典型
―グラナート・ブルー―

 帰ってしまう瞬間が寂しいと言うと、まるでただの子供のようだ。つまらない言葉をつぶやいて時間を引き伸ばそうとすることは無意味だと悟った。たまに、そういう風に正しそうなことに思い至るのだ。長く生きたということかもしれない。
 じゃあ、また。アントーニョは通りいっぺんの言葉だけを口に出した。
「駅まで用事があるから、送る」
「……ホンマ? せやったら、一緒に出よか」
 ロヴィーノは頷くと紺色のコートを手に取った。金ボタンが鮮やかに輝くダブルコートだ。丈が長くてともするとキザな印象にもなるのだろうけれど、彼は顔が綺麗なのでよく似合っている。アントーニョは小さく笑った。
 春の風はまだひやっとして冷たい。アントーニョも薄いグレーのコートを上に羽織っているが、ドアを開けて鼻先が外へ出た瞬間に冷気を思わず吸い込んだように感じた。さっと器官を通り抜けて体内が冷たくなったように感じる。後ろから付いてきたロヴィーノも、両手をこすりあわせていた。相変わらず彼は寒がりだ。それこそ冬の寒い頃なら寒さを口実に手でも繋ごうと笑みの一つも浮かべるけれど、さすがに今この穏やかな気候のもとでそこまでするのははばかられた。そんなことを残念に思いながら、橙に染まっていく空を見つめる。暮れかけた空は、街を紅く照らし上げていた。境目は紫とのグラデーションが漂っている。夜明けと同じ、日暮れの色だ。
 ロヴィーノはもともと、口数の多い方ではない。悪態をつく時の語彙だけはやたらと豊富なのだが、普段から喋っているのは主にアントーニョの方だ。なにか喋ろうと思った。こういう時にだけ言葉が出てこない自分の思考回路は卑怯だ。
「まだ、寒いなぁ」
「……そうだな」
「ロヴィの手、また冷えとるんとちゃう? 手袋は?」
「しないっつってんだろ」
 フイとロヴィーノは顔を背けた。手袋をつけると手の動きが制限されるから面倒だ、と彼は手袋を普段からつけない。しかし冷え性で、たまに触れると冷たいので心配になる。そうかと言って、手袋を着用しろと言って聞くものでもないだろう。だいたい、それではまるで母親のようだ。プレゼントしたらどうだろうかと少し思った。
 ロヴィーノの誕生日はまだ寒い季節で、以前にマフラーを贈ったことがある。紺色のシンプルなマフラーだ。ロヴィーノらしからぬ丁寧な手つきでラッピングが解かれて、中からそれが出てきた時には開口一番で地味だと言われてしまった。仕立てのよい物ではあったのだが、その言語は否定できない。ロヴィーノは華やかな容姿だから、マフラーくらい落ち着いた物でもいいのではないかと思ったのだ。
 お洒落な人だから、気に入らないことも想定はしていた。でも、たまには、と言いかけた言葉は遮られて、紺のマフラーはロヴィーノの首に巻かれる。なんだかそんな出来事をいまさら急に思い出した。
「んなことより……明日も、ちゃんと来るのかよ」
「ん。もちろん行くで。お祝いやもんなぁ」
 あったかい、とマフラーを巻いたロヴィーノは言った。たった一言だ。それが聞けただけで、アントーニョは満足してしまった。なんて容易い。暖房のよく効いた室内だったから、ロヴィーノは薄い白シャツを着ていて、上から巻かれるマフラーはとてもちぐはぐだった。
「プレゼント、なにがえぇの?」
「……まだ買ってねぇのかよ」
「どうせ今日会うんやから、本人に聞いとこ思てな。どうせ明日もパーティーは夜からやしぃ」
 実のところは本人に聞くつもりはなかったのだが、場を繋ぐために使ってしまった。失敗だ。だいたい考えたことが上手くいった試しなどないので、まぁいいかとアントーニョは思った。場当たり的な対応でそれなりにやってきているのである。
 アントーニョはプランというようなものを立てるのが苦手だった。それでも喜んでもらうにはどうすればいいか、考えている。プレゼントはいつもあげているけれど、中身を前以て知らせていないというのはある意味では普通のことだ。贈答品とはそういうものだろう。アントーニョは百貨店に飾られる、中身の見えない赤い包み紙を想定してみた。リボンを紐解いてそれを開ける時は、誰だって胸を高鳴らせるだろう。そういうもの。だから今年もそのつもりであった。
 しかし毎年そうなのだということも事実だ。ならばどうだろうか。毎年の積み重なりで慣れてきたら、中身を思い巡らせるということも普通のことになってしまう。それならばいっそ喜ぶものをというのも、それはそれで正解だ。即ち、今の発言に問題はない。そんな風に結論づける。
