ウサギさがし


 原因なんてそもそも覚えていられない。気づいたときには口論になっていて、そのまま別れてしまった。そのままというのは間違いだったと思うが、致し方ない事情があったのだ。だって聖週間が控えていて、準備の手伝いに行くことになっていた。
(どっちが悪いっつぅんは、単なる言い訳やな)
 そもそも衝突することは決して稀ではない。アントーニョとフランシスは付き合いが長いし、お互いに言いたいことが言える関係だ。たとえ、友人だろうと恋人になろうと変わらない。そういう意味では喧嘩するということに不思議はなかった。ただ、タイミングが悪い。アントーニョはスペインとしてはご自慢のセマナ・サンタの行列を準備するのに忙しかったのだ。アントーニョは敬虔なクリスチャンであるし、復活祭というものは非常に重要なイベントだと理解している。そちらに熱心になるばかりに、その他のことは疎かになってしまった。まさにスペインらしい気質である。
 一言でも謝ればよかったのだろうと今になってアントーニョは思う。フランシスは軟派に見えるが気位は高い。自分に非がないと思えば、是が非でも謝ることはないだろう。アントーニョはそういう頓着がない。そもそも、喧嘩になった原因すら今となっては定かではないのだ。拘りもない。頭を下げるのが嫌だと思っていない。だからアントーニョが一言いえば丸く収まるということも少なくはなかった。もちろん、フランシスが謝ることだってある。冷静になって自分に非があると考えれば、そもそも謝る人だった。
 スペインでは馴染みがあるわけでもないカラフルに色付けされた卵を見つめながら、アントーニョは物思う。フランスから贈られてきたものだ。日曜日には遊びに来ると言っていたが、来ないつもりかもしれない。そう思うと、とても寂しい気がした。
「アントーニョさん、そろそろ――あれ、珍しい物を持ってますね。卵探しですか?」
「探す間でもなく、贈られてきたん」
 卵をテーブルに乗せたまま、アントーニョは立ち上がる。緑の色で塗りたくられた卵は、その上から細かく色付けされていた。
「こういう行事も、悪くないんでしょうね」
「せやねぇ……そうは言うても、長いこと染み付いとるからなぁ」
「ですね。それにしても、アントーニョさんまで覆面を被ることはないのでは?」
 すでに身体は紺の衣服を纏っている。これから三角のとんがり帽子を被って行列に参加するのが、今日のアントーニョの予定だった。
「せやけど、行列ん中に入るんやったら、それなりの格好せなアカンやろ? 俺なぁ、鎖って、嫌いやねん」
 足から鎖を引き摺ってイエスの苦しみをその身にも感じようとする、といった人もいる。黙って付いていけばいいというものではないのだ。しかしどうにも鎖は好かない。昔繋がれていた記憶が今でも残っているのだ。自分から付けたいとはどうしても思えなかった。
「ま、ともかく、そろそろ行こか」
 渡された三角帽を受け取って頭から被った。目の部分は空いているが、極めて視界不良。横に視野が広がらないということは、身体の動きへ致命的に支障が出るのだということを感じさせられた。
 スペインのセマナ・サンタは、明るい行事ではない。それに合わせるかの如く、空が雲で覆われていた。雨が降らないといいけれど、とアントーニョは思う。雨に濡れてこの重い衣装では、どうしようもない。
 キリスト教の行事は、心が引き締まる。特にこの一週間というものはそうだった。
(でも――)
 本来であればそちらに集中すべきだと思っても、心がどこか引き止められていた。声を聞いていない、顔を見ていない。いつもだったら、何気ない会話を幾つもしているのに。謝ればよかった、といまさら言うには遅い。参列と言うよりも、葬列と呼ぶに相応しいセマナ・サンタの行列。アントーニョは渡された錫杖を持ってその中に並んだ。日曜日には、会いに行こうかと思う。フランスではどういった行事だっただろうか。覚えがない。カラフルな卵が並んでいるのだろうか。可愛らしい祭りなのだろうか。卵を探すのだろうか。敬虔などと言っておきながら、参列に入って考えていることはきっと神様のことでもなんでもない。周りの人はなにを考えているのだろうと思う。やはり、死したキリストのことだろうか。
 アントーニョは人混みの中、ぼんやりと列に沿って歩いているだけだった。枷や鎖がついていないのに手足が重苦しく感じる。なんとなくふらっとした。立ち眩みのようなものを感じてそっと額に手を当てると、急に手首を掴まれた。えっと思う間もなく引っ張られて、列を離れてしまう。参列は抜けた一人に構うこともなく進んでいく。それを他人事みたいに遠目で見て、手の主の方へと視線を送った。
「ハーイ、俺のウサギちゃん?」
「……フランシス?」
「イースターバニーが卵を運んでくる、ってのもなかなか気が利いてていいもんじゃない、ヒスパニア?」
 声からは怒っているような感じはなかった。どう言ったらいいだろうかと思う。何事もないみたいにしているなら、その方がいいのかもしれない。また言えば、蒸し返すことにもなりうる。
「あ、あんなぁ、フランシス、えっと……」
 迷って言葉を探していると、フランシスは振り返って笑った。
「ごめん。お前が忙しいの、知ってたつもりだったんだけどね」
「俺の方こそ、なんや、悪かったなぁって……」
 本当に悪いのは、多分喧嘩の原因を忘れてしまっていることだと思うのだが。言ったらますます怒られるだろうかと思いながら、うろうろと視線を彷徨わせる。その途中で、ふと思い出した。あれ、と思って自分の頬を触る。厚手の生地の感触、すべすべしていた。
(ん、あれ?)
