「アントーニョ、これやる」
ドアを開けるとそこには自分の子分がいた。焦げ茶色のTシャツに、緑色のチェックシャツを羽織っている。いつも通りお洒落だった。その手には真っ赤な花束がある。情熱の国の色をした綺麗な花束が。ずいっと差し出されたので、アントーニョは抱き抱えるようにして受け取った。
(ロヴィーノには花束よぅ似合うなぁ)
さすが美人なだけはある。うんうんと頷きつつも、手渡されたそれに困惑してもいた。
「……おおきに?」
首を傾げながらも礼を言う。かさりと花束が揺れる。スペインの太陽は今日も強く地を照らし、少しだけ首元が汗ばんだように思われた。空気は温い。ロヴィーノはそれ以上なにも言わず、じゃあな、と言って背を向けた。渡すだけが用件だったらしい。取り残されたアントーニョはきょとんとして受け取った花束を見つめる。真っ赤なカーネーションが、ロヴィーノの手から移って自分の腕の中にあった。
「アントーニョ、あれじゃあ手が洗えないんだけど?」
食事をするから手を洗え、と言いつけた来客がキッチンに戻ってきた。アントーニョはオーブンを覗き込んでいたので、声を聞いて振り返る。
「なんかあったん?」
「なんかって、やったのお前でしょ。花が洗面台にあったよ」
フランシスに指差されて、数秒思案する。直後に、指で人を差すのはどうかと思ってそれを窘めた。フランシスは肩を上げてはいはいと苦笑する。その微かな振動に、彼の金色の髪がさらりと揺れた。
「あぁ、もう。面倒だから来なさい」
キッチンに入り、つかつかとこちらに近づくとフランシスはアントーニョの右腕を掴んだ。そのままキッチンから引っ張っていく。抗う必要もないが、そんなこともできぬままに引き摺られていた。その間に、なんの話だっただろうかとアントーニョはぼんやりと考える。そうだ、洗面台に花があったのだと言っていた。
アントーニョよりは体格がよいものの、フランシスも割合細めに見える。けれどフランシスは案外力が強いなと思った。ぐいぐいと昔から引っ張る力には抗することが難しい。なぁなぁと引っ張るのはアントーニョが多いが、フランシスにこうしてずるずると引き摺られることも珍しくはなかった。彼にしては少しラフな白いシャツ(アントーニョに言われるほどではないと反論されそうだが)の裾が、開け放された窓から入り込む緩やかな風で少しだけ揺れる。陽気はやっと春めいてきて、暖かい。少し前までは風が肌に触れると寒いとばかり思っていたのに、今では涼を感じるばかりだ。心地よい。
「ほら、カーネーション」
引き摺られて洗面台まで来た。そしてフランシスの言葉に振り返れば、洗面台を埋め尽くす赤い花。一瞬アントーニョの視界を染めて、ふとロヒグワルダを思い起こさせた。
「あ、せや……忘れとったわ」
パッと腕が離された。アントーニョは赤い赤い花に近づき、そっと花弁に触れる。薄い花びらは握り締めたらすぐにでも壊れてしまいそうなほどに儚い。
「なにこれ、どうかしたわけ?」
背後からフランシスの声がして我に返る。アントーニョは花束のことを思い出して口角を上げた。
「ふふーん、聞きたい? なぁ、フランシス聞きたい?」
「……遠慮しとく」
これを貰った経緯を思えば、自慢の一つや二つもしたくなる。そう思って上機嫌で尋ねれば、冷や水を浴びせるかの如くの返答だ。
「えっ、なんでなん? 気にならんの?」
「お前が、そんな顔で笑うから」
思わず振り返ると、細長い指先が額を弾いた。呆気に取られてフランシスを見つめると、眉根が少しだけ寄っている。
「どうせ、ロクなことじゃないだろ」
「そんなん、聞いてみないと分からへんやろ!」
ロクなことじゃないとはひどい言われようだ。アントーニョがむぅっとして頬を膨らますと、それを両手で摘まれた。
「へぇ、だったら聞いてあげるよ。ただし、ロヴィーノのこと以外」
にこりと笑った。かつての可愛らしい時代を思い起こさせるほどではないが、綺麗な顔に似合ったほほえみで。滅多に見せないくらいに完璧に笑ったのだけど、それに見惚れるようなこともなく、アントーニョは言葉に詰まった。
「図星か」
「むむむ……フランシスかて、ロヴィーノのこと好きやろ? えぇやんか!」
記憶が間違っていなければ、その昔はフランシスも相当ロヴィーノを手に入れようとしていたはずだ。もちろん毎度アントーニョがはねのけてはいたけれども。時には剣を交えて、戦にもなってまで争った。もちろん、フランシスがロヴィーノを好きだからだけではないだろう。イタリアの肥沃な土地を欲するのはヨーロッパにとって珍しいことではない。それでもフランシスはロヴィーノを可愛いと言っていたし、好いていたはずだった。
たしかに、ロヴィーノはとても可愛いからアントーニョにも気持ちは分からないでもない。そんなこんなでアントーニョがうんうんと頷いていると、頬を抓られた。
「好きっていうのは微妙に違うし、だとしてもお前とは違うの。まぁ、いいよ、聞いてあげるから言いなさい」
そう言うとやっと手が離れた。
「いよっしゃ! あんなぁ、今朝、ロヴィーノがこの花束抱えて持ってきてくれたんやでぇ。えっへへへ!」
腰に手を当てて自慢するように言っても、フランシスは冷静な表情のままだった。
「へぇ、なんで?」
