パリの街並みは何度見ても美しい。聳え建つは凱旋門、目を引くエッフェル塔に、華やかなショップが軒を連ねている。ワインでも片手に歩くのもよいが、今日は来客がいるのでそれは控えた。アントーニョに飲酒は宜しくない。正確に言えば、彼といることが慣れている自分ならば別に相手することはできる。酔っ払って泊まり込んでも、むしろそちらの方が歓迎するくらいだ。しかし外では危ない。酒が入ると感情の高ぶりやすいアントーニョは外に出しておくと誰彼なく絡んでくるのだ。それこそ見知らぬおじさんだろうが女子学生だろうが、見境がない。公共的な見地からして望ましくないということも去ることながら、頬を赤らめて瞳を潤ませている姿がまた大変に危険なのである。主に理性的な見地から。
「フランシス、今日はえぇ天気やなぁ」
のほほんと隣を歩いているアントーニョは、向こうの方で猫が鳴いていたと思えばそちらにひょいひょい釣られてしまう。素面でもこの危なかっしさだというのに、飲酒などさせられるはずもない。家に着いたらワインの一本や二本空けるかもしれないが、そういうことはこの日の高いうちは避けるのが無難である。
春だというのにまだ寒さが残っているが、アントーニョは割と薄着だった。フランシスの方がそれを気にしている。こちらは白いジャケットを羽織っているのだが、中はベージュのニットを着ているために少し暑いくらいだ。場合によってはジャケットをかけてやろうかとも思うが、僅かばかり体躯の小さいアントーニョにはフランシスの着ている服ではサイズが大きい。たまに、そういうことを気にした言動を見せることもあるために躊躇った。
どこへ行こうという予定はなかった。温かくなったからたまには外をブラブラしないかと誘ったところ、特に用事はなかったというアントーニョがそれに乗ってパリまで来てくれたのだ。たぶん、暇をしているのだろう。アントーニョのところも最近は経済が安定せず、また内職を再開しなければとは言っているが、とりあえずはなんとかやっていけているらしい。助けたいのは山々だが、生憎とこちらとてそう余裕があるというものではないのだ。ふわふわ笑っているアントーニョからは、そうした余裕のなさは窺えなかった。それがいつもの彼らしいので、ほんの少しだけやきもきした。
そうした思考を払いのけて、さてどうしようかとフランシスは考える。パリは花の都との代名詞を冠する都市だ。花の咲く時期を歩くにはうってつけだろう。目的を定めぬままに歩いても、アントーニョはなにも文句をつけない。そういう人だからこそ歩きながら思案しても平気なのだ。道を歩くパリジャンもパリジェンヌも皆、揃って気品がある。それらに気を取られたりもしながら通りを歩いて行く。
「あれ、フランシス……なんや泣き声が聞こえん?」
「泣き声? どこに?」
「んー、あ、あっちの方やな」
アントーニョはフランシスの腕を掴むと、そのまま引っ張るように声のするらしい方へと歩き始めた。フランシスよりも細腕だが、その力は案外と強い。昔ハルバードなんかを振り回していたためだろう。フランシスは自分の方が強いと思っているが、その昔は大国と呼ばれたアントーニョだ。戦闘経験は豊富だし、どうにも視覚や聴覚が優れた部分がある。神経には鈍感な癖に、物音には敏感。彼が声がしたというのならば、自分に聞こえなくてもそうなのだろう。フランシスはアントーニョをそういう意味でも信頼している。もちろん、彼が嘘を言うなどとも思っていなかった。
手を引かれるままに入り込んだのは、路地裏のような場所だった。通りから少し離れたという程度であるはずなのに、人気は少なくて心なしか暗く感じられる。スラムだとかなんだとかいう大層な場所でもないが、どうせなら華やかな方を好むフランス人ならばあまり通らないだろう場所だった。音の源に近づくに従ってフランシスにも彼の言う声が聞こえ、アントーニョの歩く速度も早まっていく。終いには掴んでいた腕を離すと走りだした。一拍遅れてフランシスも後を追う。身体能力的にも秀でており、なにより農作業のゆえか活力が溢れているアントーニョには中々追いつけない。
「ちょっと、アントーニョ、お兄さんを置いていかないでちょうだいよ……!」
叫んでも彼は振り返ることがない。もはや彼の耳は泣いている少女の声だけで占拠されているのだろう。目の前しか見えない、直情的。気になれば気になるし、気にならなければ興味を持たない。素直で単純で率直で――並べていくとそういう言葉ばかりが埋まる。けれどそれがなによりも魅力的なのだ。昔からその裏表のない態度に救われてきた。そんなことを今更に思うが足は追いついてくれなかった。
ようやく辿り着いた時には、アントーニョはすでに少女と対面していた。金色の長い髪が腰の辺りで揺れ、青い瞳が溢れた涙の粒で濡れている。見たところ、まだ3、4歳くらいだろうか。屈んで少女と同じ目線になっているアントーニョの指先が、その頭を撫でていた。
