ホントウノジブンの現象学


「おい、フェリシアーノ」
「どうしたの、兄ちゃん?」
「俺、アントーニョと結婚することにしたから、イタリアはお前がひとりでなんとかしろよ」
 これはまだ、寒さの残る4月1日のことだった。
 ロヴィーノはすぱっとそう言い切ると、弟の反応を待った。エイプリルフールである。ロヴィーノとしても、他愛ない嘘くらいついて弟とコミュニケーションを取ろうとかそういうことを考えるのだ。弟はあのおそろしく鈍い恋人と比べるまでもなく、わりと聡い人間だった。ロヴィーノもそれは知っている。しかしその弟が固まってしまって答えないので、不思議に思った。
「兄ちゃんがそうしたいなら、俺、独りでも頑張るよ」
 数分は優に経過した後に弟は真剣なまなざしでロヴィーノの両手をとった。
「アントーニョ兄ちゃんと、仲良くやってね」
 そうして弟は笑顔で兄の旅立ちを祝ってくれたのだった。

「ロヴィーノ、なぁロヴィーノ」
「……なんだよ」
「今日ってエイプリルフールやろ?」
 いきなり押しかけてきたにも関わらず、アントーニョは本日も笑顔で出迎えてくれた。気が立っていることを敏感に察知したのか『元気の出るおまじない』すなわち『ふそそそそ』まで玄関でしてくれたのである。基本的には空気が読めない天然ボケで鈍感なのだが、機微に完全に疎いというわけでもない。その辺りの感覚をつかめるのは自分だけだとロヴィーノは思っている。基本的に自負でしかないのだが。ずかずかと上がりこんでモスグリーンのソファに身体を預けると「ロヴィーノ、コート脱いだ方がえぇで」などとほほえんで言う。面倒だからそれをスルーしてロヴィーノは壁に後頭部を押し付けた。
 エイプリルフールという単語に気分を悪くしているというのに、どういったことだろうと思う。面倒だからそれもスルーしてやろうかと思ったのだが、人の家に押しかけて会話もしないでどうしたいのか、自分でもさっぱり意味が分からない。
「親分も嘘ついたろうかと思ってなぁ、考えとったんやで」
 アントーニョは反応を返さなくても、自分が喋りたい時には喋る。それを分かっているからこそ、ロヴィーノは沈黙したままだった。あるいはただの甘えだ。アントーニョは恋人であるが、基本的には親代わりの親分で、多分に甘えている。知っているのだが、癖のようなものだから治らない。彼も治そうとしないのだから当然そうなるだろう。
「ほんでなぁ、やぁっぱり、定番の嘘っちゅうんがあるやろ」
「定番って、なんだよ」
 嘘に定番もなにもあるものか。またわけの分からない発言が出てきたと思うと、ロヴィーノは目を閉じた。アントーニョはどうにも突飛なところがあるのだ。思考もそうならば発言もそれに連関する。気づけばロヴィーノはそれにツッコミを入れてばかりいるのだ。けれど気にならないと言えばそれこそ嘘になる。
「あれ、ロヴィ、分からんの? ほら、アレやで、アレ!」
「アレってお前な」
「ん、ならヒント! 好きの反対やで」
「ヒントじゃねぇだろ!」
 それでは単なる答えである。脱力して額を両手で押さえた。
「おお、ロヴィ分かったん? さすがやね。んで、せやからなぁ、エイプリルフールは嘘吐く日ぃやし、ロヴィに言ったろう思てたんやけど……」
 ロヴィーノが目を開けて見ると、アントーニョは僅かに頬を染めて困ったような顔をしていた。
「嘘吐くん好きやないし、嘘でもそんなん言えへん! って思ってもうて。ほんなら、今日は会わん方がえぇかなぁって――」
 アントーニョははにかむように笑うと、人差し指を顔の前で立てた。
「っだー! ちくしょう! お前は! あんまり! 可愛いことばっか言ってんじゃねぇよ!」
 あんまり手に負えないのでロヴィーノはソファから飛び上がると、ぽやんとしている恋人の身体をぎゅうっと抱き締めた。
「おおう、ロヴィーノ、嘘言うん上手なんやねぇ」
「ちげぇよこのやろー!」
 つまらないことばかりを彼が言うときにそれを止めさせるたいと思うなら、方法は一つに限る。自分よりも僅かに高い目線を少し気にして、唇を近づけた。アントーニョは少し驚いたように顔を引いたが、構わずに重ねる。指先や体温に比較すれば、唇の温度は少しだけ微温い。
