ランやベルがいなくなった部屋は広かった。しんとしてがらんとして、なにもない。人が多ければ暖かかったのに、風ばかりが通り抜けて冷たくなってしまった。昔に比べて背も伸びてきたロヴィーノはその光景を瞼に焼き付けると同時に儚く思う。世の中のすべては儚い。
「ランのとこ、今、大変らしいねん」
ベッドに寝転がった体勢でアントーニョは目を閉じたままつぶやいた。どうして急にそんなことを、と思って顔を覗き込んだけれどなにも分からない。アントーニョはただぼんやりと口を開いただけだった。最近、彼が痩せてきたように思う。腕が細くなっていくことを、気のせいだと振り切っていた。いつのまにか近づいていく身長と同じ、ただそれだけだと。昔みたいに身体にのしかかってやろうと思って止めた。自分は大人になってきているのだと思う。思いたい。
「ベルとふたり、上手くやっとるやろうか」
夕陽が目に眩しい。紅く部屋が色づいていく。照らし出された長い影が白い壁紙に映り、それはなんとなく美しい光景だった。冷たい部屋にふたりでいるだけ。
「なんで、気にするんだよ」
「ロヴィーノ?」
「ランもベルも」
彼らふたり、共に過ごしてきた。態度は悪いけれどアントーニョを気にするラン、女性らしい細やかな気配りで支えていたベル。ロヴィーノにとっては兄や姉も同然だった。実際にそう言って慕っていたことは事実だ。でも、いなくなってしまった。自分は置いて行かれたとは思わない。もともと独りだと思っていたし、それを掬ってくれて傍にあったのはアントーニョだけだと思っていた。共に過ごしたとして、ランもベルもふわりと頭を撫でてくれるだけの存在。ただそれだけなのだ。彼らは『アントーニョの元から』去っていった。
「あんな奴ら、もう子分でもないんだろ!」
置いて行ったのだ。アントーニョを独りにしたのだ。批難めいた言葉が口をついて出てきたことに、自分でも少しだけ驚いた。けれどそれが本心だと思う。残ったのは自分だけで、もう、アントーニョはこちらだけを見ていればいいのだ。きっと、そう。
「ロヴィーノ」
けれど名前を呼ぶ声は乾いた調子で耳に届く。
「なんで、そないなこと言うん?」
急に起き上がったアントーニョのエメラルド色の瞳は、ロヴィーノを深く切なく貫いていた。言葉よりも如実に、そのまなざしはロヴィーノを叱責している。
「ランもベルも、家族やろ? 家族のことを思うんは当たり前や」
強い言葉に驚いた。
「ロヴィーノでも、言ってえぇことと悪いことがある」
あの時の言葉は、もしかしたら未来の自分へ送られたものだったのかもしれない。
ロヴィーノはそもそも態度が悪いのである。嫌なら嫌だし、好きなら好き。男は鬱陶しい、女性は美しい。気に入らなければそういった態度に出る。昔もそうだったし、今でも変わらない。たぶん永劫に変わらないのだ。
行き慣れているアントーニョの家のソファで足を組んで眉間に皺を寄せると、アントーニョは苦笑した様子でこちらを見た。
「だいたいフェリシアーノはいつも、いつも、じゃがいも野郎のことばっかり言ってんだよ」
「仲えぇからなぁ、フェリちゃんとルートヴィヒは」
はい、と差し出されたのはいつものマグカップいっぱいのショコラータ。この甘さにもすっかり慣れて、突っ返すことすらなくなった。
「あんな意味わかんねぇムキムキのどこが……」
「こら、ロヴィーノ。そういうこと言うたらアカン」
少しムッとしたように言いながら、アントーニョは横に腰掛ける。
「そんなんやから、友達少ないんやで。ギルちゃん見てみ」
ひとりが楽しい男と一緒にされるのはさすがにロヴィーノも気になった。友達くらいたぶん、いる。アントーニョは甘ったるいショコラータを口に含むと、ほんのり笑った。嫌な感情は基本的に持続しない人だ。
アントーニョは今でもロヴィーノを子分だと思っていて、可愛がってくれている。どんなに冷たい態度を取ったって、その親愛は変わることがなかった。そういう風に、愛されているということは幸せなことだと知っている。けれど、無条件の肯定はたまに、嫌な気持ちを引きずり出すのだ。そうまるで、親が子に向ける愛情のように思えて。
(そんな感情なら、要らない――)
なにをしても許してくれる温かいまなざしと掌。幼い頃に叱責された記憶が蘇ってくる。あの時ひどく驚いた反面、肯定されるだけではないことに安堵する気持ちがあった。
「ギルベルトなんかと一緒にすんな、コノヤロウ」
「なんかってなんやの! ギルちゃんは俺の友達やで」
その友達を先ほど友達のいない筆頭として扱っていた気がするのだが、それはアントーニョにとって重要なことではないのだろう。むしろ、ギルベルトどうこうはそもそもロヴィーノにとっても重要ではない。一緒にされようがされまいが、あまり興味もなかった。こう言えばまたアントーニョは怒るだろう。
たまに叱責されない方が、不安になる。親が与えるような感情をいつだって与えてくれたアントーニョ。完璧に与えられることばかりでは、本当にただの家族だ。いなくなってもきっと、アントーニョにとって傍にいた子分たちは皆家族なのだろう。誰かが困っていれば助けに向かうし、なにかあれば夜中だって電話するようなそんな。アントーニョは子供たちを叱ったりしない。いつもおおらかで包みこむばかりだ。
「ロヴィーノはたまにそういうこと言うんやから……ダメやで!」
「うるせぇ」
だから、たまに怒らせようと思うのだ。これは無条件に与えられる感情ではないし、無条件に肯定されているわけではない。子分だから、ではないのだ。
怒られたりしても感情は揺らがない。鈍感でも空気が読めなくてもなにをしてもなにをしても、アントーニョはいつだって心を占めている。
(無条件肯定は、)
存在しているだけで、それだけでいい。笑っても怒っても泣いてもすべて。
(それはむしろ俺が)
それなのに相手には、そうでだけではいけないと思う。矛盾ばかりだ。