アントーニョの愛は普遍的だ。遍く広く振り撒かれているのは、伊達に皆の親分を自称しているわけではないことを印象づける。兄に対してもそうであった、とフェリシアーノは考えてみる。兄がアントーニョをどのように思っているのかについて、深刻に考察したことはない。深い部分で思っていることは分かっているのだ。兄は独占欲が強いし依存的な気質がある。ずっとアントーニョに庇護されてきたのだから、昔のままずっと彼を求めるのだ。それこそ、喉から手が出るくらいには。なにかあればすぐに泣きつくし、アントーニョの目を向けさせることに関しての技術は卓越している。いっそ羨ましい。
「フェリちゃん、どないしたん?」
「なんでもないよ〜、アントーニョ兄ちゃん」
そうだった、今は目の前の彼に集中しなければ。キャンバスを動かす手が疎かになっていたので、フェリシアーノは繕うようにほほえんで見せる。絵のモデルを頼んでみたら、存外あっさり引き受けてくれたのだ。相変わらず、アントーニョは自分に甘い。
その甘いという言葉が、遍く広いというのは前述の通りである。アントーニョは年下には等しく甘く優しいのだ。もちろん、一番の子分であったロヴィーノや他にも家族として過ごした者たちが前に立つのだろうけれど、比較的に見ればフェリシアーノも相当順位が上にあるだろう。しかしながら、そのような相対的な位置づけにはあまり意味がないのであった。なぜならばアントーニョの愛という点において、質的な差異は見出せないがためである。
意識をふたたびキャンバスに戻した。フェリシアーノも肖像画を描くことはさほど多くはないのだが、嫌いではない。その人の自分なりの表情というものを映し出していくことができる。今は写真があるけれど、機械が写し出す瞬間は極めて無機質。それに比べて絵画というもののそれには心情が表れる。おそらくはフェリシアーノの描くアントーニョというものについて、きっと恋情が美しく描き出されることだろうと予想できた。それが狙いでもあるのだから。
メールは簡便だけれど、手書き文字に心が篭ると感じる人も多いだろう。要するにそれと同じことだ。
「アントーニョ兄ちゃん、絵を描かれるってどういう気分かな?」
退屈させては悪いかと思って、何気なく話を振ってみる。フェリシアーノは描くことが多いので、モデルとなることもないし、その心情には興味があった。にこりと笑ってキャンバスの横から顔を覗かせれば、アントーニョは穏やかな表情で少し考えたように瞳を細めた。その瞳の色はペリドットで美しい。
「せやね……どう、映っとるのやろうかて、思うわ」
「俺の目に?」
「そうやで。フェリちゃん、俺のことどう見えとる?」
「ん〜、天使かな」
窓を背にするアントーニョには、後ろから明るい陽光が注ぎ込んでいて、まるで聖堂に描かれた天使の絵のようだと思う。羽根がついていたとしても驚かない。そんな、フェリシアーノの本気の言葉もアントーニョからすれば大袈裟なだけの冗談にしか聞こえないのだ。彼はくすくすと笑っている。愛らしくほほえむ姿だって、天使みたいなものだと気づいていないのだろう。
「フェリちゃんはお世辞も上手やなぁ」
「お世辞じゃないよ、アントーニョ兄ちゃん」
「ほんなら、出来上がりが楽しみやね」
信じていないなとは思ったけれど、それ以上はまだ追及しない。急いては事を仕損じる。天然な彼にはゆっくりと、分かってもらえればそれでいいのだ。
またキャンバスを見定める。輪郭はすでにできている。油彩はここから塗りを深めていかねばならない。ここからが、その昔眼前の彼をしてその絵を欲させたフェリシアーノの真骨頂だ。目の前に見えている人を自分なりの感性で表す。それは告白に似ていた。
アントーニョはきっと、フェリシアーノのことを特別に好いてはいないだろう。それは分かっている。そもそも愛が広い人なのだ。ぺたぺたぺたと塗り重ねていくのは肌の色、瞳のペリドット。誰かを特別に愛するなんて、考えにくい。昔、フェリシアーノに「結婚しよう」と言ってくれたことなんてもう無効なのだろう。あの時だって、皆でなどと言っていたし、特定人への愛があるのかどうか分からない。危うい。瞳は細部まで描き込んでいく。その瞳の中に自分がきちんと映し出されていることを願っているのだ。
