待ち合わせの場所に埠頭などを指定したのはなぜだろうかと思う。
「遅い」
アーサーは夜空を眺めた。都会の喧騒から離れた海岸には、真っ暗な空だけが広がっている。星は見えない。そして月が海面を照らしていた。今宵は満月。こんな日に、こんな場所で、その上に遅刻する。もはや慣れたことだが、アントーニョはアーサーの前でもマイペースを貫き続けていた。
海を見ていると昔を思い出す。傲岸で不遜だった頃の自分を思い出すのだ。たぶん、アントーニョも似たことを感じている。それでも海が好きだということも同じ。
「お待たせ〜お、アーサー、相変わらず早いなぁ」
「遅れてその態度は止めろっていつも言ってんだろ」
「ごめんなぁ」
にこっとほほえむとそれだけで許せる気になるのだから、おそろしい。これと付き合っている周囲の人間は、いつもこんな風に絆されているのだろう。自分には到底できそうもないことだ。まず素直に謝るということができない。
「別に、いいけどな……なんだって、こんなところに呼び出したんだ?」
「うん? 海辺でお散歩しよかと思ってなぁ」
言うが早いかアントーニョは砂浜に駆けていった。引きとめようと伸ばした手は届かず、彼はそのままふりかえらない。一瞬、賢明にアントーニョを捕まえようとしていた昔をまた思い出す。そういう時には手からすり抜けていくのだ。追えば追うだけ逃げていくように思える。
「アーサー、どしたん? はよ来ぃ」
郷愁に耽りかければ、先を行ったはずの人から声をかけられた。振り切るようにアーサーは砂の上に踏み出す。失敗した。こんなことならば、革靴など履いてくるのではなかったと思う。服装だってそうだ。スーツなど不似合いなことこの上ない。如何なる場所でも如何なる時でも紳士たれとは思うが、さすがに夜中の海岸線ではどのような格好が正しいのか分からない。
足を踏むとさくさくと音がする。波の音がその上からさらに響いて聞こえた。
「えぇ夜やなぁ」
「……それより、寒くないのか?」
早歩きをしてやっと追いついたアントーニョの格好は薄っぺらいベージュのコートを一枚に、ジーンズとスニーカーという簡素なものだった。
寄せては返す波の音は、力強いのにどこか儚く感じる。大きな波はすべてを飲み込んでいくのかもしれない。忘れていたような昔の記憶さえも、すべて。
「海はえぇなぁ」
趣旨返しかなにかのつもりだろうかと思って黙って聞いていても、アントーニョはそれ以上言葉をつづけない。鼻歌を歌い始めたくらいだ。
「なんかもう、どうでもよぅなってくるやろ」
「馬鹿言え。今の状況知って言ってんのか、お前」
聞き捨てならない言葉にアーサーは瞬時に反応した。基本的には真面目で真っ当なつもりだ。アントーニョとは違う。
「知っとるよ」
「まさか、手加減してくださいなんて、言いに来たんじゃねぇだろうな」
アントーニョは立ち止まったり振り返ったりもせずに、前だけを見て歩いていた。アーサーも少し足を止めてみたものの、結局さくさくとつづく軽快な音をふたたび追いかける。
「言わへんよ。言うたら、加減してくれるん?」
「するか」
「だったら、なんで聞いたん」
あはは、とアントーニョは軽く笑った。問いに答えられずにアーサーは追う背中から目を逸らした。波間を見つめれば月の影だけが光る。白い波は月光を浴びて輝いていた。
昔は航海に出るたびに、こんな海を見ていた。一日二日で帰れるようなものでもないし、人とは違うから彼らと終局的に慣れ合うこともできない。独りでも海を見ていれば心が落ち着いた。いつか帰る場所をなくしても、この海があるようなそんな気が。
空前の規模の戦が起こっている。現在進行形で、だ。アントーニョは内政の状況からどちらにも加わっていないが、その心がかつて彼と共に過ごした子分のいる方へと向かっていることはアーサーも知っている。彼の国が荒れたときに、もう少し自分がうまくやれば、こちら側に来たかもしれないのに。フランシスがたいして役に立たないのがいけないのだと思う。
