珍しくロヴィーノがパスタを作ってくれるというので、ダイニングテーブルで待機していた。いつもはきっと親分の作ったパスタが好きなのだろう、作れと要求されてばかりだ。もちろん自分の作った物を喜んでくれるということはとてもうれしいのだが、アントーニョとしてもロヴィーノの作った物は美味しいから好きだし、手料理はうれしい。家事が苦手なロヴィーノだが、料理に関しては腕がよかった。チュロスも作れば美味しいのに、どうしてもアントーニョに披露してくれることがないのが寂しい。
アントーニョは暇なので、テーブルに顔を預けて目を閉じた。包丁が俎を叩く軽やかな音がする。小刻みのリズムは身体によく浸透して、眠気が誘発された。
「ロヴィーノ、どういう風の吹き回しなん?」
眠ってしまわないように口を開いた。
「親分は、ロヴィーノの作ってくれるもんは好きやから、うれしいで」
「……そうかよ」
返答は素っ気なかった。
まだ朝の早い時間に、電話で叩き起されたのだ。今日の予定も聞かずに、『今からローマ(うち)に来い』の一言だった。一瞬でも断ろうかなどと思わず、しかし眠かったので朝早い時間の電話は勘弁して欲しいとのことだけで申し入れてふたつ返事で頷いたアントーニョの方にも非があるのだ。旧友に言わせればそうである。しかし子分に呼ばれたら飛んでいくのが親分の定めだとアントーニョは常より思っていた。というよりも、単純にロヴィーノに弱いというだけかもしれない。すぐにとは言われなかったので、朝食代わりにチョコラータを飲んで、普段着よりは上等な服に着替えてここまで来た。ついたところで、「パスタ作るから食え」と言われたのだ。
「作っとかへんかったんは?」
「冷めたら不味くなるだろ」
「ホンマやねぇ。せっかくやったら、美味しいパスタ食べたいもんなぁ」
なににしても出来立が一番美味しいものだ。フライパンがじゅっと音を立てた。トマトの香りが漂ってくる。思わず頬を緩めて、アントーニョはテーブルを人差し指で叩いた。小気味良くリズムを刻む。香りを楽しんでいると、もう一つ濃厚なチーズの香りが漂ってきた。
(二つも作っとるん?)
面倒臭がりのロヴィーノにしては珍しい。鼻腔を擽る二つの香りは、見事な調和を見せていた。相性がよいことはピッツァでも知っているけれど、モッツァレラよりもねとりとした濃さがあるーー癖のある香りにも爽やかなトマトはよく似合うものらしい。食欲を唆る香りは、同時に睡眠欲まで刺激した。ふたたび緩やかに眠気が訪れてくる。
「寝てんじゃねぇぞ」
寝入り端に言われたので驚いた。アントーニョはビクッとして身体を起こす。台所から顔が出ているわけでもなく、ロヴィーノはこちらに視線を投げかけているわけではなかった。
「ね、寝てへんで」
「静かになると、よく寝てる」
「あーえっとなぁ、……次の、会議のこと考えとってな!」
「嘘つけ」
「ホンマやでぇ! 最近また景気もアカンようになったし……また俺が倒れたら困るっちゅうことやな」
腕を組んでもっともらしく頷くと、ロヴィーノは顔をこちらに向けた。じっと色素の薄い瞳がこちらを見つめている。
「ロヴィーノ、どないしたん?」
「別に。顔色は悪くねぇみたいだな」
「今すぐは倒れたりせぇへんよ」
くすっと笑うと、ロヴィーノは眉間に皺を寄せた。あれ、と思って首を傾げると、じゅうっと台所から焼けついたような音がする。ロヴィーノは舌打ちすると顔を引っ込めた。
心配されるほどではない。咄嗟に経済とは言ったけれど、瀕死の状況とまでは言わない。それに欧州連合は、その加盟国の窮状を見過ごしはしないだろう。欧州の中では発展の遅れた国ーー南欧の国。今ならば彼らの足を引っ張ることはないだろうと思っていたが、ここのところはまた不景気で危うい。実際、なんとかと考えねばならないところだった。本音を言えば、政治家に任せたいことではあるが。また内職くらいならば頑張れるかもしれないが、あまり気は進まない。
タイマーの音が鳴った。きっとパスタが茹で上がったのだろう。アントーニョは背伸びして天井を見上げた。
「ロヴィーノ、親分も手伝おか?」
盛り付けや皿を運ぶくらいしようかと思って立ち上がりかけると「座ってろ」と強い口調で言われた。言われてしまったので大人しく椅子に座る。じっと静かに、ということが本来的に得意ではないのだ。シエスタは別である。大人しくしていると眠くなってしまうから、とりあえず口を開いた。
「ロヴィーノ、前に俺が寝こんでた時に、迷惑かけたやろ」
「なっ、なんだよ! 急に……」
「お礼言うの忘れててん、今思い出したんやで」
「別に、礼言われるようなことなんてしてないだろ」
「んー、でもロヴィーノが心配して来てくれたん、うれしかったしなぁ」
あの時は気が滅入っていた。なにをしても景気はよくならないし、縁起でもないが死ぬのではないかとすら思った。走馬灯が見えた気がする。あれから景気が転じてよくなった理由はアントーニョにもよく分からないが、少なくとも南イタリアへの輸出量が増えていたことだけは知っている。ロヴィーノが、気にして手を回してくれたのだろうと思った。指摘しない方がよいのだろう。ロヴィーノは「俺がなんとかしてやったんだ!」などとは声高に主張しなかった。昔は「俺のお陰だろ!」とばかり言っていたのに。ちっとも役に立たなくても態度だけは大きくて、やたらと上から目線で。