「なぁなぁ、なにがえぇの? 洋服? アクセサリー?」
「女かよ」
「えぇー、ロヴィーノはオシャレさんやから、そういうんがえぇんとちゃう?」
「……。そういうのは自分で――」
 つまりセンスがないから嫌だということだろうか。考えてアントーニョは苦笑した。歩けばイタリアの店はどこも色鮮やかで華やいでいる。ちょっと視線を向ければ、マネキンすらこちらに視線を送っているように思われた。青いネクタイが、白い蛍光灯の光のもとで輝いているようにも見える。海のような色はイタリアの洞窟の色を思い起こさせた。一度だけ、ロヴィーノと行ったことがある青の洞窟の水面の色。
 青の洞窟があるとして有名なのはカプリ島だと聞いていたが、南イタリアの彼からすれば、穴場スポットは他にもあるらしい。そもそも青の洞窟とやらがごろごろ転がっているとは思っていなかったし、アントーニョはそこしか噂に聞いたことがなかったので驚いた。もちろんロヴィーノの言葉を全面的に信頼しているアントーニョは彼の案内するままに、知らぬ青の洞窟へと導かれていったのである。イタリアのすべてを知り覚えているわけではないから、そこは初めて聞いた名の場所だった。
 観光客の少ないそこは、静かな洞窟だった。せりあがった岩がごつごつとして、アントーニョの知る洞窟というもののイメージ通りの場所だ。ぴちゃりと水滴が落ちればその音だけが広がって浸透していく、そんな歪にも思われるような静寂が横たわっていた。船頭も場所に相応しく物静かで、水面は揺れるボートの波紋だけを伝える。入るまでは透き通るような海面の色を見てきたが、様相は徐々に変化していく。真っ青だった。その内部には、どこまでも深く底の見えない青い色だけが広がっている。思わずアントーニョが呼吸を止めて見入ると、船頭の他にはいない二人だけで乗っていたボートの上で、ロヴィーノも言葉を発さなかった。
「お前が、選んだ物」
「へ?」
「お前が選んだ物が、欲しい」
「……俺が選ぶんは当たり前やない?」
「うるせぇ! 選んだ物持ってこい! いいな!?」
 腕を掴まれて、思いがけず強い口調で言われた。こちらを見るまなざしは相変わらず強気で、なんとなくアントーニョは小さく笑う。
「それ、結局、答えてへんのとおんなじやん」
 考えたのに意味がなかったと思いながら、空を仰いだ。暮れていく橙色の光が街の色と融け合っている。瞳に入ったのは燃えるような色合いだ。南イタリアの太陽も、強烈に光を降り注がせている。
 光の屈折だと船頭は言った。青の洞窟の水面が、底知れぬほど、蒼すぎるほどに蒼いのは、注ぎこむ陽光によるものだと言う。奥まで覗き込んでいればそのまま囚われてしまうように錯覚させる魅惑的な蒼。
『太陽の光が強いから……だろ。こんなに蒼いのは』
 太陽の国と呼ばれてきた。あの陽光に我が国を重ねてみている節がある。沈まないと信じていたのは過去の栄光で、今ではただの願望の成れの果て。それでも太陽はまた昇るからと国民は言っていた。それならば太陽の国という名に恥じないように生きていきたいと思う。そちらも願望でしかないと言えば、そうだけれど。
 沈んでいた思考を引き上げて、沈黙していた時間の長さを頭の中で計ってみた。少し長かったかもしれない。ロヴィーノと声をかけようと、そちらを向く。視線はまっすぐに貫いていた。
「ロヴィーノ、どうかしたん?」
「ど、どうもしてねぇよ!」
「親分がかっこえぇから、見惚れてたんやろ? ふふーん、夕陽に映える、えぇ男やもん」
 な、と笑って広場の中心に駈け出した。まぁ、外見で言えばロヴィーノに敵うことはないのだろうが、重要なのは内面だ。かっこいい親分、らしいところを子分にもしっかり見せておきたい。
(やっぱり、プレゼントは勝負やな)
 お金に余裕があるとはまだ言い難いスペインではあるが、それなりの資産はある。ロヴィーノに贈る物はなにがいいのだろうか。頭の中でくるくると思い描いてみる。広場の時計台が午後六時を示しているのを見上げながら、その白い体に触れてみた。冷たい風に晒されて、思った通り冷えている。
 一番に祝うというのも、いいかもしれない。急に思いついたアイディアに、アントーニョは瞳を細めて笑った。子分の誕生日を一番に祝う親分というのは、なかなかに格好良い感じがする。そうすると、いつ電話すればいいのだろうか。時差の関係はどうだろう。