「な、フランシス……マリアちゃん、迷子になってもうたんやって」
「迷子ぉ? ってかお前、もう名前まで聞いてるわけ? 早っ」
なんとも俊敏なことである。
「怖がらんでもえぇで、マリアちゃん。親分がついとるさかい。親分やで、親分。言うてみ?」
「ふえ……うええええ……ママぁ……」
「おお、ほらほら、大丈夫やでぇ」
アントーニョは腕を伸ばすと、少女マリアをやわらかく抱き締めた。なんだか、フランシスがやったら犯罪だと言われそうな気がする。ピンク色のひらひらとした、いかにも少女らしいワンピースがアントーニョの腕の中で揺れている。不思議な感覚だった。
「アントーニョ親分や。大丈夫やから。な?」
声のトーンが優しい。甘い。その昔、彼の手元にいたロヴィーノに向けられていたような音だった。泡のように儚くて、温かくて、ミルクのようにやわらかい色をしている。まるでなによりも愛おしいみたいに子供に彼が向ける声だ。
「おや……ぶん?」
「せや! よっしゃ、マリアちゃんも親分のことちゃんと分かってくれたんやな」
身体を離したアントーニョは、頭を優しく撫でた。マリアの瞳から涙の粒が消えて、気を許したように瞳が微睡みを見せる。
「エライエライ。うちの子分よか優秀やんなぁ」
この状況を端的に言うならば、子供の扱いが上手い。どうしても親分と呼ばせる癖はなんなのだろうかとは思うが、泣き止んだ少女はアントーニョがほほえむと釣られたように笑った。まったく手馴れているとしか言いようがない。フランシスも子供が苦手だということはないのだが、泣いている子供をあやすとかそういうことは得意ではない。子供たちと話していることができるというくらいだ。
「ま、さすがは『親分』てトコだな」
「ん? なんやのフランシス。マリアちゃん可愛いけどなぁ、変なことしたらアカンで」
「しないわよ!!」
アントーニョは笑いながら少女を肩に乗せた。まるでそうするのが普通であるみたいに少女を乗せて立ち上がる。
「なぁ、アントーニョ。せっかく誘っておいて悪いんだけどさ、迷子なら――」
自国の少女だから特に、ということはないが、やはりパリにいる迷子を放っておくわけにはいかない。もちろん警察に任せるということも不可能ではないが、どうせならば自分でなんとかしてやりたいと思う。フランシスが少女と共にほほえんでいるアントーニョの方に、少し切り出しにくいと思いながら声をかけたけれど、彼はほとんど聞いてくれていない。
「よっしゃ、マリアちゃんのお父さん、親分が見つけたるからな!」
「わーい! ありがとう、おやぶん!」
「ええんやで、そんなん! あ、フランシス、そういうわけやけど、えぇ?」
そうだ、そういう相手だった。分かっていたはずなのにフランシスは心中で笑ってしまう。自分がどうだとかよりも、泣いている子供が優先。今日の予定なんて幾らでも潰せるのがアントーニョなのだ。
「了解。頼んだよ、親分」
さすがだな、と思う。フランシスも小さい子と関わってきた例は少なくはないけれど、泣いている子をあやすのは苦手だった。笑顔一つで子が救われるとは知っても、掛け値なしの笑みは太陽には勝てない。やっぱり親分だな、と思うのだ。
「で、どこ探すわけ?」
アントーニョの挙動が止まった。くるりと振り向く。
「どこがえぇと思う?」
「ノープランなわけね……はいはい、そういうのはお兄さんに任せて頂戴」
自国なのだから勝手知ったるなんとやら、だ。いずれにせよ案内するのは自分だっただろうとは思うのだが、無鉄砲さは玉に瑕と言えるかもしれない。フランシスは肩を竦める。
「マリアちゃん――だっけ? どこから来たか覚えてるかな、マドモアゼル?」
「フランシス、小さい子にまでそれするん?」
「小さくてもお嬢さんはお嬢さんだからね」
マリアはじっとこちらを見ると、なにやら楽しそうに笑った。あっち、と漠然に指が指し示したのは広場へ向かう大通りだ。父親を見つけるというアントーニョの言葉を頼りにすれば、探すのはムシューなのだろう。
「よっしゃ、探すで!」
「ほらほら待ちなさい。いつはぐれたの?」
「さっきぃ……」
「さっき、ね。うーん、曖昧だなこれは」
「細かいことはえぇやん! 足使えば!」
そのまま少女を乗せて足を使うとアントーニョの方が疲れてしまう気がするのだが、大丈夫だろうかとフランシスが不安に思っても彼の笑顔は変わらない。どの道、幼い少女にこれ以上審問を重ねても徒労に終わるだけだろう。諦めてフランシスは彼の言葉に頷いた。
「ま、行ってみるか」
ダメだったら、警察に頼るしかないだろう。ストライキしていなければよいのだが。
