「おめっとうさん」
開口一番に、アントーニョはほほえんでそう告げた。なにがと問えば「ロイヤルウエディング」と簡潔な答えが返ってくる。全世界規模で話題となった、イギリス王室の結婚式は彼の耳にも届いていたらしい。
部屋に入れるとアントーニョはすぐさまオフホワイトのソファにダイブした。ぼすんといい音が響く。紅茶でも淹れようかと聞いたが、今は喉が渇いていないと断られた。仕方ないのでダイニングの椅子に腰掛ける。
「俺は、中継で見たで! さすがに直接は見られんかったけど、なんやユーチューブとか言うんでなぁ……」
「お前、そんなの使えたのか?」
得意げに言うのでアーサーは驚いた。たしかアントーニョは機械を苦手としていたはずだ。携帯電話の待ち受けすら満足に弄れず、登録してある番号にかけるくらいしか滅多に使わない。メールを送っても返事がないことも少なくはなかった。
(いや、返信がないのはただ面倒がっただけか……)
「んー、そん時はフランシスが」
「またあの髭かよ……」
海を挟んだ宿敵がなにかとスペインに行っているらしいことは知っていた。別になにもないよ、と言われても「別にお前とアイツの仲がどうだとか、興味ないけどな!」と言ってしまうので話が続かない。
「フランシスも興味津々みたいやったで。よかったなぁ、アーサー」
「いや別に、それはどうでもいい」
実際にフランシスがどうだとか興味がなかったのでそう返せば「えー、なんでなん」とソファでごろごろしながらアントーニョは尋ねた。
「えぇなぁ、ああいうんは……ホンマ、見とって元気んなるわぁ」
「案外、ロマンチストなんだな」
「ふふん、『ロマ』やからね」
「アホか」
ぺしっと頭を傍の雑誌で叩いても、アントーニョはにこにことほほえんでいた。ロマンチストであるかどうかは分からないが、どことなく夢見がちなところがあるように思われる。
(昔は、世界を幸せにする気だったな――)
アントーニョは新大陸に渡ったし、ヨーロッパの海域を制していた。それを海を挟んだ向こう側からアーサーは見ている。彼の瞳はいつだってまっすぐで美しいエメラルドグリーン。射抜くような視線が貫いたものはなんだったのだろうかと思って聞いてみたことがある。そう、繋いだ牢の中で。
『知らん人と仲良くなっていくんは、幸せやろう?』
海の先ですら、簡単には行くことのできない狭い世界。あの頃の国というものは、それが世の全てにも等しかった。アーサーは望んでもアントーニョやフランシスのいるところまでは簡単に行き着くことができない。今はこんなに、距離が近いのに。電話をすれば、メールをすれば。通おうにも日をまたぐことすらなくて、行き来は自由なEUの領域内にある。手が届かないから、あんなに必死で求めたのに。アントーニョの願っていたことはとどのつまりそういうことであるらしいのだ。誰でも簡単に行き来できるような、見知らぬ人ではない関係性。だから皆の親分と名乗る。征服したいわけではなくて、繋がっていたいのだ。なんと夢想的だろう。
(そんなことが、簡単にできるかよ)
アーサーは手中に収めた金色の髪と青い瞳のことを思い出した。愛した子供が離れていく様というのは、どの程度の衝撃を与えるのだろうか。自分の心にできた空洞は埋まるのか、いまだに考える。あの子供は、世界の頂点に立って今なにを思うのだろうか。
「甘いもんは幸せ、綺麗なもんは幸せ。それでえぇやん」
「単細胞だよな、お前」
「アーサーが屁理屈ばっかやねん」
アントーニョはアーサーの腕を掴むと、そのまま身体を引っ張った。細いとまでは言わないものの、それほど力が強そうには見えないその腕は、見た目よりも強い力を持っている。ぐい、と引っ張られて顔が至近距離に近づいた。唇が動く。
『キスしたって?』
言葉に導かれるままに重ねると、アントーニョはにっこりと笑った。
「ほら、簡単やろ」
「……ばーか」