「急に走るんじゃねぇよ、子供か!」
「なぁ、ロヴィーノ」
 背からかけられた声に、くるんと振り向いて笑う。太陽の光はロヴィーノの後ろから、まだこちらを明るく照らしていていた。オレンジの光に慣れていない目には眩しい。
「……なんだよ」
「今から、親分トコけぇへん?」
 時差を考えるのは面倒くさい。一緒にいれば、一番に祝うことは容易い。だったら、スペインに呼んでしまえばいいのだ。アントーニョはそう結論づけた。わりと思考回路は明快な方である。
「明日は一緒にプレゼント選んで、ほんで夜までに帰ればえぇんやろ〜、簡単やな!」
「ッば……、おま……」
 細長い指先が、腕を掴んだ。強い力が籠められていて、俯いた顔からは表情が読み取れない。なにか妙なことを言っただろうかとアントーニョは首を傾げる。指先は動かない。
「ロヴィ、ロヴィーノ? どうかしたん? なんか用事でも――あ」
 用事とつぶやいてみて、気がついた。ロヴィーノがここにいるにはワケがあったのだ。これは散歩でも送迎でもましてやデートでもなんでもない。
「ロヴィーノ、用事ある言うてたん親分すっかり忘れとったわ。アカンなぁ」
 こ、と小さく音が聞こえた。『こ』とはなんだろうかとアントーニョがまた首を傾げると、腕がいきなり上下に激しく揺さぶられる。
「このタイミングで思い出すんじゃねぇぇぇぇ、このアホォォォォ! く、う、き、を、よ、め!」
 まったく事情が飲み込めないまま、揺さぶられている。いつのまにか両腕を掴まれていて、身体が激しくシェイクされていた。視界がぐらぐらして、ちょっと酔いそうだ。読めと言われても、なんのことだか分からない。ロヴィーノが激昂しているらしきことはこの激しい揺すりようから分かるのだが、それ以上は残念ながら伝わってこなかった。
 ロヴィーノの気が済むまでガクガクと身体を揺すられたものだから、解放されたものの、まだ眩暈がする。たぶん、目がぐるぐる回っているのだろうと思いながらアントーニョは蹲った。気持ちが悪いし、視界がまだ揺れている。
「わっざわざプレゼントなんてこの歳にもなって聞いてくるし、意図は全っ然察せねぇし、その癖こういうときだけきちんと思い出しやがって、このKYトマト!」
「うえええ……KYトマトて……なんやの? 品種みたいや……」
 頭を軽く振って脳を整える。まばたきをして、顔を上げる。空の色は段々と濃紺に近づいていく。上の方から押し迫っていく暗い色と最後に少しだけ残った橙が目を引いた。引き際を心得たような明るいウルティモ。
「なに考えてたんだよ、ずっと」
 立ち上がったところで尋ねられたので、アントーニョは少し目を伏せた。
「青の洞窟で見た蒼い水面」
「なんでそんなもん……」
「あそこに連れてってくれたん、俺の誕生日やったやん。アレ、ホンマにうれしかったんやで。物もらわんでも、目に焼き付いとる」
 瞳を閉じると、今でもあの蒼さが残っている。焼け付いてしまうのは、太陽のような赤い色だけだと思っていた。そういうものに焦がれて手を伸ばす。あの蒼さは沈み込む色だった。記憶の奥底に、想いとともに深く沈んで眠っている。忘れたと思うとまた溶け出して心を満たすのだ。まさに蒼の水が溜まっていく。
「物もあげただろ!」
「はは。覚えとるって、ソレも。ロヴィーノのくれたもん、忘れたりせぇへん」
 青の洞窟に行った時には、ロヴィーノからネクタイを貰った。洞窟の蒼さほどじゃねぇけど、と言いながら寄越された青いネクタイは、大事にとってある。残念なことに、アントーニョはあまりスーツを着ない上にネクタイを締めないので、記憶と共にタンスの奥に箱ごと仕舞われっぱなしになっているのだが。
 あの日はロヴィーノの自宅に連れられて、シャツに着替えてネクタイを結ばれた。似合うかどうか見てやると言って、ロヴィーノ自らが結んでくれたのだ。どうせお前は上手く結べないだろ、などと言いながら。
「お前って本当に、自覚ねぇよな」
「なにがや?」
「自覚ねぇときの方が――それより、スペイン、行くんだろ。日も暮れたし、早く行かねぇと」
「せやね! はよ帰らんと、ご飯食いっぱぐれてまうわ」
 立ち上がると指先に冷えたものが絡んだ。
「ロヴィ」
「な、なんだよ! お前が、トロトロしてっから、その――」
「ロヴィーノの指、冷えとる! 寒かったんなら、早よ言うてやぁ〜」
「もうお前、しゃべんな……」

>子分様誕生日おめでとーう!! 親分と幸せになってください!