がっていたらしく、アントーニョの傍らにいた。
「ん……ロヴィーノ、タパス作ってあるから、食べて――」
「あぁ、貰う。お前はもう、寝てろ」
「ロヴィ、そのシャツ似合っとるから、ロヴィーノにあげるで」
「いいのか?」
意識が微睡んでいる。
「ありがとう……もう1時だから、寝ていい」
「でも――」
「おやすみのキスが欲しいのか?」
首を横に振ると苦笑された。
けれど返答に構うことはないらしく、唇が頬に触れたのが分かった。
「愛してる、親分――おやすみ」
アントーニョの意識はそこで落ちてしまった。きちんと、ロヴィーノの言葉を聞いて。
月が欲しい、と以前にロヴィーノは言っていた。
「月には兎がいるって言うだろ」
兎、が。かつての自分がそこにはいるらしい。その言葉の意味が、今までは分からなかった。
(cry for the moon――もしかして、ダブルミーニングやったんやろか)
目を閉じたままアントーニョは考える。
静かな夜だった。月の灯りはカーテンを通しては差し込まず、淡い発光を少し感じる程度だ。
「午前3時だ、アントーニョ」
「……そうなん」
目を開けると、数時間前に眠ったはずのロヴィーノがベッドの端に腰掛けてこちらを見ていた。
「これが、最後の一手なんだ」
一手、と鸚鵡返しした。
「もう、疑ってないんだろ」
アントーニョは天井を見つめながら、こくりと頷いた。ロヴィーノは本気だという言葉を示したのだ。ただその為だけに、24日もかけた。
「100日やらないと分からないかと思った」
ロヴィーノはアントーニョの両手をベッドに縫いつけるように掴むと、顔を近づけてじっと見つめた。薄明かりでは貫くまなざししか瞳に映らない。もしかしたら笑っているのか、それとも、どんな表情なのか。
「愛してる」
25回目の愛の言葉が至近距離で紡がれた。
「月が欲しいってのは、手に入らないもんを欲しがる意味があった気がするんやけど」
「親分は、子分としてしか愛してくれてなかっただろ」
指が、額にかかる髪に触れた。
「どうしたら頷いてくれるかと思って、毒を仕込んだ」
「物騒やね」
「ゆっくりと身体を浸食するような、致酔性の毒。酔ってきただろ」
鼓動が鈍麻する。頭が働かない。
「ほら、もう、愛してるって言われないと――ダメになるんだ」
「ロヴィーノは卑怯や」
「俺も同じなんだよ。どこかの誰かが愛情ばっかり与えてくれたから、もう太陽がないと息もできない」
「俺の、所為?」
まばたきすると、微かに笑ったような気配がした。
「お陰でここまで育った。『親分』に感謝してるのは本当だ」
でも、と急にロヴィーノは耳元で囁いた。
「お前がそれで満足していても、俺は」
言葉を切って、ロヴィーノはまた正面から顔を見つめた。
――足りない。
唇に合わせて響いた微かな声と思い詰めたような瞳。足りない。不足している。欠落している。頭の中を奇妙に言葉が覆った。
「それでも、元通りがいいって言うなら――戻す。もう、毎日愛してるなんて言わない。二度とそんなこと、言わない」
「嫌やって言うたら? 毎日言ってくれへんと嫌やって、我儘なこと言うたら?」
わざとそんなことを言ってみた。
「酔った?」
「ん……きっと、酔ってもうたんやね」
「そっちの方がいい」
毒が身体に回っていく。
「愛してる、アントーニョ」
「うん、俺も」