(身体が熱すぎるんだよな、コイツ)
 幼い頃の自分よりも熱いのではないかと思わせる。
「別に、嘘言わないといけない日じゃねぇだろ」
「せやなぁ、そう言われたらそうかもしれへんね」
 唇を離して緑の瞳を覗き込むと、アントーニョはこちらを見つめ返してふわりとほほえんだ。
「ロヴィーノは嘘、言わへんの?」
「トマトなんて嫌いだぞちくしょう」
「親分は?」
「愛してる」
「それ、嘘なん?」
「嘘なんて、お前に言わねぇ」
「そっちのが嘘や」
 こちらを見つめたまま、アントーニョはくすくすと笑った。
「ロヴィーノ、嘘つきな子やったやん。オネショしたんはリスさんや、とか言うとったやろ」
「ちぎ! 昔のことだろ、このやろー!」
「ほんなら、さっきのトマトは?」
 アントーニョはまっすぐにこちらを見つめている。ロヴィーノは言葉に詰まった。たしかに先程のはエイプリルフールに乗っかって思わず言ってしまったのだが、それはアントーニョがイベントに乗りたそうにしていたためであって、ロヴィーノの真意ではないのだ。トマトが嫌いだなどと、大嘘である。トマトは彼の家で覚えた味で、彼の愛した作物で、ずっと彼が好んでいるのを見てきていて、ロヴィーノにとってはアントーニョそのものと言っても過言ではない。嫌いだと言えないほどではないが、冗談であるのは当然のことだ。
 発言が分裂していようが嘘を言おうが、アントーニョがロヴィーノへの印象をいまさら変えるようなことはないだろう。いい意味でも悪い意味でも、どちらでもそうだ。けれどそれでは違うと思って、無理矢理「嘘にならない」ように言葉の意味を曲げようと頭を捻る。
「トマトだって――お前よりは、嫌いだ」
 結局のところ何物もアントーニョには敵わないし、逆に言えばそれ以外にトマトに敵うものもなさそうだった。当然だ。トマトはアントーニョに準ずるから好きなのだと言えば本体たるアントーニョと比較して敵うなどということはそもそもないし、アントーニョに何物も敵わないのならば準ずるトマトの扱いもそうなのである。
「親分、愛されとるなぁ」
 分かっているのか分かっていないのか、アントーニョはもう一度笑った。
「ほんで、なんで来たん?」
「……別に、なにもねぇよ」
「せやったら、ロヴィーノはなぁんにもないのに、さっき親分のことスルーしてたん? それ、むっちゃ淋しいわぁ」
 来て早々、ソファに沈み込んだことを言っているのだろう。じっと見つめられるとバツが悪くなって目を逸らした。
(って、そんなことしたら)
 慌ててロヴィーノが視線を戻せば、昔の親分らしい顔がそこにはあった。穏やかで見守ってくれているような温かい緑色のまなざしだ。子分になにかがあったことを察してしまうような鋭い視線でもある。
 普段は鈍い癖に。
「フェリシアーノにとってはどうせ俺なんていらない兄なんだろうと思ったから家を出てきただけだ」
 一息に言って空気を吸った。
「なんやの、それ」
 弟は絵も貿易も自分より上で、ローデリヒに育てられたがゆえか政治や経済についてもロヴィーノより上だった。アントーニョが悪いということはないだろうけれど、厳しく育てられている分に違いは出ている。大人しそうに見えて女性を誘うのはお手の物で、周囲からも好かれていた。それらは別にいい。なにが自分に欠けていて、なにが秀でているとかそういうことは構わなかった。もともとロヴィーノは自分が優れていないことを知っていて、それでも愛してくれる絶対的な存在を見つけてしまったから向上心があまりないのだ。社会的な承認などが百や二百集まったとしたって、アントーニョ一人の承認に勝るものはない。
「フェリちゃん、心配しとるんちゃう?」
「べっつに、俺なんていなくなって清々してんだろ」
「そういうこと言うもんやないで! フェリちゃん、優しいからなぁ、心配しとるに決まっとるやろぉ」
 またそれだ、と思う。フェリシアーノは可愛い。フェリシアーノはいい子。フェリシアーノは優しい。
(くっだらねぇ嫉妬!)