「卑怯な手は、やめてあげてな、せめて……あと、ロヴィーノはきっと、すぐ降伏すると思うんやけど――」
「そうしたら、叩くなってか?」
アントーニョは答えなかった。冷たい風が頬を撫でている。
「きっと……それでも俺は」
その先の言葉はなかった。おそらく、ロヴィーノがいるからこちら側につかないのではないのだと言いたいのだろうと察する。スペインは戦えるような状況ではない。本当は、イギリスになんて来ている場合ではないのだ。身体には包帯が巻かれているのだろう。見えないところで傷を負っている。
(昔は自分がつけた癖に、今更言うのも偽善か)
疲弊しているアントーニョは、そんな素振りも見せずに歩きつづける。まるでそれが宿命であるかのように、ただまっすぐに道を行く。昔からそうだった。アントーニョはなにをなすべきかを知っている。ほんわりとして鈍感で単純な癖に、本能的に大事なことを見極めているのだ。その背がずっと羨ましかったし、そんな風に生きたかった。彼ばかりがずっとそんな風で、追いつけないその背が嫌いだった。
だから、太陽を落としたのだ。自分より前を歩く背をこれで見なくて済むと思ったのに、今またこうしてアントーニョは歩いていける。
「付き合わせてごめんなぁ、アーサー」
アントーニョはちらりと横目で月を見た。アーサーの眼前にあるのは、太陽と呼ばれた男と太陽の光を受けて輝く月光。月が自分のようだと言ったら、夢想に過ぎるかもしれない。追いつけない関係というのはそれにも似ているように思われる。
「ホンマは独りで歩こうと思ったんやけど、なんや淋しい思てな――ロヴィーノんとこ、押しかけるんもアレやし」
「……俺なら押しかけてもいいのか?」
「海っつうと、アーサーは黙る」
思わず足が止まると、アントーニョは振り返った。そのことの方にアーサーは気取られる。
「こういう時には誘いやすいんや」
「計算尽くか」
「計算ってほどのもんでも。ま、一番アーサーんとこが余裕ありそうやと思ったっちゅうんがホンマのとこやな」
どこに行くのだろうかと思った。どこまで行かなければならないのだろうか。ずっと歩いているのにこの海には果てがないように思われる。
ずっと昔、スペインは最果ての地を謳っていた。アーサーもそれが真実だと思っていたのだ。けれど果てではなく、アーサーはアルフレッドと出会い、別れ、そして今また共闘している。動いているのは天ではなく、地で。
アントーニョは急にその場に座り込むと、膝を抱えた。視線の先には月灯りがずっと同じように輝いている。アーサーは立ったまま同じ方向を見た。
「争ってるの、嫌やねん。けど、俺にできることってなんもあれへん」
「なにもってことは――」
「ロヴィーノが、援護しろって」
「い、行くのか?」
「お金ないから、そもそも行かれへんけど……行きたないって思った」
なんでやろうと言い、アントーニョは顔を膝に埋めた。
「ホンマは、アーサーとも――」
ざぁっと大きく波の音が響く。彼の言葉も奪い去っていくように、また寄せて去っていった。大事な言葉が抜け落ちたことを知っているのに、アントーニョはそれ以上を言わない。もともと、言葉に出すつもりはなかったのかもしれない。
感傷だと思った。彼はずっと前を行っていたのではないし、独り歩きたいわけでもない。呼んだらふりかえってくれる。一度だけアーサーはアントーニョに謝ったことがある。誤ったことを。それまでこちらを避けがちだったアントーニョはこちらを見て笑い「えぇよ、もう」と言った。
感傷だ。迷いもすべて、浸った感傷。敵になったら容赦はしない。けれど敵にならなくてよかっただとか。ふりかえって自分を見てほしかった。今のアーサーには首を埋めているアントーニョを直視できなかった。ただ、波音だけがうるさいと思った。だから、感傷ばかり胸を満たしているのだと思う。
この戦が終わったら一番に会いに行こうと思った。平和な世界で、もう争わないように。