背中に羽根は生えていないだろう。けれど光は溢れている。これが太陽の国だ。多くを照らし尽くして、去っていくだけの悲しいまでに美しい陽光。光の色はまっさらな白い色だ。フェリシアーノはほほえむ。鼻歌を思わず歌ってしまいそうなくらいに上機嫌に腕を動かしていく。
「なぁなぁフェリちゃん、ちょっとだけ見てみたいなぁ」
「……途中だけど、いいの?」
ぴたりと手を止めて、またキャンバスの横から向こう側を見る。目が合うとアントーニョは笑った。
「絵ができていく過程っつうん? そういうの、興味あるんや。見てもえぇの?」
「いいよ〜、はい、見て見て!」
未完成の絵というものを公開することは珍しい。けれどアントーニョが見たいというのならば、拒む必要もまったくなかった。こだわりがないのだ。工程を見せることに意義があると思うわけでもないし、見せないことに意義があるとも思わない。アントーニョはあまり絵を描かない人だから、作業中というものが気になるのだと言われればそれを見せるのも吝かではないという程度である。
「これ、……俺……なん?」
アントーニョは絵をじっと見つめてつぶやいた。
「そうだよ〜、なにか変かな?」
「いや、そういうわけやないけど……なんやの、意外やった……かもしれへん」
「俺の目に映るアントーニョ兄ちゃん、だよ」
意表をついたらしい。完成しなければ分からないものかと思ったが、途中でも愛は溢れているのだ。これを力作と呼ばずしてなんと呼ぼう。絵の才能があるかどうかは分からないし、そんなことには興味がない。興味があるのはきっと、才能がないと嘆く兄の方なのだろう。けれど伝える能力があることには今、フェリシアーノは感謝していた。
キャンバスからも零れ落ちそうな、溢れる光の粒。それが感じられるのは、自分の才覚だと言えるだろう。思わずフェリシアーノは乾いていない絵に手を伸ばした。ペリドットの瞳の色に触れて、振り返ってアントーニョにほほえむ。
「ね、アントーニョ兄ちゃんは俺のこと、弟みたいに思ってるでしょ?」
「え? それは、そう、やね……」
「それでもいいんだ。いいんだけど、俺は違うよ」
第二次世界大戦というものがあった。フェリシアーノがルートヴィヒが本田菊が身を賭した戦いというものがあったのだ、この平穏な世界の奥には。アントーニョはロヴィーノがいるからと敵方につくこともできずして、なにもせずに枢軸のような扱いを受けた。彼にとってきっと自分たちは厄介な存在だったはずだろう。それなのにアントーニョは笑って、そんなことどうでもいいみたいにパスタを作ってくれた。お腹空いてるだろうから、と兄弟二人に向かって。戦争なんてまるで夢物語だったみたいにただ平穏無事なばかりの笑顔を浮かべていた。その精神の強さは、フェリシアーノには計り知れなかったのだ。一言で言えば見縊っていたのかもしれない。迷惑な兄には慣れているから、戦争には慣れているから、敗北には慣れているから。そういう一つの言葉で括れないなにかがその笑顔にはあった。それを見続けていったら、なにかがあるのではないかと。
追い求めてみると簡単には手に入らないことを知った。彼は広くて深くて雄大で、手を掴んでもうまく握りしめることはできない。ああ自分が兄のようだったならば、と思った。それだったらもっと簡単に、心臓を掴めたかもしれなかったのに。けれど時は戻りはしない。ずっと同じように刻み続けている。彼の時を、自分の時を。
「俺は、アントーニョ兄ちゃんが好きだよ」
いつしか視線はやわらかすぎる笑顔に釘付けにされて、心はすっかり抜け落ちてしまった。太陽が自分のもとで沈まずにいてくれたらと思う。それが、沈まぬ太陽の異名なのではないかと思うくらいに。アントーニョが誰か独りの手に入ることがないような気はしたけれど、それでも構わないと思う。彼が好きなのだ。可愛い女の子を見るよりもずっと、アントーニョを見ていたい。隣で笑って欲しい。まやかしみたいな子供に対する愛情でも一向に自分は構わない。だからどうか。
「ずっと、好きだったんだ。弟でも構わないから、傍にいさせて?」
「――フェリ、ちゃん……」
にっこり笑うとアントーニョが俯いた。なかなか今のは効果的だったらしい。フェリシアーノは満足してほほえんだ。