案の定、少女の拙い説明では捜索は難航した。フランシスもタカをくくっていたのだ。幼い少女とその父親、しかもマリアは美少女だったから、向こうも探しているだろうと踏んでいた。それならば、パリの市内から出ることはないだろうし、もっと言えば大きな通りを歩いていればそれだけでも十分に見つけることができるのではないか、と。アテが外れたのだ。端的に言えば。行けども行けども、少女の父親は出てこない。父親――名をエリックと言うそうだが、そのムシュー・エリックは出てこなかったのである。少女も不安になるはずだった。あの年代の少女が長時間、身内と離れるのはストレスだろう。フランシスはそちらも危惧していたのだが、その辺りをサポートしてくれたのは、自称『皆の親分』だった。まず彼は、道で売っているクレープを少女に買ってあげた。自分は食べられないからと遠慮したが、美味しそうなどと言って少女から一口分けてもらっていた。それが素なのか計算なのかは分からなかったが、同じ物を食べるということで少女は更にアントーニョを近しい存在と認めたようである。後は容易い。風船を見つければそれを、ショウウインドウに映る熊で注意を引いて、仲睦まじい親子が通り過ぎるのをやり過ごす、どんな些細なことでも話しかけてあげる。見れば些細なことの連続をくりかえして、そうやって少女をリラックスさせていた。なるほどこれは、さすがの手腕だ。
(やっぱり、ロヴィーノのことかねぇ)
フランシスは気紛れのようにアーサーを構っていたこともあるし、アルフレッドにちょっかい出していたこともあるが、基本的には独りで過ごしていた。それが寂しいとかどうだとかいうことは置いても、四六時中傍にいたことがないのだ。扱いはどうしても異なる。してきたことは、表層をなぞるような可愛がり方。例えば祖父母が孫を愛するようなもので、面倒を見るよりも漫然と愛でるということに近い。もしくは近所のお兄さんだろう。好きなことだけ言って、たまに第三者としてのアドバイスをするだけ。
(家族か――)
それは、縁遠い気がした。アントーニョの子分はどうして、彼の家族であるのだろうかと思う。
「フランシス、どないしたん? ぼーっとしとるみたいやけど」
「見つからないなぁって思ってね」
ちらりと見ると、少女はアントーニョの背におぶさって眠っていた。さすがに疲れたのだろう。
「疲れてない、アントーニョ? お兄さんが変わろうか?」
「こんくらい平気やで。それよか、ホンマに見つからんのどうしたらえぇんやろうなぁ」
これだけ見つからないと、不安になる。少女は父親に手を引かれて歩いていたという。気づいたら人混みに紛れてその手が離されていた。よくある迷子のパターンだろうと思っていたが。
(まさか、捨てられたなんてこと……)
それすら有り得ないことではない。少女がいた場所を考えれば、今まで疑わなかったことが不思議なくらいだ。フランシスは悲観的な面があるし、どうしてそう思い至らなかったのかと逆に首を傾げる。
「ん〜、やっぱ大声で叫ぶんが一番かなぁ。きっと親御さん、むっちゃ心配しとるでぇ。あんなぁ、俺も昔ロヴィーノとマドリードではぐれたことがあんねん。もうそら走り回って走り回って……あんだけ走ったん初めてやったわ〜。見つかったときはもう、感動やな。感動の再会! せやけど、ロヴィーノわんわん泣きながら俺のことものすごい殴りよるから、ホンマこっちは安心したのと痛いので泣きたかったっちゅう……んでも親分が泣いとるわけにはいかれへんから、そこは我慢してやなぁ」
アントーニョは滔々と語っている。少女が目覚めないのが不思議なくらいに綺麗な声音で、ほほえみながら、きっと手が空いていたら手を大きく振り回していたことだろうと思われた。
(――コイツがいれば、不安になんてならない、か)
「せやけど、やっぱ家帰ったらなんや泣きたくなってなぁ……親分もまだまだやね」
「泣いたの?」
「我慢した!」
「そう。そういう時は、お兄さんトコにおいで」
「フランシス慰めてくれるん?」
「当然でしょ。もちろん、お望みなら身体で」
「あはははは、フランシスはホンマにおもろいなぁ」
「……本当だってば、お前にならね」
横に向かってウインクすると、アントーニョはまた笑った。
「おおきに。辛なったら、頼らせてもらうわ」
気づいたら空はオレンジ色に染まっていた。一日こうして駆けずり回っているだけだった。けれど不思議と徒労感はないし、むしろ充実していたように感じられる。
たとえば、お洒落なカフェで食事をするとか。咲き乱れる花を見て季節を感じるとか。家で会話をしているだけだとか。なんでもよいのだ、そういうことは。重要なのは相手が誰か、その相手が同じ時間を許容しているかということだ。
「マリア!」
急に後ろから声が聞こえた。アントーニョとフランシスは顔を見合わせる。そうして二人、笑顔になった。やっぱり心配になって探しに来た人がいる。物語のラストシーンには相応しいじゃないか。
「今日の『デート』は楽しかったなぁ、フランシス」
振り返る直前にアントーニョはふわりと呟いた。そんな小さな感覚の共有すらも愛しいのだから、今日も不安に感じる必要はないのだろう。