スターダストシェイクハンド


 キスするのが嫌だというわけではないのだ。おそらく。相手の感情を完璧に読み取ることなど不可能だから、所詮は推測でしかないのだが。フランシスは腕を組んで考える。
「どないしたん、フランシス。ほらほら、パンダがおるで!」
 はしゃいでいるアントーニョには実に申し訳ないのだが、パリ市内にあるこの動物園にはフランシスは行き慣れていた。パンダを見ても、子供のように無邪気に喜ぶことはできない。否、アントーニョならば何度見ようが反応が同じであるかもしれないのだが。
「あ、ほら、今手ぇ振ったら、振り返してくれたで!」
 それはどう見ても主観である。たしかに芝生に寝そべる白黒の哺乳類は、腕をのそりと動かしていた。だがそれは餌でも探し求めているような挙動であり、アントーニョに呼応したものとは思えない。どこまで本気で思っているのか分からないアントーニョの姿を横目でちらりと捉えてみる。動物園に行かないかと誘いかけたら二つ返事で了承が得られた。少しくらいは逡巡するのではないかと思ったのだが、アントーニョはあっさりと頷くと実にうれしそうにほほえんだのでなんとも言い難い。フランシスはここの園長に少々見に来てもらいたいと頼まれてしぶしぶ来たのだが、その辺の事情を言い出せなくなってしまった。
 用事は真っ先に済ませて、ここで待っているようにと厳しく言い含めておいた場所に戻ったフランシスを迎えたのは当然のように人のいないベンチだった。やっぱり、などと納得している場合ではなく、慌てて携帯に電話をかけると明るくて暢気な声が聞こえてくるという始末。マイペースもマイペースだ。ここまで来ると、本当に怒る気がしない。溜息をつきながら居場所を聞けば、現在地は不明とくる。これにはさすがのフランシスも脱力を通り越した。離れてから時間は経っていないという言葉を信じて周囲を歩いてみたところ、10分程度で目的の人物を発見することができた。アントーニョは探されていることなど気にも留めないように、600羽ほどいる鳥の一つをにこにこと見ていた。無邪気で純粋な瞳を見ると怒ることができなくなるのは、フランシスの悪い癖だと思われる。しかしながら直後にこちらに気づいたアントーニョが「フランシス、見つけてくれたんやなぁ、ありがとうな!」なんて言われては、ますますだ。
「なぁフランシス、そういや、人全然おらんけど……大丈夫なん?」
「えっ、まさかお前、そういう心配とかするわけ?」
 おおらかでぼけっとしているので、周囲の様子だとか営業だとか、そういうことは気にしないタイプだ。きょろきょろと周囲を見回すアントーニョが不安そうに小声で言ったので、フランシスの方が驚いてしまった。アントーニョの方を見れば、その発言は不服だったようで少し顔を上げてむうっとした表情を見せる。しかし直後に声が硬くなった。
「なんやのそれ。不景気やさかいな……そういうんは、気になるんやで……」
 そう言うと、アントーニョの瞳が曇った。声もトーンダウンしている。まだ内職に苦しんでいると本人が言っているように、景気の悪さをひしひしと感じているのかもしれない。余計な話題を振った、とフランシスは慌てた。
「あーえっと、そうだ、アイスでも食べない?」
「お店閉まっとったよ」
「あれ、そう?」
 たしかに彼の言うように、周囲はしんとして静かだった。
「あぁ……そうか、もう閉園時間過ぎてるからね」
「へぇ、そうなん」
 アントーニョはにこにことまたパンダに手を振る。数秒して手が固まった。ロボットのようなぎこちない動きで振り返る。丸い緑色の瞳がきょとんと、こちらを見ている。
「え、え!? もう終わっとるん!? そ、そんなん知らんかったわ! はよ言うてや! あぁ、もうのんびりしとったわ……!」
 道理で人がおらんわけや、とかぶつぶつ言いながらアントーニョはフランシスの手を掴んだ。さっき、現在位置が分からないとか言っていたくせに、無事に帰りつけるつもりなのだろうか。周囲は薄い闇に包まれて、見通しが悪くなってきている。動物たちのいる岩山も、怪物じみた形相に見えた。昼間のそれとはだいぶ異なった風景が広がっている。
「大丈夫だから、落ち着きなさい」
「えええっ、なに言うてるん! ご迷惑やろ!」
 ぱっと掴んでいた手を離すと、アントーニョは目をぐるぐると回して混乱したようなリアクションを取っていた。相変わらずマイペースなのに生真面目な性格だ。よく言う血液型占いとやらでいうとなにに当たるのだろうか。
(真面目っていうとA型、で、マイペースはB型だから――AB型?)