 今日はセマナ・サンタで、キリストの痛みを知る週間で。アントーニョは参列に入っていて、顔を覆う覆面と重たい衣装を着ていて。そこまで思い至って、慌てて覆面を外した。息苦しい気分から解放されて、視界が広がる。参列はアントーニョの背後で今なおつづき、厳かな雰囲気でスペインの町並みを包み込んでいた。
「フランシス、なんで、俺のこと分かったん?」
 アントーニョの背後を行く列の方に視線を投げていたフランシスは、問い掛けに気づくとこちらを見た。
「そりゃあ、俺の可愛いウサギさんのことですから?」
 指先は頭頂に触れた。くしゃくしゃと撫でるような指先が少しくすぐったくて、心地良い。
「そういうのが、愛ってものでしょ」
 昔二人で見たフランス映画にも「どこにいたって君を見つける」という表現があった。アントーニョはまさかと笑い、フランシスは「恋しい人ならそういうものだよ」と言った。あの時はまだ、単なる友人同士で、それだけ愛されるのならきっとさぞやその相手は幸せなのだろうなとアントーニョは思った。
 跳ね返って自分に言葉が降ってくるとは思わなかったけれど。
「フランシス、怒っとるんやと思ってたわ……イースターエッグやったっけ? あんなん、贈られてきて……」
「え、あれ? あれは、イースターに会いに行くよって、予告のつもりだったんだけど」
「それ、ホンマなん? 分からんわぁ、あんなん。ちゃんと言うてくれへんと――」
「ま、だろうと思ったけどね。いいじゃない、捕まったんだから」
 無性に抱き着きたいと思ったけれど、往来なのでやめておいた。
「俺なぁ、喧嘩の原因、忘れてもうてん。ごめんなぁ」
 代わりに謝罪しておく。きっと、素直に言った方がいいのだろうと思った。フランシスなら、そんなことでは怒ったりしない。むしろ素直に言わない方が不快に感じるだろう。アントーニョも同じだ。
「あー……そんなことじゃないかと思った。下手したら喧嘩してたことも忘れてたかと思ったんだけど……」
 いくらアントーニョでも、そこまでぼんやりとはしていない。たしかに、来週になったらそろそろ危なかったかもしれないのだが。
「ウサギさんは淋しかったみたいだからね。淋しいと死んじゃう?」
「それ、迷信やろ」
「どうかな? 淋しかったら、死んじゃうかもよ?」
「え、ホンマに? それは困るわぁ!」
 フランシスはまた腕を引っ張ると、ぎゅっと抱き締めた。そうして欲しかったのを見透かしているみたいに。参列は隣で行われていることになど見向きもせず、皆、一心に何かを祈っている。腕の中は温かくて、思わず今日という日を忘れてしまいそうになった。静かな鼓動が耳に溢れる。ここしばらく浸っていなかった温度が、不足していたのではないだろうかと少し思った。
「だから、お兄さんに甘えておきなさい」
「ん……ありがとうなぁ」
 それゆえに、素直に頷くと、フランシスは小さく笑い、子供をあやすかのように背を軽く叩いた。
「にしても、本当にスペインのはすごいよな。うちは、家族で集まって食事するくらいだし……」
「卵探すん?」
「それはあんまり――そうだ、アントーニョ、日曜日はうちにおいで。一緒にご飯食べよう」
 思わず「家族だから?」と尋ねてしまいそうになった。たぶん答えはOuiだろうと思ったので、質問は心に仕舞っておいた。

back