「知らん! なんかなぁ、くれる言うて! むっちゃうれしかったから、飾っとこ思て、ここに……」
指差してみて、あれ、と思った。
「そして忘れた?」
図星を指摘されて、もう一度黙る。ロヴィーノには申し訳ないが、アントーニョは一つのことにしか集中できないのだ。性である。しかしながら申し訳ないというか、そこまで言ってこの体たらくかと思うと言葉に詰まった。うれしかったのはまったく事実である。だってあのロヴィーノがプレゼントしてくれるなんて珍しい。それも、こんなに綺麗な花束を。黙っていると、目の前でフランシスが吹き出した。お前らしい、とフォローだかなんだか分からない言葉を喋りながら右手が頭をくしゃくしゃと触る。
フランシスは時折、自分の方が年長者みたいに振舞うことがあった。幼馴染だし、生まれたのはきっと同時期であるのだろうけれど、まるで兄みたいに。アントーニョもそれが嫌いなのではなかった。周囲は年下の子供が多くて、自分が面倒みてあげなければと思うことが多い。親分だし、と自分でも思っている。それが嫌なのでも疲れたと思うわけでもないのに、フランシスに「ほら」と胸を貸されるとそこに思わず寄り添ってしまう部分があった。不思議なものだ。
「まぁ、お前らしいけどね。で、なんだって花束なんかを?」
問われて考えると、その理由は判然としなかった。アントーニョは目の前の赤い花をじっと見つめてみる。カーネーションはスペインの国花だ。渡されたときは、ロヴィーノが花をくれたこと、しかもそれが自国の花であることに浮かれてその意味をちっとも考えなかったが、冷静になって聞かれると不思議だ。アントーニョの誕生日はとうに過ぎているし、今日という日に記念があったというような記憶もない。
「思い当たらないで貰うのはどうなの?」
「うえ……ちょい待ち、うーん……」
額に手を当てて思案するポーズを見せると、フランシスは小さく笑った。
「仕方ないからお兄さんも考えてあげるよ。お前には心当たりはないわけね」
「せやなぁ」
「渡されたときにはくれるとしか言わなかった?」
「言われんかった」
「最近のロヴィーノの様子でおかしかったことは?」
「あらへんなぁ」
フランシスは顎に人差し指をあて、一度そっと目を閉じた。しかしなにか思いついたのか、瞬時にそれをぱっと開く。ブルーの瞳がじっとこちらを見つめた。
「カーネーションはたしかにスペインの――まてよ、……まさか、フェット・デ・メール? そっか、国によって日付が違ったよな……イタリアは……」
「なになに? なんやの?」
フランシスは額に手を当てると、大きく溜息をついた。
「マザコンというか、素直じゃないというか……」
フランシスは呟くと、赤い花束に目を落とした。
「お前に感謝してるってこと、でしょ。そう思っておきなさい。……たぶん、俺が言うことじゃないだろうからね」
「へぇ、そうなん? ほんならまた後でお礼言っとこ……せや、すぐ飾るから待っとってな」
よく分からなかったが、そう言うのならばそれでいいだろうと思った。アントーニョは気になることでなければ、あまり追求したがる性質ではないのだ。フランシスは、はいはいと頷いて離れた。アントーニョは腕をまくり、指を水につける。少しだけ冷たい。そのまま緑の茎に触れた。薔薇のように棘はない。
「あ、せや。フランシスも半分持ってったってや」
「俺が?」
「仰山あるやろ、お裾分けやで!」
半分ほどの花を水から引き上げた。水面が大きく揺れて、蛍光灯の光にきらきらと反射する。
「それ、ロヴィーノは喜ばないんじゃない?」
「なんでやの? そう言わんと、持ってったらえぇやんかぁ」
「お前はそう言うけどね」
「な、フランシス。幸せはなぁ、分けるもんやで! 二人でな?」
水を切って、隣に置いた黄色い花瓶に花を差し入れる。これでますますロヒグワルダらしくなった。満足してほほえんで、振り返る。
「……喜びも悲しみも?」
「ぶっ、それじゃ結婚式みたいやん。あ、フランシスなら赤い薔薇の方がよかったんやろなぁ。でもこれで堪忍したってな」
残りを水から引き上げて、そのまま渡そうとすると文句を言われた。服が濡れるとか、これから食事だろとか。そう言えばそうだったなと思って、行き場をなくしてしまったカーネーションの所在に困った。これを引き上げなければならないと思ってきょろりと周囲を見渡す。すると、お誂え向きのスチールのバケツが見つかった。
「ま、こっちの方がうれしいよ。それじゃ、お兄さんがロヴィーノの愛を半分もらっていきますかね」
バケツに花を入れて、もう一度水を入れておこうと思った矢先、聞き捨てならない言葉にアントーニョは反応した。フランシスはバケツからカーネーションを一本だけひょいと持ち上げると、にやにやと笑っている。
「なっ! ろ、ロヴィーノの愛はあげられへんで! 親分がもろたんやからな!」
持っていたカーネーションを奪いとって、バケツに戻す。
「じゃあ、お前の愛をもらってく」
「そらもう、十分にもらっとるやろ」
「まだまだ足りない」
「はいはい、また後でな」
そういえばご飯をまだ食べていない。空いた洗面台を促すと、フランシスは笑った。まだまだ今日も時間はあるのだから、ゆっくりと過ごせるだろう。花瓶にいっぱいの赤い花束を見ながら、アントーニョは上機嫌でリビングに戻った。