(成長するんやね)
ふたたび机に突っ伏して、アントーニョは幼い日のロヴィーノの姿を思い浮かべた。懐かしいなぁと思う。真正面から言っても照れて受け取ってくれないと思ったので、そのことは今は言わないでおくことにした。
「心配してきてくれる子分がおるんやって思ったら、それだけで十分やん」
「……ばか」
「え?」
予想外に声が近かったので顔を上げると、四角い皿を持ったロヴィーノが見下ろしていた。
「ほら、できたから食え」
起き上がると目の前に皿が置かれた。赤い色のトマトパスタが濃い目のクリーム色のパスタを挟むように盛り付けがされている。
「おわっ! これ、ロヒグワルダやない!?」
「カルボナーラだとちょっと色が薄いけどな……」
「ロヴィーノ、器用やねぇ! ちょっと食べるん惜しいわ……あ、せや、これは写メにとって……」
アントーニョはいそいそとズボンのポケットから赤い携帯電話を取り出した。
「なっ、おま……なにに使う気だこのやろー!」
慌てたようにロヴィーノが携帯を取り上げてしまった。
「なにて……フランシスにメール」
向こうからもよく、美味しい店とかに行くと「ここのディナーは最高」とか言うメールが写真を添付して送られてくるのだ。アントーニョもたまには送ろうと思うが、写メを撮ることを忘れてしまうのでなかなか送れていない。これこそフランシスに送って自慢すべきものではないだろうか。題名は『ロヴィーノのパスタは世界一』辺りが妥当であろう。
「するなこのアホ! いいから食・え!」
しかし、冷めちまうだろ、と続いたので、メールは諦めてアントーニョは銀のフォークに手を伸ばす。見ているとやはり、崩してしまうのがもったいない。パスタの形状がスパゲティ等の長いものではなかったので、一つだけフォークでそっと刺してみた。色を崩さないように口元まで運んだ。まずは、赤いトマトのパスタ。
「ふふっ」
「な、なんだよ……」
「ん〜、なんかなぁ、親分のパスタに味が似とるような気がして。ロヴィーノの作った方が美味いけどな」
カルボナーラを口に入れると、濃厚なチーズの香りが口内を満たした。クリーム系のパスタもたまには作ろうかとアントーニョにも思わせる。トマトとカルボナーラを一緒にフォークで刺して口に運んでみると、酸味とコクが絶妙にマッチしていた。ロヴィーノには料理の才能がある。ついぞ料理当番を交代してくれることはなかったのは、本当に惜しいことだ。
「あれ、このパスタ――」
色合いに夢中になって、味に自然と笑みが零れて、ちっとも気づいていなかった。フェットチーネでもペンネでもないし、見たことのない形をしている。
「もしかして、なんや可愛い形してへん?」
白と緑と赤の色は、彼の国を象徴する色。パスタはその三色だった。けれどそれだけではない。振り仰ぐようにロヴィーノの方に顔を向けると、呼吸の分だけ一拍ほど間があった。
「ラブパスタ」
「えっ……なんや可愛らしネーミング」
ハートマークのパスタもそんな名前も、ロヴィーノには似合わない感じがする。
「食べると、作った相手のことが好きになる」
「えええっ! そそそそれ、ホンマなん!?」
「あぁ。お前、もう食べただろ。……好きになったか?」
顔を近づけられて、間近で目があった。長い睫毛がまばたきに合わせて揺れる。薄茶色の髪は触れると絹のように指を滑る。
「なってもうた――好きに」
ごく自然に言葉が口から出てきた。さっきからなんとなくドキドキすると思っていたが、パスタを食べた所為だったのか、とアントーニョは納得した。
「だったらもう、お前は親分じゃない」
見つめられていると心拍数が上がるのが分かる。ラブパスタの威力、恐るべしだ。
「恋人だ」
「えっ、でもロヴィーノは――」
「恋人。不満かよ」
ブンブンとアントーニョは首を横に振った。パスタの所為だとしても、不満に思うはずがない。ただ、アントーニョはパスタを食べたからそうだということは分かるが、ロヴィーノはこれを食べたわけではない。
「うれしいわ、ロヴィーノ。ホンマにうれしい……」
こんなに幸せな気持ちになるとは、ラブパスタは素晴らしい。
「あ、でも、パスタの効果が切れたらどうなってまうん?」
惚れ薬のような類ならば、効果時間というものがあるのではないだろうか。アントーニョが首を傾げると、ロヴィーノの手が頭頂に触れた。
「切れたりしねぇよ……お前はずっと、俺が好きなんだ。でも気になるってんなら、また、作ってやるから」
「ホンマに!? パスタ美味しかったから、また食べたいわ!」
ロヴィーノは優しく頷いた。パスタフィルターか、いつもカッコイイロヴィーノがますます格好良く見える。なんだか自分は幸せ者だな、とアントーニョは思った。
「いいか、俺は恋人なんだから、お前も危なくなったら、俺にちゃんと言えよ?」
両手が頬を包み込んだ。鼓膜に響く声音がひどく甘い。
「今は平気やで」
「本当に?」
「うん」
「嘘言うと、もうパスタ作らないからな」
「うん」
*
「ーーってわけでアントーニョを口説き落とした」
「兄ちゃんそれなにかのCMにでも使うの? パスタの宣伝?」
※ラブパスタというパスタは実在します。