 アントーニョはフェリシアーノを可愛がっている。共に過ごしたわけでもないのに、弟のように思っているのだ。フェリシアーノはアントーニョのお気に入りで、昔からロヴィーノはそれを知っている。アントーニョの一番は自分だと思っても、いつもアントーニョが弟を褒めるから鬱屈してしまうのだ。
 弟が嫌いなのではない。疎ましいのではない。たしかにルートヴィヒなどと付き合うのは今でもどうかと思っているし、コンプレックスはある。けれども違う。そもそも好き嫌いに分類すべき相手ではないのだ。だって兄弟だから。肉親を好悪の感情で分けることなど、余程のことがなければありえない。
「いつも、フェリシアーノのこととなると、お前が……」
 もう一度しがみつくように抱き締めた。愛している愛されている。不安はないはずなのに感情はいつも騒いでいた。雁字搦めにしておきたいのにそれができないから、抱き締めてキスをするしかできない。
「えぇぇ、しゃあないやん、フェリちゃんかわえぇんやから」
「ちぎっ! ちくしょう……」
「ロヴィはかっこえぇ――じゃ、ダメなん? 可愛い方がえぇの? まぁ、親分にとったらどっちでもえぇけどなぁ。ロヴィ、かわえぇもんなぁ」
 声はまるで歌うように軽い。
「大好きなんやで、ロヴィーノ。ホンマに、嫌いやなんて言われへん。なぁなぁロヴィ、分かっとるん?」
「分かってるよ……このやろ」
「分かってへんねん。よく聞いとりぃ、ロヴィーノ。ホンマは、親分のことは関係あらへんのや。ロヴィーノは『兄ちゃんがいてくれないと』って言われたかったんやろ?」
 突然指摘されて、驚いて顔を上げた。アントーニョはまた、穏やかな瞳でこちらを見つめている。
「独りでやってける、なぁんて言われて、淋しかったんやろ?」
「それ、どこで……」
「teléfono(電話)」
 アントーニョは右手で、親指と小指だけ立てて残りの指を握った『電話』のポーズをして片目をつぶった。
「親分トコ来てくれるんはうれしいけどなぁ、フェリちゃんやって、ホンマは独りやとツライんやで。それ、分かったげんとアカンで、お兄ちゃんならな」
 右手が頭の上に乗せられる。一向に縮まらない身長差と同様に、精神的な年齢差も埋まらない。アントーニョはいつだって年上で親分で、精神的にもロヴィーノより上だ。
「……お前が、フェリシアーノのことばっかりよく言うのは嫌なんだよ、このやろー」
「せやから、ロヴィ」
 言いたいことは分かったので、皆まで言う前にシャツの襟元を掴んだ。
「お前はッ! 俺だけ見てろよっ! そうしたら……俺だってもっと、バカ弟に優しくできんだよ――!」
 嫉妬している。コンプレックスを持っている。感情がドロドロとしているのだ。本当はもっと上手く接することができるはずなのに、上手くできない。弟は見知らぬ男にばかり懐いていて、恋人は弟を可愛い可愛いと言う。
 ぎょっとしたような瞳だったアントーニョの緑色は、ゆっくりと溶けるように丸みを帯びていく。
「我儘やなぁ、ロヴィーノはいつも」
 場には不似合いなくらいに声の色はパステルめいて優しい。
「ちゃんと、仲直りするんやで? ほんで、フェリちゃんにも優しくしたってや。それが条件やで」
 アントーニョ、と声に出すと瞳は少しだけ困ったようにすっと細くなる。
「ロヴィーノがいっちばん大事やって、ずっと言うてたつもりやったんやけどなぁ」
「知ってんだよ、そんなこと……」
 襟元を掴んだままロヴィーノは項垂れた。
「よぉし、分かったら、フェリちゃんとこ戻って謝る」
「無理。今からなんて面倒くせぇ」
 即答すると情けない声が上から降りてきた。
「ロヴィーノぉぉぉ! 今の、行く流れやろ? ちゃうの? 親分空気読めたで?」
「せっかく来たんだから、お前といたい」
「っ、ダメやで、親分メロメロにしようったってそうは――これ、嘘やろ?」
「ばーか。お前に嘘は言わないって言っただろ。覚えとけ、このやろー」
 しゃあないなぁ、とアントーニョの口からはいつもの言葉が出てくる。
「帰ったら一番に言うんやったら、まぁえぇかな……」
「ゼンショシマス」
「ん? なんやそれ、聞き覚えある科白やんな」
 昔に共闘していた白い軍服の本田菊を思い出した。よくそんなことを言っていたが「答えは全部イイエです」ともつづけていた記憶がある。よくは知らないが。本田もやっぱりフェリシアーノの方が親しくて、いつだって弟は人に囲まれている。自分の弟で意外と優秀なのだから、人が集まるのも無理のないことだろう。そんなことを思った。
「ほんで、フェリちゃんよりかわえぇロヴィーノは、今日どうするつもりなん?」
 それでも別にいいのだ。自分の弟なのだから、フェリシアーノが好かれているのを見るのは悪いものではない。死んでも本人や周囲にそんなことを言うつもりはないが。
「とりあえずパスタ」
「はいはい、了解。あ、たまには一緒に作らん、ロヴィーノ?」
「なんの冗談だよ、このやろー」
「えぇー! 一緒に作ろうや、たまには」
 帰ったら少しくらい優しくしてやってもいいかと思った。

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