赤くなった顔を見られないように反らすと、くすくすと笑う声が聞こえた。
「ま、夢見がちやって言われたことはあるで。フランシスに、な」
「あいつ、意外とはっきり言うんだな……お前相手でも」
「幼馴染やから、なんでも言い合えるわなぁ」
フランシスにとってはアントーニョは可愛い子のようなものだと思っていたアーサーとしては、やや意外だった。思ったよりも悪友というのは普通の友人関係にも近いものらしい。幼い頃からの馴染みと言えば、アーサーとフランシスも近いところはあるが、どうにもこの二人との違いを感じる。距離の所為だろうか。
「世界中の人が手を取って、なんて夢物語だ――なんて言うとった。繊細な割にリアリストやんなぁ」
「髭のどこが繊細なんだよ」
イベントのたびに問題行動ばかり起こす知人の顔を頭に描いですぐに払拭した。繊細だなんて、淑女に対して使うべき修辞だろう。あんな髭につけられては修飾語が泣くと思った。
「アーサー知らんかった? フランシスはすぐ傷つく子やで」
繊細で傷つきやすい。
言葉面だけを見てアーサーは肩を竦めた。どんな冗談だ。長閑に笑うアントーニョは、彼の言葉とは無縁のようにも思われた。おっとりとして動じず、マイペース。
「お前は図太そうだな」
それは皮肉を込めた言葉だったのだが、あまりアントーニョには通じなかった。いつものことだ。
「あはははっ、正解やなぁ」
本当は、アントーニョが図太いばかりだとは思っていない。おおらかな笑顔の裏側にはいくつもの傷を負っているだろうし(実際にアーサーが傷つけたこともあるし)、親分だからと周りに弱みを見せない姿は時折不安にも思える。ただ、それらを吐露する場所に自分が選ばれないだろうとは思っていた。それは、アーサーの役目ではないのだ。アーサーがすべきは、弱みを見なかったことにすることだった。たぶん、アントーニョは自分の前で泣きたくはない。自分も同じだ。すべてを引き受ける場所でなければならない、ということはないのだろう。辛ければ彼には友達がいるし、アーサーには憎まれ口ばかりの弟がいてくれるのだから。
アントーニョは瞳を閉じると人差し指をなにか描くように動かした。
「でも、フランシスが真ん中におって、そんで、今みたいに繋がっとる」
世界中の人がとまではいかないまでも、ヨーロッパ統合が為されてきていることは事実だった。関税の障壁がないとか、通行が自由になったとか、同じ通貨を使用するだとか。些細なことも積み重なればひとつの国のような体をなす。憲法はなくても、国旗はあるのだ。三権に似た組織も備わっている。
「夢物語じゃない?」
「俺はそう思っとるよ」
やっぱりアントーニョはロマンチストだと思った。現実には欧州連合には問題も多い。似た地域のそれですらなのだ、全世界規模でなど考えられやしないだろう。ヒーローでも(或いはむしろヒーローはすべて等しい世界など望まないのだろうけれど)理想論だと言うかもしれない。
「つぅか、なんでこんな話してるんだ?」
「ロイヤルウエディングおめっとうさんって話やろ。イギリスにとって、えぇ話なんやから、素直に受け取っときぃ」
「……あぁ、まぁ、その」
「なんやの?」
「あ、ありがとうな」
「おおきに」
ふと、羨ましいというのは結婚式というそれがだろうかと思った。自分たちにはそういうことは叶わない。たしかに、アントーニョも昔は通婚していたこともあったが、それはこういう華やかで美しくて――彼の言う幸せなものではないだろう。
「ゆ、指輪くらいなら用意してやってもいいぞ」
素直に結婚式は挙げられないけれど、と枕詞にすればよいのだろうが、器用な真似は相変わらずアーサーにはできない。
「? なんで指輪が必要なん?」
「……わ、分かれよ、このバカ!」
「いや、だからなにをやの?」
まるで分かっていない様子に、やっぱり実はそんな憧れとは無縁なのかもしれないと思った。