 国なので、基本的には血液型がどうということはない。もし人みたいに当てはめるなら、ということはたまに考える一種の遊びで、そこには感情的になにかがあるわけではなかったりする。フランシスは、自分をO型的かもしれないと思っていたりする。
「俺は呼ばれてここに来てるんだってば。ちょっとした相談があってね」
 わたわた動く両腕を掴むとようやく落ち着きを取り戻したらしく、瞳がきちんとフランシスの方に向いた。
「お前が言ったことと同じだけど、不景気だから、動物園も収益が上がらないらしくてね」
「なんや身につまされるわなぁ……」
 腕を離すと、アントーニョはそれを組んでうんうんと頷いた。やはり内職が効いているらしい。
「で、親子連れ以外にもアピールできないか、って相談されたわけ」
「フランシスが?」
「パリはお兄さんの代名詞だからね」
 ウインクするとアントーニョは吹き出した。せやったら俺はバルセロナの化身やなぁ、などと妙なことを言ってくつくつと笑っている。トマトの妖精の方がお似合いかもしれない。
「で、それならやっぱりカップル狙いかな〜と思って、実験」
「おお、なんやフランシスらしいけど、えぇ発想やん」
「前半の発言がちょっと気になるけど……まぁ、お兄さんは美と愛の代名詞だし?」
「はいはい。そんで?」
「だったらやっぱり、ムーディーな夜の時間帯かなと思ってね」
「ほほう、そうなん?」
「なんかお前、あんまり分かってないでしょ」
「んなことないで! そら、やっぱり星空の下で〜とか、ロマンチックやろ!」
 その発言は意外である。そうかアントーニョにもムードとか気にするだけの感情はあったのだな、と少し感慨深く思うフランシスであった。ただひたすらに鈍感なだけではないらしい。考えてみれば、前にヒューマンドラマを見て瞳をうるうるとさせていた。基本は情緒的な人だったなといまさら思い出す。恋愛の機微には疎い傾向があるのかはたまた不感症なのか、いやしかしロヴィーノとのやりとりはやはり鈍感だな、とかフランシスが頭を巡らせていると、すぐ横にいたはずのアントーニョはまた消えていた。ちょっと目を離すとすぐこれだ。糸の切れた風船よろしいのでフランシスは慌てて前方に視線を送った。顔を上げればすぐ目の前にアントーニョの姿はあって、さすがにこの短時間で行方をくらますはずもないかと胸を撫で下ろす。アントーニョはじっと空を見上げていたかと思うと、手を伸ばした。
「星が、よぅ見えとる。……手ぇ伸ばしたら、届きそうやね」
 呆然と見つめていると、ふふっと笑う声が響いた。
「ほら、ロマンチックやろ? でもホンマに、ここ、暗いから星が綺麗やで」
「たしかに、そうかもしれないね」
 暗いというのは、フランシスも感じていたことだった。けれどそれは、デメリットだと考えていたのだ。カップルを呼び込みたいのならば夜の時間帯にも開放したらよいのではないかと提案したが、向こう側もまた暗いことを懸念していた。もともと、遅い時間まで開いていることを考えていないのだから、夜間照明が不十分なのだ。手を伸ばすアントーニョは、そのまま星を掴みそうだと思った。非常に夢想的だ。
「じゃあ、夜間営業は『星空と握手』でどう?」
「キャッチフレーズにしては寒い気がするわ」
「お前、結構突っ込むよね……」
 アントーニョは笑うと手を引っ込めた。少しだけまだ風が冷たい。視線が空から下りてくると、また急に走りだした。なんとも息をつく暇を与えない人物である。
「人形が落ちとった。忘れモンやね」
 女の子の人形だった、おそらく対になっていたのではないかと伺わせる。ピンク色のフリルがついたワンピース、金色のロングヘアーに瞳を閉じている横顔。
「可哀想に、相手がいなくなってるね」
「ん、ホンマやなぁ……ほなフランシス、代わりにキスしてあげたって!」
 キスしたって、ではなくキスしてあげてである。珍しいセリフだ。
「おま……なんで俺が……」
 この歳にもなって人形とキスシーンでは笑えない。恋人にキスをせがまれるのは可愛くてうれしいが、人形とのキスを所望されるのはいかがなものだろうか。
「ダメやった? 可愛い女の子が泣いたらツライんとちゃう? まぁええわ、ほんなら世界のお兄さんと違って優しい親分が」
「待ちなさい! 分かった、後でお兄さんが持ち主を探すから! それは止めようね!」
 アントーニョの場合、本気でそれくらいしそうだ。慌てて制止すると、ぼんやりとした灯りの中でアントーニョがほほえんだ。にこっとした柔らかい笑顔だったのだが、段々と口角が上がっていく。終いには口を押さえると本気で笑い出した。あははははははと、声が夜の動物園に響いている。なんだかもうフランシスも笑えてきた。どこからどこまで冗談なのか分かりやしない。なんだって、なにも考えずにこちらを振り回すのだろうか。いや、おそらくなにも考えていないから振り回されるのだ。本能で生きているようで羨ましい。
 暗い中一頻り二人で笑い合って、揺れる淡い照明の元で影が近づいた。
「人形よりお兄さんとキスしようよ」
「あははははっ、そっちのがえぇよ、キャッチフレーズ!」
「『暗いから誰も見てない』」
 日の当る場所でキスするのは、たまに抵抗を見せられる。真面目なのだ。アントーニョは常識がある。夜の動物園に連れてきたのだって、仕事とデートの兼ね合いみたいなものだ。カップルでというのならばどうしても気になる。今日はキスの日なんですよ、なんて菊がおもしろそうに教えてくれるから気になるのだ。記念日をいくつも作っている彼は、欧州での反応を求めているらしく、たまにそうしたおもしろい記念日を伝えるのだ。たまたま今日、電話をしたからかもしれないけれど。
「あ、星が見てるはどうやろ」
「それも十分、寒いでしょうが!」
 口づけして笑うと、「せやなぁ」と彼もまた笑った。

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